第8話

「この野郎お前だナ。誰だ!この野郎!とんでもない奴だ。今日こそは逃がさないぞ!

この野郎!警察に突き出してやるからナ!」

あのドラ声は聞き覚えのある声だ。

監督だ!

「この野郎逃がしてたまるか!この野郎、この野郎!」

相手を殴っているのだろうか。その後、泣き声が聞こえて来た。

「父さん、母さん、助けてー。」と泣いている。


テンは起き上がって外に出て行った。

暗かったが、月の明かりで二人の人の姿が見えた。


「オー、テン、犯人を捕まえたぞ!」という声はやっぱり監督だった。

「一度付け火をする奴はまた来るだろうと思って俺はこの近くに隠れて待ち伏せしていたんだ。お前、こいつの事知っているか?」

テンは黙っていた。

監督に捕まえられて泣いているのは、暗い中でも吉本の息子だと解ったが、テンは一言も言わなかった。

監督はすぐにテンの気持ちを察したのか、

「いい、テン。この事は俺に任せろ!お前はもう寝ろ!」と言うと、泣きじゃくる小柄なその人間を連れて母屋のある方へ消えて行った。

テンはその二人を見送りながら、やっぱりと思った。

あれは吉本のダンナの息子だった。

靴箱に汚物が投げ込まれた時も頭の中にあのずる賢そうな目を思い浮かべたし、この度も同じあの顔ともう一人、父親の顔を思い浮かべたのだ。

だけど本当はそんな想像ははずれて欲しかった。

はっきりすると増々いやーな気持ちになった。

監督は恐らく今頃、あの息子の首根っこを捕まえて母屋に怒鳴り込んでいる筈だ。

そうしたらどうなるのだろう。あの吉本のダンナは逆に怒り狂って監督をクビにするかも知れない。

そうなったら、テンに味方する者は皆、仕事を辞めさせられていなくなってしまうのだ。

そう考えると、堪らなく悲しく暗い気持ちになって来る。

これから更に大変な事になるような気がする。

テンは不安な気持ちを抱えて一人暗い土蔵の中でまんじりともしないでいた。

これからどうなるのだろう。

せっかく中学校にも入れて友達も出来た。

何だかこのまま頑張っていたら未来は明るくなるような気がして来た所だった。

だが今は、吉本のダンナの機嫌を損ねるのが一番恐い。

今のテンは何もかも吉本のダンナの気持ち一つにかかっているようなものだからだ。

どうにかして大事にならずに、今までのようにここに住んで中学に通いたい。

そして出来たら頑張って更に高等学校へ進み、そして出来たら大学へも行きたい。

それがテンの夢だった。それが今のテンの全てだった。

暗闇の中であれこれ考えていると、誰かが土蔵に向かって来る足音がする。

監督か?

吉本のダンナも一緒か?

テンは身構えた。

だが監督は一人だった。


監督は土蔵の中に入って座ると、暗い中をグルリと見回して、

「本当にここは灯りも無いのか?」と聞いた。

「ありません。」とテンが答えると、

「今の時代灯りの無い所に住まわせるなんて、何て奴等だ!ケッ、胸クソ悪い!

だがなそのお陰でお前が無実だって事が誰の目にもはっきりするんだから。何が幸いするか解らないナ。

お前、これでは勉強も出来ないだろう。それなのに成績がいんだってナ。

ホラ、工場で働いている政、あれの友達の所にお前と同い年の男の子がいてやっぱり同じ中学に入った。政がその友達から聞いたって言ってたぞ。

天子天水って奴が一番だって。俺は最初信じられなかった。

確かテンの苗字が天子だっていうい事は知っていたが、すぐにはテン、お前と結びつかなかったんだ。何せ、お前は小学校にも行っていなかったしナ。

それがテン、その一番の天子天水がお前だと解った時、俺は体が震える程感動したんだぜ。

嬉しくってヨー。テン、お前は元々頭が良かったんだナー。

どのように勉強したか知れないが、お前って奴は大した奴だヨ。

その頃から吉本のダンナの機嫌が悪くなって来たんだ。俺はハハンと思って政に吉本の息子の成績はどうなのかとその友達に聞いて貰った。

家庭教師までつけていたのに大した事ないそうじゃないか。

テンの事は小学校にもやらずに阿保にしようとしていた事は誰にでも解るんだヨ。

口には出さないがここで働いている仲間は皆、知っている。

この間、テンお前に手伝って貰ったあの日だって些細な事で腹を立てて怒鳴り散らして、何か悪い事が起きなきゃいいがと思っていたんだ。

それがこの放火騒ぎだ。

本当に恐れ入ったネ。あの息子の方だとはネ。

まあ、父親の方だとしたら、そんな奴の下では働いていられないが、ここ最近のあの荒れ様を見ていたらもしかしてとも考えたんだ。

どっちにしても放火魔は絶対とっ捕まえてやると思って、そこの少し離れた所で見張ってたんだ。ああ寒かったヨ。凍えそうだったぜ。十二月だもんナー。」

テンは監督に心の中で手を合わせて聞いていた。

「テン、お前が嘘をつかない事は知っている。だが、この師走に火の気のない所に暮らしているという事だけでも驚きなのに、水風呂に入っているという事を誰が信じる?

お前がどんなに本当の事を言っても誰も信じる者はいないだろう。お前は危ない所だったんだぞ。」

テンは監督の話を聞きながら、この師走の寒さよりも信じて貰えず自分が疑われる事を思って背筋が凍る思いがした。

監督は話を続けた。


「俺があの息子の首根っこを掴まえて玄関に怒鳴り込んで行ったら、驚いて息子の母親と吉本のダンナが出て来た。

俺は言ってやったヨ。火付けの犯人をとっ捕まえて来ましたが、見覚えはありますか?ってネ。それからなんだかこの“火付け”妙な事を言うんですヨ。

俺は吉本だ!お前はここで働いている者だナ。父さんに言って首にしてやる!ここに居れなくしてやる!なんてわめくんですヨ。妙な話ですよネ。

二度も付け火をしていながら、この“火付け”がまさかダンナの事を父さんだなんて何かの間違いかと思ったんですが、警察に突き出す前に連れて来たんですヨと言ったら、二人共驚いて青ざめている。

母親が、この子は息子です!何かの間違いです!と叫んだヨ。

いいや間違いじゃありません。二度目なんですヨ。前の日も火をつけているんです。土蔵の脇の風呂場にネ。それがボヤで大事にならなかったのが物足りなかったんでしょう。

また、今夜も狙って火を付けに来たという訳です。こうして証拠もありますヨ。油を染み込ませた紙とマッチを見せた。

この火付けは風呂場の火の不始末に見せかけようと考えたんでしょうが、ダンナ、ダンナも御存知でしょうが、テンの所には全く火の気がありません。

ろうそく一本、マッチ一本、火鉢の中にも炭のかけら一つないんです。それでどうボヤを起こすって言うんです?この寒空に全く火の気のない生活をして来たんですヨ。

風呂だってそうです。湯を沸かせないから水を貯めておいて、少しはぬるくなった水をザブザブ頭からかぶって体を洗っていたんですヨ。

お前さん方、それを知っていましたか?知っていて知らんぷりをしていたとなりゃ、もう人のする事じゃありませんね。

その上、更に付け火をしてそこを火をつけて燃やしてしまおうなんてとんでもない事ですヨ。許される事ではありません。

このまま、この火付けを警察に連れて行っていいんですがね。どこでどうなったんですかね、息子さんは。

そう言うと、ダンナも女房も震え上がってしまっている。


とにかく知っているのは私とテンだけです。仲間も誰一人知っちゃおりません。こんな事はすぐに広まっちまいますからネ。

ダンナ、奥さん。何故、こんな事になっちまったのか。よーく考えて善処して下さい。

だが、万に一つ、また同じような事や、テンに危害が及ぶようなことがあったら、俺は日本男子として黙っちゃおりませんヨ。その事は肝に銘じておいておくんなさいヨ。

また、ダンナ、俺をクビにしようっていうんならそれでも構いませんヨ。仲間からどうしてクビにと聞かれたら、俺は正直ものだから本当の事を言ってしまうでしょうネ。

そう念を押して帰って来たヨ。夫婦共、一言も言わなかった。

あのバカ息子はずっと鼻水流して泣いていたし、陰で下女が見ていたようだ。

あれの下にもう一人男の子がいるようだが、そのこの姿が見えないからもう眠っているんだろう.

まあ、だから知っているのはこの面子だけだという事だ。

テン、お前は利口だから心配いらないが、この事は万が一何かあった時には何だが、今は誰にも言わない方がいいかも知れない。俺も誰にも言わない。

それにしてもここは寒いナー。お前よくここで今まで冬を過ごして来たナー。」

そう言った監督のテンに注がれる目が、月の光の下で潤んでいるように見えた。


「テン、もう安心しろ。少なくとも今晩は何も起こらないからナ。ぐっすり寝ろヨ。」

そう言って帰って行った。

テンは、監督が帰った後、安心して眠ろうとしたが、なかなか目が冴えて眠れなかった。

今まではこんなものだと思って耐えて来た寒さが、今日は急に寒く感じる。

五助爺が置いて行った綿入れのかいまきを引っ張り出して来て、それで体を包んでみてもガチガチ歯の根が合わなくて、とても眠れそうにない。

テンは隅の袋を手に取ると、それを頭から被った。

一瞬にしてあの世界が現れた。

ああ、ここは寒くはない。いつも温かくテンを迎えてくれる人達がいる世界だ。

ここはきっと本当の世界では無いのだろう。

テンはもう頭の隅では解っている。いつまでもこの世界に頼ってはいられない事を解っている。

だから、この頃ではここに来るのを出来るだけ控えていたのだ。

だけれども、今夜はどうしても誰かに温かく迎えて欲しかった。冷えた心と体を包んで慰めて欲しかった。

子供達の部屋は無邪気な穢れの無い世界。お婆ちゃんと猫達の部屋は心と体の緊張をといて思いっきりまったりと過ごせる世界。

おばさんの部屋は温かい湯気の立つ美味しい料理でテンをおナカも心も満たしてくれる。

お兄さんの部屋は世の中を生きて行く為に健康と勇気を育ててくれる世界。

お爺さんの部屋は、まず知識を得る事を教えてくれる。これから生きて行く為には知識こそが武器にもなればテンを育ててくれる事を教えてくれた。

テンは五つの窓を一つ一つ覗いた後、お爺さんの部屋をトントントンとノックした。


お爺さんは書物から目を離すとテンを見てニコリともしないで、手の指先だけで入って来なさいという仕草をした。

テンが入って行っていつものテンの椅子に腰掛けるのをお爺さんはじっと見ていた。

テンは椅子に座ってからも暫らくは黙っていた。何から話せばいいのか解らなかったし、ここは勉強の場所で勉強以外の事を話した事がないような気がした。

だが今は、いろんなことをお爺さんに聞いて貰いたい。

今までの事を聞いて貰うのはお爺さんしかいないような気がした。


「お爺さん、お爺さんの読書の邪魔をして申し訳ありません。でも今日はお爺さんに聞いてもらいたくて来ました。」

テンは、話し出すと自分の意志と関係なく涙が溢れて来て、鼻水も出て、顔中がグシャグシャになって喉も詰まって、うまく言葉が出て来なくなって泣きじゃくった。

そのまま幼い子供のようにただ泣きじゃくった。

お爺さんは何も言わずテンをじっと見ていた。

優しい慰めの言葉をかける事もなかった。

どうしたんだと質問もしなかった。

何も言葉をかけないでじっと見守っていた。

テンはひとしきり泣くと、「すみません、いろんな事があったから。」と言った。

お爺さんは頷いて、「お前さんの様子を見れば大変な事があったろう事は察しがつくヨ。人の心の中は許容量というものがあって、一人一人それは違うんだが、中学生になったばかりのお前の胸の中には入りきらん量の事があったんじゃろ。

いっぱいになったら、時には吐き出さんといけないんじゃ。

何でも話してごらん。その押し込めたものはいっぺん吐き出すがいい。私で良かったら聞いて、それをごっそり知識として儂のこの頭の中に入れるから。」

と言って、初めてニヤリと笑った。

その笑顔に、テンは心に閉じ込めていた良い事も悪い事も話し始めた。

中学に入学した時の心細い胸の内、校長があの小学校の校長で嬉しかった事。

靴箱に汚物が投げ込まれていた事や、そのお陰で用務員のおじさんと仲良くなれた事。

それから、制服や教科書をそこに預かって走りながら、登下校している事。

初めての試験で一番を取ってびっくりした事。それから五衛門という友達が出来て嬉しかった事。

そして二学期の試験でも一番をとった事。

二回目は一回目の時より嬉しさよりもホッとした事。次はもっと気を引き締めて頑張らねばという緊張感が強くなった事。

そういう中で土蔵の脇の風呂場がボヤになって必死で火を消した事。

あの時は二階の父親の書物が焼かれたらと思うと必死だった。

そしてそのボヤが皆に知られたら、自分は悪くないのに大騒ぎになって火の始末の出来ない奴だと追い出されそうでそれが一番の心配だった事。

思い余って監督に話したら、監督がそこを修理してくれたが、もしもまた放火されたらと思うとなかなか眠れずにいたけれど、いつの間にか眠ってしまった事。

そして今晩またその犯人が火を付けに来た所を監督が捕まえてくれた事。

その犯人というのは自分と同じクラスの吉本のダンナの息子だったという事。

監督は安心して眠るようにと言って帰って行ったけれど、僕はどうしても眠れずにこうしてお爺さんの所に来ました。」と話した。

そして最後に、

「お爺さん、僕はこれからどうすればいいんでしょうか。」

「僕はその吉本君に何も悪い事をしていません。その子に恨まれるようなことは何一つしていないんです。これからもこういう事が続くのでしょうか。

その子が僕の事をそんなに嫌いなら、僕はここを出てどこかに行った方が良いのかも知れませんが、僕にはここ以外どこも行く所がありません。

それに僕はここにいたいんです。灯りも火の気もない寒い土蔵の中ですが、二階にはお父さんが残した大切な書物があります。

五衛門という友達も出来ました。あの立派な校長先生もいらっしゃいます。用務員のおじさんとも別れたくありません。

僕はどうしたらいいんでしょう?監督はクビになるんでしょうか?」

話しているうちにまた涙が湧いて来た。


「テン、お前の気持ちは解った。お前は五助爺の言う通り、今、数々の試練の中にいるんだヨ。これはこやしなんだヨ。

普通の者達が体験出来ない貴重なこやしだヨ。思い出してごらん。

最初から一つ一つ思い出してごらん。

あの小さかったお前は、そのこやしで、ホラ、ここまで成長して来たんだヨ。

こんなに立派に成長して来たんだヨ。字もろくに読めなかったあのテンが今はどうだ?本当に驚くじゃないか!

テン、お前はほんの小さな糸クズのようなチャンスも見逃さないでそれを手繰り寄せて教会まで行ったネ。

自分の中にある知恵と勇気を振り絞って勉強するきっかけをしっかり自分で掴んだんだヨ。監督や神父様や山田先生や校長先生の力もあったろう。

だが、その人達の力添えはテンの必死な気持ちが招いた賜り物なんだヨ。

テンが一生懸命、勉強したい、勉強したいと願っていたからその人達の心を動かしたんだ。

これからも試練というものは幾度もテンに襲いかかって来るだろう。

それはテンにだけでなく人が生きていく上で避けられないものなんだが、それはおいおいテンが解る事だ。

とかく世の中は理不尽な事が多い。何も悪い事をしないのにひどい目に遭う。

それは何もテンだけに与えられた試練ではないんだヨ。昔っからある事だ。世の中にザラにある事なんだヨ。

私はそういう話を山程、知っている。善良な人間が意味もなくひどい目に遭ったり、殺されたり。

また、良い事をしたのに誰かに罪を着せられて無念のうちに切腹させられたり。

また、その家族も全員自害なんて事があるのはそう珍しい事ではないんだ。

昔の日本でもあったが、世界中どこでもそういう話は事欠かないんだヨ。

そして、今もどこかでそういう事は起こっているんだヨ。本当に悔しい事だがそれが世の中だ。

理不尽だが、生まれて来たからにはそういう世の中でも耐えて生きて行かなければならない。私達はこの世の中に生まれて来てしまったんだからネ。

まずテン、お前さんはそういう世の中に生まれたという事だ。テンの他にも泣きながら歯を食いしばり生きている人達は多勢いるという事。それを心にしっかり刻む事。

人間生まれて死ぬまで修行の連続だという人もいるくらいだ。

テン、辛い思いをして生きているのは自分だけではない、解ったかネ。

さあ、そういう世の中に生まれてしまったテンはこれからどう生きて行くかだ。

どう自分らしく自分を失わないで生きて行くかだ。

今までの歴史を見ていると、信念だの正義だのを掲げて歩いて行って、貴重な命を縮めてしまう者も多くいたのは事実だ。それが世の常といっていいだろう。

だが、テンにはまだ解らぬかも知れないが、どんなに正しくとも死んでしまえばおしまいだ。

自分の身を守りながら、よーく信念を貫き通す事は相当に難しい。

悪知恵とは違うが、知恵を働かせて自分を守りぬいて何かを残して欲しい。

テンが大人になった時、その事を思い出すんじゃぞ。

今のテンの年頃では命をとられるような事もあるまいが、人々が多勢せめぎ合って生きているのがこの世というもの。この世は地獄か?それとも極楽かと言われたら、見方によっては地獄に見える者も多いのがこの世だからネ。

自分が悪い事をしなくとも恨まれたり、思わぬ災いに見舞われる事も多々あるものなんだヨ。良すぎるという事が人の妬みをかう事もある。この度の事は恐らくそれが原因だろう。

人の心の中はいろいろだ。どうしようもなく愚かであさましく醜い心を持っている者もおる。テンのように心が汚れておらぬ者には解らぬじゃろうがの。

テンのような種類の人間には、どんな事があっても故意に人を傷付けたり、人を窮地に陥れるような事は、例え背中を押されても出来ないだろう。

恐らく悪意のこもった言葉を投げつける事も出来ないだろう。

むしろ何気ない自分の一言がもしや相手を傷付けたのではないかと思い悩んだりするものだ。

だが、それとは反対に人を傷付ける事に喜びを見い出したり生き甲斐を感じる者もいるんだヨ。何故?と言われても儂にも解らん。

そんな手合いの者の心など理解は出来ん。しかし、世の中には悪意を胸にためている人間はごまんといる。そう思って用心してかからねばならんぞ。

だがテンいいか、ここが大事な所だ。だからといって手あたり次第、人を疑ってかかってもいかんのだ。

中には見かけによらず良い者もいるものだし、それに世の中にはやはり弱い者が多い。

弱い者はいつも弱い者を救ってくれる正義というものを求めているんじゃヨ。

しかし同時に弱い者は自分自身を守る為に、ここぞという時に裏切る事もあるし、嘘もつく。とにかく何事においても決めつけてかかったらいかん。

その都度、多少痛い目にあっても試練という荒波

をドバっとかぶりながら、それに負けないで真っすぐ前を向いて進んで行くしかないのじゃヨ。

いろいろ話したが、結局のところ儂の言いたい事は、これからも理不尽な波は次から次とやって来ると覚悟する事。

テンにはその時々で自分の知り得た知恵を総動員して立ち向かって欲しい。

例え大波をザバンとかぶる事があっても、いつまでもへこたれていないで、また前を向いて歩いて行って欲しいという事じゃ。

しかもテンの行きたい方にテンらしく生きて行って欲しいという事じゃ。


儂も立派な事は言えんのだ。どれも皆、本から得た知識だからのー。

実際試練を乗り越えて儂に見せてくれるのは、テン、お前なんじゃからナー。

辛い目を見るのもお前だ。

人として生まれ、人として生きるのは辛いのー。だが、それじゃ動物なら楽かと言うとこれでなかなか動物の世界は人間以上に厳しいのかも知れんぞ。

まあ、結論としては、儂はいつもテン、お前を見ているという事だヨ。少しは気が楽になったかの。」

お爺さんは慈しみを込めた眼差しでテンに言った。

「はい。全部吐き出してお爺さんに聞いて貰ったら、この辺がスッキリしました。」と言って胸のあたりを撫でた。

「そうか、それは良かった。今日はもう帰ってぐっすりおやすみ。」


テンは袋の世界から戻って自分に言い聞かせた。

「そうだ。これから先の事を思ってビクビクして心配したって仕様がないんだ。お爺さんの言った通り、何かあったらその都度、その都度乗り越えて行けばいいんだ!」

そう思うと元気が出て来た。

体もポカポカ暖かくなっている。

テンはいつの何か眠りに入って行った。


次の日、監督が火鉢に入れる炭とマッチを持って来てくれた。どうしても寒くて眠れない時はこの火鉢で暖をとるように、そして最後は必ず火のついた炭に灰をかけて眠るんだと教えてくれた。

風呂に入る時は今度一緒に風呂屋へ行こうと言ってくれた。

テンは嬉しかった。あと少しで今年も暮れようとしている。

学校も休みに入った。

あれから特別変わった事は起こらなかった。

あの後、吉本の息子は学校を休んでいた。

テンが土蔵の中にいると、仕事帰りの監督が一緒に風呂屋へ行こうと誘ってくれた。

テンは風呂屋へ行くのは初めてだった。風呂代は監督が出してくれた。

久々に熱い風呂にゆっくり浸かって体の芯まで温まった。

五助爺の事を思い出し、五助爺も連れて来たいと思った。

帰りにテンは気になっていた事を聞いた。

「監督、あれから吉本のダンナに辛く当たられませんか?クビにされたりしませんか?」

すると監督はニッと笑って、

「無い無い。あの事件の後、むしろ良くなったヨ。あんなに横柄に怒鳴り散らしていたのが、猫のようにおとなしくなって何も知らない連中は皆、不思議がっているくらいだ。

テンには辛い思いをさせたが、いいきっかけを作って貰ったとむしろ感謝しているんだぜ。

だがなテン。相手は根性の曲がった連中だ。腹の底では何を考えているか解らん。

何かあったらすぐに俺に教えるんだぞ!」

と言ってくれた。

テンはその言葉だけで物凄く心強かった。

それから時々、監督はテンを誘って風呂屋へ行った。

二人は今や友達のようにまた、年の離れた兄弟のようになった。

テンは素直に監督の好意を受ける事にした。

この人は自分の恩人だ。

決して忘れないでいよう。そして、いつか必ず恩を返すのだといつも思った。

年も明けるとやがて急に春めいて来て、凍る程の寒さでなくなると、もう大丈夫ですと言って一緒に風呂屋に行く事をやめた。

年が明けて学校が始まっても吉本の息子の顔を見る事はなかった。

教室でその仲間だった一人が、

「冬休みに知り合いのおじさんの所に遊びに行ったら、そこが気に入ってそっちの中学校に転校する事になったんだって。」

と話しているのが耳に入った。

すると五衛門が側に来て、

「吉本の奴、何故転校なんてしたんだ?どうしてだ?

なあテン、どうしてだと思う?あいつ成績が下がって恥ずかしくてここに居られなくなったんじゃないか?」

などと話し掛けて来たが、テンは黙っていた。


テンの心の中には、これでもう火を付けられる事はないだろうという安心感があった。

それからは以前のような毎日に戻った。

しかし、この同じような毎日の繰り返しがいかに有難いかをつくづく解るようになった。

世の中には単調な毎日をつまらないと思う者もあるだろうが、この単調な暮らしこそがテンにとってどんなに大切か知れない。

この日々の中で、少しでも自分の心と体を育て、もっともっと自分を大きくする事。

自分がしっかりとした大人になるまではここに居させて下さいと願いながら、朝と夕の走りは続いた。

三学期も終わった。

やはりテンの成績は一位だった。

五衛門はあれからがむしゃらに頑張ったのだろう。一年生の最後は総合で三十五位にまで成績を上げて来たのだ。

五衛門は、「テン、二年生になってもお前と一緒の組がいいナ。もしも別々の組になっても昼飯はあの中庭で一緒に食おうナ。」と言った。

テンも同じ気持ちだった。


二年生になって組変えを見ると、テンと五衛門は果たして一緒の組だった。

二人は安心し喜んだ。二人が昼に中庭で一緒に弁当を食べて勉強している姿を遠くから見ている人がいた。それは校長だった。

二年生になっても二人の友情はもちろん続き、テンにとってもそうだが五衛門にとっても良い影響が出ているのは成績を見れば明らかだった。

試験が終わってその結果を喜び合った後は、またお互いに誓い合った。

テンは相変わらず黙々と勉強し、それが一位の座を守る事になったし、五衛門は少しずつ、少しずつ、一つでも二つでも順位を上げる事を誓った。

二学期も終わり、二年生の最後の試験では五衛門は何と二十位までになっていた。

五衛門の目の色は一層真剣みを帯びて来た。


三年になった時もクラス替えはされずに同じだったので、テンと五衛門は一緒だった。

五衛門は三年生の一学期末の順位は十五位まで上がって来ていた。

しかし五衛門は、そんなに嬉しそうな顔ではない。

テンは五衛門の気持ちが解るような気がした。

結果が発表されたその日の昼に五衛門が肩を落として、

「俺はこの度はがむしゃらに頑張った。死に物狂いで頑張った。だがまだ十五位だ。

このままではテンと同じ高等学校は無理だ。家の中では家族皆が俺の成績に驚いて喜ぶだろう。だが、この成績じゃ駄目だ。

俺は死に物狂いで頑張ったんだぞ!せめて今、十番以内の所にいなきゃ無理だ!これでは無理なんだ!」

五衛門の顔は今まで見た事のない程悲痛なものだった。

テンは、「五衛門、お前の弱い教科は何だ。力になれないかも知れないが。」と言った。

五衛門は力なく答案用紙をテンの方によこした。

英語と数学の点数が他のより悪い。

テンが、「僕も偉そうなことは言えないが。」と言って、

「自分はこういう所に主に力を入れている。」と話し出したら、

五衛門は、「俺だってそうしているヨ。だけどテン、俺とお前は元々脳みその作りが違うのかも知れないナ。俺だってテンの言うように勉強しているヨ。それなのに、こんなに点数が違ってしまうんだ。悔しいヨ。

お前の友達になっていつの間にか欲が出て来たんだナ。元々頭の悪い俺が、テンと肩を並べてあの高校を目指すというのが最初から無謀だったのに、成績が少しずつ上がって来るともしかしたらって欲が出て来て、三年生も一緒のクラスだから。

俺はテンと一緒にいて死に物狂いで頑張ったら夢ではないかも知れないと思ったんだ。

だから三年の一学期末の試験では絶対十番以内を取ってやろうと心に決めたんだ。

俺はこの試験にかけていたんだ。ここの中学校からは毎年合格するのは五人くらいだろ?

やっぱり今の俺の成績じゃ無理だよナー。無理だ。無理だ。所詮無理なんだ。」


テンは何だか腹が立って来た。

「五衛門、お前じゃあ諦めるのか!お前それでもいいのか!

諦める諦めないを決めるのはお前自身だ!僕にはどうする事も出来ない。

だけど僕は諦めない。僕だって毎日、自分の出来る事は精一杯頑張っている。

五衛門にも頑張って貰いたい。

そして五衛門と一緒の高校に入れたらどんなにか楽しいだろうと思っている。

五衛門、お前は疲れているんだヨ。今日明日は何も考えないでゆっくりしろ。」と言った。

その後、二人は口をきかなかった。

テンには五衛門の気持ちが手にとるように解った。

あんなに頑張って来たんだもの。でも、これは本人の問題なのだ。

テンがどうしてやる事も出来ない。

その後、何日かテンと五衛門は話をしなかった。

テンも他の生徒と話をしたり、五衛門も他の奴と楽しそうに話したりしていた。

テンは二人の友情もこれで終わりなのかナーと思った。

やがて夏休みに入り、テンはいつものように図書館で勉強をしたが五衛門は来なかった。

図書館のおじさんが、「いつも一緒の友達は来ないの?」と聞いた。

「ええ。」とテンは曖昧に言葉を濁した。

あんな奴の事考える事はない。今は自分の事だけを考えるんだ。

テンはそう自分に言い聞かせたが、それでもやっぱり淋しかった。

毎日、毎日、一人っきりで勉強するのもふっと虚しい気分に襲われた。

「テン、危ういナ。こんなんでどうする!気を抜いたら駄目だぞ!」と自分を叱りつけた。

そんな時、神父様の事を思い出した。

神父様とはもう随分会っていない。

以前にも何回か会いに行ったが、その時も違う人がいて以前の神父様は事情があってまだ帰っていないという事だった。

もう帰って来ないかも知れないと思った。

それでも自然に教会の方に足が向いた。

懐かしい教会なのに、そこにいる筈の人がいないと思うと何だかよそよそしく見える。

中に入って確かめなくてもその雰囲気でテンにはあの神父様がいない事が解る。

やっぱり神父様は遠くへ行ったきり帰って来ないのだ。

帰ろうとするとどこからかテンを見ていたのだろう。追いかけて来る人がいた。


「君は天子天水君って言うのかい?」と声をかけられた。

振り返ると前にここを訪ねた時に留守をあずかっているという日本人の若い神父だった。

その人は、

「先の神父様から私宛に手紙が来て、その中にもしも天子天水君という中学生が訪ねて来たら渡してくれと、この手紙が入っていたんですヨ。たしかに天子天水君だネ?」

「はい。僕が天子天水です。」

「じゃ、これは君宛ての手紙だ。」と言って渡してくれた。

それは確かに神父様がテンに宛てた手紙だった。


親愛なるテンへ


私は今、ローマにいます。

私の尊敬する師が病で倒れたとの知らせがあり、私を呼んでいると手紙に書いてありました。そういう緊急な事情で日本でお世話になった方々にも、またテンにも何も言わずに急いでローマに帰って来たのです。

師はただの師というだけではなく、私にとって実の父のような人でもあるのです。

私は孤児でした。両親がどういう人なのかも解らない状態で捨てられた子供でした。そういう私を小さい時から慈しみ育て教育し、今のこの道に導いてくれたのがその人です。

その人が弱って私を呼んでいるというのです。

私は急いで駆けつけました。その時はすぐにもまた日本に帰るつもりだったのですが、私は今もその人の側で看病しています。

師はかなり弱って来ています。神に召される日もそう遠くはないでしょう。師は私の為にこちらの教会に私の居場所を用意してくれていました。

私は迷いました。そして今も迷っています。私が今まで居たあの協会が私の居場所になっていたからです。

あの場所で出会った人々の顔をよく思い出します。特にテンとの出会いは私にとって特別なものでした。

テンの中学での成績を知った時は山田先生と二人で祝杯をあげて喜び合いました。

山田先生もとても正義感の強い素晴らしい先生です。

あの後、彼は素晴らしい女性と結婚されました。そしてその後、あそこの小学校から別の小学校に転勤して行かれました。今頃、温かい家庭を築かれて幸せに暮らしている事でしょう。

こちらにいてもいつも思い出されるのはテンの事です。

テンは出自が解っていますが、それでもやっぱり私と同じ一人ぽっちの身の上です。

私にはずっと見守ってくれる師がおりましたが、テンの境遇は私のそれよりもはるかに厳しいものだと思います。

どんなにか心細い事もあるでしょう。でも神はその人が耐えられる試練をお与えになられます。

テン、この先何があろうと、どうかあの頃のような曇りのない目をまっすぐ未来に向けて頑張って歩いて行って欲しいと遠い空の下から祈っております。

今は師の弱って行く姿を前にただただ、祈る日々です。そして自分の居場所についても悩む日々です。

ここに詳しく住所を記しておきますので、万が一日本で会えない時はいつかここを訪ねて来て下さい。

またいつかきっと会える日を希望しています。



書かれた手紙を読み終わると、遠い異国で自分の事を案じてくれている神父様のあの慈しみに満ちた目が浮かんだが、それは今のテンにとってはあまりにも遠い場所だった。

みんなそれぞれ歩む場所が違うのだと身に沁みて思った。

五衛門も今ではテンから離れて行ってしまった。

神父様も今は遠い異国の人だ。

転勤した山田先生は今頃、温かい家庭を築いていて、それ以上に遠い人になってしまったような気がする。

人は生まれては死ぬまでずっと大切な人と別れずにいる事は出来ないのだろうか。

テンにしても多くの大切な人と別れて来た。

会っては別れ、会っては別れて…。

結局は一人ぽっちで別れを繰り返して生きて行くしかないのだろうか?

家族全員と死に別れ、お清とも五助爺とも会っては別れて来たテンにとっては、別れというものは人一倍身に沁みて辛いものだった。

どうする事も出来ない辛いものだった。

牧師様からの手紙を大事にポケットに入れると、

「最初っから一人ぽっちだと思えばいいんだ。」

テンはくじけそうになる心を無理にも立て直して走り出した。

テンが向かうのは、誰も待っていないあの土蔵だった。


二学期中、テンは五衛門とは朝の簡単な挨拶以外、口をきく事もなかった。

その代わり他の生徒と何人か話をするようになっていた。

皆、それぞれいろんな考えを持っている事を知ったのはちょっとした発見だった。

中にはテンと友達になろうとしたり、家に呼んでくれる者もいたが、テンは用事があるからとやんわり断ったり、深く心を通わせるような事はなかった。

今は誰かと新しい友情を結んで、それによって自分が振り回されるのを恐れたし、正直そういう気持ちにもなれなかった。

そういう時テンは、やっぱり自分は変わっているのかナ。天涯孤独な自分は素直な性格にはなれないのかナと思って自己嫌悪に陥ったりした。

しかし、表面的には相変わらず姿勢を正して淡々として見えたのだろう。

相変わらず朝早く学校に来て用務員のおじさんの所で勉強し、時間になると教室に行き。昼は中庭で一人握り飯を食べた。

放課後はギリギリまで図書室で勉強しておじさんの所に教科書を置いて走って帰った。

そしてまた、冬休みを迎える前の二学期末試験がやって来た。

この試験は特に来春の受験を控えた三年生にとっては、自分の実力を知る重要な試験なのだ。

テンは入学して以来、一度として首位の座を他の者に譲った事はないが、しかし一度として発表があるまで自信を持った事はなかった。

今度こそは一位から落ちて散々な順位になっているのではないかという不安が常につきまとった。

だからその不安から逃れるように、必死で努力したというのが本当だ。

生徒達の不安や焦燥にお構いなく試験は実施され、そして発表の日がやって来た。

生徒達の誰もが争って見に行く中をテンは、不安と疲れを隠しながら腰をあげて最後に見に行った。

いつもそうだが、テンは万が一の場合、それは成績が著しく下がっている場合だが、そういう場合に備えて自分が明らかに狼狽したり落胆する顔を見られたくなくて、深呼吸し呼吸を整えてから見に行くのだった。

だが今回もテンの名前はやはり一番先に書かれていた。

それを見た瞬間、ホッとして帰ろうとした。テンには他の誰がどのくらいの成績かを見る習慣が元々なかった。

冷淡と言えるかも知れないが、誰かを意識したり誰かと競うという意識が全くなかったからだった。

だから、自分の位置を確認すると、テンはすぐに教室に戻り机に向かうのが常だった。

だからその時もすぐにその場を立ち去ろうとしたテンの腕を掴んで引き止めた者がいた。

驚いて見ると五衛門だった。

五衛門は発表されている順位から目を離さずに言った。顔は笑っている。

「テン、見てみろよ!俺はやったぞ!」

テンは驚いてもう一度順位を見た。佐竹五衛という名前は八位の所にあった。

テンは驚いてもう一度五衛門を見た。


「俺、凄いだろ。やったヨ!」五衛門の顔は輝いていた。

てっきり諦めたと思った五衛門は実は諦めてなどいなかったのだ。

その事がテンを感動させた。

「テン、何か言えヨ!一言ぐらい何か言えヨ!」

「良かったナ。」テンは五衛門に言った。

五衛門は嬉しそうに力強く、「うん。」と言った。


五衛門は諦めたのではなかったのだ。

あの時は情けなくて気持ちはどん底まで落ち込んだが、テンの「僕にはどうしてやる事も出来ない。だが五衛門と一緒の高校に行けたらどんなに楽しいだろう。」

と言った言葉を何度も思い出し奮い立った。

しかし、このままテンの隣にいたら駄目だ。

十位以

内に入る迄はテンとは口を利かない。そう自分に誓いを立てたと言った。

昼食の時、五衛門の話を聞いてテンは、

なんだ、そうだったのか。二人の友情は終わったと勝手に思い込んでいたのは自分一人だったんだと思い可笑しくて一人笑った。

「テン、お前は笑うけれど、俺にとってはこれが“天下分け目の関ヶ原”だったんだぞ!この試験で駄目だったら俺はテンと同じ高校を受験する事を諦める。そう決めてたんだ。俺も一緒のあの高校を受けるヨ。その結果は神のみぞ知る!だが、俺は受ける。そう決めたんだ。」

五衛門の顔は晴れ晴れとしていた。テンの心も晴れ晴れとしていた。

二人の友情は決して消滅したのではなかった。

年の瀬も近い。年が明けたらいよいよ受験が控えている。いよいよだ!

テンにとっても本当のこれからの自分の人生の“天下分け目の関ヶ原”なのだから。

冬休みに入る前に、生徒は一人一人呼ばれて担任と話し合いをする。

卒業後はどうしたいかの最終確認する為だ。他の生徒達はだいたい自分の成績と見合った所を教師と相談して決め、進学するかまたその頃は中学卒業と同時に社会に出て行く者もかなりいた。

テンの頭の隅には受験に別の心配の種があった。

受験する進学校はかなり離れている為、今いる所からは絶対通う事は無理な事。

もしも合格した場合、下宿するか寮に入る事になるが、その経費や授業料の面倒は誰が見るのだろうという事。そして自分が留守にしている間、土蔵をそのままにしていく事は二階の父の書物が心配だった。

高校は今と違ってかかる経費は比べ物にならない。どうなるのだろう?

先生との話し合いの時は、それを正直に話して聞いてみよう。そう考えていた。

テンの面談は一番最後だった。

テンが三年生になってから転勤して来た中年の気の優しそうな担任はテンを前にすると、ニコニコと笑いながら、

「天子君は入学以来ずっと首位を守って来たんだネ。よく勉強頑張ったネ。この成績ならあの進学校も心配ないだろう。」と言った後、

「君の家庭の事情は複雑なようだネ。この度も進路についての事で保護者の吉本さんに通知しているんだが、何の返事もないんだヨ。君はあの家から通っているんだろ?」と話して来た。

テンは、「先生は御存知ないのかも知れませんが、僕は小学校の六年間一度も学校へ行っていないんです。」

そう言うと担任は驚いた顔をした。

「この事については、校長先生がご存知です。これから受験するにしてもまた、その後の事も相談したい事が色々あります。

先生、相談に乗ってもらえますか?」

担任は思いがけないテンの言葉に慌てたように、

「ちょっと待って。」と言って、テンをそこに待たせてどこかへ行って暫らく帰って来なかった。

夕陽が地平線に近づいて教室にさす夕陽はいかにもわびしい十二月の陽は暮れるのが早い。

何とも言えず寒々しい教室の中でテンは、一人この先の話し合いで自分の複雑な事情をどこまで打ち明けて話せばいいのだろうと思っていた。

全てを話さなければ多分解っては貰えないだろう。

だが、中学三年になってから担任になった何も知らないあの先生に一から話して果たしてどこまで理解してもらえるだろう。

この先、自分はどうなるんだろう。

まさか進学を諦めなきゃならないなんて事になったりはしないだろうか?

不安な気持ちがつい弱気な事を考えたりする。

かなり時間が経ってから入って来たのは校長先生だった。

全校生徒が整列した体育館での挨拶で話を聞く事はあったが、校長先生は一生徒のテンにとっては遠い存在だった。

それでも廊下をすれ違って挨拶する時、テンは校長の穏やかな微笑みに尊敬の他に何か頼りになる心強さをずっと感じて来たのだった。

その校長先生がテンの目の前に座っている。

「天子君、長い間待たせてすまなかったネ。野呂先生は今年、他校から転勤して来たばかりで君

の家庭の事情は何も御存知ないんです。卒業間近の三年生の担任は、進学する生徒や就職する生徒の事で大変なんだヨ。

だから君の話を聞くのは私が自らかって出たんだが、私に君の心配事を話してくれるかい?」

と言ってくれた。

テンにとってはその方が心強かった。

テンは自分は県内でも有名なあの進学校を受け、出来たらそこに進学したいと思っているのだが、そうなると経費のかかりの事が心配になって来る。

これからのその経費を払ってくれるのは誰なのか。

今までは吉本さんが自分の保護者となっているが、実の叔父さんでもないし、きっと迷惑に思っているだろうと思う。

吉本さんの援助なしに進学する事は出来ないでしょうか?本当は出来る事なら吉本さんの援助なしにこれからは生きて行きたいと思っていると話した。

黙ってテンの顔を見て話しを聞いていた校長は、君が何故そうしたいのか詳しく話を聞かせてくれないかと言った。

テンはこの校長ならと心を決めて話し始めた。

「僕は物心ついた時、五助爺と一緒に土蔵の中で暮らしていました。

五助爺が僕をいつも可哀想に可哀想にと言っていた事。自分の親達は死んでもうこの世にいないが、どのような経緯であの土蔵に住むようになったか、どうして吉本さんが保護者になっているのか。これから先どうなるのか?

いつまでも親でもない吉本さんに迷惑はかけられない。」と言った。

校長は頷きながら聞いた後、

「ところで中学一年の時、吉本さんの息子が他校の中学校に転校しているネ。何かあったのかい?」と聞いた。

テンは暫らく黙っていた。

すると校長は何か察したのだろう。

「私には何でも話して大丈夫だヨ。君が困るような事には絶対しないから。」と言った。

テンはこの校長なら信用出来ると思って、土蔵の脇の風呂場に放火されたいきさつを正直に話した。

風呂の火の不始末に見せかけた放火だった事。テンの所にはろうそく一本、マッチ一本もなくどんなに寒くてもそれまでは貯めておいた水をかぶって体を洗っていた事を話した。

その犯人が吉本の息子で、監督が捕まえてくれた事。その後、その息子が転校した事を話した。


「校長先生、この放火の事を知っているのはあの親子の他は僕と監督だけです。絶対に他の人に知られてはならないんです。僕が人に話した事が知れたら、僕は本当にあそこにはいられなくなってしまうんです。」

テンは必死に校長に頼んだ。

校長は、「解った。この事については君の担任の野呂先生にも話さないから安心しなさい。」

それから、「うーん。」と考え込んで、

「これから高校、大学に進むとなれば、これからの君の学費、生活費は誰が支払うかは大きな問題になって来る。これは曖昧にしてはおけない問題です。

私が吉本さんに会ってみましょう。

天子君、君の事情は山田先生からおおよその状況は聞いていました。これは、はっきりさせなければならない問題です。緊急に吉本さんに聞いてはっきりさせましょう。

もしも吉本さんの善意からお金を出して貰うのなら、君もこれからは気兼ねをしなければなりません。

そうとなれば、国からの奨学金等でまかなう方が君自身も気兼ねなく勉強出来るというものでしょう。

いずれにしても急がねばなりません。

天子君、この事は私に任せて君は受験のための勉強に集中して下さい。」

もう辺りはすっかり暗くなっていた。

「すっかり遅くなってしまったネ。学校の行き帰り走っているんだネ。気を付けて帰りなさい。」

校長はニッコリ笑ってテンを送り出した。

校長はその後すぐに行動を起こしてくれたのだった。


二日後、明日から冬休みに入るという日、帰りに話があるから教室に残るようにと担任から言われて、テンは一人誰もいない教室で待っていた。

すると担任の野呂先生が来て、

「天子君の事情は校長からだいたい聞きました。君は大変苦労をしたんだね。

保護者の苗字が違うし、御両親が亡くなられてもういないという事は聞いていたんですが、幼い頃から一人だったというのは初めて知りました。

君の落ち着いた見た目からは正直想像もつかなかったものだから、何も気が付かなくて申し訳なかったと思っています。

昨日、私と校長先生とで吉本さんを訪ねて話し合って来ました。

その時の事についてとまた、その後の詳しい事は校長が君に説明してくれる筈です。

校長が君の事情について知っていてくれて本当に良かった。

それでなければ今度の事は私一人では難しかったでしょう。

今、校長に来て貰います。もう少し待っていて下さい。」

野呂先生が出て行くと間もなく、校長先生が教室に入って来た。

校長はいつもの穏やかな表情の上にも更に機嫌の良さを浮かべて

てテンの向かいに座った。


「天子君、大体解ったヨ。君の知りたがっていた事情がネ。

君は何も遠慮せずに堂々と高校にも大学にも行けるんだヨ。

吉本某の世話になっている訳ではないんだヨ。」

校長は吉本のダンナに“さん”をつける事もまた呼び捨てにする事もなく吉本某と言った。

「君は大変な資産を引き継ぐ立場にあるんだヨ。十八歳になったら正式に引き継ぐ事になっていたんだ。

吉本某はそれを自分の自由にしたいが為に、君を無学の何も解らない人間にしようと企んだとしか思えない。」

とあの校長にしてはかなり辛辣な物言いをした。


「私と野呂先生は君と話したその日の夜に、吉本某を訪ねて行ったんだ。

君の保護者として緊急に書いて貰わねばならない書類があったし、今後の君の生活に関する費用の出所もはっきりさせなければならないからネ。

君の成績が優れている事を話しても喜ばないし、あの県一の高校を受験すると話しても不機嫌だ。これは保護者としてあるまじき態度だとはっきり解りました。

私達は受験に合格した後の君の授業料や生活費を出して貰えるのかと聞くと、それは出すと言う。だが私達は何かすっきりしないものを感じて更に、

それは吉本さんご自身の懐から好意で出すのですかと聞くと曖昧にして口を濁す。

聞いているこちらに好意が少しも伝わって来ません。

私は腹に据えかねてはっきり聞きました。

その経費はどこから出ているんですか?これはこの場限りの事ではありません。

天子君はこれから高校、更には大学に進む優秀な人間です。

この場限りでごまかしの出来る問題では無いのですヨ。吉本さん!

私は賭けに出ました。

もしも吉本さん自身の懐から出る金であったなら、それはそれで謝るつもりでしたが、今までの一連の事を考え合わせると、どうしても好意で君の保護者になっているとは思えなかったものですからネ。

私と野呂先生の二人に詰め寄られて、吉本某は渋々ある人物の名前と住所、電話番号を書いた紙をよこしました。

後は一言も言いません。ダンマリです。

詳しい事を知りたければその人物に聞いてくれという意味なのでしょう。

吉本某はその後すっかりふてくされて、私にも野呂先生にも何も言わず見送りにも出ませんでしたヨ。

私は自宅に帰って、その夜のうちに吉本某が渡したメモの人物に連絡をとりました。

その人は弁護士でした。

天子君、君の弁護士でした。

君の父上が残された財産を君が十八歳になるその時まで管理している弁護士でしたヨ。

その人と話して、今までずっと毎月、君の養育費として吉本某には充分過ぎる金額が送金されている事も知りました。

君はあの土蔵に一人で住んでいたんだネ。しかも火の気のない場所に…。

五助さんがいなくなってからは誰一人世話をする人もなく、一日二回の多分粗末な食事をあてがわれただけで…。

私は弁護士に洗いざらい話しました。

弁護士は驚いて怒り狂っていましたヨ。

聞けば君の父上の友人だそうです。そのうち君に会いに来るでしょう。

天子君、君は誰に気兼ねなく堂々と進学し、勉強する事が出来るんですヨ。

君の父上が君に遺したお金でネ。

もう吉本某はあそこにはいられなくなるでしょう。

元々、あの母屋は君の家なのだからネ。君の気持ち一つで今すぐにもあの一家を追い出す事も出来る立場にあるんだからネ。」

そこまで言って、校長はフーッと息を吐いて、

「しかし、世の中にはとんでもない悪い人間もいるものだネ。

まだまだ君のような穢れの知らない年頃の少年には知らせたくない話だが、君には知る権利があるからネ。

この度は、私も年甲斐もなく憤慨してしまいましたヨ。」

校長はそう言って笑った。

まるで悪漢と戦って勝った正義の人のように晴々とした顔をした。

テンは安心しながらも

「僕には今、あの吉本のダンナをどうするこうするの考えもありませんし、力もありません。そういう事は全てその弁護士さんにお任せします。

ただ話を聞いていて一つだけ急いでして貰いたい事があります。

校長先生、遠くの山へ働きに行ったっきり帰って来ない五助爺の消息が知りたいんです。

五助爺があの後、どうなったのか。生きているのか、死んでしまったのか。

いつも僕は気になっていましたが、誰も教えてはくれませんでした。

もしも、もしも五助爺が生きているならすぐにも呼び戻したいんです。

僕がここを出て高校に行く前に五助爺に会いたいんです。」

テンの今まで抑え込まれていた気持ちが急に堰を切ったように溢れ出た。

五助爺に会える!五助爺に会えるんだ!

早く会いたい。早く会って今までの事全部聞いて貰いたい!


校長は約束してくれた。

そしてまたもすぐに実行してくれた。

帰りに吉本のダンナの所に寄り、五助爺が今どこにいるのかを聞いて、すぐ呼び戻す事を約束させたのだ。

すぐに呼び戻さなければ更に大事になるだろうと警告したらしい。

吉本のダンナはすぐに遠くの山の中で山番をしていた五助爺に連絡をとり呼び戻した。



そして、五助爺は帰って来た。

とうとうテンの所に帰って来た。

九年ぶりの再会だった。五助爺はすっかり年老いていた。

腰も曲がってヨボヨボのこの人をよくもまあ長い間山の中に置いたものだと。

テンはさすがに懐かしさと共に怒りが込み上げてきて、涙が溢れ出た。

五助爺は最初テンを見ても戸惑っていた。

あの小さかったテン坊が今はすっかり背が伸びて、賢そうな青年になっていたのだから。

「テン坊かい?」

五助爺が恐る恐る聞いた。

「そうだヨ。僕だヨ。僕の事忘れちまったのかい?」

テンは拗ねたように言った。

「あんまり御立派になられたので何だか近寄りにくくなって。」

「何言ってんだい、五助爺。僕は毎日毎日、思い出していたんだヨ。

僕は毎日、毎日五助爺の帰りを待っていたんだヨ。五助爺の馬鹿!馬鹿!何で帰って来なかったんだヨ。」

テンは五助爺の小さくなった肩を抱いて泣いた。

「僕はずっとずっと待っていたんだヨ。ずっと、ずっとだヨー。」

テンはあの一人ぽっちにされた頃の悲しみに戻って泣いた。

やっぱり思いっきり甘えられるのはこの人だ。自分が少しの気どりも緊張も無く素直に甘えられるのは五助爺だと思った。

五助爺も泣いていた。テンは幸せだった。幸せだから泣いた。

生きて五助爺に会えたのだもの。死んでしまったのかも知れないと思っていた。

五助爺がこうしてテンの元に帰って来てくれたのだもの。もうそれだけで何もいらない。

それだけで幸せだった。

テンと五助爺はまた一緒に土蔵の中で暮らし始めた。

吉本のダンナと弁護士の間でどんな話し合いがされ、どうなるかはテンは気にしない。

元のように五助爺と暮らせるようになっただけで満足だった。

土蔵の中は急に狭くなった。テンは階段を昇ったに二階の書庫に寝起きして、階下を五助爺がのんびり出来るようにしてやった。

弁護士の計らいでテンと五助爺が不自由なく暮らせるようにすぐにお金はテン名義に送金されるようになった。

そのお金で必要な物を揃えて土蔵の中も小奇麗にし、二階のテンの部屋も明り取りをいっぱいに開け、夜はランプの灯りをともすようにした。

何もかも夢のようだった。

食事については当分は今まで通り運んで貰うようにした。

下女も事情が分かると、ご飯もおかずも今までと全く違う旨い物を作ってお膳に付けて持って来るようになった。

テンと五助爺は年の暮れを土蔵の中で慎ましく暖かく過ごす事が出来た。

五助爺は何かとテンの世話を焼きたがったし、テンは嬉しいクセに、

「もう僕、子供じゃないんだヨ。」と言ったりした。


年が明けて三学期が始まり、いよいよ慌ただしくなって来た。

三学期最後の試験もテンは見事に一位を取った。

テンは飛んで帰って来て五助爺に知らせた。

この喜びを伝える人がいるという事はこんなにも嬉しいものなのか!

五助爺はまたも涙と鼻水を流して喜んだ。

「テン坊はこんなにも偉くなられたのですネ。それもたった一人でこんなに偉くなられるなんて、きっと若ダンナ様も若奥様も喜んでいらっしゃいますヨ。」

そう言ってまた泣いた。

最後の最後に五助爺を喜ばし、自分も褒められてテンは最高に嬉しかった。

そしていよいよ受験の日が来た。

いつもテン達の通う中学からは毎年、四人から五人の合格者が出ている。

少ない時は一人、二人の時もあったそうだ。

それ程、難関の高校なのだ。

今年はテンを含め十一人の生徒が受験した。その中にはあの五衛門もいた。

五衛門は最後の試験では六位まで登りつめていた。

その頑張りにはテンも正直驚いた。五衛門の根性は凄いと思った。

それでも毎年の合格人数から言ったら五衛門はギリギリ危うい所だ。

だがテンの中では五衛門は自分と一緒に合格するような気がする。

テンだって気を抜いたら五衛門に置いて行かれるかも知れない。それ程、五衛門の気迫と頑張りはテンも驚く程だった。

負けちゃいられない。テンもそう思って頑張った。


結果はテンも五衛門もなんとあの進学校に受かったのだ。

また、二人一緒の学校に行けるのだ。二人は抱き合って喜んだ。

テンも喜びを顔や体に表して喜んだ。

今年はテン達の中学から七人合格した。

今までで最高の人数だという事で県内でも一躍学力のレベルを世に知らしめる事になった。

あの難しい高校に受かったとなればすぐに誰もが知る所となった。

次はあの天下の帝大も夢ではないからだ。

五助爺はまた、涙と鼻水を流して喜んだ。監督もどこから聞いたのか自分から土蔵までやって来て、良かった良かったと祝いを言って行った。

働いている仲間も全員、自分の事のように喜んでいるという。

皆、今までは吉本のダンナがテンに対してどんな酷い事をして来たかを知っているらしかった。

合格すると、次は寮に入るか下宿にするかの選択を迫られる事になったが、テンは五衛門とも相談して寮に入る事にした。

噂では寮生活はかなり規律が厳しいという事だったが、そういう厳しい中で生活するのもいつか自分の為になりそうな気がしたからだ。

結果、二人は寮生活を選んだ。

しかし、一ヶ月に一度か、それが無理だとしても夏休み、冬休みは里帰りが出来る。

テンが帰って来る頃には五助爺が首を長くして待っていてくれる。

世話焼きの五助爺がまだかまだかとテンを待っているのは確実だった。

それを思うと、テンの顔はほころんで来る。

待っていてくれる人がいるのはいいなと思う。

テンは土蔵の二階に上がって自分の荷物の整理をしながら、ふとあの袋を手に取った。

袋は相変わらず底の方に大きな穴が五つ開いている。

そのボロボロの袋を手に取ってテンはしみじみ思い出した。

あの頃、どんなにかこの世界の人達に助けられただろう。どんなに励まされ慰められただろう。

この話を誰かに話したとしても笑われるだけだろう。

五助爺でさえその話を聞いたら、かえって幼いテンが淋しさのあまり作り上げた夢だと思って、可哀想に可哀想にと言ってまた涙と鼻水を流して泣くだろう。

あれが本当だったかどうか今となってはテン自身も夢を見たような気分にもなり、曖昧で確信が持てない。

きっと大人になった自分に備わった常識という奴があれを夢の中での物語だったと思わせようとしているのかも知れない。

でも確かにあの頃、テンはあの人達に救われて支えられていた。決してただの空想だったとは思えない。

しかし、今のテンはその袋を被って見るつもりはない。この汚い袋には少なくとも弱くて純粋な頃の大切な大切な思いがこもっている。

今、こんなに満たされ良識的になったテンが侵してはならない神聖な場所のような気がするからだ。

テンはその汚れた袋を丁寧に小さく畳むと、白い真新しい大きなハンカチに包んだ。

そしてそれを大切な物を仕舞う箱に入れた。

それから思い出したように便箋を取り出して、何かさらさらと手紙を書いた。

それを封筒に入れてハンカチの包みの中に入れようとしてもう一度読み直した。

そこには、

 弱くて心細かった幼い私を

 励まし慰め勇気づけてくれて

 ありがとう

 本当にありがとう

 あなた達の事は忘れません

 暫らくは会えませんが

 いつかまた、必ず会いましょう

 きっと会いましょう

                   テン

と書いてあった。

読み返してテンは満足したように頷くと、

それを封筒に入れ、白いハンカチの包みの中に入れた。

そしてそれを木箱の中にそっとしまって蓋をした。

二階の本棚の書物とも暫らくはお別れだ。

だが、五助爺がいつもここにいて守ってくれるからテンは安心してどこにでも行ける。

ここを離れる日も近い。

最後になったが、弁護士との話し合いで、吉本のダンナの数々の不正が明らかになった。

テンの為に送られた毎月の送金をそのまま女に使っていたのだ。

店を持たせた上、毎日のように通ってその金を使っていたのだ。

弁護士は容赦しないで吉本のダンナを木材の会社の経営からも解任し、五助爺を押し込めておいた遠くの山の中の管理に移動させた。

それが嫌なら辞めて貰ってもいいと言ったら、渋々移って行ったらしい。

そしてこれからは、吉本のダンナが取り仕切っていた今までの一切の仕事を、監督が新しい社長となって引き継ぐ事になった。

テンの代理として会社を経営する事になったのだ。

吉本一家が出て行った後、母屋は全て掃除され内装もされてテンの元に戻ったが、テンは寮に入るので留守番と管理を兼ねて、監督と五助爺が住む事になった。

下女も今までの下女が働いてくれると言う。

「事後承諾の形になったが、これでいいですか。」と

全ての話をまとめてくれたのは何と、あの校長だった。

校長が五助爺や監督や下女の話を聞き弁護士と話し合って、テンの気持ちを第一に考えて決めてくれたのだった。

もちろん、テンに不満等一つもなかった。


まだ年輪のいかないしかも高校受験を控えたテンに決めさせるにはあまりに重い数々の問題を、速やかにトントンとうまい具合にまとめてくれたのはさすがだと監督が後で感心していた。

校長はやはり大した人だったのだ。

お陰でテンは余計な精神的負担を覚えずに今は高校の勉強に専念出来ている。


「何か困った事があったら、私が君の保証人だからネ。」

校長はそう言った後、あの、最初に出会った時のように顔ではなく目でニヤリと笑った。



テンは今、高校の寮の部屋で勉強に疲れて一息入れながらそれまでの事を思い出している。




テンはその後どうなっただろうか?

テンは合格した高校でも方々から集まって来ている優秀な生徒達と毎日切磋琢磨しながら勉強し、その三年後、見事帝大に合格した。

何と五衛門も同じく合格したのだ。

テンと五衛門を知るその土地では二人は一躍有名になった。

これは一心に努力するとおのずと結果はついて来るという事の証明をしたようなものだ。

テンは父親の友人だという弁護士とはその後、度々会ったり連絡を取ったりした。

テンはいろいろ考えたが、父親の希望だったという物書きを目指す為、大学は文学部に進んだ。本が好きだったこともある。

大学を卒業間近に控えた時、自分を本当に心配してくれる叔父さんのようなその人はテンを眩しそうに見て、

「それにしても若い時の倫親君によく似て来たネー。」と言って、持って来た写真を見せてくれた。

それにはテンがあんなにも会いたかった父と母が写っていた。

二人共、若くて幸せそうな笑顔をしていた。

テンは一目見て思い出した。

お父さんのこの笑顔、お母さんのこの笑顔を覚えている。ちゃんと覚えている。

自分に話し掛けたあの様子。あの優しい、テンに話し掛ける眼差しさえ蘇って来る。

もう一枚の写真にはお爺さんの顔も、お祖母さんの顔も写っていた。

お爺さんはどこか袋のお爺さんに似ていた。ニコニコ顔のお祖母さんはどこか猫と一緒の袋のお婆さんに似ていた。

そしてそれと同時に写真には写っていないおきよの事も思い出した。

袋の中のお料理を作ってくれた、あのおばさんに似ている人だったような気がする。

少し太めで僕はおきよに抱っこされると、大きくてフワフワしていて何だか安心出来たんだ。おきよは僕の好きな食べ物をよーく知っていたっけ。

その二枚の写真で何もかも急に思い出せそうな気持になったが、もちろん、それは気分だけだったが、そんな事を考えていると、

「君のお父さんはネ。僕と同じ法律を勉強していたんだが、本を読むのが好きでネ。物凄い読書家だったんだ。以前にも話した事があるが、本当はいつかは小説を書きたいと言っていたヨ。

生きていたら事業は誰かに任せて、今頃は本を書いていたかも知れないネ。君はその倫親君の夢を目指しているのかい?楽しみだナー。

それと君はお母さんの事何も知らないんだったナー。君のお母さんは女子大を出ているけれど、本当は画家になりたかったそうだヨ。

君のお母さんは御両親を早くに亡くされて、お祖父さんお祖母さんの元で育った人だからなかなか女だてらに画家になりたいとは言えなかったんだろう。

だから倫親君は彼女の気持ちを知っていて、子供が手がかからなくなったら彼女に好きな画の勉強をさせてやりたいと言っていたヨ。」

と話してくれた。

思いがけない両親の夢を聞いてテンは色々想像した。

その時急に、心の中の霧がスーッと晴れて、急に一筋の光がサーッと射したような気持ちになった。

袋のお爺さんが言っていたっけ。

「自分らしく悔いのないように生きなさい。」と。

テンは今こそかたくなだった心がやわらかく自由に羽ばたけるような気がしていた。


テンはその後大学を卒業して、外国に渡った。

だが父がしたように、外国の大学で勉強したのではなかった。

テンの心にはある一つの夢が芽生えていた。

卒業したらイタリアに行ってみよう。

神父様に会ってみよう。

十歳のテンが神父様に会って、あの時から勉強だけをたった一つの命綱のように、それだけを必死に夢中で努力して来た。

そして念願通り帝大に合格し、卒業しようとしていた。

そしてその時、テンは改めて考えていた。

自分のしたい事はなんだろう。一生かけて自分が好きな道は何だろうかともう一度考え直していた。

もちろん文学は好きだ。本を読む事が大好きで自分で短いものをいくつか書いた事がある。だけど、いつの間にか自分の中でもう一つの夢が膨らんでいた。

テンは大学を卒業してすぐにイタリアに渡った。そして、ようやく神父様に会えた。

神父様は少しも変っていなかった。

テンが知っている、テンがいつも思い出していたそのままの優しい慈しみに満ちた青い目でテンを迎えてくれた。

僕はこの人に助けられたのだとテンは思った。

この人の力添えで自分の人生は大きく変わったのだと思った。

テンは神父様にその後の事を話して聞かせた。そして、思い切って自分は絵を描きたいと。母親の夢でもあった道だ。その心も打ち明けた。

父親の友人の弁護士から話を聞いて以来、今まで心の中で育ってはいても実際には一歩も前に踏み出せないでいた。その道へどうしたら入って行けるのかは大きな勇気が必要だった。

だけどテンの話を聞くと、ある一人の老画家を紹介してくれた。また、その画家のアトリエの近くにアパートを見つけてくれた。画家は年老いた静かな人だった。

テンは一から始める事になった。今まで絵など殆ど描いた事のないテンだった。

まずその人のアトリエに毎日通い、邪魔にならないようにその人の描くのを見る事から始めた。静かな画家は毎日、淡々と描いていた。時にフラリと外に出た。

テンはその人の後をついて行った。そこは湖のある森だった。静かな画家はしばし湖の向こうの森を見つめていた。

それからデッサンもせずにいきなりキャンバスに描き始めた。

みるみるうちに景色が美しく、キャンバスに描き出されて行った。

テンはその何気なさそうな筆使いを驚いて見ていた。

画家はやがてふいに描くのをやめて自分のアトリエに帰って来た。

それからその絵をアトリエに立てかけたまま、数日そのままにして置いた。

その絵を眺めたまま何も手を入れようともしない。この絵はこれで仕上がったのだろうか?画家の様子を見ながらテンは考えていた。

それからまた、何日も画家はその絵を見つめては瞑想しているようだった。

それからまた何日かして画家は思いきったようにその絵に手を入れ始めた。

その絵の上から白の絵の具を一面に塗り、真白い元のようなキャンバスに戻すと、おもむろにその上からまた描き始めたのだった。

最初の絵とはなにもかも違うように見えながら、その森の印象を深くとらえた絵はグイグイと出来上がって行った。

淡い色使いの木々は深く濃い緑に変わって行った。

それはまさしくあの森の木々達が急に命を得てこっちに迫って来るような、重くて静かでどこか物悲しい絵だった。

最初の淡く明るい絵ではなかった。

テンはその時、その重くて静かな悲しくて淋しいこの森はこの人そのものなのだと思った。訳も解らずみていただけだが、テンは感動していた。

自分もこんな絵を描きたい。

その後、神父様を交えてテンと画家三人でお茶を飲みながら話をした事があった。

画家がテンに何かを言った。

神父様が中に入って通訳してくれた。

「自分の描きたいものを描きなさい。その中に自分の描きたいものを込めなさい。」

その老画家が、テンの為にそう言っていると神父さんは伝えてくれた。

それからテンは、画家のアトリエに通いながら自分でも思うままに絵を描いた。

最初は稚拙な出来上がりのその絵に、老画家は自分でサッサッと筆を入れて見せてくれる。

それによって絵が急に変わる事を見せてくれる。すると、自分が描いたものではないような出来上がりにテンは驚くばかりだった。

そのようにしながら、テンは来る日も来る日も絵を描いて過ごした。

ある日、監督からの手紙に五助爺が足腰が弱ったせいかしきりにテンに会いたがっていると書いて来た。


テンは神父様と老画家に感謝と別れを告げて、五助爺の元へ帰って来た。

五助爺は泣いて喜んでくれた。

監督はテンの留守の間も立派に会社を守っていてくれた。

そしてあの下女のおさとと世帯を持って子供もいた。

母屋の中は急に明るく賑やかになった。

テンは安心してまた絵を描き続けた。

何故かいつの間にか絵を描くのが自分の道だと思うようになっていた。

五衛門は建築の道を進み、その道ではかなり有望らしかった。

が、テンは世間での自分に対する評価等は全く気にせず絵を描いた。

テンは暫らくは五助爺の側を離れないで、家の周りや土蔵で絵を描き続けた。

五助爺はテンと一緒にいるのがいかにも幸せそうだった。

何と言っても生涯一人者の五助爺にとって実の孫のように可愛がっていたテンが、いつも側にいるのだから幸せだったろう。

そしてテンが帰って来て一年半程で、木が自然に枯れるように五助爺は満足してあの世に旅立って行った。幸せそうな最後だった。

五助爺を見送ると、テンは監督に後を任せて日本国中を旅して歩いて絵を描いた。

自分に意見したり、または待っていてくれる人もいなくなったテンは自由であったが、どこか心もとない淋しい気持ちだった。

だが絵を描いていると、幼くして別れた母親と繋がっているような気がした。

「母さん見てますか?僕は頑張って勉強して帝大まで行きましたが、結局。今はこうして絵を描いています。」

そう、亡き母に話し掛けながら絵を描いた。


テンの絵の色は青色が多かった。

海を描いても、山を描いても、森を描いても、道を描いても。

いつも何故か青い。どこかシーンとして見ているうちに悲しくなるような絵だ。

ある日、湖のほとりで向こう岸の森を描いていると通りがかりの人だろうか。

少し離れた所から自分の絵をじっと見ている人がいるのを感じて振り向くと若い女性だった。

テンは思わずその人と目が合った。とても美しい人だった。

まるで今、そこの森から抜け出て来た美しい動物のように不思議な感じの人だと思った。

テンは思わず写真で見た、亡き母親とその人と比較して似てはいないかと思ったりした。

その女性はニッコリ笑って、

「すみません。お邪魔でしたわネ。」と言って帰ろうとした。

テンは慌てて、

「いえ、丁度休憩しようとしていた所です。今、お茶を飲む所です。御一緒にどうですか?」と言った。

その女性は素直に近づいて来て、近くに腰を降ろした。

厚い熱い紅茶を飲みながら話をしているうちに、女性は名前を志乃と名乗った。

「えっ?志乃さん?僕の亡くなった母も詩乃というのです。」とテンは言いながら嬉しかった。

たまたま町から知り合いの家に遊びに来ていたというその志乃という女性は、それから暫らくしてテンの妻になった。


テンはそれからもずっと絵を描き続けた。やはり青みがかった絵が多かった。

妻の志乃が、テンの絵をこう言った事がある。

「見ているとシーンとした気持ちになって、更にその絵をじっと見ているとその絵の中に入って行って“あの頃”に戻りたいと言う気持ちになるという。“あの頃”とは少し淋しく少し悲しいけれど、人それぞれにとって堪らなく懐かしい“あの頃”なのだと言う。

テンは自分の絵を理解してくれる美しく優しい妻に見守られながらずっと死ぬまで絵を描き続け、人々に感動を与える多くの絵を残した。

その青い絵の中には、海の波間にも、森の木々の陰にも、その後ろには必ず見る人に“あの頃”を思い出させる何かがあった。

その絵はどれもシーンとして、やはりどこか淋しい絵だった。

だけどその淋しさが見る者の心を捉えて離さない。

「誰もが心に持つ悲しくて淋しくて、心細くて泣きたく不安になったその時に、そっと差しのべられた眼差しの優しさを思い出せそうな、何かが潜んでいる。」

そう言った人がいた。

だから、テンの絵は今もなお人々の心を惹きつけるのだろう。

淋しさの中に懐かしさとそして救いの手のようなものが潜んだ絵というのだろうか。

それ

は描き手のテンの生い立ちによるものかもしれない。

きっとテンは絵を描きながら、あの心細かった時に出会った人たちに会いに行っていたのかも知れない。

あの穴の開いた袋の世界の人達に…。



おわり



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昔話/テン やまの かなた @genno-tei70

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