第7話

試験の結果が出て張り出された後、教室の空気はいっぺんに変わった。

周りのテンを見る目がガラリと変わったのだ。今までは姿勢を正して授業を受けるテンをかっこつけてはいるが中身はろくに字も読めない奴なんだとせせら笑っていたのが、とんでもない秀才だと解ったのだから。それは驚くだろう。

だからと言って急に好意的になったのでもない。いつもわざと聞こえるように馬鹿にした陰口を言っていた者、またそれを聞いてニヤニヤしていた連中も信じられないものを見るような目でテンをチラチラ見るようになった。

もう昼休みにテンが教室を出て行く時、聞こえよがしに陰口をたたく者もいなくなった。

それでもテンは会い解らず教科書を持って教室を出て中庭へ向かう。

だけど五衛門は昨日も中庭に来なかったし、今日も来ないだろう。

今日来なければこれからも来ないだろう。どうせ最初から一人だったんだ。

何だか面白い奴だなと思ったけれど…。

テンは少しがっかりして握り飯を取り出して食べようとすると、後ろから大きな熊のようにノッソリ五衛門が現れた。

ムスッとした顔でテンの隣に座ると弁当を出して黙々と食べ始めた。

テンも何も言わなかった。

二人は黙って昼飯を食べ終わると、黙って教科書を開いた。

暫らくすると耐えかねたように、

「ちくしょう!!」と五衛門が唸った。

テンは分けが解らずに黙っていた。

「天子天水!お前、俺をだましたな!」

テンは五衛門の顔を見た。

「お前はこんなに勉強が出来るのを俺に隠して、俺が真剣に言った事を聞いて腹の中では笑っていたんだろう?見損なったヨ。」

五衛門は真っ赤な顔をしてテンを睨んでいる。


「僕は君を騙してなんかいないヨ。」

「じゃ、何故今まで自分がこんなに勉強が出来るのを隠して

いたんだ!俺は真剣にお前をライバルだと思っていたんだぞ!」

「僕は何も隠しちゃいない。僕は自分がどれだけ皆について行けるか解らなくて自信がなかったんだ。ついて行けないかも知れないって本当にそう思って不安な気持ちでいたんだ。だから、だからあの時君の話を聞いた時は嬉しかった。

そして僕も頑張ろうと思った。僕は嘘を言っていない。小学校にも一日も行った事がないし、君達が四年生になる頃、僕は字も読めなかったんだヨ。学校に行きたくても行けなかった。どうしようもなく不安だった。

僕の事を心配して話し掛けてくれる人は一人もいなかったし、まだ子供だった僕はどうしたらいいか解らなくて身動きがとれなかったんだ。

だけど、ひょんな事からある人と出会った。その人に迷惑がかかるからその人の名前は言えないけどネ。僕はそれまで工場の木屑拾いをして一日中、ただブラブラしている字も読めない本当の阿保だったんだヨ。だけどその人と知り合ってから、僕はお昼まで工場で木屑拾いをした後、そこを抜け出してその人の所に行くようになったんだ。

その人が一年生の教科書を見せてくれた。僕が十歳の時だった。僕は嬉しかった。

それから、ちゃんと“あいうえお”から始めたんだヨ。

その人はそれから二年生、三年生と教科書を見せてくれた。

その人も仕事があるからネ。いない時もあったけど、僕はその人の家へ行って一人でもそこで勉強してくるのが唯一の楽しみになったんだ。

だって普段は誰とも話さないし、帰って灯りのない土蔵の中に一人ぽっちだし、ご飯は朝と夕方に二回、下女がお膳を持って来て置いて行くけど下女も話をするのは禁じられているのだろう。僕はいつも一人ぽっちだった。

だから、小学校の校長が来て中学に行く意思があるかと確認してくれた時は夢のようだった。

いつかは学校へ行きたいと思って自分なりに勉強して来たけれど、自分の勉強がどれだけみんなの中で通用するか全く解らなかったし、本当に不安だった。これが本当だヨ。

あの試験の結果を見て、本当は自分でも驚いているんだ。一番驚いたのは僕だったんだ。

僕は必死だったんだ。必死で勉強したんだ。これが全部だ。

そしてこれからも僕は勉強する。僕には何もない。勉強する事しか今の僕には何もないからネ。」

テンは一気に喋った。

今まで我慢に我慢を重ねて押し込めて来た自分の気持ちを、今ここで掃き出したいという気持ちもあった。

五衛門はいい奴だ。テンの話す事を解ってくれるかも知れないと思ったから話せたのかも知れない。


暫らく二人は黙っていた。

やがて、「解ったヨ、テン。お前を信じるヨ。」と五衛門が言った。

「俺は正直、お前の成績を見て裏切られたと思った。お前の事を自分とどっこいどっこいか、もしかしたら俺よりも勉強が遅れている奴だと勝手に思い込んでいたからナ。

俺は家に帰って爺ちゃんにこの怒りをぶちまけた。

あんな奴は絶交だ!!って。あんな卑怯な奴だとは思わなかったって。あの時は本気でそう思った。

俺は頑張ったけど百番以内にも入っていなかった。俺は悔しかったし騙された気持ちだった。

だけどテン、今思い返してみれば全部俺一人の思い込みだったんだよナ。お前は一言も嘘をついちゃいない。

テン、お前は何も悪くないヨ。これからも俺ここで飯食っていいか?」と言った。

テンは、「うん。」とだけ言った。だが嬉しかった。

もう昼休みが終わる頃だ。

立ち上がって帰る時、五衛門が、

「俺、爺ちゃんに言われたんだ。お前、相手の言い分も聞かずに絶交してもいいのかってネ。やっぱり爺ちゃんは偉いヨ。俺、今日、思い切ってお前の言い分を聞いて良かったヨ。俺もテンに負けずに勉強してみるヨ。何て言ったって俺達はライバルだからナ。

テン、俺の解らない所、教えてくれるか?次の試験では必ず真中より上の方へ行ってやるぞ。今思いついたんだ!

佐竹五衛は次は必ず真中より上に上ってみせるぞ!人前では笑われるから言えないが、テン、お前の前で俺は宣言した。お互い頑張ろうな。

テン、お前は次も一番を取ると俺に宣言しろ!」

「そんな事解らないヨ。」とテンが言うと、

「駄目だ。何か宣言しろ!」

テンは仕方なく。「今まで以上に勉強する事を宣言します!」と五衛門に向かって言った。

「まあ、それでいいか。」

二人は誓い合って午後の授業に出る為、教室に向かった。


テンは何だか嬉しかった。

これが友達というものかも知れない。

自分にはとうとう友達が出来た。

学校の成績が良かったのよりも五衛門に本当の言いたい事を言ってわだかまりが溶けた事の方がずっとずっと嬉しかった。

これからの学校生活が明るく見えて来たような気がする。

間もなく学校は夏休みに入ろうとしていた。

五衛門は夏休みはどうすると聞いて来た。

テンはどこも行く所がないから学校か、それとも本の沢山ある所で勉強しようと思うと言った。

あの土蔵の二階に上がって本を読んでみたいとふと考えたが、まだそれはやめた方がいいという考えがよぎった。

五衛門は俺も一緒に勉強すると言い出した。二人は結局、図書館が割に近くにあるのでそこで勉強する事に決めた。

テンは初めて図書館という所に入った。

どこもかしこもびっしりと本だらけで、テンにとっては夢のようだった。

五衛門は小学校の時、一度来た事があると言ってぐるりと中を見た後、二人がゆっくり勉強できる場所を探して歩いた。

中をうろうろ歩いていると、メガネをかけた白髪交じりのおじさんが、

「君達中学生?」と声を掛けて来た。

テンが、「はい、中学一年生です。ここで勉強して構いませんか?」と聞くと、

二人をしげしげと見て笑いながら、

「感心だナー、夏休みに入ったばかりなのに。」と言ってから、

「こっちにおいで。良い所があるヨ。」と二人を裏口の細い通路を通った狭い場所に連れて行ってくれた。

「図書館の中はどこで勉強してもいいんだけれどネ。いろんな人が来るから落ち着かないだろ?ここは職員がたまーに休憩する時に使っている場所だ。と言ってもここで休憩するのは私くらいのものだから。この特別な場所をこの夏休みの間だけ特別に提供するヨ。

その代わり、ふざけたり騒いだりしたらその時はすぐに出て行って貰うからネ。」と言った。

「はい、ありがとうございます。」

二人は落ち着いて勉強出来る場所を得たのだ。

それからの毎日、図書館が休みでない日は五衛門と待ち合わせて図書館で勉強した。

五衛門は主に期末試験で返された答案用紙を持って来て、その解らない所をテンに聞く形になった。

テンは五衛門に勉強を教える為に図書館に通っているようなものだったが、それでも楽しかった。

五衛門もそれを充分に解っていて、簡単な昼飯を二人分持って来るのだった。

二人は昼をはさんでみっちり勉強した。

五衛門の家はテンの土蔵よりもかなり図書館に近いため、テンは自分の勉強道具を五衛門に預かって貰って行き帰りは走る事にした。

走るのは気持ちが良かった。

夕方にはまだ間があるので少し遠回りになるが暫らくぶりに神父様に会いたくなった。

教会へ行ってみよう!テンは教会を目指して走った。

どこかの誰かに会う為に走るというのは何てワクワクする気持ちだろう。

学校へ行く時、または学校から土蔵への帰り道とはまた違った気持ちで、自然嬉しさが込み上げて来る。中学生にもなってこれではいけないと時々顔を引き締めた。

神父様には話したい事が山程あった。

中学校生活、試験の成績の事、友達になった五衛門の事、今は毎日図書館に行って勉強している事、全部聞いて貰いたい。

喜び勇んで走って行ったテンだったが、教会の扉は珍しく閉じていて人の気配がなく、裏口にまわってみるとやはり、

「所用の為、一週間程留守にします。」と張り紙がしてあった。

テンはがっかりした。

神父様のあの穏やかな笑顔が遠くへ行ってしまったような淋しさを感じた。

でも一週間したらまた会える。またここに来ればいい。

気持ちを持ち直してテンはまた走って自分の土蔵に帰って行った。


森を抜けて走って来た。

そうだ監督の顔を見て帰ろうと思い立って工場の方へ行こうとすると、何か人の怒鳴る声が聞こえた。


「何やってんだお前ら!まだ用意が出来ていないってどういう事だ!」


その声は吉本のダンナの声だった。

あんなに声を荒げて何があったのかとテンは人に見られないように聞き耳を立てた。

すると、「ダンナ、今日は一人、子供の具合が悪くて休んでまして。」という監督の声がする。

「何が子供の具合が悪いくらいで休むんだ!」

「へー、今日は遅くなっても明日の朝までには必ず用意出来ますので勘弁して下さい。」

そう言っているのはやはり監督の声だ。

「みんな、いいナ?」

「ヘイ。」

みんなが仕事にとりかかっても吉本のダンナは面白くなさそうに尚も文句をグチグチ言っていた。

「明日の朝まで間に合わせるって言ってるのだからいいじゃないか。」

テンの胸には初めてはっきりと怒りのようなものが湧いて来た。

吉本のダンナの姿が見えなくなると、テンは今来たばかりのような様子をして監督の所に行った。

「何か手伝う事はありませんか?僕、夏休みに入って時間をもて余しているんです。何か手伝わせて下さい。」

監督はテンを見て、「ヨーッ。」と言ったきり何も言わないが、

他の人達は急に顔を輝かせて、「オー、テン。」とか「あのテンか。」とか、「すっかり変わったナ。」とか、「見違えたじゃないか。」とか。

「急に背が伸びて誰かと思ったヨ。」等と口々に声を掛けてくれた。

誰かが、「夏休みだって?それはちょうど良かった。俺達、今日は夜通し働かなければならないんだ。政の野郎の子供がこの前から調子が悪いんだ。ただの風邪じゃないらしくて。念の為、今日は休みをとって大きな病院へ行ってるんだ。」

「それをダンナはプリプリ怒って、怒る程の事でもないのに怒鳴りやがって。」

「間に合わせると言ってるのにヨー。この頃、いつも不機嫌なんだ。」

「俺、その原因知ってるぞ。息子の試験の成績が悪かったんだろ?」

「ああ、きっとそうだ。家庭教師までつけて一生懸命だったものナ。頭の悪そうなガキに家庭教師をつけてもナ。」

「オイ、そのぐらいでやめておけ。」

監督が言うと皆は黙った。

「テン、ありがとうヨ。じゃ手伝ってもらおうか。今日は本当に手伝ってもらうと助かるヨ。さあ、皆、頑張ろう!」

「オー!!」

テンは一生懸命に働いた。今までの恩返しだと思った。

周りの人達もあのテンが大人に混じって一人前に働くのを驚いて口々に誉めた。

テンは自分でも他の大人のように力仕事が出来るのが嬉しかった。

勉強して新しい事を覚えるのも楽しいが、こうして体を動かすのも楽しいと思った。

大人達は口々にテンを誉めた。

「大人になったナ。」とか、「もう一人前だナ。」と誉めた。

それが嬉しくて飛び跳ねるように張り切って働いた。

テンばかりか皆が心を一つにして意欲的に働いたので夕方には予定の仕事がすっかり片付いた。皆は早く帰れると喜んでいる。

「これもテンが手伝ってくれたお陰だ。」

皆は口々にテンの働きをねぎらった。

監督も、「テン、もういいぞ。帰れ。今日は頑張り過ぎだ。明日はきっと体が痛いぞ。ご苦労さん。」と言って、奥へ行って何か紙包みを持って来てテンの手に渡した。

テンは「ありがとうございます。」と素直に受け取って帰った。

土蔵に帰って包みを開くと、うまそうな大福が五つ入っていた。

監督が自分達で食べようと用意していたものらしかった。

テンはその一つを食べてみた。大福を食べるのは久しぶりだ。甘くて美味しい。

五助爺と一緒に美味しいネ、美味しいネと食べた事が思い出された。

五助爺は今どこでどうしているのだろう。

思い出していると、コトリと音がした。

戸を開けると下女が帰って行く所だった。

テンは急いで立ち上がると、「あっ、ちょっと待って下さい。」

テンは大福の一つを急いで紙に包むと走って行って、「これ知り合いから貰ったんです。一つですがどうぞ。」と言って渡した。

そして、「いつも、ありがとうございます。」と言って帰って来た。

下女は驚いたようにしていたが、素直にそれを受け取ると帰って行った。


次の日。テンは残った三個の大福を腰に巻いて図書館への道のりを走って行った。

いつも走るのは爽快でいい気分だが、今は腰に巻いた大福を五衛門と図書館のおじさんにあげる事を考えると一層楽しみな気分になって来る。

しかも、この大福はテンが汗水流して手伝いをし、そのお礼に貰ったものだ。

いわばテンが生まれて初めて稼いで手に入れたものなのだ。

今まではいつも人にして貰ったり、御馳走になってばかりのテンだった。

卑屈な気持ちになっていた訳ではないが、感謝の気持ちをお返し出来るというのは初めての事だ。とても楽しい。

これからも自分の力を使って少しでも人の役に立ちたいと思う。

そうしたらいつか巡り巡って自分に返って来る。

そう言ったのは五助爺だったろうか。

残りの大福は、図書館のあの秘密の部屋で五衛門とおじさんと三人で食べた。

おじさんが、本当は見つけたら注意する立場なのにと言いながら一緒に食べてくれた。

その時の大福の味をテンは一生忘れないだろう。

ちょっとした秘密の冒険をしたようでワクワクした一日だった。


あれから教会に何度か行ってみたが、神父様は留守だった。

代わりに若い日本人の神父様がいて、まだ暫らく帰って来られないかも知れないと話した。テンはしょんぼり帰って来た。

そうこうしているうちに夏休みは終わり、二学期が始まった。


もうテンと五衛門は立派な親友だ。

相変わらずテンは制服と教科書を用務員のおじさんに預けて走って学校へ行き、走って帰った。

朝、テンがおじさんの控え室で着替えて勉強していると五衛門が迎えに来る。

それからは二人は何をするにも一緒だ。

大きな体の五衛門がまるで弁慶のようにいつも側で睨みをきかせているし、テンは何といっても一年生では学年一の成績だからいつの間にか周りも一目置くようになって来た。

しかし、テンの行動は最初と少しも変わらない。

昼には教科書を持って中庭に行く。五衛門も後から来て隣で昼飯を食べた後、二人共勉強した。帰りはテンは教科書を置いて帰るので、土蔵に着く時間を逆算してギリギリまで勉強して、おじさんの所で着替えると走って帰った。

五衛門と誓い合ったのだ。

五衛門も頑張っているようだったが、テンも気を抜いたりしたら皆に追い越され、更に追い抜かれるようで不安になった。

土蔵に帰って夕飯を食べ終わると、少し仮眠をとって一・二時間眠ったら目を覚まして袋の世界に行くようにした。

夏休みの間は、子供達のいる遊びの部屋、猫達のいるお祖母さんの部屋、美味しい料理を作ってくれるおばさんの部屋、一緒に汗を流すお兄さんの部屋と順繰りに回った。

どの部屋もテンを笑顔で歓迎してくれて、テンはそのお陰で夏休み中も慰められ、励まされ、淋しさを感じる事もなく過ごす事が出来たと思う。

しかし、二学期の授業が始まったら勉強に重きを置いて頑張らねばならない。

皆、誰もが次こそはという意気込みで頑張るだろう。

テンがいつまでもトップの座にいられる訳ではない。そう思うと、なまじ最初に良い成績だっただけにプレッシャーがかかる。

頑張らなけりゃという気持ちが強くなる。

お爺さんの部屋で勉強する事はテンにはどうしても必要な事だsった。

それなのにやっぱり途中で目が覚めないで、朝まで寝てしまう事が何度かあった。

本当は夕飯を食べた後、眠くならないうちに袋の世界に行きたいのだが、本当に暗くなって誰もいないのを確認しなければ危険のような気がするのだ。

時々、誰かに見られているようなきがするからだ。

気のせいかも知れない。

だが仮眠しようと目を閉じてまだ眠りに入らずに居る時、かすかな足音がする時があるのだ。

内からはしんばり棒をかって泥棒が入らないようにはしているし。

例え入っても盗られる物も無いのだが、始終誰かに見られているような気がするのだ。

ぐっすり眠って朝方になって目を覚ました時、慌てて袋を被るとお爺さんは相変わらず机に向かって難しい本を読んでいた。

「うっかり寝過ごして朝になってしまいました。」とテンが言うと、

「そのようだネ。疲れているんだろう。テン、勉強はどんなに少ない時間でも出来るものなんだヨ。疲れている時はぐっすり眠りなさい。お前の体は頑張り過ぎて疲れているのだ。あんまり無理をする事はないヨ。頑張れば頑張る程、頭に入るというものでもないからネ。それに学校の成績の為だけに勉強するのであれば勉強はだんだん苦痛になって来るだろう。頑張る事はいい事だが、それが過ぎるのは考えものだヨ。

学校で勉強して来たら夜はぐっすり眠る事。そしてたまたま疲れがとれて私の部屋に来たくなったらくればいい。それが集中力につながるからネ。

私はいつでもこの部屋にいるヨ。この部屋はテンの為の部屋だ。

テン、お前は充分に勉強の仕方を身に付けた。自分の頭で工夫して勉強時間を作り出す事も出来る。

いいかい?テン。体を壊す程勉強する必要はないんだヨ。

そろそろ時間だよ、お帰り。」

お爺さんに言われて袋の世界から出ると、もうすっかり辺りは明るくなって、そろそろ下女が朝食を持ってくる時間だった。

テンは表に出て先に顔を洗い、すぐに出掛けられるように準備して待っていた。

そして下女が持って来た朝食を食べ、握り飯を作るとすぐに土蔵を出て学校に向かった。

まだ誰も学校に向かう者のいない時間。

テンは一人、いつもより早く学校までの道を走った。お爺さんの言葉は最近、何か以前と違うような気がする。

冷たいのとは違うが、テンを大人扱いしているのかどこか突き放すようなそんな言い方をする。オーヨシヨシよく来たというような感じではなくなったような気がする。

どの部屋でも同じような気がする。

何故だろう?テンは考えながら学校へ向かった。

お祖母さんも猫達も同じようにテンを迎えてくれる。メー、ツルルルルー、ニャオ~ン。

だけど何かが違う。

おばさんは行くと必ず旨い物を作って食べさせてくれる。

だけどやっぱり何かが違う。

子供達の遊び場はもう子供じみて見える。お兄さんは相変わらず体を鍛えている。テンは僕も朝と夕方走っているんですヨと話すと、

そうだってナ。どうだ体を使っていると気持ちがいいだろうと言ってくれたが、前のような感動は湧いて来ない。

そう思うとお兄さんに申し訳ない気持ちになった。

そう思いながらも、お爺さんの部屋だけは灯のないテンにとって、真夜中でも勉強出来る有難い部屋だったが、それでもお爺さんの言葉には突き放すような響きを感じるのはどうしてだろう?

そう考えているうちに学校についた。

用務員のおじさんの所に行くと、おじさんは朝ご飯を食べ終わったばかりでのんびりお茶を飲んでいた。

いつもよりあまりに早いのでびっくりしている。

「おじさん、早くにお邪魔してすみません。ここで勉強していいですか。」と聞いた。

「いいヨ、いいヨ。教科書をここに置いて行ってるのだから家では勉強出来ないだろう?」

「すみません、土蔵の中で灯もありませんから。」と言うと、事情を聞いて知っているのだろう。

「ここで良かったら気にしないで勉強しなさい。それでもあんな成績がとれるんだ。テンが将来、偉い人になった時、朝よくおじさんの所で勉強していたっけと自慢に思う日が来るかもしれないヨ。まあ、頑張るんだヨ。」

おじさんは生徒が出て来る前にいろいろと仕事があるのだろう。出て行った。

テンは、それから五衛門が迎えに来るまでの時間、集中して勉強する事が出来た。

昨夜、ぐっすり眠って頭の中がすっきりしてるので不思議に勉強がはかどった。

もう次に成績が下がるのではないか等と余計な事を考える事はやめた。


テンは二学期末の試験でもやはり堂々の一位の成績を修めた。

驚いたのは五衛門が五十位までの廊下の貼りだした中に入っていたという事だった。

五衛門は総合で四十五位だった。本人にとっても信じられない事だったろう。

大興奮であたりかまわず「ヤッター、ヤッター。」と叫んでいた。

吉本のダンナの息子は五十位には入っていなかった。

テンは人の事など気にしなかったが、五衛門が、

「吉本の奴、あんなに威張ってテンの事を馬鹿にしていた癖に、俺の事だって頭が悪いって散々笑っていたんだぞ。それなのに今度は俺よりも下だ。五十位にも入ってないんだぞ。ザマーみろ。」

等と興奮していた。

テンは五衛門の声を聞きながら、あの盗み見するような息子の目や、それによく似た父親の顔を思い出し、何だか嫌な不安な気持ちになった。

あの親子がこのままおとなしくしているだろうか?こう考えるのは考え過ぎだろうか?

気を付けよう。

試験の結果が出てあと少しで冬休みに入ろうとしていた。

気をつけようと思ってもテンはただテンらしく生きる他ない。


余計な事を考えるのはよそうと思っていた矢先、土蔵の横に五助爺が作ってあった簡単な風呂場がボヤを出した。

中学に入ってからテンは自分で川の水を汲んで来て五衛門風呂に入れておいて、火は使わないが少しでもぬるまった水で体を洗っていたのだ。テンは一度も火は使っていない。

全く火の気のない所にボヤが出たのだ。


それは夜、テンが寝付いてそんなに経っていない時刻だった。

何だか煙たい臭いがするので目を覚ましたら、土蔵の窓から煙が入ってきている。

テンは驚いて跳ね起きると外に出た。

風呂場の焚きつけの近くが燃えている。

まるで火の始末が悪くて火が燃え移ったように見せかけたのだ。

放火だ!そう気が付くと、テンは急いで自分の服を脱いで夢中で火を消した。

まだ火がそんなに燃え広がる前だったので、溜めて置いた水をかけて完全に火を消す事が出来た。だが火を消して一安心すると急に恐ろしさがやって来た。

このままこの土蔵に火が移っていたらどうなっていただろう。

そう考えると恐ろしくて震えが後から後からやって来た。

テンは火という火は一切使っていなかった。

これは付け火だ!

誰だ!誰がこんなことをしたんだ!

まさか吉本のダンナが?

恐ろしさが津波のように押し寄せてテンに覆いかぶさって来た。

もしも大火事になった時、テンの風呂の火の不始末にするつもりだったのだろう。

きっとそうに違いない。

そうなったらテンが何を言ったって信じてもらえない。火の始末も出来ないとんでもない奴という事にされてしまうだろう。

あのまま知らずに眠っていたら火は燃え広がって二階の大切な書物もみんな燃えてしまっただろう。あの大事な父親の書物が灰になった事を考えたり、テンはいろいろ考えて朝まで眠る事が出来なかった。

それに、今日は消す事が出来たけれど、又誰かが火をつけに来るかも知れない。

それは誰だ!

もしも吉本のダンナだったならテンはまだ中学一年であまりにも無力だった。

きっと自分を追い出そうと計画を練ってやったのかも知れない。

この土蔵にさえ住めなくなったらどこへ行けばいいのだろう。

犯人は今度はもっと用心深く、テンが熟睡している時を狙って来るかも知れない。

もしも土蔵に火が移ったら、燃える所まで行かなくても火を消す為水がかけられて多勢の人が出入りして、あの大事な二階の秘密の部屋は皆に知られてしまうだろう。

そして、テンが学校へ行って留守の間にみんな持って行かれてしまうのだ。

テンは眠れずにあれこれ考え過ごした。

誰かに相談したい。

いろんな人が頭に浮かんだが、こんな事を相談出来る人はいない。

神父様もまだ帰って来ていない。

山田先生には迷惑はかけられない。

五衛門は自分と同じまだ中学一年生だ。どうしたらいいだろう。

とうとう朝になってしまった。

外に出て火の出た所を見ると、明らかに焦げた場所ははっきりと目立つ。

これでは誰かに追及されても言い逃れは出来ない。どうしよう。

すると下女が朝飯を運んで来た。

すぐに焦げ臭い臭いに気付いて外に立っているテンを見た。


テンは思い切って本当の事を言った。

「信じて貰えないかも知れないけど、僕、この風呂場で火を使った事がないんだ。火をつける道具もないし、だけど昨日の夜、僕が寝てから誰かがここに火をつけたんだ。

僕が目覚めなかったらどうなっていただろう。僕の事、そんなに憎んでいる人がいるんだネ。」

下女は黙っていた。

「この事が知れたら、きっと僕の火の不始末という事になるだろう。だけど僕は誓って火を使った事がないんだヨ。」

下女は何も言わずに黙って頷いた。そして帰って行った。

もしも吉本のダンナがそれを知ったら、すぐにここにやって来て大騒ぎになっただろう。

だけど下女は何も言わなかったのだ。

何も見ない事にしたのだ。

テンはまた暫らく考えた後、立ち上がって工場の方へ歩いて行った。

こんなに早い時間だ。まだ誰も来ていないだろう。

そう思いながらも一人じっとしてはいられなかったのだ。

だが運良く工場には監督が来ていた。

まだ他の人達の姿は見えない。

テンは走って行った。

「監督、話だけ聞いて下さい。ただ聞いてもらえるだけでいいんです。僕の住んでいる土蔵の脇の風呂場に昨夜、誰かが火をつけました。

僕が寝て間もない時で、僕は必死に火を消しました。でも焦げ跡を見たら誰もが僕の火の不始末だと思うでしょう。だけど監督。誓って僕は風呂を沸かした事がありません。火をつける道具も持っていません。本当にあの風呂場で火を使った事がないんです。

でもあれを見たら吉本のダンナは騒ぎ出すでしょう。

今の僕にあの場所を取り上げられたら僕はこれからどうすればいいんです。

焦げ跡はいずれダンナの目につくでしょう。誰かが僕を陥れようとしているとしか思えません。どうしたらいいんでしょう。」

話しているうちに涙が次から次へと溢れて来てどうしようもなくなった。

テンは喉が詰まってこれ以上話す事が出来なかった。

監督は黙って聞いた後、

「テン、心配するナ。俺に任せておけ。冬休みに入ったのか?

そうかまだか。お前はいつもの通り学校に行って来い。いいか変にしょげた顔をするナ。胸を張って堂々としていろ。

さあ、行け。お前は何も気が付かなかった。いいナ。

テンお前、朝飯食ったか?」

テンは首を横に振った。

「下女がお膳を持って来たけど、食べる気になれません。」

監督はテンの疲れ切った顔をもう一度じっと見て、工場の中から自分の弁当を持って来て、テンの手に無理矢理持たせようとした。

「監督、僕いつもの朝飯で握り飯を作って持って行ってるから大丈夫です。

それにまだ食べたくないんです。

監督、話を聞いてくれてありがとう。学校に行って来ます。」

今日は学校にもどこにも行く気持ちにもなれなかった。

土蔵を離れる事が心配だったからだ。

けれど監督の言う通りにしようと思い直し、いつものように握り飯を作って学校に向かった。

もしも用務員のおじさんがいたら、おじさんに話しを聞いてもらいたかった。

走りながら、この先の事が不安だった。

走る度に息が白い。

もしもこんな寒い時期にあの土蔵を出る事になったら、どこへ行けばいいんだろう。

もしもこの事が

ダンナに知られずに済んだとしてもまた、火をつけられるかも知れない。

テンは学校に行き、おじさんの所で着替えていつものように勉強をしようとしたが、すぐに昨夜の事が思い出されて少しも勉強は頭の中に入らなかった。

その日はおじさんも忙しくしているので話す事が出来なかった。

それにテンが一言言った事で、大事になりはしないかと思うとうっかりした事は言えないと思った。

やがて五衛門が迎えに来るといつものように教室へ一緒に入っていった。

誰かが自分の顔色をうかがっているような気がするのは考え過ぎだろうか?

監督は、

「いつものように何もなかったように平然としているんだぞ。」と言った。

テンはその言葉を思い出して背筋をピンと伸ばして授業を受けた。

昼はいつものように中庭へ行った。

急いで作って来た握り飯も喉を通りそうにない。

五衛門はいつもと違うテンを見て、

「どうした?」と聞いて来た。

思わず昨夜の事を話してしまいたい衝動にかられたが、テンは何でもないと言って無理に握り飯をかじり喉に流し込んだ。

もしも、五衛門がこの事を知ったら正義感の強い彼は顔に出してすぐにも犯人は誰かと探しにかかるだろう。

あいつじゃないか、こいつじゃないかとこのクラスの者を一人一人疑いの目で見るだろう。

テンの心にはもしかしたらという者の顔が何人か浮かんで来たが、まさかとも思う。

そんな事までするものだろうか?

そして思わず疑ってしまった自分の心が嫌だった。

もしも自分が何もしないのに疑われたらどんな気持ちがするだろうと思った。

あんな事をするのは自分の見知らぬ人間であって欲しい。

自分の身近に自分をそんなにまでして憎む人間がいるとは考えたくはなかった。

何故なら自分は人にひどい事をした事は無いし、人の不幸を願った事もない。

そういう悪心を持ってはいけないと誰かがテンに教えているような気がするからだ。

とにかく憎んだり憎まれたりするのは嫌だ。

嫌だ!嫌だ!嫌だ!

テンは結局、五衛門にもおじさんにも何も言わなかった。

五衛門が、「テン、お前勉強勘張り過ぎて疲れが出て来たんじゃないか?」と気遣った。

テンは曖昧に笑っておいた。

五衛門はこの頃調子がいい。

成績が急に良くなってから自信がついたのだろうか。目も生き生きとして毎日が楽しいようだ。

テンはいつものように出来るだけ明るく振る舞いながらも、心の中はあの焼け跡の事ばかり考えていた。

あの焦げ跡はどうなったろうか。

まさか吉本のダンナに見つかって大騒ぎになっているのではないかとその事ばかり考えて学校が終わるとすぐに帰って来た。

そして帰ると真っすぐ風呂場を見に行った。

何とあの焦げ跡がきれいに治っていた。

焦げた分の板四枚を同じような古い板で張り直されて、ちょっと見た目には何もなかったように見える。

監督が直してくれたんだ!

テンはホッとすると嬉しくて監督の所へ走って行った。

だが今日は珍しく仕事を早仕舞いしたのか、工場には人影がなかった。

テンは土蔵の中に帰っても落ち着かず仮眠をとる気にもならずにいた。

このまま元の安心した頃のような毎日に戻れるだろうかと思うと心細かった。

入学してから今まで嫌な事はあったけれど、順調に来たと思う。

テンは自分が中学で十分にやって行ける成績だと解り安心した。

五衛門という友達も出来た。

用務員のおじさんと仲良くなり、そこに荷物を預かって行き帰り走る事が出来るようになった。

考えてみれば靴箱に汚物を投げ込まれた他は、かえって良い事だらけだった。

あんまり良い事ばかりだったから、そんなに世の中甘くないと誰かが意地悪しているのだろうか?

ボーッとしていると下女がお膳を運んで来たようだ。

テンは扉を開けて、「ありがとう。」と言った。

下女は風呂場の方をチラッと見て、それからテンを見てニッコリ笑った。

そして帰って行った。

下女が笑ったのを始めて見たような気がした。

きっと焦げ跡が元通りになって良かったネと言いたかったのだろう。

テンは下女のその笑顔だけで少し救われたような気がした。

夕飯を食べてからも少しも眠る気にはならなかった。

昨夜のあの火事騒ぎがあってから殆ど寝ていなかった。

テンがうっかり眠ったらまた、誰かが火をつけに来るかも知れないと思うと眠って等いられない。

だけど冬の日は短い。外はすぐに暗くなって来た。

灯りのない暗い土蔵の中で、それでもテンは眠るまいと頑張っていたが、ずっと寝ていないせいか、ふっと気が遠くなるように眠気が襲って来る。

その度にあちこち手や足をつねって睡魔と戦った。

だけどテンはいつの間にか眠ってしまっていた。

外で誰か怒鳴る声がした。

テンはビクッとして目が覚めた。

外は真っ暗だ。

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