第6話

その希望は思いがけない事件から叶えられる事になった。

入学して一ヶ月もすると、新入生で緊張していた者もその生活に慣れて来ると、一種の退屈を感じて自分以外の人間に、それも珍しい目立つ人間に興味を持つもののようだ。

そのうってつけの相手はやはりテンだった。

学校に来るといつも背筋をピンと伸ばして真っすぐ前を向いて授業を受けている姿は人目をひいた。

けれどテンが小学校に一日も行った事がなく、父親も母親も身内が一人もいない天涯孤独の身の上だという事はもう誰もが知っていた。

見た目が清潔で優秀そうに見えるだけにかえって癪にさわるのか。人の心の中には元々毒があるものなのか。陰口は次第に陰惨なものになっていった。

やがて聞こえよがしに、

「ああ気どっているけれど、頭の中は空っぽなんだヨ。いったい字が読めるのかい

?小学校に一日も行かないでブラブラほっつき歩いてばかりいたというんだからネ。」

「もちろん勉強は何も解っちゃいないだろ?」

「吉本のおじさんが面倒みてるんだろ。本当は浮浪児なんだってサ。」

「暗い汚い土蔵の中で一人で暮らしているんだってサ。」

「よくも中学に入れたナー。」

「大体、中学の授業解って聞いているのかネー。きっと何もかもチンプンカンプンじゃないの?それをさも解っているようなフリをして。」

「きっとそうだヨ。ただの見せかけだけだヨ。」

「昼だってサ。弁当作ってくれる人がいないから弁当なしなんだって。哀れだナー。」

「お昼はさぞおナカを空かせてどこかで泣いているんじゃないの?」

「いつもお昼の時間になると教室を出て行くよネ。」

「そりゃそうだ。みんなが弁当食べてる時、一人だけ指くわえて見てるなんて耐えられないでしょう。」

「どうぞ皆様、おめぐみをって言う訳にも行かないだろうし。」

「アハハハ、アハハハ。」

一人が何か言い出すと他の者達まで調子にのって口々にはやし立てる。

人の心の中には“悪意の芽”がいつでも吹き出す準備をして待っているものなのだろうか。

その悪意が言葉だけでは飽き足らず、更にいたずらの形で現れる。

それは誰かが止めなければ際限もなく増長して行くものだ。

テンは自分に対する陰口には気が付いていた。この頃ではわざと聞こえるように話す事が多くなって来た。

しかし、テンは怒ったりはしなかった。

小学校に一日も行った事がないのも事実だし、親兄弟のいない一人ぽっちの身の上だという事も本当だ。自分の為に弁当を作ってくれる人がいないという事も事実なら、

悔しいけれど、吉本のダンナが保護者というのも事実だ。

皆が親の作ってくれた弁当を食べている時に、教室の中にいられないのも本当の事だ。

悔しいけれど本当の事ばかりだ。

あとテンに残されている道は、こいつらには勉強だけは負けたくない。負けられないという事だけだった。

そんな針のむしろのような生活をしながら、姿勢を崩さないでいるテンにしびれを切らしたのかとうとう事件が起こった。


ある日、テンの靴箱が何者かによってひどく汚されている事件があった。

朝、学校へ行き上履きに履き替えようと靴箱を開けると、テンの新しい上靴は腐臭を放つ汚物で見る影もなく汚されていた。

靴だけでなく、テンの靴箱全体が汚れ異臭を放っている。これだけの汚物を一体だれがどこから持って来たのだろうか。

後で解った事だが、学校の近くには養豚場があり、そこの排水溝からわざわざ持って来たものと思われたが、テンはその時は自分の靴箱の前で呆然とするしかなかった。

次々に登校して来た生徒が、異臭に気付き騒ぎ出したが、テンはどうする事も出来なかった。

まだこの学校に慣れていないし、この汚い汚物にまみれた靴をどうしたらいいのか。

この靴箱をどうきれいにしたらいいのか見当もつかなかった。

テンはただそこに立ち尽くしていた。

すぐに人だかりが出来、「クサイ、クサイ。」と皆が騒ぎ出した。

それでもテンはどうする事も出来ずにその場に立ち尽くしていた。

そのうち誰が知らせたのか先生達が来た。

その後ろから校長も来た。校長は黙ってテンを見ていた。

少しの汚れならそんなに大騒ぎにならなかったろうが、事は物凄い匂いを放つ汚物だ。

誰かが学校の用務員さんを呼んだのだろう。用務員のおじさんが掃除道具を持って飛んで来た。

先生達が騒いで見ている生徒達に自分の教室に入るように指示したので、皆教室に入っていなくなった。

先生達も、校長もいなくなった。

玄関には掃除をしているおじさんと上靴を汚されて途方に暮れるテンだけになった。

おじさんは汚物を掃除し片付けながら、

「何てひどい事をするんだろうネ。まだまだ、こんな年頃からこんなひどい事の出来る性悪な子供がいるとは末恐ろしいヨ。本当に入学早々、今年の一年生はどんな悪タレが揃っているかと思うと溜息が出るヨ。」と嘆いた。

それからテンを見て、「あんた災難だったネ。見れば育ちの良さそうな坊っちゃんなのに、なんでまたこんな意地悪をされるんだろう。誰か見当がつくかい?」と聞いた。

その時テンの頭には吉本のダンナの息子のニヤついた顔が一瞬浮かんだが、何も言わないで黙っていた。

するとおじさんが、「きっとこれでは授業も身がつかないだろう。私の所においで。私の所はすぐ近いから遠慮はいらないヨ。」と言ってくれた。

おじさんは見た目はきれいにした靴箱の扉を閉めると、

「この靴箱の臭いは暫らくとれないネ。この靴箱を使うのは嫌だろう?とにかく私の所で気持ちを落ち着けなさい。」と言ってくれた。

おじさんが連れて行ってくれた用務員室は、玄関の横並びの一番端にあった。

土間と六畳ほどの畳の部屋があるっきりのこじんまりとした場所で、テンはそこに入ると何だかホッとした。

おじさんはテンを六畳の畳の部屋に上げると、汚物を片付ける為かまた片付け終わった事を報告する為かどこかに行った。

暫らくすると戻って来て、「あんたの靴の寸法はいくらだネ。学校にある予備の靴を持って来たから履いてごらん。あの靴はもう駄目だ。いくら洗ったって取れる汚れじゃない。なんてひどい事をするんだ。」と言いながら、寸法の違う新しい靴を何足か見せてくれた。

テンは、「おじさん、新しくなくったっていいんです。僕に合いそうな靴なら何だっていいんです。それにまた汚されるかも知れないし。」

そう言うとおじさんは、「あんたは何ていい子なんだ。あんたのような子供ばかりだったらいいのにと思うヨ。こんな悪さをする子供の親はまさか自分の子供がこんな事をしているとは夢にも思わないだろうサ。ああ、末恐ろしいネ。

天子君というのかい?この靴は校長の指示だから遠慮はいらないヨ。校長は何でも心得ている立派な人だ。あんたの詳しい事は知らないが、苦労をしたんだネー。

今日の事を見れば、これからもきっと苦労をするだろう。靴箱は臭いも取れないし、当分は使えない。校長と私の考えなんだが、暫らくは私の所に来て履き替えるといいヨ。それなら安心だ。まさか、ここにまで汚物を運んでは来ないだろう。

これは私から提案したんだが、もちろん校長の了解もとってあるからネ。

朝来たら、ここで靴を上履きに履き替えて、帰りもまたここで外靴に履き替えて帰るといいヨ。」と言ってくれた。

「それじゃ、この靴が天子君の靴だ。後でしっかり名前を書いておくんだヨ。ところで、今日の授業はどうする?こんなに嫌な思いをしたんだから、誰が犯人かは解らないが、犯人のいる教室には行きたくないだろう?校長は本人の意思に任せると言っておられたヨ。」と言った。

テンは、「僕、これから授業に出ます。大丈夫です。ここで授業に出ないで帰ったら増々喜んでまた何か僕が困る事を考える筈です。

おじさん、おじさんの好意に甘えてここで靴を履き替えていいですか?」

「いいよ。ここなら安心だから。だけど本当に大丈夫かい?」

「はい、大丈夫です。僕、授業を聞き漏らすのが勿体ないんです。それからおじさん、僕の名前は天子天水って言います。今まで皆からテンと呼ばれて来ました。おじさんも僕の事、テンと呼んで下さい。」

テンは精一杯元気を出して言った。

おじさんはニコニコして、

「そうかい、テンネー。いい名前だ。呼びやすい名前だ。テン、じゃ頑張っておいで。おじさんはテンの味方だヨ。」と言って送り出してくれた。

テンは教室の前に行くと、深呼吸してガラッと戸を開けた。

クラスの皆と担任の先生の目が一斉にテンを見た。

テンは、「遅くなって申し訳ありませんでした。」と頭を下げて自分の席に着いた。

その時、教室では授業をやっているのではなかった。

恐らく今朝の靴箱の汚物事件について話し合いがされていたのだろう。

担任の教師が、「そういう事でイタズラも度が過ぎると大事になるという事。今度、また同じような事が起きて、それが誰の仕業か解った時はただでは済まなくなる事。

この学校を退学しなければならなくなる事を肝に銘じなさい。

この貴重な一時間の授業はそのとんでもない奴に潰された。そのとんでもない奴は反省しなさい。」そう言った。

その時ちょうど、終わりの鐘がなった。


二時限目からは普通の授業で昼休みになると、テンはいつものように教科書を持って教室を出た。

朝の事は突然振りかかった嫌な出来事だったが、お陰で優しい用務員のおじさんに会えた。靴も新しい物がもらえた。

テンはまるっきり痛手を受けただけではなかったのだ。そう思った。

また、中庭の隅へ行って、ポケットから握り飯を出して食べた。

梅干しの他に昆布の甘辛煮の佃煮が入っていて、しかも大きなお握りはテンのおナカを充分に満足させてくれた。

食べた後はもちろん、教科書を幾度も読み返した。

今晩は久しぶりに袋のお爺さんの部屋に行こう。その為には今しっかりとこの教科書を頭の中に入れて置かなければならない…。


授業が終わって帰りに用務員のおじさんの所に寄った。

おじさんはテンの来るのを待っていてくれた。

「テン、テンは偉いネ。あんな事があったのに負けないで授業に出るとは大したもんだ。根性がある。テンはきっと将来立派な人になるヨ。おじさんは今まで沢山の生徒を見て来たんだ。この中学を出てあの進学校に進む子供達の全部が全部こうだとは言えないけど、その中には必ずテンのような根性の座ったのがいたネ。金持ちで家庭教師付きで進学校に合格する子もいるにはいるが、最後の最後に立派になるのは親の力じゃない。本人の力なんだヨ。

テン、あんたは見込みがある。おじさんの目に狂いはないヨ。」

テンはそう言われて素直に嬉しかった。

テンはおじさんの話を聞いていて思いついた事を言った。

「おじさんが優しいからつい甘えてしまうんですが、僕、前から登下校の道のりを走って通いたいと思っていたんです。でも制服でこの重いかばんじゃ無理です。制服とかばんをここに預かって貰う訳にはいかないでしょうか?」

おじさんはびっくりして、

「預かるくらいは何でもないが、だけど教科書がなかったら家に帰ってから勉強が出来ないだろう?中学校は小学校とは違うんだヨ。家に帰ってからも一生懸命勉強しないと試験の時、困るヨ。」と言った。

「勉強は昼休み時間と放課後の二時間くらい図書室でやって行きます。それで大丈夫かどうか解りませんが、朝と帰り走りたいんです。走っている時や後はスッキリして嫌な事もあまり考えないで済みますから。」と言った。

「そーかー、そうだよネ。今朝の事なんかおじさんだって胸具合が悪くなるひどい嫌な事件だったからネ。テン、それじゃ試しに今日から制服とかばんを置いて走ってみるか?」

「はい!走ってみます!」


おじさんはちょっと待っていなさいと言うと、どこからか何枚か服を持って来た。

走って帰れそうなシャツと短パンもある。

「嫌じゃなかったらこの中から何か着て走るといいヨ。前にいた先生達が置いて行った物だけれどネ。今度テンの為に洗濯してきれいにしておくから、今日は気持ちが悪くてもどれか着てお帰り。」と言ってくれた。

テンは喜んで、その中から上のシャツ一枚と、短パン一枚を選んだ。

制服を脱ぎ、着替えて身軽になると嬉しくなって笑えて来る。

「おじさん、じゃ僕走って帰ります!」

おじさんも、「テン、また明日な!」と言った。


こうしてテンは、この中学校に来てかけがえのない人と出会った。

テンは嬉しかった。

嬉しくて嬉しくて飛ぶように跳ねて走った。どこまでも走れそうな気がした。

走るってなんて気持ちがいいんだろう。

袋の部屋のお兄さんの事を思い出した。

「お兄さん!お兄さんの気持ち、今なら本当に解ります!体を動かすと嫌な事を忘れます!」と心の中で話し掛けた。

テンは今日はお爺さんの部屋に行くつもりだけど、近いうちにお兄さんの所にも行こうと思った。


学校からテンの土蔵までは歩くと随分遠く感じたが、走るとあっという間に着いた。

夕飯にはまだ時間があった。

これなら、これからはその時間を逆算して学校に残って勉強が出来るナと思った。

汗をかいたので近くの小川へ行って、用務のおじさんがくれたシャツと短パンをジャブジャブ洗って干した。

明日の朝までに乾くといいけどと思いながら少しうとうとしていると、カタンと音がした。

夕食だ。ご飯が大盛りになっている。ご飯を半分だけ食べて半分は丼にとっておいた。

今晩は久しぶりに袋のお爺さんに会いに行こう。

お爺さんに勉強や今日の出来事をいろいろ話して聞かせたい。

そう思いながらもテンは眠りに入り、ぐっすりそのまま朝まで寝てしまった。

朝、カタンという音で目を覚ました。

あーあ、昨日はお爺さんの所に行かないで眠ってしまったナー。

まあ、いいや。お陰でぐっすり眠った。体も心もすっきりして朝、学校に走って行くのが楽しみだ。

干してあった服もおおかた乾いている。

昨日半分残しておいたご飯に温かい味噌汁をかけて食べた。

大盛りのご飯の中には、また梅干しの他に佃煮と卵焼きの切れ端のようなものが入っている。

テンははっきりと下女の真心を感じた。以前はテンの事を“クサイネ””浮浪児みたいだ“と言ったあの下女なのに、今はテンにこんなにも親切にしてくれる。

きっとあの時だって、体を洗わなきゃ皆から嫌われるヨと教えてくれたのかも知れない。本当は良い人だったんだ。そう思うと胸の内が温かくなった。

テンは大きな握り飯を作ると、ちゃぶ台代わりの箱の中をゴソゴソ探して風呂敷を見つけて、その握り飯を風呂敷にクルクル巻いた。

そしてそれを腰に結び付けた。

「さあ、走るぞー。」

テンは走った。気持ち良く走った。

学校の始まりにはまだかなり早かったけど、学校に行けばあのおじさんが待っていてくれる。

早朝の空気はまだ新しくて気持ちがいい。空気が本当に美味しい。空気ってこんなに美味しいんだ。テンは自分は本当に走るのが好きだと思った。

どこまでも走れそうな気がした。

学校にはかなり早く着いた。早すぎるのかまだ人の気配がない。


用務員室の戸には鍵はかかっていなかった。

「おじさん、おはようございます!」と入って行くと、「あれまあ、こんなに早く。」とおじさんはびっくりしている。

おじさんは仕事前でゆっくりしていたのだった。

「おじさん、迷惑ですか?」と聞くと、

「いいや、テンの一人くらいは何でもないヨ。」

「これが偉い先生だったら気骨が折れるけどネ。テンならいいヨ。でも何も構ってやれないヨ。それでもいいかい?」と言った。

「ええ、僕、学校が始まるまでここにいていいですか?」

「ああ、いいヨ、いいヨ。私もテンの事は気にしないで自分のいつもの仕事をするから。それでいいかい?」

「はい、おじさんありがとう。」

テンは昨日置いて行った肌着と制服を身に付けると、かばんから教科書を取り出した。

そしておじさんの部屋のちゃぶ台で勉強をし始めた。

どれ程、時間が経ったろうか。集中しているとあっという間に時間が過ぎておじさんが、

「テン、そろそろ皆学校に出て来てるヨ。テンも教室へ行く時間だヨ。」と教えてくれた。


このようにテンの中学校での生活は、ひどいいじめの汚物じけんから用務員のおじさんと仲良くなる事が出来て、更には念願だった制服やかばんを預かって貰って走る事が出来るようになったのだ。

テンは今日も一人中庭で、大きな握り飯を食べながら思う。

“災い転じて福となす”っていう言葉はこんな時に使うのかナーと。

相変わらず教室での空気はテンには急に好意的にならなかったが、あの悪さをした者は、今のところなりを潜めている。

一人で昼に中庭の隅で握り飯を食べた後、勉強するのもいつか習慣になっていた。

テンは幼い頃から一人ぽっちにされて否応なく人から干渉される事なく生きて来たせいか、一人でいる事は苦痛ではなく昼食の時間はやっと一人になれる貴重な時間でもあった。

そんなある日、いつものように教科書を持って教室を出て中庭に来て、さあ食べようとポケットから握り飯を取り出そうとすると、

「俺も一緒に食っていいか?」と野太い声がする。

テンはさすがに驚いた。

振り返ると見覚えのある顔だった。

背丈も幅もテンよりはかなり大きな体の同じクラスの生徒だ。

名前は何て言っただろう。高等学校に通っていると言っても誰もが信ずるような大人のような体つきだ。

テンが黙っていると、「迷惑か?」と聞く。

「別にいいヨ。」と言うと、黙って側に来て隣に腰掛けた。

「お前、俺の事解るのか?」とテンに聞いた。

テンは相手を見たが解らない。

「俺はお前を知っている。小学校三年の時、お前を見た事がある。吉本の所に遊びに行って、何人かでお前を見に行った事がある。

天子天水、お前はあの時のお前か?」と聞いた。

テンが黙っていると、

「吉本はボロボロの服を着て、ボサボサの頭の汚い手足のその子を指して、学校にも行かないでフラフラしている馬鹿で阿保のテンだと言った。お前がこっちを見たから、阿保がうつるぞーと逃げ帰った事がある。お前はあの時の馬鹿で阿保のテンか?」と聞いた。

テンは相手の顔を見て、

「そうだヨ。あの時のテンだヨ。」と言った。

相手はまるで化け物を見たように目玉をむいてまじまじとテンの顔を見た。

それから、「たまげたナ。あの時のテンとは信じられない。」と言った後、

「天子天水、お前は俺の事を知らないだろう?俺の名前は佐竹五衛っていうんだ。俺の爺ちゃんがつけたんだが、門がついたら大泥棒の五衛門だよナ。それだけはやめてと両親が必死で反対して爺ちゃんも仕方なしに少し折れて五衛になったんだ。

うちの爺ちゃんはどういう訳か石川五衛門が好きで、酒を呑んで酔っ払うと五衛門は男の中の男だ!ってずっと言い張っているんだ。

五衛門のどこに惚れたのか、とにかく五衛門が大好きなんだヨ。変な爺ちゃんだろ?だけど、俺はどうもそういう爺ちゃんが満更嫌いでもないんだ。爺ちゃんは泥棒にならなくても五衛門のような大きな男になれっていまだに言ってるヨ。」

テンはポケットの中から竹皮に包んだ握り飯を取り出してそれを食べながら、この大きな五衛門の話を聞いていた。

「どうだ。俺の名前は今、解ったろう?俺サ、卑怯な奴、嫌いなんだヨ。だから、そういう奴がくだらない事をくっちゃべって幅をきかせている教室で飯を食っているとムカムカしてサ。それでここに来たって訳。」

何も言わず聞いているテンに

「天子天水って立派な名前だよナ。俺もそんな名前だったらって思った事あるヨ。いかにも立派な人になりそうな名前だもんナ。」と五衛は言った。

テンは、「名前だおれだヨ。」とボソッと言った。

すると、「天子、お前本当に字が読めないのか?」と聞いた。

テンは笑った。

「お前本当に足し算も引き算も出来ないのか?」とまたまた聞いた。

テンはまた笑った。

この五衛門は面白い奴だと思った。

テンは、「今、勉強中だヨ。」と言うと、

「俺はいくらなんでもお前が字が読めないとか、足し算、引き算が出来ないで教室であんなに堂々としていられるもんじゃないと思ったヨ。だけど、小学校には一日も行ってないんだろ?」

「そうだヨ。」

テンは返事をしながら何だか愉快になって来た。

この五衛門は悪い奴じゃない。

悪だくみの出来る人間じゃないと直感的に思った。

五衛門が「俺は最初からお前をずっと見て来た。お前が俺のライバルにふさわしいかどうか俺は見て来た。あの靴箱事件の時だってお前は立派だった。だからお前を俺のライバルにする!

いいか!これからは競争だぞ!俺は絶対、お前にだけは負けないからナ。正直言うと俺も勉強が出来ない。五年生の時大怪我をして半年近くも学校を休んでから、何が何だか勉強が解らなくなって嫌になった。今まで勉強なんかどうにでもなれ。俺は爺ちゃんや父ちゃんのように魚屋になるんだから、そう思っていたけど、だが、中学に入ってみると小学校に一日も行った事のないという天子、お前が入って来た。

俺はお前にだけは負けはしないと心に決めた。今日から俺とお前はライバルだ!競争だぞ!」

五衛門は真面目な顔でテンに宣戦を布告した。

テンは仕方なく「いいヨ。」と言った。

それからというもの、五衛門は昼になると中庭にやって来て、一緒に弁当を食べるようになった。

弁当を食べ終わった後、テンが教科書を出して勉強すると、五衛門も負けじと教科書を見た。

特別何を話す訳でもないが、ただ一緒に弁当を食べ一緒に勉強をした。


テンは土蔵に帰って一人になると五衛門の顔を思い出し、五衛と名付けたそ

の爺ちゃんを想像して可笑しくて笑いたくなった。

一学期はそのように過ぎて行った。

授業を受けるだけなら誰が勉強が出来て、誰が出来ない等はっきり解らないが、だがいよいよそれが明らかになる時が来た。

夏休みに入る前に試験があるからだ。

一学期末の試験だ。

この試験の結果はすぐに廊下に張り出される、国語、数学、理科、社会、英語の各五教科の成績がそれぞれ五十位まで張り出されて更にそれらの合計点、総合点も一位から五十位まで張り出されるというものだった。

だから誰がどの教科でどれ程の成績を修めたかが一位から五十位までは歴然と公表される事になる。

生徒は各学年、百五十名前後だから、この上位五十位に入るという事はそれだけで上位にあたる。

しかし、この五十位に入れなかったものも一位から最下位までの順位と点数がこと細かに印刷されて各家庭に送られて来るという。

大変生徒にとって厳しいものだった。

それを見て親達は一喜一憂するのだった。

自分の子供の成績も他の子供の成績も白日のもとにさらされるという情け容赦のない試験はいよいよ始まった。

テンにはそれを一喜一憂する親はいない。でもテンは頑張った。不安だから頑張ったのだ。

テンは正直、自分でもよく頑張ったと思う。

朝は用務員のおじさんの所で一時間近く勉強し、放課後も夕食の時間を逆算して少しでも勉強してからおじさんの所に教材を置いて、走って帰って来た。

また、夜は袋のお爺さんの所で、お爺さんが帰りなさいと言うまで大体二時間程勉強しただろうと思う。

授業中は決して聞き漏らすまいという気持ちで先生の話を聞いた。

それはただただ不安だったからだ。自分は出来るだけの事はした。

だけれども、ひょっとしたら散々な成績に終わるかもしれないと思って心配になりながら頑張った。

試験は全部書いた。書き漏らした所は一つもなかった。

後は結果を待つだけだ。

普段ヘラヘラしている者達も入学して、最初の試験の結果は笑ってはいられない。

皆、それぞれそれなりに頑張ったに違いない。

果たして、順位の紙は一斉に貼り出された!

一年生の結果は、一年生の三クラスの廊下の壁に張り出された。

それが張り出された時、取り囲む生徒たちの間にオーッという声とどよめきが起きた。

一番最初に書かれていた名前は、何と天子天水。そう、テンの名前だった。

国語も数学も社会も理科も英語も、五教科の一位は天子天水と書かれてあった。

どの科目も一位だったのは何とテンだったのだ。

後ろの方で見ていて一番驚いたのはテン本人だった。

夢をみているのではないかと思った。あまりの驚きで急には喜びの気持ちは湧いて来ない。

本当に?本当だろうか?にわかに信じがたい。

小学校に一度も行った事がなかったテン。不安で自信のなかったテン。

しかし、これは夢じゃない。総合成績でも堂々と後ろの二位をかなり引き離して一位は“天子天水”と書かれていたのだ。


ちなみに吉本のダンナの息子はかろうじて五十位の中に入っていた。

五衛門の名前は五十位の中にはなかった。この事は教師達の間でも非常に話題になった。しかし、校長だけは左程驚きもしないで淡々と初夏の晴れ渡った空に目をやっていた。

最初の試験の結果は、卒業した小学校の職員室にも送られた。

当然山田先生もそれを目にした。

天子天水の名前を一位に見た時、山田先生は鳥肌のたつ程、感動した。

テンがあれ程、学校へ行きたい、勉強したいと思っていた事がとうとう報われたのだと思うと喜びで感動した。

それは自分の少しばかりの助けが報われた喜び等ではなかった。

若い山田先生にとってはただただ正義が悪に打ち勝ったという思いだった。

テンはとうとうやってくれた。

他の先生方のいる所で態度に出して大喜びする訳にはいかないが、教員室を離れて思わずウォーッと声を上げた。

その時は生徒が皆帰った後で、他の先生達も皆、自分が携わった子供達の成績に対してあれこれ話し合っていたので、山田先生の不思議な態度に気付く者はいなかった。

山田先生はその後、用事があるからと一人早めに学校を出て真っすぐ教会に行った。

夕方の教会は。今日も静かに暮れようとしていた。

神父様はその夕暮れに今日も一日無事過ごせた事を神に感謝している所だった。

その静かな夕暮れに息せき切って飛び込んで来た山田先生を見て、その静かな穏やかな空気は一瞬にして壊された。

何せ、山田先生が大声で叫びながら入って来たのだ。

「神父様、やりました!やりましたヨ!正義が勝ったんです!テンですヨ。テンがやってくれました!神父様落ち着いて聞いて下さい。私達のテンが、なんと期末試験の成績で一位をとったんです。しかも全科目ですヨ。

当然、総合成績も二位をグーンと引き離してトップですヨ。こんな素晴らしい事ってありますか?あのテンがとうとうやってくれました!

僕は全世界に向けて叫びたいのを我慢してここまで走って来ました!一番に神父様にお知らせしたくてネ!」

それから二人は喜び合って久々にぶどう酒で乾杯した。

テンはこの二人をも幸せにしたのだった。

もう一人誰よりもテンの為に喜んでくれる人がいた。それは用務員のおじさんだった。

帰りにおじさんの所へ寄ると、おじさんは興奮してテンの腕を摑まえて、

「テン、あんた頑張りましたナ。私は心配してたんだヨ。いつもかばんを置いて帰って家で勉強していない様子だから、これは散々な成績になるんじゃないかってネ。それがまあ、開けてびっくり!テンは元々脳みその出来がいいんだナ、きっと。

とにかく私は嬉しくて嬉しくて、なによりもあのひどい事をした者達にギャフンと言わせることが出来たと思ってえらい気持ちがサッパリしたヨ。」と喜んでいる。

テンは素直に嬉しくなって、「これもみんなおじさんのお陰です。朝と帰りにここで勉強させてもらって助かりました。これからもお世話になります。」と言った。

「ああ、テンのような優秀な子に感謝されて私も鼻が高いヨ。」と言った。

テンも嬉しかった。喜んでくれる人がいる事が嬉しかった。


だが喜ぶ者がいれが悲しんだり、悔しがったりする者もいるのは世の常だ。

全ての生徒の成績が一位から最下位まで印刷された封書が何日も経たずに各家庭に届いた。

あの吉本の一家ではどうだったろうか。

当然その結果を目にしてガツーンと頭をこん棒で殴られたような衝撃を受けた。その結果はすぐには信じられなかった。

「あのテンが。あの薄汚い、髪は伸び放題で小学校に一度も行かず、文盲になる筈だったあのテンがどの教科も軒並みトップだって?総合もトップだって?!そんな馬鹿な事があるか!それに引きかえ俺の息子は何位だ?

何?四十八位だって!

どういう事だ!何でそれぐらいしかとれないんだ!」

つい息子に対して怒鳴ってしまった。

それにしたってどうなっているんだ?

吉本のダンナには到底信じられない結果だった。

何故だ?何故だ?何故なんだ!!テンの成績に比べて息子の成績のふがいなさに腹が立って思わず叱り飛ばしてみても腹の虫は納まらない。


吉本のダンナは自分が金を出して居酒屋を出してやったおかみの所に何かというと飲みに来て、家で女房には言えない事でもそこで発散しながら酔って帰るのだ。

何たって、ここは俺が金を出してやった店だからという思いがある。

今日も気のおさまらないダンナは、その居酒屋に来ておかみに店を閉めさせて、しこたま飲んで酔い潰れていた。

おかみは、金を出して貰った以上文句を言えないで、我慢している。

いい加減うんざりして大した聞きもしない相手に向かって吉本のダンナはさっきから、何かグダグダ独り言を言っている。

盛んに何故だ?何故だ?どうなってるんだ?と言っている。

いつ勉強したんだ?誰が教えたんだ?

あんなに用意周到にあの餓鬼を封じ込めたつもりだったのに…。

両親と祖父さん祖母さんが一気に死んでくれたお陰でこの財産と会社を思い通りに出来るチャンスだと思ったのにナー。

あの上流階級そのもののような気どった天子一族の下でこき使われるのももうこれで終わりだ、これからは俺の天下だと思ったのにナー。

あの時、残されたガキはまだほんの三歳のまだまだ赤ん坊のようなものだった。

そばには付きっ切りの女中のおキヨを無理矢理俺が面倒みるからと引き剥がして里に帰らせ、これからはあのガキを思いっきりしごいてやろうと引き取ったら、ちょっとした火傷を知ったあの忠義者の五助が何だかんだと言ってあのガキを抱えて土蔵に住み始めやがった。

俺の女房は女房で同い年の息子がいる上に、二番目も腹の中にいるものだから、あのガキの面倒を見るのは嫌だと言う。

五助はあのガキをまるで敵から庇うようにしっかり抱きかかえて離しはしない。

このままでは俺の計画はパーになる。俺の目的はあのガキを学校に行かせないで読み書きの全く出来ない阿保にする事だった。そうなればしめたものだ。

あのガキが引き継ぐ財産は全て俺の思いのままだ。ヘン? 何だって?

そんな事出来る訳ないって?いや出来るサ。現にあのガキはついこの間まで服はボロボロ、髪はボーボー伸び放題の浮浪児だったんだぞ。

金は無し、知り合いは無し、朝・晩の最低限の食事を女中に運ばせてそれで生かしていたんだ。えっ?一人ぽっちでかって?

そうだヨ。五助だって邪魔だったから遠くの山の仕事に行って貰った。

あのテンの事を死ぬほど心配していたが、心配いらないって安心させて、あの年で強引に遠くの山に移したんだ。あの年だから少し可哀想と言えば可哀想だが、五助がいては俺の計画はパーになってしまうからナ。

後は俺の息のかかった物だけを側に置いて、誰かあのガキに親切にしそうな奴がいないか常に睨みをきかせていた。殺さず生かさずってやつだ。

それがどうしてだ!いつの間に?誰に教わったんだ!不思議でしょうがない。俺の計画はどこでほころびたのかネー。

あーあ。それにしてもうちの馬鹿坊主。あの成績は何だ?

どう逆立ちしたらあんな成績がとれるんだ?四十八位?冗談じゃない。良い家庭教師までつけてやったんだぞ!

家庭教師が悪い?あの家庭教師についた子供は軒並み進学校に合格してるっていうのはあれは嘘か?あの野郎、嘘を言っていたのか?

あんちくしょう。ただではおかないぞ!

何?俺の息子の頭の問題だって?小学校にいた頃はいつも良かったんだぞ!中学に行って急に頭が悪くなる訳ないだろう?他の子供達が急に伸びたー?

うちの坊主だって一生懸命やってたんだぜ。女房も夜食作って持って行ったりして。

だが、それにしてもテンの奴。いつ勉強したんだろう?

灯りのない土蔵は夜になればいつも真っ暗だった。俺が時々行ってこの目で確かめたんだからナ。あれにはろうそく一本すら与えていない。勉強されても困るからナ。

じゃ何故だ?何故あんな成績がとれるんだ?勉強しないでトップになるなんて、あのガキは神様か?

ヘン、笑わせるな。そんな事ある訳ないだろ。それにしても、考えれば考える程、腹が立つナー。うちの息子の

あの成績を見て、俺があんまりくさるものだからカミさんが何と言ったと思う?

あんた百五十人中の四十八位って立派なものじゃありませんか。全生徒の中の上位三分の一に入ってるんですヨ。この子はこの子なりに頑張ったと思いますヨ。

だってホラ、私だってあんただって昔、どうだったか思い出してごらんなさいヨ。私達のような親から生まれて、この子はこの子なりに一生懸命頑張ったんですから。

よくやったと褒めてやってもいいじゃありませんか。

だって、そうぬかしてやがるんだ。それがまた腹が立つんだヨ。

学が無い、学が無いといつも引け目を感じて来て、この会社の社長になってもまだ引け目を感じなきゃならないのか!

考えれば考える程、腹が立って来る!

天子倫親はそりゃ小さい時から頭が良かったヨ。俺のおふくろと倫親のおふくろは姉妹なのにどうした訳か天子のおふくろは玉の輿、妹の俺のおふくろはおやじの所に嫁いだばっかりに苦労のし通しだった。

おやじは早くに亡くなっちまったからネ。それでもおふくろはいつもニコニコしていた。

私は決して不幸じゃありません。幸せでしたヨなんて呑気な事を言って。

やっぱりお嬢さん気質のまま、俺がまだ大人になる前に死んじまった。

自分はそりゃ幸せだったろうサ。好きな相手と駆け落ちまでしたんだからナ。だけど相手は金も財産もない貧乏学生でおまけに早死にだ。

その後の暮らしは散々だった。俺とおふくろはよく倫親のおふくろの所に遊びに行ったヨ。実際は金を貰いに行ったんだが。

俺のおふくろが何も言わないのに、倫親のおふくろは察してそっと金をくれたっけ。仲のいい姉妹だったからネ。だけど倫親のおやじさんは恐かったナ。

一度も叱られた事はないが、俺の顔をジロリと見て、プイと行ってしまうんだ。

何だかまた来てるのかと睨まれているような気がしたヨ。そんな俺を見て倫親のおふくろさんは、あの人はああいう顔の人なのヨ。心の中は案外優しい所もあるのに。

男子たる者、常に気を張りつめていなければならないなんて思っているのでしょうか。私も倫親もあの人の不愛想な顔には慣れっこになっておりますけれど、たまにいらっしゃるお客様には解る筈ありませんよネ。本当に困った人、なんて言ってニコニコしていたっけ。

しかし、あの顔は絶対、俺とおふくろが金を貰いに来る事を知って嫌がっていたんだ。

だからおふくろが死んで俺が一人になった時、一緒に住まないかと言われた時、俺は断った。中学から高等学校へ行く年令だったがネ。

倫親のおふくろは何度も何度も俺が上の学校へ行く事を勧めてくれた。

このままでは今は良いかも知れないけれど、後できっと後悔しますヨ。

ナミちゃんもそれを望んでいる筈だって。ナミちゃんというのは俺のおふくろの名前だ。だけどあの時の俺は早く自分の力で生きたかった。金持ちの親戚の世話になって上の学校に行ったって窮屈で仕方がない。

それに正直、勉強が嫌いだったし、倫親は小さい頃から勉強が出来る事は知っていた。

誰も同い年の俺の前で自慢したり聞かせたりしなかったが、俺もおふくろも倫親の様子を見ていれば解るサ。いつも本を読んでいるんだ。

外で遊ばないのが不思議に思う程いつも本を読んでいる子供だった。

そういう奴は学校の成績もいいに決まっている。俺は本を読んでじっとしている奴は気に食わない。

俺は一度聞いた事がある。倫親、外に行って遊ばないかってネ。

すると、あいつは本から目を上げて俺を見て、ニコっと笑うとこう言ったんだ。

今読んでいる本、凄く面白いんだヨ。外で遊ぶより今は本を読んでいる方がずっとずっと面白いからネ。君も本を読んでごらん、僕のを貸してあげるからって。生き生きした目をしてサ。まるで相手にならない。その時俺は倫親と俺はまるっきり気が合わない人間だという事が解ったヨ。

俺は本を読むと頭が痛くなる方だったからナ。

そういう訳で、おふくろが死んだ後、俺は一人で生きて行く道を選んだ。

いろんな場所で働いたが、まだ若いし学はないし、ちゃんとした所で雇ってもらえるはずもなかった。あちこちの賃仕事をして、その日その日を食いつないでいたっけ。気楽だったけどネ。

そのうち今の女房と知り合って一緒に暮らし始めた。

ある日、倫親のおふくろさんが訪ねて来たんだ。やはり亡くなった妹の息子の事が気になっていたんだろう。

あの後、どんな仕事についてどうしているか。俺達の暮らしぶりを見ると一瞬、眉を寄せた事が解った。

あの叔母さんにして見れば、俺達庶民の暮らしはかなり貧しく見えたんだろうサ。

俺と女房は結構、その日暮らしの生活にも満足していたんだけどネ。

叔母さんは決まった所に長く働かずにあちこち渡り歩いている俺の事を心配して自分の所で働かないかと言った。

余計なお世話だ。倫親は大学を卒業して外国に渡り、外国の大学にまで入っていたらしいんだが、おやじさんに呼ばれて帰って来ていた。

これからは人々がどんどん家を建てる、従って木材を扱う仕事が伸びるなんて考えて、オヤジさんを説得して会社を立ち上げたり、それが面白いように注文が来る。それにあの家は大きな山をあちこちに持っているからネ。木に不自由はしない。社員を何人も使っているがまだまだ人手が欲しい。

倫親のおふくろさんが、どうせ雇うなら妹の息子の貴方に手伝って貰った方が倫親も心強いし、あの世で見ている妹も喜ぶだろう。なんて言ってサ。俺は断ろうとしたんだヨ。

あの倫親のおやじさんの顔を見るのは嫌だし。倫親だって子供の頃から俺とは水と油のように何から何までする事、試す事、好みも合わないし、風の噂ではあの帝大を出て更に外国へ行って外国の大学で勉強して来たなんて。

話しを聞いただけで胸具合が悪くなって来る男だヨ。きっと気取った嫌な奴になったに違いない。俺はすぐにも断ろうとした。

それがその時、女房のおナカには子供が出来ていたんだ。子供の出来た女ってのは変わるもんだネ。今まで、俺と一緒に気ままにその日暮らしに満足しているとばかり思っていた女房が、急に目の色を変えてその話に飛びついたんだぜ。俺はびっくりしたぜ。

あんた、このおナカの子の将来の事を考えないの?と急に母親ヅラして俺に詰め寄るんだ。俺は仕方なく倫親を手伝う事にしたヨ。

倫親の所に行くと、おふくろさんから話を聞いていて待っていたんだと歓迎してくれたが、会社の事務所も倫親も、どこを見ても立派過ぎて俺は圧倒されて緊張するばかりだった。

倫親は上等な背広を着て、いかにも外国帰りの紳士だ。

それだけでも圧倒されてるのに、俺に紹介すると言って隣の部屋から出て来たのが、目の覚めるような今まで見た事のない別嬪だ。結婚したばかりの倫親の嫁さんだというきれいな上品な着物姿で初々しくはにかんだ笑顔を見て、こんなお姫様と一緒になれる倫親が増々憎らしくなって来た。

俺の女房には悪いが、一瞬、汚い部屋で化粧もしないでいる顔を思い浮かべて比べちまったヨ。急に今まで満足していた俺の暮らしが貧乏くさく色褪せて見えちまってネ。

何だか自分が情けなくって嫌になったヨ。そんな俺の気持ちなんて知る筈もなく、倫親は幸せいっぱいの顔で、吉本君、これから宜しく頼むヨ。何て言っておれに手をのべて握手したりするんだ。俺はいっそ、やはり辞退しますと言ってその場を蹴って帰ろうかとまで考えていた。それなのに倫親は、吉本君にはこれから僕の片腕になって僕を助けて欲しい。肩書も給料も相応に考えていると言って、専務という役職と驚く程の給料を言うんだヨ。これを蹴って家に帰ったら女房に何と言われるか。これから毎日、泣いて愚痴を言われるだろうと思うと、仕方なしなしで俺は倫親の飼い犬になったんだ。

そう飼い犬だヨ。相手にそういうつもりは無いかも知れないが、俺の中では自分は旨い飯を貰う為にしっぽを振って御主人様に仕える飼い犬の心境だった。

いくら肩書を貰ったって、帝大出の外国帰りの社長に仕える小間使いのような仕事しか出来ない。難しい仕事は大学での頭のいい社員達に任せて、俺はただ社長について歩いて回ってばかりだ。偉そうなお客さんを前にして堂々としているのは社長の倫親ばかりで、傍で緊張して油汗をかいているあの頃の俺はさぞはたから見ても可笑しかったろうナ。事務所でも社員は大学出ばかり。とにかく気を抜いてゆっくり出来る場所は俺にはなかったナ。それに引きかえ、今の俺はどうだ?自分の思い通りにやっている。

大学での社員はどんどんあちこちに飛ばして、自分の使いやすい気楽な奴ばっかり使っている。仕事の規模はそりゃあの頃のように大会社相手の昔のような訳には行かないが、それなりに儲かってはいるヨ。

何?どうして今のようになれたかって?


そりゃ、あの気に入らない御主人の天子一族が呆気なく車の事故で亡くなっちまったからサ。

あの日、倫親夫婦が結婚した時に仲人をしてくれたという偉い代議士先生の所で祝い事があったんだヨ。代議士先生の御子息の結婚式に招待されて、倫親夫婦と叔母さんとあの恐い叔父さんの四人がお祝いに出掛けたって訳。

その結婚式の帰り道の事故だったらしいヨ。運転していたのが倫親で、運悪く上の方から大きな石が転がり落ちて来て、それを避けようとして車ごと崖下に落ちてしまったという話サ。

あんなに幸せそうな一家だったのにヨ。幸せ過ぎたから誰かの恨みをかったんじゃないか?それが俺だってか?違うヨ。俺はそれ程、悪人じゃないぜ。

だけどあの事故の後、葬式も済んで少し落ち着いてから倫親の友人やおやじさんの知り合いだという偉い人、弁護士さんも集まってこれからのこの会社と残された一粒種のテンをどうするかをいろいろ話し合った訳なのサ。

特に一粒種のテンはまだ三歳だ。成長して十八歳になる迄は、どこそこの誰それという弁護士が財産を管理して十八歳になった時テンに全財産を渡すという事だ。

その時、テンが不慮の事故や何かで意志を持てない時はテンの後見人がそれを責任持って引き継いで面倒を見るナンタラカンタラという事だった。

そこでテンを育て面倒見るのを誰がするかという事になった。

あの代議士先生も手を挙げたヨ。責任を感じていたのだろう。

倫親の親友だという男も手を挙げた。その男はまだ一人者だった。

そこで俺も思い切って手を挙げた。

そして言ってやったネ。何といっても私はいとことは言え亡くなった倫親君とは兄弟も同然の仲で倫親君も私を頼りにしてくれて、こうして大事な仕事を任されている。

幼い“天水”は私の甥っ子のように可愛い。住み慣れた家で今までのように私たち夫婦があの子を育てたいと思います…と。

その時の俺は我ながら凄いと思ったネ。そう言うと皆はその後、何も言えなくなった。

それが一番良いと思ったんだろう。

会社も今までと同じように俺が引き継いだ。だけど俺には俺の考えがあった。

テンを赤子の頃から世話して来た清という女中は何かとうるさい。

一緒に母屋に暮らし始めた俺達家族をまるで使用人のような目で見る。

俺の女房の事も女中のように働かせようとする。

俺は決めたネ。それでお清に言ってやった。

こんな状況でこんな育てられ方をしたらテンはおかしくなってしまう。

テンの事はうちの女房が自分の子と分け隔てなく育てるから心配しないでいいとピシッと言って、少し多すぎる金を持たせて無理矢理里に帰した。

あの時は大枚をはたいて有無を言わせなかったヨ。

清もいなくなって清々した。

最初のうちは俺だって自分の言った言葉を覚えていたんだぜ。

だけど、三才の坊主が清がいなくなると、淋しがってメソメソし出した。

女房は腹の中に次の子を宿して、それでなくても具合が悪いのにうちの坊主はやんちゃ盛りだし、よその子供の機嫌までとってられないと言い出した。

おまけに同じ年の子供同志。最初っから気が合わないのか喧嘩ばっかりしている。

俺だってだんだんイライラして来た。

こんな立派なお屋敷に住めたのは初めは夢のようだったが、邪魔なおまけがついていたんじゃ何もならない。

ある日、女房が具合が悪くて奥の部屋で休んでいて、仕方なく二人の坊主を放っておけず俺は仕事を他の者に任せて家の中にいた。

ついでに、酒を出してちびりちびりやっていた。そのうちに二人の坊主がストーブの周りを追いかけ回り始めた。

こら!よせ!危ないぞ!と言っている間に、ストーブにかけてあったやかんが落ちて一人がギャーッと泣き始めた。

火傷したナ?どっちだ?まさか俺の息子か?

行ってみると、やかんの湯を足にかけて泣いているのはテンだった。

正直ホッとしたヨ。なんだテンか。俺の息子じゃないと安心したネ。

テンは火のついたように泣いていたが、なに大したことはないと思った。

足にちょいと湯がかかっただけだとネ。

俺も少し酔っていたし面倒くさかったんだヨ。そしたら、庭の手入れでもしていたんだろう。

五助が血相を変えて飛んで来て、俺に向かって喚きたてた。

何て事をするんです!と。

俺は何もしちゃいないヨ。二人が追いかけっこをしてやかんをひっくり返したんだと言ったけど、坊ちゃまは五助が責任持って育てます!と言って泣くテンを抱えて自分が住んでいる土蔵に連れて行った。

俺も清々したが一番喜んだのは女房だった。

これからは本当のお金持ちのように誰に何の気兼ねなく奥様暮らしが出来るって小女まで雇ったりしてネ。

それからは朝飯と晩飯をその小女に運ばせる事にした。

朝飯と晩飯だけでいいって言ったのは五助から言い出したんだぞ。

それでいいって言うならこっちも文句はない。

本当にそれだけでいいんだネと俺は五助に念を押したヨ。

五助は少し戸惑った顔をしていたけれど、自分が言った手前、引っ込みがつかなくなったんだろう。五助は自分の貯えの中から昼飯は何かを買って食べていたようだが、俺は知らんぷりしていた。

だけどテンが大きくなるにつれて、何だか胸の中がまたムカムカして来た。

テンの顔を見る度にネ。だんだんあの倫親の小さい頃に似て来やがる。

顔立ちもあの両親の子供だもの仕方ないが、増々可愛くなるし、目もいかにも賢そうな目で俺をじっと見たりするとゾッとした。

五助は自分の実の孫のように懐の中に入れて大事に育てている。

三歳が四歳になりやがて五歳になった頃、俺ははっきり危険を感じたネ。

このままでは危ない。テンは増々賢くなって小学校、中学校、高等学校、大学へと行くだろう。

そうなったら全て自分で財産を管理するようになる。

今のこの俺達の暮らしもやがて全部取り上げられてしまうだろうってネ。

そう思った瞬間、グズグズしちゃいられないと思ったネ。

いろいろ考えて頭の中で策を練った。

まずテンに余計な学を身に付けさせてはならないとネ。倫親はテンが生まれた後、俺に向かって何と言ったと思う?

吉本君、僕も君も父親になったネと嬉しそうに言った後、この子達には健康も大事だが、次に教育が大事だヨ。僕は外国に行ってつくづく思ったんだ。僕の息子には世界中どこまでも行って欲しいってネ。その為にはやはり教育だヨ。外国の人とも堂々と話し合える知識と語学力を身に付けて欲しい。自分の考えをしっかりと持った人間になって欲しい。僕達はその為にはお互い自分の身を削ってでも子供が伸び伸びと学んで行けるようなそんな環境を与えたいものだネ。

そんなことを言っていたヨ。あいつは盛んに教育、教育と言った。

俺には耳が痛かった。倫親は帝大を出ているし、嫁さんは年寄りの祖父母に育てられたそうだが有名な女子大を出た美人だ。

それに比べて俺もカミさんも二人とも学が無い。俺は倫親のあの言葉がしきりに思い出されてムカムカして来た。

よーし、お前に息子にはどんな事をしてでも教育っていうものをしてはやらないぞ!とな。

そう思いつくと何だかワクワクして来た。どうしたらあの息子を読み書きの出来ない阿保にしてやろうかとネ。俺はゾクゾクして毎晩考えた。

グズグズしていたら学校に行く年になっちまう。それも五助爺に傍に居られたら俺の計画は駄目になる。

それで来年はいよいよ小学校という年に五助爺に頼み込んで地方の山の管理事務所に空きが出来て困っている。少しの間だけだから頼むと言って、行って貰ったのサ。

五助爺はテンの事が心配でグズグズしていたし、最後にはテンをあっちに連れて行くとまで言い張ったがうまくなだめた。

ほんの二・三ヶ月で別の人間と入れ替えるからとだまして行かせたんだ。

それからテンは一人で放っておいた。朝と晩は女中に飯を運ばせているから死ぬ事は無いだろう。

周りの者は俺の息のかかった者達ばかりだからテンに情をかければ俺に首にされると思い込んで、誰もテンに話し掛ける奴はいない。

俺が始終目を光らせていたからナ。

案の定、テンは一人ぽっちになると五助の帰りを待って土蔵の周りをウロウロするばかりだ。どこにも行けはしない。

そのうち、着る物もボロボロなら髪の毛も伸び放題、手足も顔も垢まみれ、それはひどい身なりになっていたが、俺は知らんぷりしていた。

そう見えるのが目的だったからネ。

もう学校へ行く時期になっても放っておいた。近所や会う人ごとに、学校に行きたがらないで困っていると言っておいた。

学校からも何回か見に来たが、買って置いた服や教材を見せて、この通り準備して行かせようとするんですが気が違ったように暴れたり泣き出すんですヨと言って遠くからテンの姿を見せた。誰もが成程と言って帰って行った。

俺の計画は思い通りにいっていたんだヨ。

それなのにどこでどうなったんだろう。

(急に気弱な調子になって)誰が見ていたのかナー。

俺は女房だってこの胸の内は話した事は無いんだぜ。女房は学は無いが、こんな俺の計画を話したら反対するに決まっている。本当にテンが学校に行きたがらないでブラブラしていると思っていたんだ。

今度の中学の試験で俺は自分の計画がすっかり失敗した事が解ったヨ。

あんなに考えて用心深く、あの子を無知な骨のない阿保にしようとしたのにナー。

なんてこった。チクショー。いつ?どこで?どう狂っちまったんだろう。」

最後にはメソメソし出した。

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