愛の形式

波止場石 郷愁

愛の形式

家の重々しい空気のなか私が考えていたのは自殺した母が私に託したロープのことだ。母は海にいって死んだ。コートのポケットに石を詰め込んで沈んでいった。だからそのロープは母の直接的な死因ではない。しかし、母の死の選択肢のいくつかのうちには入っていたのではないか。つまり母は死の可能性を私に提示している。それがあとを追ってこいということなのか、別の意図があったのかは私にはわからない。母はいつも言葉が少ない人だった。遺書には「桃子だけの部屋をあげることができなくてごめんなさい」とだけ書いてあった。

「お前は中学生にもなってやっていいことといけないことの区別もつかないのか」

「うるせえよ、親父には関係ないだろ」

 父の両腕はわななき声も震えていた。弟は父のことを睨んでいるが、その目は落ち着きがなくさまよっていた。父と弟は居間の円卓のテーブルの向かいになるように座って、ひどくののしりあっている。私はふたりのあいだに座っていた。夕飯はとっくに冷めていた。

母は怒ることはなかった。きっと今みたいに弟が万引きをしたとしても怒らなかっただろう。あの涼やかな声で諭すことはあっても……。頭を抱え、怒りを放出させ、目に涙をためる父のような狼狽さとは無縁の人だった。母は聡明だったので、きっとこのようなときには弟を抱きしめただろう。そして弟に優しく語りかけたはずだ。なぜなら昔に母は弟が喧嘩をして帰ってきたときもそうしたからだ。怒りとは無縁の母は愛には深く関わろうとした人であり、その愛は実践的なものだった。ゆえに、母が私にロープを渡したのは、彼女が私を愛の奥深くまで導こうとしているからなのではないだろうか。母は海の底で私を待っているのかもしれない。

テーブルが振動し、コップの水面が揺れた。父の手のひらがテーブルに叩きつけられていた。いいあらそいは静かに激しく継続されていた。父も弟も呪詛をつぶやくように低い声で言葉を発していた。堂々巡りだった。父も弟も互いに譲らず。繰り返される言葉は相手への非難でしかなかった。コップの水が波打っているのを見ていると、そこに母の面影があるような気がした。大人しい母は透明な水のような人だった。

「ああ、恥ずかしい……せっかく決まった仕事もなくして、お前、どうするんだ」

「だから、また探すって……」

「お前はばかだよ。近所にも噂になって……」

「ばかだから高校もいかねーっていってんじゃん。近所のことなんてどうでもいいだろ」

「情けないよ、俺は」

 父はうなだれて、ガラスのコップになみなみとウイスキーを注いで、飲み干した。父の酒気が伝わった。父はもともとお酒を飲む方だったが、母が死んでからさらに飲むようになった。母はお酒をあまり嗜まなかった。少なくとも父と飲んでいる姿を私は見たことがない。しかしただ一度、私は母がお酒を飲んだ姿を見たことがある。私は中学一年生で、小学生の弟と父が川釣りに出かけた日のことだ。母は朝早くにふたりを見送った。あとから起きた寝ぼけまなこの私に外出の準備をさせ、ふたりで町のレストランにいった。この町には珍しい小さな洋食屋で、私は一度もそのお店に入ったことがなかった。そこで料理を食べたあと母はワインを一杯だけ飲んだのだ。私は母がお酒を飲むことに驚き、わけを尋ねようとしたが、母の堂々とした佇まいに、それを聞くのが場違いな気がしてどうしてもいえなかった。それどころか、母は私に「桃子、ひとくち飲んでみなさい」とすすめてきたのだ。私はいわれるがままひとくちだけ飲んだ。

「どう?」

「なんか苦い」

「そうね、苦いのかもしれないわ」

「酒ばっか飲むから愛想尽かしたんじゃねーの」

「……!」

 父が立ち上がり、弟に詰め寄った。弟も立ち上がった。声が罵声から怒声にかわった。ふたりは居間のすぐ横の台所でつかみあった。台所はこの狭いアパートのなかで母のよくいた場所だ。私が朝起きたときも、夕方に学校から帰ってくるときも、夜みんなが寝静まるときも、母は台所にいたのだ。ふたりはもつれもみあうなかで、どちらかが、どちらもがお互いを突き飛ばした。父は冷蔵庫にぶつかり転んだ。弟は食器棚で頭を打った。

「おい、ちょっと起こしてくれ……」

 父がいった。

「うるさい」

 私はいった。

 私は弟と私の部屋に入ると、勉強机の横に置いてある紙袋からロープを取り出した。台所で私を見つめるふたりを私は足で追い出した。居間の隅っこにふたりを追い払うと、私は台所のまんなかに座って、ロープの端っこをこれ以上ないというくらい固く結んだ。

「なにやってんの……?」

 呆ける弟を無視して、私はロープを台所いっぱいに広げた。楕円を描いたロープのなかに私は入って横たわった。ロープの内側に私はいる。

 父と弟は唖然として私を見つめる。父がおそるおそるこちらに近づいてこようとしてくるので「入るな!」といった。

 床は冷たく硬かった。目を閉じて右腕で覆いふたをした。左手でロープの、円の端を掴んだ。ごわごわしてその無骨な手触りに違和感を覚えた。台所の換気扇の音がやけにうるさく感じた。母は私にそっくりだった。その顔立ちが、背筋が、しぐさが、私に驚くくらい似ていた。私から分裂した母。これ以上もうなにも損ないたくない。自分だけの部屋が欲しい。ここにからだを残したい。少しのあいだだけでいいから。

 やがて父と弟の気配が消えていき、完全な静寂が訪れた。床が私の熱を通して温かくなっていた。左手で握りしめていたロープの端を離した。目を開けなくともロープが私を囲んでいるのを感じた。

 そのときだ、私が愛の形式を知ったのは。

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