つききらい

落葉沙夢

つききらい

「月が綺麗だね」

 頬を赤らめ、気恥ずかしそうに彼女は言った。

 大方テレビか何かで知ったのだろう。

 昔、ある小説家が「I love you.」をそう訳したらしい、という真偽の程も定かではない、しかしその文脈だけが一人歩きして、最早「そういう意味」としてしか通じなくなってしまった単語。

 辟易として俺は空を見上げた。

 百歩譲って、仮にその小説家がそう言ったのが真実だったとして、その彼については素晴らしいセンスをしていると評しよう。

 更に千歩ほど譲って、その話を風の噂で聞いて、文脈の存在しない頃、伝わるかどうかを加味した上で、相手を想って使った人間はまだセンスがある方だ。

 それで、目の前の彼女は、そんな彼らに比べれば最低最悪としか言いようがない。

 既に構築された文脈、俺が当然知っている事を知っていて、聞きかじりの知識で、自分にも多少の学があるのだとでも思われたかったのだろうか。

 空には月がある。

 満月、月齢で言うと十五。

 それを綺麗と思う自由は否定しないが、俺はそう思ったことはない。

「いや、全然」

 俺の答えが心底意外そうに、傷付いたような表情すらして、彼女は固まった。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



「それで別れたって?」

 目の前には時代遅れのスモーカーが座っている。

 ひどく甘ったるい煙を吐き出した彼女は常のように笑った。

「あんたも酷い男だよねぇ」

 とても楽しそうに。

「センスの違いを見なかった事にして関係を続ける人間よりはマシだろう」

「相変わらず理屈っぽいねぇ、今度の子は可愛くていい子そうだったのに」

 外見は確かに彼女の美点だった。

 笑顔が特に人懐っこく、魅力的とすら言えた。

 まぁ彼女についての美点は以上だ。

 既に別れた相手の欠点をあげつらうのは主義に反する上に無意味な事なので割愛する。

 いい子かどうかは個人の判断基準に依るだろう。

 顔がいいから付き合ってみた、それだけだ。

 心証心理的モラトリアムの延長期間と言われる大学生の恋愛理由としては然程珍しくもなければ、特別に不誠実というわけでもない。

「ってか、センスなんて格好いい言葉を使うけど、あんたのセンスが良いって証左もないじゃんね」

「あんたには言われたくないな」

「いいねぇ似たもの姉弟だ」

 姉は美味そうに煙草を吹かした。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




「読書してるの?」

 見れば誰でもわかりそうな事で声を掛けられて顔を上げる。

「なにか問題が?」

「いや、特にはないよ」

 そう言いつつ、声の主は俺の前に腰掛けた。

「あっ、すみません、ホットコーヒー一つ追加で」

 流れるような動作で店員を呼び止め、注文を通す。

 まるで、それが当たり前で正当な行為とでも言うように。

「いやぁ混んでるね」

 目の前の人間は一言も発さない俺を観察するように見る。

 俺は仕方なしに、目の前の人物に視線を合わせた。

 視線が交差してきる程長い一分が経過する。

 目の前の人間は瞳の大きさを変えず、口角を少しだけつり上げ笑顔に似た表情を作った。

「読書中に声をかけられるのが嫌いって顔してるね」

 仮にそれを笑顔と呼ぶのなら、魅力的とはほど遠い。

「いい考察だ、今後はその観察結果を生かしてくれ」

 喫茶店で読書をするという、ポーズの時点で目的が完遂してしまっているような趣味を邪魔され、いよいよこれ以上ここに居る意味もなくなったので席を立つ。

「待ってくれよ、私のコーヒーがまだ来ていない」

 冷たい手が手首を握った。

「喫茶店で向かい合ってお話なんて、デートかマルチかみたいで素敵じゃない」

「少なくとも後者は素敵じゃないな」

「それじゃこうしよう、私が君の前に座った理由について正解できたら帰っていいよ」

 満席の喫茶店で、立った男とそれを引き留めようとする女の構図は、それだけで衆目を引く。

「いいだろう」

 リドルにすら届かないリドルを解くために席に戻る。

「ヒントが欲しいかい?」

「ヒントの代わりに条件を一つ」

「なに?」

「俺が正解したら、君が奢れ」

「初対面の女子にたかるなんて、見た目よりも酷い男らしいね」

 初対面、そう初対面だ。

 なにが悲しくて、休日の午後の心安まる一時を見知らぬ人間に邪魔されなければならないのか。

「初対面だよな?」

「もしかして、口説こうとしてる?」

「自意識過剰も甚だしいな」

「因みに、君を口説こうともしてないよ」

「それはなによりだ」

 それならこのリドルの答えは一つだけだ。

「お待たせいたしました、コーヒーになります」

 コーヒーの匂いとしか形容しようのない匂いを漂わせる黒い液体が彼女の眼前に置かれた。

「答えは私が飲み終わるまで待ってね」

「そんな条件は聞いてないんだが」

「いいじゃん、減るもんじゃないし」

「時間は減るんだよ」

「わかってないなぁ時間は減るんじゃなくて、増えていくものだよ」

「見解の相違だな」

「いいね、見解は違う程楽しいからね」

「それも見解の相違だな」

 彼女は口角だけで笑って見せた。

 テーブルに置かれたコーヒーは量を減らすことなく、湯気を出し続けている。

「飲まないのか?」

「猫舌なんだよね」

「アイスで頼め」

「アイスは味が遠いから嫌いなんだよね」

「君の好嫌に興味はない、せめて冷やす動作をしたらどうだ」

「そんな事したらコーヒーが酸化しちゃうでしょ」

「繊細な舌をお持ちで」

「でしょ?」

 皮肉に応じるように、彼女は赤い舌をペロリと見せた。

「そういうわけだから、これが冷えるまでの十分強、君は私とおしゃべりするしかないんだよ」

「初対面の人間とそんなに話すことはないな」

「初対面だからこそあるんだよ。例えば、君が読んでた本は?」

「『数とは何かそして何であるべきか』」

「あー、詰まらなそうだからパス」

「それなりに面白いが」

「君が理系の学部って事はわかった」

「つまり君は文系か」

「正解。ほら、会話が弾んできた」

「そんな感じはしないが」

「私は何学部でしょう?」

「心理学部」

「不正解。文学部でした」

「この会話に意味はあるのか?」

「あるに決まってるでしょ。それじゃ、君は、理学部」

「不正解、物理学部だ」

「へぇ」

「意味があるって言うなら、感慨の欠片もない返事をするなよ」

「だって、君の学部とか正直あんまり興味ないし」

「俺もだ」

「見解の一致をみたね」

「はぁ、さっさとコーヒー飲んでくれよ」

「次の話題はなんにしようか、趣味とかある?」

「見合いじゃないんだが、強いて言うなら君が今邪魔してる時間が俺の趣味だよ」

「私も読書は好きだよ。匂いが付くから喫茶店じゃ読まないけど」

「それは読書好きじゃなくて、本が好きなんだろ」

「大意では同義だよ」

「どうだか」

「君こそ、読書が好きと言うよりも喫茶店で本を読むってスタイルが好きなんじゃないの?」

「狭義では同義だろ」

 永遠に思える不毛な会話は続き、コーヒーから立っていた湯気はいつの間にか消えていた。

「そろそろ繊細な舌でも飲めるだろ」

「ん、本当だ、いい塩梅だね」

 コーヒーカップが空になるまでの沈黙。

 思えば彼女が目の前に座ってからずっと話し続けていた。

 自分を饒舌な方だとは思わないが、彼女とて会話が上手いわけではない。

 そんな二人の中身のない会話。

 人生で最も無駄な時間を更新した事は間違いない。

「それじゃ、解答をどうぞ」

「簡単だ。君が入ってきた時にこの店は満席だった。そんな人間が店内に入る方法は一つ『待ち合わせた人が居る』そう言って空いてた俺の席に座ったんだろ」

 リドルにすら届かないリドル。

 端からわかりきった答え合わせ。

「不正解。違いまーす」

「はぁ?」

「それじゃ、デザートでも食べる? 丁度三時のおやつの時間だし」

「不正解なわけないだろ、他に理由がない」

「出題者は君じゃなくて私だから、正解も私しか知らないんですけど」

「それじゃ」

「あっ、回答はワンオーダー食べ終わる毎に一つね」

「そんな条件は聞いてないんだが」


 十八時過ぎ。

「流石にお腹いっぱいだし、そろそろ出ようか」

 それが当然の主張であるように彼女は言った。

 会計は結局折半だった。

 この変人に奢らせられなかっただけマシと捉えるべきか。

 店外は涼しい、ともすれば肌寒い空気に包まれていた。

「やっぱり喫茶店って匂いが付くよね」

 自分の服を嗅ぎながら、彼女はそんな事を言う。

「匂いが気になるなら入らなければよかっただろ」

「楽しい時間の代償とでも思うことにするよ」

「見解の相違だな」

「どれが?」

「楽しい時間」

「結構楽しんでたみたいに見えたけど、沢山話したし」

「視力も悪いらしいな」

 街灯に照らされた駐車場を抜けると、足の速い夕闇に包まれた道が口を開く。

 なんとなく空を見上げると、一夏を共に過ごした人間を思い出した。

 もう一月が経ったのか。

 不気味に大きな円が空にあった。

「月が綺麗だね」

 隣を歩く人間が不意にそんな事を言う。

「そんな顔しないでよ、他意はないから。そもそも君と私の間にそういう文脈はないでしょ」

 俺はどんな顔をしていたのだろうか。

 不満か、驚きか、不快か、まぁ、そのどれかに相当するような表情をしていたのだろう。

「いや、全然」

 決まり切った言葉を言う俺に彼女は驚いたような、しかしどこかしら楽しそうな表情をする。

「えっ、そう? 中秋の名月だよ?」

「名月かどうかは問題じゃない。そもそも、月を綺麗と思ったことがないだけだ、もっと端的に言えば月が嫌いなんだ」

「前世は竹取の翁だったりする?」

「そもそもだ」

 竹取物語、日本最古の物語とされるそれですら月を特別なものとして扱っている。

「月は天体としてそんなに特別じゃないだろ」

「ん?」

「衛星として見ても、特別面白みがあるわけじゃない。偶々地球に近いって理由だけで他の特別なあらゆる天体を差し置いて夜空の主役みたいな顔をしているのが嫌いなんだ、地球に他の衛星があったなら月なんてそんなに注目されるものでもないだろ」

 誰も彼も夜空を見上げると月に目が留まる。

 自分で光ることもできない、ただ距離が近いから大きく見えるから一つだけだから特別と思われている衛星。

「面白いね」

 彼女は視線を空から落とす。

「でも、その意見は同時にとっても大切な教訓を含んでると思わないかな?」

 月が嫌いな男を見る。

「本来特別じゃない存在でも、近くにあるだけで特別になり得るってことじゃない?」

 思考的空白が生まれた。

 手の届かないほど遙か遠望、特別を焦がれ求め届かず眺める地上の男の隣で、彼女はそう囁く。

 その言葉が驚くほどすんなりと思考の空白に入り込む。

 連なるオリオンや輝くシリウス、不動のポラリス、そのどれにも届かないただの人間にその言葉は反響した。

「ところでさ、月が綺麗じゃなかったら君は『I love you.』をどう訳すの?」

「付き合ってくれ」

「それは随分直線的だね、現代的とも言えるけどさ」

「いや、君に言ったんだ、付き合ってくれ」

「は?」

 今日会ったばかりの彼女は驚いたように目を見開いた。

 その瞳がまばたき以外の可動ができる事に俺も少し驚いた。

「文脈がないんだけど」

 正直に言うと、なんでそんな事を言ったのか自分でも不思議だった。

「文脈がない方が表現としてセンスがいいだろ」

「見解の相違だけど、わかった、いいよ、付き合ってみる」

 驚くほど軽く彼女はそう言った。

 月が綺麗じゃないから付き合ってみた。

 心証心理的モラトリアムの延長期間と言われる大学生の恋愛理由としても珍しいし、我ながら不誠実だとも思う。

「ところで、名前も知らないんだけど」

喜来雷飛きらいらいとだ」

「面白い名前だね。私はきつつき」

「冗談のセンスはないらしいな」

「冗談じゃなくて、木に津の木津に月って書いて、木津月きつつき

 彼女は夜空を指差す。

「ところで、月は綺麗?」

「いや、全然」

 

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