限界OL、河童を拾う。

草下萌乃

限界OL、河童を拾う。

 帰り道に河童を拾った。夏の夜のことだった。それは、会社のすぐ裏にある駐輪場にいた。最初、遠目でそれを発見した時、私はそれをゴミだと思った。ちょうど近所のドラッグストアのレジ袋が深緑色をしていたからだ。風なんて吹いてないのに持ち手部分がゆらゆらと揺れていた。本当はその瞬間、おかしいことに気づいてもよかったが、当時私はとても疲れていてすべてのことに対して鈍感だったので、何も思わなかった。そいつと目が合ったのは、あと数歩で駐輪場だというところでのことだった。ギョロリとした湿った瞳だった。私とそいつは同時に悲鳴上げ、私より先に我に返ったそいつは、何を思ったか仰向けに寝転がった。後に残された私は、恐る恐るそれを観察するしかなかった。そいつのいた場所が私の自転車の後輪の傍だったからだ。大きさは四十センチくらいか。私が背負っているリュックに収まりそうなサイズ感だった。深い緑色をしたカエルのような皮膚。鳥の嘴を平たく潰したような口。頭頂が円形状に禿げていた。近くに生えていた草を千切って突いてみるとそれは微妙に窪み、濡れているみたいだった。月明りを艶めかしく反射させ、うっとりするほど美しい。そいつが死んだふりをしていると気づいたのは、奴が時折薄目を開け、私を観察していたからだ。どうやらこのまま私に去ってほしいらしい。

 私は、そいつを自転車のカゴに入れた。緑色の物体は、抗議するかのように大きく震えたがそれだけだった。なぜか、近くにスマートフォンも落ちていたので、念のためポケットに突っ込んでから、家路に向かってペダルを踏んだ。


「人間。お前は頭がおかしいのか?」

 玄関の扉を閉めて早々、そいつは私に人差し指を突き立ててきた。

「落ちているものを拾って帰ってはいけないと親から教わらなかったのか? いや、そもそもダメだろう。若い女の一人暮らしなのに、こんな得体のしれないものを拾ってきちゃあ。危機管理能力がなっていない!」

 そう云うと、そいつは、水かきのついた湿っぽい足で地団太を踏んだ。私の軽率な行動に怒っているみたいだ。常識的ないいやつみたいだ。期待外れなような安心したような複雑な心境になった。疲れていたので、常識がない私は、そいつの小言を聞き流しながら、ストッキングと制服を脱いで、夕食の支度をした。ボウルを二つ出して、グロノーラをザラザラと盛って牛乳をかける。女の一人暮らしのワンルームにダイニングテーブルなんてきちんとした家具はない。年中広げっぱなしの折り畳みテーブルに置かれたノートパソコンの上にボウルを並べて座布団に座った。促すとそいつも私の前に座った。

「河童?」

 そいつは、コクリと首を縦に振った。やっぱりそうだったんだ。

「あ、食べていいよ」

 河童がスプーンを持ったのを確認してから、私もいつものそれをスプーンで掬って口に含んだ。河童は、眉間に皺を刻んで私を睨んだ。

「何を考えてるんだ?」

「何も」

「なんで俺を家に連れてきた」

「無視してほしそうだったから」

「天邪鬼か? お前、河童より性質が悪いぞ」

 そうなのかもしれない。たぶん、少し前の、学生の頃の私だったら河童を拾ったりしなかった。河童は、ため息をついてから「まあ、いいや」と呟いた。

「それで、俺のスマホを返してくれ」

「スマホ?」

 そう云えば、河童と一緒に転がっていたスマホを制服のポケットに入れたままだった。脱ぎ捨てた制服から取り出したスマホを渡すと、流れるような動作で、河童は転がっていた充電器にスマホを差して、さらにはWi-Fiのパスワードまで聞いてきた。

「スマホの充電が切れそうで困っていたんだ。それに、やっぱり田舎だな。この辺りには全然FreeWi-Fiがない」

 常識はあるが行儀の悪い河童はご飯中にも関わらず、スマホを弄り始めた。

「河童もスマホを使うんだね」

「あぁ、みんなだいたい持っているぞ。ただ、拾い物だからWi-Fiがないと、どうにもならない。そうだ。お前の会社のWi-Fi、弱すぎないか」

 発見当時の河童の様子を思い出す。ゆらゆら揺れていたのは電波を探すスマホを持った河童の手だったのだ。そう云えば、会社から五分ほど歩いたところに柳瀬川という大きな川があった。

「柳瀬川の河童?」

「そんなわけがあるか。こんな田舎。俺は井之頭のシティー河童だ」

 河童は鼻息を荒くした。スマホが使えるようになって安心したのか、自分から身の上を語りだした。井之頭公園の池にはたくさんの河童が住んでいるらしい。ただ、近年、池の面積に対して河童口が増えすぎたせいで土地が高騰し、この貧乏河童は引越しを余儀なくされたそうだ。狭山湖から清瀬市、新座市、志木市を走る柳瀬川は、河童たちからベッドタウンや隠居の地として昔から人気があったらしい。云われてみれば、会社の近くには、河童の名前が付く飲食店や河童の銅像があった。それで、この河童もまた第二の人生を送る地として柳瀬川にやって来たそうだ。

「しかし、田舎過ぎる。こんな所じゃ暮らせない。退屈で死んでしまう。人間のカップルが乗った船の櫂に池の藻を巻き付けて立ち往させて遊んだ日々が懐かしい」

 唾を飛ばしながら河童は熱弁を奮った。いったい何組のカップルがこの極悪河童のせいで別れたのであろう。

「そんなに田舎じゃないよ。東京も近いし都会だよ」

 私が学生の頃まで住んでいた地元は、コンビニに行くのに車が必要だった。この辺りは、少し歩けばコンビニもスーパーもある。河童は信じられないような目で私を見た。田舎者だと見下されているのが分かる。

「まあいい。これも何かの縁だ。私の住処が見つかるまでここに住まわせてもらうな」

 懇願ではなく断言であった。私が断ることはできないらしい。

「寝ている間に尻子玉を抜いたりする?」

 尻子玉を抜かれると腑抜けになる。そのくらいは私だって知っていた。

「古いな。今の河童はそんなことをしない。そもそも尻子玉は人間の記憶や思想だ。そんなもの今はここに垂れ流しじゃないか」

 河童がスマホを叩いた。

「現代河童は、もっぱら尻子玉よりも自販機のコンセントを抜いているぞ」


 河童との二人暮らしは思っていたより快適だった。早々に私の生活能力を見限ったのか、河童は三日目にして掃除機をかけ、洗濯機を回し、食事を作り始めた。おかげで私は自分の髪の毛が落ちた床にうんざりすることも、次の休みまで同じブラをつけることも、朝夜グラノーラを貪ることもなくなった。その代わり、休みの日には河童をリュックサックに入れて近場を案内してやった。柳瀬川はもちろん、都会がいいというので、知っている中で一番都会らしい最近できた角川ミュージアム沿いの東川にも案内してやった。

「田舎だな」

 私の背中で毎回河童はそう云った。私も本気で探しているわけではなかったからべつに気分を害されることはない。

「東京ってそんなにいいの? 人がたくさんいるじゃん。怖くないの?」

「まぁ怖いこともあるが、それだけ魅力的だ。毎回東京のことを聞くが、そんなに気になるなら行けばいいじゃないか」

 何を勘違いしているのか河童はそんなことを私に云う。


 河童と暮らし始めて数週間が経ったある日、とうとう私は限界を迎えた。朝、ストッキングを穿こうとしたら、つま先から太腿まで伝線したのだ。そんな些細なことで涙腺は崩壊し、私は声を上げて泣き出した。河童は心配そうに私を見ていた。たぶん、一緒に暮らしていく中で河童は気づいていた。

「大丈夫か?」

 優しい声なんてかけてほしくなかった。言葉でも甘えてしまう。河童なんかに。深呼吸してから唇を噛んだ。

「今日、住処を決めよう」

 河童の返答は聞かなかった。破れたストッキングと制服を脱いで職場に仮病の電話をした。河童は黙って私を見ていた。

 力いっぱいペダルを踏む。目的地は決まっていた。約十キロ。自転車で行くには少しばかり遠い距離だ。住宅地を抜け、工業団地を抜ける。時々ぽっかりと畑が広がっていたりすると、やはり河童の云う通りここは田舎なのかもしれないと思った。自転車を漕ぎながら、背中の河童とたくさん喋った。本当は東京にある会社に就職したかったこと。東京が怖くて埼玉の会社に就職したこと。仕事が辛いこと。

「私、自分が好きじゃないの。もう嫌なの。頑張れないの。だから、河童が全部無茶苦茶にしてくれるんじゃないかって期待していた」

 だけど、全部壊してほしいと期待した化け物は常識的で壊れた私の生活を立て直した。

「馬鹿だな。頑張れなくてもどうにか前向きに受け入れて生きてくしかないんだよ。まぁそんなことみんなわかってんだけどな。本当にダメだったら俺の故郷に行ってみろよ。東京でもあそこはそこまで都会じゃねえ。昔はあの辺もこの辺も同じ武蔵野で一括りにされてたくらいだしな」

 カハハと乾いた声で河童が笑う。私も笑った。さんざん「シティー河童だ。田舎になんて住みたくない」とごねていたくせに。

「なんで人間を嫌いにならないの?」

 河童と生活をするにあたって井の頭公園の池のことを調べた。ポイ捨てや排水による水質汚濁。スマホや電気は手に入りやすいかもしれないけど、住みにくいんじゃないかと思った。それに、近年行われた掻い掘り作業で河童は一匹も見つかっていない。もしかしたら河童たちはもう。

「濡れるのが嫌だからって雨を本気で嫌ったりしないだろう? 水不足になっちまうからな。河童にとって人間ってそんなものさ」

 リュックサックの中から気取った声で河童は云った。

 畑を抜け、ちらほらと家が増えてきた。遠くに青々と盛り上がった森をバックにゆったりと回る観覧車が見えてきた。額に浮いた汗をぬぐう。途中で買った水はもうなくなっていた。

 あと少し。もう少し。

 私と河童はもう会うことはないだろう。名前を教え合うほど気を許した仲でもない。だけど、どこかでずっと生きていてくれたらいいなと思う。

 自転車はゆっくりと前へ進む。

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限界OL、河童を拾う。 草下萌乃 @kusaka-moeno

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