「あかいきつねさん?」と彼女は言った
多田いづみ
「あかいきつねさん?」と彼女は言った
「あかいきつね、さん?」
その
いや、その娘なんて言ったら失礼かもしれない。なにしろここは婚活パーティーの会場で、結婚適齢期の大人の男女が
「あかいきつねさん……ですか?」
「いえ、もとつね。きつねと書いて
なれた調子でそう答えると、彼女は上品にくすくす笑った。
ここまではいつもどおり、今まで何千回とくり返してきたおれの得意の形だ。
以前は自分の名前があまり好きではなかった。子供のころは、からかわれることもあった。しかし社会人になってからは――とくにおれのように営業の仕事をしていると、いい方に働くことが多くなった。
営業というのは、取引先に名前をおぼえてもらうことが第一。おれみたいな特長のある名前はそれだけで有利だ。「あかいきつねと書いて
ちなみに大方の取引先からは、冗談のような名前にしてはしっかりした仕事をする、と褒められているのかけなされているのかわからないが、まずまずの評価をいただいている。
社内での評判も、「あれ誰だっけ、ほらカップ麺みたいな名前の――」「ああ、赤井ですか。赤井基経」「そう、それそれ」といった調子で、大口の接待なんかにつきあわされることがままあり、そうした大役もそれなりにそつなくこなし、上司の覚えもめでたい。
だが結婚活動となると、仕事のように順調とはいかなかった。名札を読ませて笑いをとるところまではよくても、そのあとが続かないのだ。
まあ、おれ自身に魅力がないといえばそのとおりなのだが、いま一歩相手に踏み込めないというか、殻を破れないというか、気持ちが通じ合うところまでたどりつけない。
たまには興味を持ってくれる女性がいたりもしたが、そういうときはおれの方にピンとくるものがなかったりで、なかなか先へ進めなかった。
それがついに、この愛らしい女性をひと目見て感じたのだ――ああ、おれが探していたのはこの人だったのだ、と。そして彼女の名札を見たとき、その思いは確信に変わった。
田貫みどり――名札にはそう書かれている。
これが運命でなくてなんだろう。
「
「ええ。ですから先ほどお名前を
彼女はそう言って、またくすくす笑った。
それからおれたちが何を話したのか、よくおぼえていない。たぶん他愛もない世間話だ。が、まるで気のおけない旧友と話すように、リラックスした気分でいろいろな話をした。そして会話を重ねるたびに、彼女との特別な
イベントの決まりで別の相手と話すよう指示があったときは、身を引き裂かれるような思いがした。ありがちな表現かもしれないが、それはおれが生まれてはじめて味わう感情だった。
そして彼女も同じような気持ちだったに違いない。なぜなら、会場の遠く離れたところで他の参加者と話をしているときも、幾度となく目が合ったからだ。
映画『卒業』のダスティン・ホフマンみたいに彼女を奪って、すぐにでもここから逃げ出したい気分だった。
パーティーが終わると、おれはすぐさま彼女に申し込んで、彼女はもちろん受け入れてくれた。
それからしばらくの交際を経て、もうすぐおれたちは結婚する。
こういうのをなんて言うんだろう。うどんとそばが取り持つ縁? あまりかっこう良くはないが、派手でもなく流行にも興味がない庶民的なおれたちには、案外ぴったりなフレーズかもしれない。
式の準備もだいたい整って、あとはとくに話すこともないけれど、招待状が刷り上がったというので二人で見に行ってきた。
招待状には可愛らしいイラストで、仲睦まじいきつねとたぬきの姿が描かれている。
「あかいきつねさん?」と彼女は言った 多田いづみ @tadaidumi
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