第2話
あの日、私と彼は友人夫婦との食事の約束が入っていた。その夫婦とは互いに忙しい身だったので、何年も会う機会をもつことができなかった。
なので、三ヶ月も前から予定を合わせ、私も彼もその日がくるのを心待ちにしていた。
彼は胡桃を食事に連れて行きたがった。美しく成長した胡桃を自慢したい、と思う彼の気持ちは痛々しいほどよくわかった。そして私には、あの子が当然のように皆の注目を奪い、その席での主役となるのもわかっていた。
そんなわけにはいかないわ。
私は、胡桃を遅くまで連れ出すことがいかに教育上に悪いかを彼に説いた。
胡桃のせいで、久しぶりの友人との会話を制限されてしまうなんて私はごめんだった。
胡桃の為の提案となると、途端に彼は従順になる。彼はしぶしぶ納得したようで、もう胡桃はお留守番できる歳だもんな、と残念そうに頷いた。
そして食事会当日、彼は申し訳なさそうに、おみやげを山ほど買って帰るから、と胡桃の様子を窺った。胡桃は控えめに笑い、楽しみにしているわ、と返した。すると彼は、まるで神に赦されたかのように安堵のため息をついた。
いつも彼は胡桃の笑顔一つで、何事からも救われたかのような反応をみせる。私はそんな二人のやりとりを心から嫌悪した。
仕度を終えた私達は、出発する前に胡桃に戸締り等のお決まりの注意をし、店の名前と電話番号を書いた神を渡し、何かあったら店に電話をするようにと伝えた。
最後に彼が、寂しくないかい?と胡桃に聞いた。
すると、胡桃が一言、呟いた。
さみしいわ、と。
その時の、胡桃の表情を、声を、空気を、私は一生忘れることはできないだろう。
もはや胡桃は小さな子どもではなかった。しかしそれは、少女や女の子という概念とは大きく異なっていた。
胡桃は、女だった。
大きな黒目、長い睫毛のついたまぶたは伏し目がちにし、上目遣いに彼を見つめた。そして、その声は抑揚がなかったのにも関わらず、妙に甘ったるく鼓膜に粘り付いた。小さな体からは艶やかな色気が香った。媚びたような、毒を含んだような色香。
私はぞっとして、遅刻するから早く行きましょう、と彼を急かした。胡桃なら大丈夫よ、また今度埋め合わせをしましょう、と。
すると胡桃も、早く行かないと遅刻するわよ、と彼の背中を押した。そのまま彼は、おぼつかない様子で私と共に玄関を出た。
しかし、車へと向かったところで、彼が車のキーを忘れたことに気づいた。内心では動揺していたのだろう、と私は軽く思い、彼が戻ってくるのを待った。
だけど、私の考えは甘かった。あの時、私がキーを取りに行くべきだったのだ。彼があのとき実際にどれだけ心を揺さぶられていたかのかがわかっていなかった。
その後、家の中でどのようなやり取りが行われたのかわからない。彼は、私に駆け寄ってくるなり、僕は家に残るから君だけでも行って来てくれ、やっぱり胡桃を置いては行けないよ、とそれだけ言って私に車のキーを託したのだ。
この時、私は怒ればよかったのだろうか。みっともなくてもいい。怒って、泣いて、文句を言えばよかったのかも知れない。
しかし、私にはそれができなかった。それをしてしまえば、私は胡桃を対等な存在として認めることになってしまう気がしたからだ。
あくまで胡桃を子どもとして扱いたかった。私の方が上なのだと思い込みたかったのだ。
わかったわ、と私は平静を装って一人で食事会へと向かった。友人夫婦と何を話したかは何も覚えていない。それよりも家にいる二人が気になって仕方がなかった。
家に帰ると、二人はテレビを点けっぱなしにし、ソファーにもたれかかって一緒に眠っていた。
そしてこの日から私は、胡桃にはっきりとした嫉妬と憎悪を覚えたのかもしれない。
車から見える景色は相変わらずのものだった。崖沿いの道には、朽ちた木の柵が頼りなく設置されている。しかし、それを越えた先にある崖からは、今や吸い寄せられる魔力を感じた。先ほどの休憩で、崖が持つ本来の魔力を目の当たりにしてしまったからだろうか。
ここからなら飛び降りる途中で失神し、一瞬の痛みも感じることなく死ぬことができるかもしれない。飛び降りるという、その瞬間の恐怖さえ乗り越えることができるのなら。
しかし、死と同等の恐怖とはどんなものだろう。
そうして死んでしまった人々は、果たして自分の死に気づくことができるのだろうか。こんなにも冷たくて灰色に染まった海に沈むなんて、淋しくはないのだろうか。
それとも胡桃がさっき言ったように、一人ではなく魚たちと一緒なのだから、そんな感情を抱くことはないのだろうか。
しかし私には、魚たちに食べられるブヨブヨとした死体の姿しか想像できなかった。想像の中のグロテスクな魚達が、あなたもおいでよ、と私に呼びかける。
ごめんだわ、と私はそのイメージを振り払い、ハンドルを強く握りしめる。
遠くの空にはどす黒い雷雲がどんよりと浮かんでいる。
ごろごろと鈍く響く雷鳴は、まるで私の呻き声のように聞こえた。
――車は、静かに走り続ける。
彼の待つ屋敷まであとどれくらいだろうか。
私は今まで走った道筋を頭の中で反芻する。ここまで来るのに随分な距離を移動した。
思えば随分と遠くまで来たものだ。こんなに長時間、車を運転するのは初めてのことだった。
私の車は、胡桃が乗っているときには、必ず調子が悪くなる。まるで胡桃を拒絶するかのように。
しかし、今日は何の問題もなく走ってくれている。それは、初めてのことだった。
先程の休憩で地図は確認しておいた。
彼の屋敷まではこのまま山沿いの崖道を走っていけばいいだけのようだ。ガソリンの残量については予備をトランクに乗せてあり、行く途中でも定期的に補充をしているから問題はない。
あと少し車を走らせれば、ほどなく目的地に辿りつくだろう。
そう、辿りついてしまう。
あとほんの少しで。
私の背中をまたじっとりとした嫌な汗が一筋流れた。
嫌だ。行きたくない。嫌だ。私は何も悪くない。嫌だ――。
ハンドルの硬い革の感触が、いやに私の気持ちを逆なでする。私は今にも泣きそうになりながら、車を発進させた。
車は、静かに走り続ける。
もうすぐ、彼の家に着く。
頭ではそのことを考えまいとしているが、体がその事実を敏感に感じている。体中から汗が滲み出て、もはや小刻みに震える体を隠すことが出来ない。今だって運転をしていることが奇跡に近いくらいだった。
横にいる胡桃は、眠そうな顔をしながら分厚い児童書を読んでいる。胡桃の首元に巻かれたマフラーが、ひどく鬱陶しく見えて仕方がない。
胡桃の首に未だに残る、アレの存在。
それを隠す役割でしかない胡桃のマフラーは、見ているだけで息が詰まる。マフラーをとるとはっきり見えるであろうアレは、隠されていてもその強い存在感をにじませている。
もうすぐ彼の家に着いてしまう。
まず、彼に何を言えばいいのだろうか。私は考える。彼は胡桃の到着を、今か今かと待っていることだろう。
見慣れた車が見えるのを、玄関先で落ち着きなく待つ彼の姿が目に浮かぶ。
町へ出て、たくさんの食料を買い込んできたといっていた。きっと、胡桃の好きな食べ物やお菓子を準備しているだろう。素敵なティーカップも買ったといっていた。
もちろん私にではなく、胡桃に。
彼には、胡桃が見えるのだろうか。もし愛してやまない自分の娘がこの車に乗っていなかったら、彼は一体どんな反応をするのだろう。きっと私一人しか乗っていない車を見て、さぞかし不思議な顔をするに違いない。
遠くに彼の屋敷が見えてきた。崖の上にある彼の家。胡桃と住むために見つけた新しい家。
しかし、そこに私の居場所は無い。
そんなつもりはなかった。かっとなって、つい胡桃の首に手をかけてしまっただけ。それはただの八つ当たりにすぎなかった。そう、ただの八つ当たりだったのだ。
だけれど、一度力を込めてしまった手を緩めることはできなかった。
頭の中は真っ白になり、その白色を腐ってドロドロになった憎しみの色が染めていくのを、私は止めることができなかったのだ。
――ほんとうに、そう?
頭の中で胡桃が問いかける。妄想の、想像の中の胡桃が。
そんなつもりはなかったと、本当に言えるの?
言える、言えるわ。私はそれを強く否定する。
では、私の首を絞めている間、あなたは何を考えていたの?
何も。何も考えていなかった。いえ、考えることが出来なかった。
ほんとうに?私の目の血管が切れて充血していく様を、唇がどす黒くて汚い紫色に変わっていく様を、あなたは静かに、冷静にみていたわ。
違う!私の爪が、私の爪が、剥がれてしまったの!
私が激しく抵抗するのを、必死にもがき苦しむ姿を、笑いながらみていたのは、誰?
違う!私じゃない!私じゃない!私じゃない!
私は無意識のうちに自分の右手を掻きむしっていた。手の甲に、烙印のように残っている爪痕から血が滲む。あのとき、胡桃が私の手に深々と突き立てた、許されざる罪の証。
あのとき私は、胡桃の首を絞める力を決して緩めることはせず、むしろ手に込める力を更に強くしていった。
そして、自分の小指の爪が剥がれるのと同時に、胡桃の華奢な首から、命が壊れる音がした。
それまで激しく抵抗していた胡桃は、それを合図にぴたりとその動きを止め、そのまま壊れた人形へと成り果ててしまった。
あれ以来、胡桃の首の骨が砕ける感触が、いつまでもこの手に残って消えない。ぐったりと、虚ろな目を浮かべ、それきり二度と動くことのなくなった、私の娘。
しかし、私の前から胡桃は消えなかった。
――お魚と一緒だったら淋しくないわね。
ふいに、数時間前に胡桃が呟いていた言葉が思い出された。
胡桃、あなたは淋しかったの?一人で死ぬことが。あなたをあの海に捨てておいていれば、あなたはこうして今も私の前に現れることはなかったの?
いや、違う。私が生きて贖罪をしない限り、胡桃からは永遠に逃れることなどできないのだ。もしくは、私が死ぬまで。もしかしたら、死んでからも。
もし生まれたのが胡桃ではなかったら、もしくは胡桃が男の子だったら、私は母親になれていただろうか。周りの母親と同じように、子どもを愛することが出来たのだろうか。
私はずっと、嫉妬していたのだ。一人の女として、胡桃を。私は胡桃の美しさを、その気高さを、心から嫉んだ。彼が私ではなく、胡桃を選んだということを、私は心から妬んだのだ。
緩やかな山道のカーブを超えると、彼の屋敷がすぐそこに見えた。
大きくて立派だが、控えめで落ち着いた雰囲気のその屋敷は、胡桃の理想郷と寸分違わぬものだろう。彼と胡桃が住むための、二人だけの城。
私が加わることはない、加わることのできない、聖域。
彼が門の前に立っている。私の車を確認し、嬉しそうに手を振っているのが見える。大切な宝物が届くのを待ちわびた、子どものような顔をして。
果たして彼には、既にこの世のものではなくなってしまった、愛しい娘の姿を見ることができるのだろうか。
車は、今も静かに走り続ける。
胡桃の存在を拒絶するこの車。
いつも、胡桃が乗ると不機嫌に唸るのに、今日は不気味なほど静かだ。
まるで私以外、誰も乗っていないかのように。
彼の姿がすぐそこに迫る。
彼は早く胡桃の姿を捉えようと、落ち着きのない素振りで車中に視線を送っている。もちろん彼の目に、私の姿は映っていない。
では、彼はいったい何を見ているのだろうか。胡桃は見えない。私のことも見えない。そうなると彼は空っぽの車内を見ていることになる。随分と滑稽な話だ。
そんな彼の姿に、私の口元は笑みをつくるようにぐにゃりと歪んだ。
私は狂っているのかもしれない。胡桃を殺したあの時から。
「――ママ」
胡桃が私に声を掛ける。
その綺麗な瞳には、私が今まで見たことのないような、強くて、はっきりとした意思を感じる。そしてその瞳は、真っ直ぐに自分の父親の姿を捉えていた。
胡桃が、ゆっくりとマフラーをとる。
胡桃の首には濃い痣が、はっきりとした私の手形が、決して消えることのない罪の象徴として、いつまでも残り続けている。
そして胡桃が、言う。
「――パパにきちんと伝えてね」
終
胡桃 ~くるみ~ 秋野 柊 @shun0923
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