胡桃 ~くるみ~

秋野 柊

第1話 

「――パパにきちんと伝えてね」


 車中で胡桃が、いつもと変わらぬ淡々とした口調で言う。


 「わかっているわ」

 私は今日で何回目かの、同じやり取りを胡桃と交わした。

 胡桃はじっくりと、私の心を弄ぶように、毎日こうして同じ言葉を投げ掛けてくる。

 きっとこの子には見透かされているのだ。私の心の内を全て。


 ――車は、静かに走り続ける。


 私はハンドルを握る自分の右手に目をやった。そこには真っ白な包帯が痛々しく巻かれている。ガーゼに覆われた小指の先には、いまだにずくずくとした鈍い痛みが残っていた。


 私は今日という日が来ることを心から恐れていた。一日、一日が、まるで万力のように私をキリキリと押し潰していく恐怖。私はそれに声を立てず、静かに耐え続けてきた。

 そうして、私はついにこの日を迎えてしまった。


 ハンドルを握る私の両手はじっとりと湿っている。私は緊張感を維持しながら、神経質にアクセルを踏み、車の速度を調節した。


 私が車を走らせているのは、山と海に挟まれた長い崖道だ。

 もし私が気まぐれでハンドルを左に切れば、私たちを乗せた車は崖からまっさかさまに落ち、海に激しく叩きつけられることになるだろう。文字通り、海の藻屑となる。

 そんな私に、隣の助手席で座っているはずの胡桃の顔を見る余裕はなかった。

 だけど、きっと胡桃はぞくりとするほどの美しい顔で、相変わらずの無表情を浮かべているに違いない。


 私達を乗せた車はそうして数時間、崖に沿った単調に続く道路を淡々と走り続けていた。


 私の車は一人で乗るときには何の問題も無いのだが、私以外の誰かが乗ると途端に調子が悪くなる。まるで動くことを拒絶するかのように不機嫌そうな音をたて、なかなかエンジンがかからない。走っている最中にも不気味な音を出して、がたりと揺れることも度々あった。

 特に、胡桃と乗っているときは必ずといっていいほどそういうことが起こった。

 きっとこの車は、私自身なのだ。私が認める存在しか受け入れないのだ。

 だからこの車が、胡桃を頑なに拒絶するのは当然のことなのだ。


 ――車は、静かに走り続ける。


 ふと、私は背筋にぞくりとした悪寒を感じた。そして、隣から私を静かに見つめる気配に気づく。


 いつの間にか、胡桃がこちらを向いていた。


 胡桃の温度の無い、無機質な視線が私に注がれている。私はその視線に耐えられず、嫌々ながら胡桃とのやりとりを試みる。


「胡桃、寒くはない?」

 すると胡桃は、私からふい、と視線を外して呟いた。

「平気よ。毛布を膝にかけているもの」


 そう、とだけ私はこたえ、私達の会話は終わった。いつものことだ。そう、いつもと変わらない、娘との虚しい会話。

 私はほんの一瞬だけ、ちらりと胡桃の様子を見る。


 助手席に小さく座る八歳になる私の娘は、ただ黙って外の景色を見ている。その美しさは、人間が持つことのできるそれとは異質なもので出来ている。


 ガラス玉のように透き通り、大きく綺麗な茶色の瞳はまるで異人のようだ。

 雪のように白く、絹のように滑らかな肌。鮮血の様に紅い唇。胡桃の手の平から生える五本の指は、軽く握るだけで折れてしまいそうなほど細い。まるでガラス細工のように繊細で、脆そうだ。

 そしてその指の先には、ピンク色の爪が十枚きちんと貼りついている。

 その姿はまるで、神様の造形物とでも表現できそうな、艶やかでいて神秘的な美しさだ。


 そして今はマフラーに巻かれて見えないが、胡桃の細く頼りない首が、彼女の小さな頭部を支える役割を果たしているはずだ。マフラーの上には、胡桃の柔らかい栗色の髪がふわりと降り積もっている。


 この子は、人形のように完成されている。 

     

 胡桃は窓を開けて、その美しく整った顔を、冷たい風に当てている。

 私は胡桃が怖くて、恐ろしい。しかし私は、その存在を心から嫌悪している反面、この子に憧れの感情を強く抱いてもいるのだ。胡桃は花の蜜のように甘い魅力を放つ。けれど、その蜜には毒が含まれている。それはとても残酷な毒だ。


 胡桃のようになりたい。胡桃に気に入られたい、という強い欲望と、それが決して叶わないという絶望。胡桃の蜜に誘われた者は、じわじわとその魔力に毒されていき、最後には飲み込まれてしまう。

 そして、その抗えない魔力が私をひどく不安にさせ、その不安が私の胡桃に対する憎しみを駆り立てる。それは胡桃の近くにいればいるほど、強くなる。次第にその感情は恐怖へと形を変え、私の心にぼとりと黒い染みを作っていった。


 崖沿いの道を走るようになって、もう三時間は経っただろうか。朝一番に自宅を出発して十時間は経つ。出発当初には見ることのできた、町や人々の喧騒が、今では随分と懐かしく感じられた。

 今や小さな町どころか、民家や人影さえ見かけない。そういえば、この道を走るようになってから、対向車と全くすれ違っていないことに気づく。 

 このまま行けば、あと数時間で彼の住む家に着くだろう。それは、たったの数時間だろうか?それとも、まだ数時間?


 それは私に与えられた最後の猶予であり、同時に胡桃から開放されるまでの時間でもあった。


 胡桃がね、欲しがっているんだ。


 あの日、夫は嬉しそうに私に言った。まるで子どもみたいに目を輝かせて。

 胡桃がね、言うんだよ。パパ、崖の上に素敵なおうちが欲しいの。暖炉がある大きなおうちよ。目の前には海が広がっていて、そこで毎日絵を描くの。動物も一緒に暮らすの。そうね、大きな犬がいいわ。周りには誰も住んでなくて、私達だけなのよ。素敵でしょう?ってさ。


 私にそう話した彼の目は、出会ったばかりの頃と同じ色をしていた。私と恋をしていた時と同じ色。そして、彼が私にその話をした時、彼はすでに辺鄙な場所の土地を購入しており、更には会社の部下に、海外にある大きな屋敷を買い付けに行かしていた。


 私は嫌よ。仕事もあるし、そんなところじゃ友達と遊びにも行けないじゃない。買い物だって不便よ。

 このとき何も知らされていなかった私は、そう言って強く反対した。


 そう、彼はそのことについて私に何の相談もしなかったのだ。彼は私の知らないところで事を進めていた。私がその全てを聞かされたのは、彼との離婚が決まって少し経った頃だった。

 今思えば、彼と胡桃の頭の中でイメージされていたそこでの日々に、元から私の姿はなかったのだろう。


 胡桃はどちらが引き取るのかはわかりきったことだった。しかし、私はここで胡桃を渡してしまったら、彼は私のことなどあっさりと忘れ去り、もう二度と会いに来ないような気がした。


 だから私は、胡桃は渡さない、と彼に告げた。それは子どもの駄々と同じようなものだったのかもしれない。

 何よりも、私は悔しかったのだ。

 もちろん、私が胡桃を引き取るなんて、彼が許すはずもない。私達はそれから何日も話し合いを重ねた。


 彼は常に冷静だった。感情を荒立てる事なく、まるでビジネスの取引をしているかの様に、落ち着いて話を進めた。それは私を妻ではなく、ただの顧客としてみているようだった。


 その結果、とりあえず互いに一ヶ月間だけ胡桃と生活をし、最終的に胡桃にどちらと住むか決めてもらおうということになった。

 まず始めに、私が胡桃と一ヶ月過ごすことになった。そこには、そうしておけば私も満足して、一ヵ月後にはそのまま胡桃を引き取れるという彼の思惑があったのだろう。

 彼は、自分が胡桃に選ばれると確信していたから。


 私は当初、胡桃はこの提案を拒否すると思っていた。あの子が私に懐いているとは到底思えなかった。胡桃は考えるまでもなく彼を選ぶ、ということは私も疑い様がなかった。

 しかし・・・。


 わたしはかまわないわ。

 と、胡桃は言った。


 私達が離婚をすることを伝えたときも、胡桃は表情を変えず、そうなの、と言っただけだった。八歳の娘は、まるで仕事のように私との共同生活を受け入れた。


 きっと、胡桃は私の考えを見抜いていたのだと思う。その上で、私に少しばかりの慈悲を与えてあげようと思ったのだろう。もう二度と会う事はないのだから、この不憫な女に最後の猶予をあげましょう、と。


 私は子どもだったのだ。胡桃よりも、ずっと。


 途中、車を停めるのに適当なスペースがあったので、そこで休憩をとることにした。私と胡桃は、車を降りて目の前の景色を眺める。そこには安全柵の無い崖、そして海が広がっていた。


 私は長時間の運転の為か、全身が強ばっているのを感じた。控えめに体を伸ばすと、ゆっくりと血液が体中を巡っていくのがわかった。腰からは陶器がひび割れるような小気味良い音が聞こえる。随分と体に負担がかかっていたようだ。


 胡桃は慎重に、まるで細いロープの上を歩いているかのように、頼り気なく崖へと近づいていった。まるでそれは、私の心の内を体現しているかのようだった。


 私は鞄からシガレットケースを取り出し、煙草を一本咥える。それにマッチで慎重に火をつけ、紫の煙を静かに吸いこみ、ため息と共にそれを吐き出す。


 「危ないわよ」

 私は崖に向かって歩いていく胡桃に声をかけた。

 「――きれいね」

 返事をしたのか独り言なのか、そんなことを胡桃は呟いた。


 崖下からは波が岩肌にぶつかる音が穏やかに響いている。

 「本当に、きれいね」

 胡桃はまた小さく呟いた。


 「ここから落ちたら、死ぬのかしら。きっと、死んでしまうわね。波もあるし、誰にも気づかれることなく、そのまま沈んでしまうでしょうね。それは、とても淋しいことね」


 私は胡桃のその言葉にどきりとする。そして、全身の毛穴からいやな汗がじわりと染み出す感じがした。

 私は思わず煙草を地面に落とし、その火を足で踏み消す。

 「馬鹿なことを言わないでよ」

 私は平静を装いながらも、微かに声を震わせて言う。

 「ばかなこと?」

 胡桃は純粋に疑問だけを抱いたように聞き返す。


「だってそうじゃない?そんなことを考えるなんて、馬鹿馬鹿しいわ。それに落ちて死んでも、どうせ魚の餌になりながらどこかの岸にでも打ち上げられるだけよ」

 私は気づくと、胡桃の方へと向かって自然と歩き出していた。


「――そうかしら?」

 胡桃はこちらを振り返ることなく、その視線は崖下を見据えたままで呟く。その声も先ほどとは違い、私をいたぶる様なニュアンスに変わっている。

「私はそうは思わないわ。そのまま沈むことだってあるわよ、きっと」


 ねえ、と、胡桃が振り向いて私を見た。作り物のような、がらんとした瞳が私を映す。

 ――こっちの方がよかった?


 私は思わず、胡桃へと向かって動かしていた足を止める。

「もう出発するから車に乗りなさい」

 私は吐き捨てるようにそれだけ言うと、さっさと車に引き返すことにした。煙草を吸ったことで弛緩したはずの緊張は、吸う前よりも酷くなってしまった。


 胡桃は名残惜しそうに崖下を見つめていたが、少しすると大人しくこちらに向かって歩いてきた。

 そして車に乗りこむと、もう一度だけ崖の方に目をやり、


 でも、おさかなといっしょだったらさみしくないわね、と呟いた。


 最初から、私は子どもなんて欲しくなかった。

 元々、子どもは嫌いだった。私には何のメリットもないと思っていたし、子どもができることで、彼と二人だけの時間を失うのが嫌だった。


 だから私には、子育てという言葉は忌まわしいものに聞こえたし、子どもという存在は、私にとってはただの枷というモノでしかなかった。

 妊娠がわかったときも、まず思ったことは、なぜ避妊をきちんとしなかったのか、ということだった。彼が子どもをつくりたがっていたことはわかっていたのに。


 それからも、だんだんと自分のお腹が異物によって大きくなっていき、そのせいで友人と遊びに行く事ができなくなっても、彼が驚くほどに献身的に尽くしてくれるようになっても、私には「子どもを産む」という実感が最後まで湧くことはなかった。


 だがその実感は、胡桃を産むときに痛みとなって激しく襲ってきた。子どもを産むという実感は「訪れる」ものではなく「襲ってくる」ものだと、私は文字通り痛感したのだ。


 出産が終わったときにまず思ったのは、なぜ私が、ということだった。なぜ私がこんな思いをしなければならないのか。こんな思いをしてまで出産というものをする価値があるのか。もうこんなことは二度とごめんだ。


 胡桃という名前は彼がつけた。彼がクラシックの中でも一番好きな組曲の一つからとったのだ。十二月に生まれたからぴったりだろう、と彼は心から幸せそうに言っていた。

 胡桃が生まれて数年間、私はあの子に何も思うところは無かった。喜びも悲しみも憎しみも感じることはなく、母としての実感を抱くこともなかった。


 ――それが変わったのは、胡桃が六歳の時だった。


 

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