第8話 新しい職場2
外は急激な雨。
この屋敷の中からでもわかるその雨は、もはや夏の風物詩となりつつあるゲリラ豪雨というものだろうか。長時間降っても鳴り止まぬ気配はない。
俺は、珠希に案内された休憩室にいた。
休憩室というには、あまりにも広い部屋で、珠希と2人きりで畳の床に座っている。
部屋の中は、洋風の屋敷に見合わず、畳に、コタツのテーブルが置かれていた。
テーブルの真ん中には灰皿と、高そうなライター、俺が愛煙している新品のタバコが置かれ、まるで室内は、旅館の一室のようであった。
「あ、雨…降ってきたから今日は仕事できないね…」
珠希が呟く。
俺は、先ほどあの紳士風の老人に渡された契約書をじっと見直しながら言葉を発した。俺は書類に指差し、珠希に質問する。
「これって会社に所属するようなものですか?」
「う…うーん。じいじが用意したものだからわからないけど…そうだと思う…」
珠希はこの件には介入していないのだろうか。
もちろん、珠希が言った通りの給与であるし、勤務時間や残業代などを見るに、悪い契約ではない。むしろ、契約上は正社員の雇用。条件がよすぎるくらいだ。
副業しても大丈夫とのことなので、今までやっていた警備員の会社はやめなくてすみそうである。
しかし、書類の一番下に書かれていることが気になる。
「この三峰グループって…?」
「あ…それ、パパの会社なんだ」
俺が知っている三峰グループと同じなのであれば、この会社は、財閥企業。
銀行や建設会社、自動車メーカー、その他もろもろ、色々な場所に三峰の名前がある。上げたらキリがない。
もし、この珠希が、財閥令嬢であるならば、この屋敷の広さも理解ができるが、たまたま俺が財閥令嬢と知り合う、というのはあまりにもリアリティがなかった。それに、もし財閥令嬢が住んでいるとすれば、やはり東京だろう。神奈川のこんな辺鄙なところに住んでいるのも納得はいかない。
それにこの契約書に書いてある代表取締役は、立木 一郎という人物。珠希とは、関係も無さそうだ。
やはり、これは、この闇の組織のカモフラージュ会社ということになるんだろうか?
裏の世界に入ったばかりの俺には、到底理解の及ぶ話ではなかった。
※速瀬が、勝手に闇の組織だと思っているだけである。
俺は目の前の契約書にサインし、その紙を珠希に渡した。
どうせ逃げられないのだから、正式にファミリーの一員となり、気に入られたほうが生存率が高いだろう。
珠希はその紙を受け取ると、持っていたファイルにしまい込んだ。
「き、今日は雨だからこのまま私とお話とか…する?なんて…」
「別にいいですよ」
雇い主にそう言われるのであれば、俺に拒否権はない。
契約書にサインしただけで帰るというのも殺されそうで怖いしな…。
「あ、もし、雨が止まなかったら…ここに泊まっても…い…いいから…」
「確かに、明日のことを考えれば、泊まれたらありがたいですけどね」
「へっ?ほ…本当に?」
まさか本当に泊まると言うとは思わなかったのか珠希は俺の言ったことにかなり驚いている様子だった。
この屋敷は広いと言っても、確かに女子高校生の家に泊まるというのはよくないかもしれない。というか犯罪者にもなりかねない。
いや、油断してたが、考えれば、ここは組織の本拠地。
警察をわざわざこの屋敷に招き入れるとは思えない。つまり俺は捕まる心配はない。いや、もう契約書にサインした以上、ファミリーの一員と見なされるのだろうか。
もし、この屋敷にガサ入れなど警察が来ようものなら、俺もたちまち捕まってしまう可能性も考えられる。
そうなるのであれば、やはり、リスクを考えるとここに泊まるなどもってのほかだ。
「あ…あのやっぱり…」
「は、は、速瀬さん!夕ご飯は何がいい?」
「え…えっと…」
どうやらもう訂正は効かないようだ。
珠希は俺が泊まると聞いた時から何やら1人で盛り上がっている様子。
契約書にサインした以上、珠希は上司。逆らうことはできない。
俺は諦めて、そのご飯のリクエストに応えることにした。
「そ…そうですね…。ラーメンとか…?」
「あ、速瀬さん好きだもんね…」
俺がそうリクエストを言うと珠希は考え込んでしまう。
ラーメンの何がそこまで頭を悩ませているのかわからない。
俺も、珠希が考え込んでいる理由を推測することにした。
ラーメンが嫌いとかだろうか?
いやそれならば、ラーメンは嫌いと言えばすむだけの話。
もしかして毒を仕込もうとしている?
もしそうなのであれば、ラーメンに毒を仕込むのは簡単だろう。スープに入れておけば怪しまれることはない。何も迷うことはないはずだ。それに俺はもう正式にファミリーの一員なのだ。新参者であれど、軽率に殺すなどとは考えにくい。
この可能性も違うとすれば、ラーメンが用意できないとか?
確かにこの線が一番濃厚である。しかし、それならば、ラーメンは用意できないとそのまま俺に言えば解決だ。俺は、考えれば考えるほど混乱していく。
契約書、闇の組織、夕ご飯、ラーメン。これらが意味することを一旦整理しつつ、考える。
つまり、俺を外に出さないために、監禁しようとしている?
そうだ。そうに違いない。俺は新参者で信頼を勝ち取ってはいない。何日間か拘束して、俺に洗脳を図ろうとしても不思議はない。
俺の考えはもはや悪いほうにしかいかなかった。
しかし、この考えは、発想は違えど、とても惜しいところまできていたのだ。
一方で珠希の脳内はこんな感じのことを今考えていた。
(ラーメンかぁ。食べたことないなぁ。速瀬さんが好きなものを私も食べてみたい。
でも用意できるかな?もしラーメンが用意できなかったら速瀬さん帰っちゃうかも…)
そんなことを考えているとも知らない速瀬は、1人珠希に怯えていた。
落ち着け。俺。
まず頭の中を整理するんだ。この屋敷に来てからというもの、悪いことばかり考えてしまう。そもそも俺の脳は28年間の間、疑いばかりだ。
人はそんなに恐ろしい人ばかりではない。疑心暗鬼すぎるのも問題なのである。
「あ…あう…えっと…じいじにちょっと聞いてみるから待ってて…」
珠希さんはそう言うと、休憩室のドアから出て行ってしまった。
俺は、この部屋に1人になったことで、安心したのか、体を横にしながら、考えをまとめる。
珠希さんが、大富豪であれ、闇の組織の人間であれ、どちらにせよ俺がすることは警備である。俺がこの家の事情と介入することは、よく考えればあまりない。
工事現場でも、俺達警備員はそこで何の工事が行われているかはわからない。
なので、例え、雇い主が何をしていようと俺が罪に問われることはないだろう。
俺は落ち着きを取り戻す。
横になった体を起こすと、部屋を見渡した。
隅に置いてあったハンガーラックが気になり、俺はその中身を開けようと立ち上がった。
ハンガーラックの右側には、何着か服がかかっており、俺が着ている警備員用の服に似ている。
左側にあった5段ほどの棚の中身が気になり、上から順に開けて行った。
1段目を開けると、きちんと畳まれているTシャツが何枚も入っており、収納されている。特に気になる点はなく、2段目、3段目と開けていく。
2段目や3段目も同じく、服や男物の下着などが畳まれて入っており、普通の棚の様相を呈している。
(なんだ。普通の家じゃないか。広いだけで俺の家と何ら変わりはない)
そう安心しかけた瞬間。
4段目を開けるとそこには…。
「な…なんだ…これ…」
驚くべきことに、黒光りした拳銃と思わしきブツがいくつも並べられている。
自分の悪い考えが確信に変わる。
(モ…モデルガン…だよね…?)
俺は震えた手で、それを1つ手に取る。
ズシリと手に重みを感じる。
そのしっかりとした重みが、それが本物であることの証明になった。
その時、後ろでガチャリとドアが開く音が聞こえる。
俺はその音を聞くと、すぐさま、その拳銃を元あった場所へとしまい込み、入ってきた主の方向を向いた。
「速瀬様。お嬢様がお呼びです」
入ってきたのは、スーツ姿をした若い女性であった。
俺は、崩れている体を必死になって起こそうとするが、腰が抜けていて立ち上がることができない。
そんな俺を不思議に思ったのか、女性が靴を脱いで俺のほうへと近づいてくる。
「何をしていらっしゃったのですか?」
女性は歩みを止めず、そう言いながら胸ポケットを弄っている。
(こ…殺される…!?)
俺はぐっと目を瞑った。
女性の足音は、俺の目の前で収まり、スーツが擦れる音だけが俺の耳に入ってくる。
しかし、女性は、何か俺に危害を加える様子はない。
「どうぞ」
女性の声が目の前から聞こえてくる。
俺がゆっくり目を開けると、女性が白いハンカチを俺のほうに向けてきていた。
差し出されたハンカチを恐る恐る受け取った俺は、その女性に質問をした。
「あ…あの…これは…?」
「擦りむいている様でしたので、ほら…ここ」
女性は右手の甲をこちらに見せ、左手でその甲を指差している。
俺は自分の右手を確認するとラックの角にぶつけたのか、少し手の甲が切れ、怪我をしていた。俺は渡されたハンカチで甲を拭い、殺されなかったことに安堵する。
(見られてはいなかったみたいだ…)
俺の推測、推理は全て当たっているのであろう。
ここは、本当に闇のドンの本拠地で間違いない。今殺されなかったのは運がよかっただけだ。
「立てますか?」
女性が俺に手を差し伸べてくれている。
しかし、女性にこう言われるのはあまりにも情けなく感じるし、何より組織の人間に借りを作りたくはない。
ハンカチを受け取った手前、借りを作っている気もするが、気が動転しすぎている俺は、そこまでの考えに至らなかった。
俺は、ラックに手をかけ、なんとか立ち上がる。
「だ…大丈夫です…すみません…ハンカチは洗って返します…」
「いえ、それは差し上げます。それよりもお嬢様がお待ちですので、行きましょう」
人間の温かみを感じない声色のその女性は、さっさと俺のことを置いて、部屋のドアのところへと向かう。俺もその後を追った。
広い屋敷の廊下を2人で歩いている俺は、周りの景色を伺う。
もし、この屋敷にこれからも通うことになるのであれば、道順は覚えておかねばならないし、何より避難経路は重要だ。
「どうかされましたか?」
女性は、俺の前を歩いているのに、俺の目線がわかっているのか、振り返らずに話しかけてくる。
「い…いえ…な…なんでもありません…」
「そうですか、何か困ったことがあれば何なりとお申し付けください」
俺にそう言い放つと、女性は再び黙ってしまった。
女性がある一角を曲がると、広いホールのような場所に着く。
そのホールのど真ん中にある、テーブルの傍に腰かけていた珠希が、俺のほうへと目線を配ると話しかけてくる。
「あ、速瀬さんこっち…」
「は…はい…」
俺は、先ほどの女性にペコリと頭を下げると、珠希のほうへと向かった。
「あ…あの…そこの女性は…?」
「へ?あ…あぁ…立木さんのこと?ここの家政婦…みたいなものかな…」
家政婦にしては面持ちがかなり鋭い女の人であった。
立木といえば、契約書にあった代表取締役の苗字と一緒だが、あの書類の名前は明らかに男の人であったので、この家政婦のことではない。
考えられる可能性をあげるなら、その代表取締役の娘、あるいは妻。それかまったくの無関係である。という感じだろうか。
「あ、そうそう…ラーメン。用意できたよ。す…座って待ってて」
そう言われた俺は、珠希が座っている正面のソファに座り込んだ。
用意できたということは、このフロアで食べるのだろうか?
このフロアは朝食をとった時の場所よりも、煌びやかで落ち着かない。
「た…立木さんって、三峰グループの社長と何か関係あったりしますか?」
極力、入口のほうで立っていた立木さんに聞こえないようにこっそりと言う。
「んー…わ…わかんない…」
「どれくらいここで働いてるんですか?」
「ご…五年前くらい?」
俺は思わず、立木さんのほうに振り返る。
しかし、彼女はじっとその場で立って目を瞑っていた。
俺が立木さんのほうを眺めていると、なぜかちょっと機嫌を悪くした珠希が、俺の服の袖を引っ張った。
「た…立木のことがそんなに気になるんだ?」
「え…いや…なんか見られてると怖いんで…」
俺は正直にそう言うと、珠希も立木さんのほうを見る。
なんとなく納得した様子の珠希は、立木さんに下がるよう言うと、立木さんはこちらに一礼し、どこかへ消えて行った。
俺はほっと胸をなでおろすと、ソファに腰を深く落とした。
「は…速瀬さんって…あ、あ、あ…あの…」
そんな俺に何かを言おうとしている珠希は、えらく動揺していた。
俺はそんな珠希の言葉を待つ。
「えっと…速瀬さんは…ああいう女性のことどう思う?」
「ど…どう思う…ですか?」
俺は、聞かれた意味を考えた。
いや普通に考えるのであれば、怖い。しかし、あの人もファミリーの一員なのであろう。あの人を軽視すれば、もう5年も働いているというあの女の人のほうが信頼は厚い。俺がここで失言をすれば、殺されるのはファミリーとして日の浅い俺だ。
「そうですね…仕事ができそうな感じはしますけど…」
「い、異性として…どう思う…?」
「は?異性として?無理無理…ないですよ。怖いです」
やばい。答えを完全に誤ってしまった。
ここは褒めるべきだったのについ本音が口に出てしまう。頭を抱えた。
俺は、意を決して、弁解をしようと、珠希のほうを見ると、先ほどの不機嫌な様子も見る影がなくなり、たちまち上機嫌になっていた。
「そ…そうだよね!あ、そうだ。ラーメンって味がいっぱいあるんだよね?速瀬さんは何がいいんだっけ?」
にこにこしている珠希は、立木のことも忘れ、ラーメンの味の好みを俺に聞いてきている。しかし、俺はその笑顔の意味などわかるはずもない。上機嫌なのは、裏があるともとれる。
「み…味噌がいいです…」
「味噌かぁ…じゃあ私もそれにしよう」
だが、俺には、雇い主の機嫌を損なうわけにはいかない。
裏があるとしても、顔に出ないのであれば、俺にはその人がなんて思っているかなんて予測もつかないのだから…。
新人警備員と引きこもり女子高生 けーあーる @k_kuru
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