ソムウィン

第1話

王歴720年。世界は全体的に安定していた。


民は平和を謳歌し、国と国との間には物々しい雰囲気や隔たる高い壁もなく、花鳥風月全てが明瞭に光り輝いて見える世界において、もはや争いなど子供の口喧嘩や政治の場の議論にしか存在しない、空虚で軽薄な過去の遺産となっていた。いかに複雑な言語を操る国でも、いかに貧富の差が大きな国でも、いかに法規範が変わる国でも、もはや戦争など無用の長物となっていたのだ。


人々はこれまで自分たちの先祖が重ねてきた激しい争いの歴史をすっかり忘却の彼方に追いやり、自分が今踏みしめている大地に何万何億と吸い込まれた血にも興味を示すこともなく、先人たちが手に取ってきた武器さえその目で見たことも手にしたこともない者が国の、そして世界の大部分を占めていた。全世界はもはや戦争など存在ごと、言葉ごとすっかり忘れてどこかへ飛ばしてしまったのだ。


そんな中、約200年ほど前から地球の東南の地、青く拡がる海と広大に続く森林に挟まれ、熱気と湿気の立ち込める地に、チャナーカーシャという王国が存在していた。


面積は東南地方では最も広く、北西に細長い半島を1つ、海を渡ってやや小さめの離島を2つ、南方に海、北方に森林を挟んでビエナシ王国とサンクルーム王国、西方にメナヘラーム=ラグマーニ国、東方に大安だいあんという計5か国に囲まれている。乱世のさなかの王歴514年に勇者ソムチャプランによって建国され、初代王となった彼の子孫が代々玉座を受け継ぎながら、領土拡大と共に国を繫栄に導き、今や「花と幸福の国」と呼ばれるまでに平和で人民的な国へと成長させた。


多文化的な側面は4つの国に囲まれていることからも容易に推測できるが、宗教1つとっても多様性に富んでいる。建国以来、勇者にして初代王のソムチャプラン、通称「ソム王」を絶対神とする「チャプラン教」がチャナーカーシャ人の主な信仰宗教となっているが、隣国メナヘラーム=ラグマーニ国の影響を受けやすい西部にはラグマーニ教の信徒も存在し、逆に大安の影響を受けやすい東部には大安をはじめとする東方世界で最も崇拝されている天神教の信徒も存在する。北部ではビエナシ王国とサンクルーム王国の主宗教である自然崇拝に傾倒する者が多い。半島の先端や離島では周辺国に影響を受けた独自の宗教や文化も存在し、比較的多種多彩な文化が入り混じった国である。人種にしても北方隣国ビエナシ王国とサンクルーム王国と同属のチャナ族をメインに、ラグマーニ族や大安やその隣国周囲に住むだい族、またはそれらと混血した人種も存在する。


このチャナーカーシャ王国の現王の座に就くのがソムラーチャオ、通称「ソム5世」である。王歴699年からこれまで21年間玉座に座っており、後継者争いを起こさないよう直系男児を7歳までに1人に絞ってきた過去4代の王とは違い、4人の男児をそのまま7歳を超えても育て続ける一面を持ち合わせている。その他にも宰相などを置かず、国事に関わる重要事項の決定方法や財政支出、周辺外国との交渉や軍事維持などを先代と異なる方針で自らの色を押し出す国政を進めている。


先代と違い、王によるよく言えば直接的、悪く言えば独裁的な国政に対し、国民からはソム5世のやり方を批判する声も決して少なくはない。それでも21年にわたって国をつつがなく動かしているラーチャオには尊敬と崇拝の念を持つ国民が大多数を占めている。


そんなラーチャオの下、これまでのソム王朝によるチャナーカーシャ王国の統治が続いている。



海の見える山の手に築かれた白い壁に囲まれ、5階建ての宮殿は海と街を見下ろしている。大理石で作られた壁の向こう側にはラブーカの咲き誇る庭園があり、宮殿に住む者が使う水浴の場があり、多くの部屋を持つ白く広い宮殿がある。


その宮殿の4階の一室で、窓辺に佇み海を眺める1人の少年がいた。


背丈はそれほど高いとは言えないまでも凛々しく、全体的にどこか陰険で鋭利な目を持ち、王族を示すマントのような赤い伝統衣装の袖口からはこの宮殿の壁の大理石ように白い肌を見せる。青白く輝く長髪を窓から吹き込む昼風に揺らしながら、彼は手にした2枚のカードを机に放り置いた。


ソムウィン―ウィンと呼ばれるその少年は、天色の瞳から放つ鋭い眼光を窓の下に向けた。


ウィンはまもなく12歳になるラーチャオの4男で、父の6人目の妾との間の子である。ウィンが物心ついたときには既に産みの母親はこの世を去っていた。全て母親が異なる3人の兄、2人の姉、1人の妹を持ち、父の正妻である王妃を含めて義理の母が実に8人もいる。


ラーチャオにとって次期チャナーカーシャ6代目国王、「ソム6世」となる長男のラークットと、彼を補佐する立場に就くであろう次男のラーベッキにしか興味はなく、他の息子娘には全く興味を示すことはない。12年弱の間でウィンとラーチャオが目を合わせたことは片手で数えきれるほどしかなく、彼らが最後に会話を交わしたのはもう2年も前になる。これまでのウィンの世話は全て、乳母と宮殿の家政婦が行なってきた。


過去4代の王が兄弟を7歳になるまでに1人に絞り、後継者に選ばれた者以外は養子として放り出してきた一方で4人の男児をずっと宮中で育てているのは、愛があるからでもなんでもない、単純に後継者候補に何かあったときの「身代わり」になるからだ。ラーチャオは打算的な考えしか持っておらず、そこに愛などない。勿論末兄弟のウィンなどにはなおさら興味すらないのだ。


そんな宮中の家族仲での孤独にも彼が何も動じず、何も感じていないように見受けられるのは、元より父に興味も期待もなかったからだろうか。あるいはそれゆえ早熟なまでの知能と精神を持ち合わせたからだろうか。それとも彼のその美貌と明快な性格で人が自然と寄り付く性によるものだろうか。


彼は学問においても武術においても同世代の、あるいは少し上の年齢の者くらいであれば優に勝てるだけの力がある。あるいは大人でも生半可な者であれば簡単に打ち破れるだろう。その年齢にして大人たちに交じって教養の高い会話をすることができ、素手でも剣を持たせても屈指の腕を持つ彼に、宮中では一目置いていた。父と後継者やその補佐と目される兄2人を除いて、だが。勿論立場上では彼をあまり快くは思えないのは十分な理由となるにしても、3人が極めて不快感を示すほどの懸念を持ち合わせるのも無理はない。要するに嫉妬されるほどのものを持ち合わせているのだ。


そんな彼には、どこか暗い影―決して他人には見せない暗い影があった。



「ウィン王子、昼食のご用意が出来ました」


やや高く、透き通るような声と共に部屋の前に1人の少女―ウィンよりも少し年上に見える少女が立った。


黒い髪、黒い瞳、やや黒みがかった肌。身長はウィンより少し高いくらいだろうか、宮殿で侍女の纏うワンピース型のグレーの軽装の下から除くカモシカのような細長い脚が、軋む音を立てながら部屋の中に1歩ずつ侵入してくる。部屋の主は黙ったまま来訪者の瞳を覗いた。


「ウィン王子?」


「聞こえてるよ、ティダー」


先程まで目に宿していた鋭さを消して柔和な表情を浮かべた部屋の主が、こちらもやや高い、少年と青年の入り混じった澄み渡る声で返答した。


「それと、2人きりの時に王子って呼ぶのやめてって言ったじゃないか」


苦笑いしながらやんわりと咎めるウィンに、ティダーはやや困った顔を向け、


「だって・・・宮中では誰が何を聞いてるか分かりませんもの」


「そんな、こんな隅っこの部屋にまで耳を立てる者なんているわけがないだろう。ティダーは心配しすぎだ」


「そんな、私はこの宮中ではウィン王子の第1侍女でしかないのですから、そんな出過ぎた真似を・・・」


言葉が終わらないうちにウィンはティダーの唇を人差し指で塞ぐ。


「悲しいこと言うなよティダー、君は僕のクラスメイトで大事な親友じゃないか」


「親友・・・」


「あ、それから」


「それから・・・?」


ティダーは背後の海と同じ色をしたウィンの瞳に釘付けになりながら、次の言葉を待つ。見つめ合うさなかにウィンが発したのは、


「あれ!ちょっと年上のお姉さん的なあれ!」


はぁ、と嘆息したティダーが不満そうに頭を上に向けた。


「ウィン、あのさぁ・・・」


呆れたように言葉を発しながら、ウィンの足を軽く踏む。


「あと少しで12歳になるんだから弟気分から抜け出しなさいよ、いつまでも私をお姉ちゃんみたいに・・・」


「あ、おい、昼食じゃなかったの?」


「え?」


「んじゃ行こうぜティダー」


「あっ、ちょっと!」


ティダーの言葉を途中にして、ウィンは部屋を飛び出す。本当にその姿だけを見れば無邪気な11歳、いやもうじき12歳になる少年なのだが、ティダーは彼の抱えるものをよく知っていた。


嘆息しながらも急にどこかやるせなさと切なさを感じたティダーは、ウィンの後を追って廊下に出た。彼女の後を追うように一陣の昼風が廊下に吹いた。

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王の名は俺に相応しい @YokohamaDolce

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