第12話
「五日という話は何処に行ったんだろう‥‥」
聖十字架の隊長席より、私は深夜の観測を続けていた。パルス波の返信は目視でも正しいと結論出来る環境を映し出す────山々を覆う樹林帯と隆起した大地を、緑の線で示すモニターを眺め、私は溜息を付いた。時刻は3時、勿論27時と呼称する深い深い夜だ。既に国止山脈を通過し始め、一週間は経とうか。聖杯より運び込まれた食事とお茶がなければ、私はうつらうつらしていたかもしれない。
「持ち込んだ種を使っての、新たな遺伝子の掛け合わせが見つかったとかで、穀物に野菜、人工食肉まで完成してレシピも増えてさ。私は嬉しい限り。サードも人が悪いよね、何が食糧はしばらく持つだ、だよ。実際は味に飽きさえしなければ、半年どころか20年は保つなんてね。お陰で毎日の楽しみになっちゃった‥‥」
傍らのサイドテーブルに置いてあるカップを掴み、お茶を啜る。仄かな甘みが舌に優しく、後味もしつこくなく清涼感を覚える。これは自信作と、研究班が説明しているだけはある。癖になる味だ。
「苗床は外で幾らでも回収出来ますもんね。それに、珍しい種はフィフス隊長達が採取してくれますし、量どころか味にまで拘れてるし。ぶっちゃっけ学府暮らしよりも、食糧面は恵まれてません?」
「あはははッ!言えてるー。やっぱしサード隊長ヤバすぎない?あの良過ぎる顔で頭も良いし、性格も完璧。全体に指令を送ってる所なんて、マジ最高でカッコ良過ぎる!!それに、たま〜に、ちょっと抜けてる所とか、可愛過ぎるし。目が合うと微笑んでくれる所なんて、特に」
「あんたはサード隊長派だっけ?私は断然フィフス隊長派ー。だって、一番優しくて気遣いも出来るじゃん。この前なんて挨拶しただけで、昨日は君の放送のお陰で救われた、とか、喉に良いって言って高い茶葉とか渡してくれるの。しかも、渡しながら今日の通信も頼む、送り出してくれ、とかさぁ!!流石、現場を取り仕切ってる事はあるよ。あんな甘い顔で近くで微笑まれたら、もうね~」
「今は休憩中じゃないよー。後30分で交代だから、私語はまた後で────それに、サードは割と性格悪いし、フィフスだったらセカンドとかと比べられちゃうよ。まぁ、確かにフィフスは優しいから」
思わずかぶりを振ったが、既に自分も私語に参加してしまっていた。慌てて、いつもの威厳ある顔をするも、全体に伝播した私語の勢いは留まる事を知らなかった。内容も悪かった、どちらがより優れているかという、良い点と悪い点を洗い出す作業は、自分達の仕事内容に沿っていた所為だ。
やれ、サード隊長は闇を腹に抱えている。やれ、フィフス隊長は美人で有れば相手を選ばないだ。どちらも純然たる事実なだけに、言い争いは止まず、私自身も少しばかり楽しんで聞き届けてしまう。
「サード隊長が良いって!!だって、いい意味でのサプライズをしてくれるじゃん!!毎朝のビュッフェだって、あの人の発案でしょ。そりゃ、フィフス隊長も顔は良いし、強くて優しいけどさ。———私、テンス伍長と、ましてセカンド隊長と比べられたら立ち直れないかも‥‥」
「それは‥‥そうだけど。だけど、フィフス隊長は‥‥褒めてくれるし‥‥学府の頃からプレゼントとか、持ち帰った資材の一部をくれたりしたし‥‥。髪、伸ばしたら似合ってるって‥‥」
ショート気味だった自分の部下が、急に髪を切らなくなったのはそういう理由があったのかと納得する。確かに、フィフスは長い髪をしたセカンドの後ろをフラフラとついて歩いていたな、と今更ながらに思い出す。それを見越して、セカンドは長らく長髪をしていたのだとしたら。
「————あり得るかも」
終ぞ、突発的に始まってしまった雑談の焔は消える事知らず、気付いた時には交代要員が出向いていた。その上、その交代の『遺児』も含めての言い争いにまで発展してしまった為、私は隊長特権を使用した。
「俺だ。フィフスから聖十字架へ。聖十字架、延いては通信士達の施しによって、俺達は現場でも帰路でも安全に使命を全う出来ている。艦内の仕事ばかりで気が滅入ってるかもしれない、報いる機会を、近々用意させて貰いたい。聖槍の乗組員として、フィフス個人として感謝させて貰う————また寄らせて貰うから、その時を待っていてくれ。髪、長くなったな。またな」
「サードから聖十字架の総員へ。あなた方の働きは、この聖櫃運航にとっても、私の心身の為にも必須な聖職です。学府逃走時も、今この時間さえもあなた方がいなければ、聖櫃はその脈動を止めてしまう。どうか、貴き自分を忘れず、常に自分を誇って下さい。また明日、会える事を楽しみにさせて貰います————その時は、話す時間を頂ければ、嬉しいです」
悲鳴と歓声に近い奔流は、瞬く間に聖十字架中を掛けめぐる。自分から件の二人に、「労って、褒めて」と通達して数秒の出来事だった。思いも寄らない感謝の言葉と、実際に光り輝くと銘打っても遜色ない顔の二人が、連続して個々人に声を掛けたのだ。言われたのは私だ、私に微笑んでくれたと、皆が皆、狂喜乱舞していく。その姿に、私はひとりほくそ笑む。
「‥‥髪、伸ばしたのわかったんだ。それに、話す約束なんて」
サード派だ、フィフス派なんて、どちらかに寄り添う必要はない。私は隊長としての使命を全うしている以上、いつでも二人から感謝して貰える立場なんだ。その気になれば、私が望む人と二人だけで逢瀬を楽しむ————独占する事だって可能。幾らでも、あの顔と声を補給できる。
「でも、ごめんね。私、もう決めた人がいるんだ♪」
私の放つ小声は、今も聞こえる歓声にかき消される。そして、個人で保存した映像フォルダーを愛おしく撫でる指が熱くなる。運よくであろうが、勝ち取った地位は私には望む所だった。
空を見上げ、時刻を推定する。山岳に隠れる月と、僅かに光を放ち始めた太陽の夜明けを告げる刻限だと確認した自分は、この数日の経験からして午前4時だと想像。身体中に纏わりついていた痺れも消え、ようやく快復したと諸手を上げて宣言できる体調と成った。
「フィフス様、やはり————」
「もう治ったよ。サーティーンこそ、こんな時間に無理に付き合わなくても————いいや、ありがとう。サーティーンのお陰で資材も植物の採取も、滞りなく終了した。そして討伐も」
この山岳一帯の主を仕留めてしまった所為だ。運航に問題が発生するジャバウォックが各地で頭角を現し、自分達『聖槍』の乗組員は昼夜問わず出撃を余儀なくされていた。当初は、自分ひとりで賄えると踏んでいたが、国止山脈内で培われた食物連鎖は、自分の想像を超えて苛烈であったらしい。視線を向けた先は、『あの主』よりは小ぶりながらも、十二分に巨大な遺骸。
「仕事は終わった。そろそろ帰還しよう、置いて行かれるぞ」
「現在、聖櫃は直進速度を大きく遅らせ、観測に重視しています。置いて行かれる状況はほぼないかと。今、垂直離陸機へ帰還指令を送ります、フィフス様はお休み下さい」
肩を押された自分は、大人しく近場の岩石に腰を掛けた。垂直離陸機の方角に視線を向けたサーティーンの背中を眺めながら、資料の中でのみ、その存在を知らされていた鳥のさえずりに耳をそば立たせる。悪くない鳴き声に、自分はそちらへと視線を投げる。そこにあるのは緑と黒で彩られた深い深い森ばかり。美しき鳥の一羽として発見出来ない。砂塵と砂漠、荒野の中で生き続けた自分にとって、この森と山脈は情報量が多過ぎた。まるで手足さながらに枝葉を騒つかせる姿に、脳が混乱する。
「フィフス様」
頭が魔境に呑まれかけた時、優しい声色に引き戻される。
「フィフス様。私は、邪魔ではありませんでしたか」
「そういう質問は、何か失敗してから言ってくれ。邪魔の訳がないだろう、完璧な狙撃だったよ」
立ち上がりながらサーティーンの肩に手を置くと、僅かに下を向きながら手に頬擦りをされる。柔らかな頬と瑞々しい肌には魅了の力が宿されている。思わず、手を伸ばし撫で上げるしまう程。
「ようやく、本調子になった。それだけだ、邪魔の訳ないだろう」
「‥‥学府に居る時から、あなた1人で全てを終えていました。私が無理に背を追っても、追い抜かそうと画策しても、いつも数歩先を行ってしまう。先程のジャバウォック──────今のを、単独で討伐してしまうあなたは、私には、」
「怖かったか‥‥?」
引き寄せ、小さな肩を抱き締める。甘い香りが漂う髪は震え、拒絶でもされている様だった。腕の力を落とし、サーティーンを自由にしようと放す。しかし、サーティーンは腰にしがみ付き無言を突き通した。それが痛々しくて、自分の立ち向かうべき罪と感じた。首だけで振り返り、背後のそれを見届ける。
長大な翼は中程から折れ曲がり、腕は前腕の辺りから失せている遺骸は、たった数分前まで我々に振り下ろされた『消去』の余波であった。先の大戦以来、世界へ産み落とされた異形の怪物そのもの。
「フィフス様。私は、あなた様のお役に立てていますか。私は、邪魔では‥‥」
「サーティーン。俺にとってサーティーンは、もう一人の自分だ」
「それは、名前のお話であって」
「違う」
語尾を強めてしまった。胸と腰にしがみ付くサーティーンが、よろめくのがわかる。
「違うんだ、サーティーン。俺はサーティーンが思っている以上に役に立てていない。サーティーンが迎えに来てくれないと、自分の生命ひとつ守れていないんだ。覚えてるか?サードが最強なんて褒め称えていたが自分の船員に頼らないと、あの程度のジャバウォック一匹狩れなくなった。砂塵に落ちた時から、身体の使い方を忘れている」
「‥‥一度、身体を失ったから」
「ああ、俺はあの存在に身体を解かれ、新たな肉体を与えられた。ズタボロになって、修復不可能になった俺は、一度星に還った。繰り返すぞ、サーティーンは俺の半身。いや、フィフスはあの時、聖杯から投げ出された瞬間────死んだんだ」
肉を奪われた感覚、あれは夢の話ではなかった。骨と眼球、脳と残り少ない神経だけとなった俺に、セカンドの形を依代に降臨した何者かが新たな『身体』を与えた。『魂』は消え、肉体を失った自分に残された、星に刻まれ残ったフィフスの痕跡は、『精神』だけ。その精神すら、皆に残るフィフスの断片を拾い集めた可能性すらある。その場合、俺は俺をどうやって決める。フィフスという存在は、許されない。
「サーティーン。君にとって、俺はなんだ?」
「仕え、支えるべきお方。私を救い出し、名前を与えてくれた愛しいヒト」
「嬉しいよ。俺も同じだ、俺にとってサーティーンはフィフスを覚えて受け入れてくれたヒト。今の俺がフィフスと名乗れて、自分をフィフスと認識出来ていられるのはサーティーンが居るから。サーティーン、どうか俺を忘れないでくれ。一人でもフィフスの存在を忘れてしまえば、俺は失われる」
決まった死よりも仄暗く、熱を失った身体よりも冷たかった。この地平に再臨した自分は真に天使と名乗るが相応しい。自分の使命を果たせず消えるのを許さなかった二人に、自分は呼び戻された。
サーティーンが腰に腕を回す。目を閉じ、胸に頬を当てる姿が愛らしかった。そして─────。
「俺を見ていてくれ。そしてフィフスを支え続けてくれ。もう、この世界には席がないんだ」
「────このサーティーン、しかと胸に刻みました。私は、フィフス様の半身にして精神。セカンド様が肉体を作り上げ、自身の血を与え続けるのなら、私はフィフス様の精神に色を飾り続けなけねばならない。忘れる筈がありません、この世にあなた様の席がないのなら、私が用意し、仕立ててみせます」
小さな、けれど力強い心音を感じる。自分にはそれがあまりに熱くて眩しくて。
サーティーンの肩はこんなにも小さく柔らかいのに、自分はこの肢体の強靭さを知っていた。いずれ、自分をも超えて星体兵器を使いこなす逸材にして、フォースにも匹敵する電子戦の猛者に成りうる存在。サーティーン自身は理解していない、けれど確証を得てしまった。彼女こそが、我々の到達点だと。
セカンドが呼び掛けたあの存在。本来ならば身体だけを与え、観測の席に座る筈であったのに。
「サーティーン。あの存在と何を契約した。何を代償に支払った。セカンドとのみ言葉を交わせる女神が、自分の降臨をも放置して──────いや、ジャバウォックの捕食よりも食指が向かう先なんて」
「フィフス様」
サーティーンの声に背筋が凍る。今まで、感じたことのない死の恐怖。
「フィフス様。私はあなたにサーティーンの名を与えられた日から、あの地下での時間は捨てて過ごして来ました。そして、これからも私はあなたのサーティーンとして生き続けるつもりです。だから、私を置いて消えないで─────女神との契約、フィフス様の想像通り私も契りを結び、あなたを砂塵の底から引き上げてみせました。察しの通り、星体兵器を掴み上げたのは、この私です。ああ、申し訳ありません」
サーティーンの声が震えた、あれほど強靭で強かったサーティーンが泣き始める。
「私は、戦場で舞うあなたに恋をしてしまった。あなたの強さに私は憧れてしまった。申し訳ありません、申し訳ありません、セカンド様と同じく私もあなたの生命を救うべく契約を結ぶべきであったのに。私は─────フィフス様の影、初めて出逢った瞬間のあなたを欲してしまった」
「泣かないで。いいんだ、サーティーンのお陰で俺はまた戦えている、だから、」
泣き崩れる姿を見たくなった。自分に取って代わろうと努力し、いつの間にか『聖槍』の副官にまで上り詰めた彼女の今の姿を。泣き慣れていない『遺児』の最たる彼女は、感情の吐き出し口を理解していなかった。怯え崩れる姿は、狂気に弄ばれた姿を彷彿とさせた、その姿がまるで『彼女』の様で。
「あなたの強さを見るのが、私にはつらいのです。あなたが喝采を受け、私を必要としない、あの頃のフィフス様に戻るのが耐えられないのです。お許しください、サーティーンと名乗る罪をどうか与えて下さい。あなたにはサーティーンに戻って欲しくない、ああ、だけどあなたの強さは、サーティーンの」
「サーティーンッ!!」
肩を抱き、耳元で叫んだ。
「サーティーンッ!!返答をしろッ!!お前に与えられた役目はなんだ!?どうしてサーティーンと名乗れと言われた!?誰に、サーティーンの名前を与えられた!!」
「わ、私は────」
「二度は言わない、繰り返せ。サーティーンッ!!答えろ!!」
彼女の感情を消す訳ではない。強靭な理性で感情を塗り潰し、酷い罰則で手足をもぎ取るつもりもない。けれど、与えられた役割を取り戻させる為には、今の自分を自分で始末する冷酷さが必要だった。
「私、私はサーティーン。与えられた役目は『聖槍』の副官長。フィフス隊長が不在時、全権を移譲され指揮官と成る『遺児』。そして戦場では狙撃と通信、観測を担う狙撃手。私に名前を与えたのは────私を『洋館の遺児』に変えて下さったのはフィフス様。フィフス様から与えられた名前がサーティーン」
「サーティーン。忘れるな、今のお前はサーティーンであり俺の部下でも在る。戦場たる今の時間、最も求められるものは自分を見失わない自我意識だ。そして敵たるジャバウォックに効果的な戦力を誇る星体兵器を操れるのは『遺児』しかいない。俺の強さを求めるのは、ごく自然な流れだ、サーティーンは間違っていない。『学府』から逃げ出したあの時、フィフスの武力を求めるのは何も間違っていない」
「けど、けれど、私は」
「俺も同じだ、サーティーンが万能だから『聖槍』に乗って貰った。サードから奪ってでも君が欲しかった、俺にはサーティーンが必要だからサーティーンの名前を与え続けた。だから理解してくれ、フィフスにはサーティーンが必要なんだ。喝采を受けられるのはサーティーンがいるからだ、誰も必要としていないと見えるのは、そう見えてしまうだけだ。俺は、君と出会う前から単独で戦闘をして来たから────サーティーン、俺はもうあの時のサーティーンとは比べ物にならない位、弱くなった」
「‥‥あなたが、弱い訳」
「数日前、テンスらとの討伐での一件。俺は本来ならあの程度単身で始末出来た、始末して来たんだ。けど、サーティーンも観測した筈だ。エイティーンスとテンスら、そしてサーティーンの援護がなければ俺は手足の一本は失っていた。もし、それでも俺が強く見えているのなら、それはサーティーンが、」
上空から航空機のエンジン音が響いた。両翼に取り付けられた推進器が高鳴る地上において、自分はサーティーンと共に空を見上げる。腕の中のサーティーンが、小さく「ああ、」と呟くのが鼓膜に届いた。
「サーティーン、俺が言いたい事を理解できたか?」
「‥‥はい、あなたが強く見えてしまう。それは────愛したあなたへの罪悪感。あなたの精神よりも魂を優先してしまった私への罰なのですね。理解しました、私はやはりあなたの精神を守り続けましょう。フィフス様、私をもう一度抱き締めて下さりますか、私を隣に置き続けてくれますか?」
「いつまでも隣に居てくれ。フィフスにはサーティーンが必要だから」
サーティーンたる彼女が愛した『フィフス』は戦場でのフィフス。だから、女神はサーティーンとの契約通り星体兵器を与えた。きっと、その瞬間にサーティーンは砕けてしまった。セカンドがフィフスの肉体を取り戻さない限り、サーティーンはサーティーンを見失っていた。愛したフィフスは、元からいなかったのだと確証を得てしまったから。────だとしてもサーティーンは、正しかった。
「サーティーン。俺の役割は前線での戦闘行為と哨戒任務。君の選択は正しかった、ありがとう。俺の役割を取り戻してくれて。サーティーンのお陰で、俺はもう一度戦える。愛してる───」
「すっごーいッ!!」
フォースが歓声と共に腕を引いて甲板へと連れ去られる。背後のサーティスも、この光景には思う所があったらしく無言のまま立ち尽くしているのがわかる。自分達を悠然と越える高度と標高を誇る山塊は、切り立った山々の集合体でありながらも、その王と思わしき存在は一際矜持を保持して映った。
サードからの通達に従い、自分は『聖十字架』へと足を運び、山塊の眼前を通過するか否かの判断を任されていた。本来ならばすぐ様フォースと会合を開き、有無の条件を論ずるべきであるが────。
「あ、ねぇねぇッ!!あれが雪!?」
冠雪を施された頂上部分に指を差し、飛び跳ねるフォースが腕にしがみ付いた。自分も、正直望遠鏡でも持ち出して長時間の観察へと挑みたい気分にされた。フォースが興奮しているのもわかる、天へと続く架け橋をその身で体現する自然の脅威は、我々『遺児』が生まれたこの形、一切交わらなかった代物。
サードから嗜めていなければ、確かに踏み込みを望んでいたかもしれない。
「あは、すごいすごーいッ!!ねぇ、あれ持ち帰ってきてよ、私見てみたーい!!」
無自覚な甘えん坊気質のフォースが、自身に備わった魅了の力を最大限に発揮する。男女関係なく虜とする溢れんばかりの甘い声と体質に、自分は首を振ると心底不満そうに肩を抱き締め続けた。
「なんでよー。いつもはお願い聞いてくれるじゃん」
「俺達が想像している以上に、あの白い地域は標高が高い。軽く2000メートルはあるんじゃないか?そんな場所への探索を、サードが許すと思うか?高山植物も原生生物も、あの過酷な地域では多くを望めない。戦略的にも物資的にも頷けない────こうやって、観光気分に留めるべきだろうさ」
「むぅー、大人ぶって。いいもん、いつかは持って来てくれるって知ってるから」
「気長に待ってくれよ。それより気付いてるか、砂塵がほぼ消えてる事に」
『死の砂塵』と呼ばれる灰と砂の嵐は、常に『学府』全体を包み込み、空を覆い尽くしていた。国止山脈に入ってからもそれは変わらず、日によっては数メートル先の目視がほぼ不可能な場合すらあった。けれど、今の環境で、我々はマスクもゴーグルも付けずに、澄み切った空気を肺に溜め込めている。
「あ、ほんとだ‥‥。気付かなかった‥‥」
砂塵が届いていないのは、自分達が知らず知らずの内に『消去』着弾位置から数百メートルも高位置に付いたからかもしれない。深いクレーターに座していた『学府』から山脈へと移動したのだ、恐らく比べ物にならないレベルの高度へと至った事だろう。しかし、それを差し引いても、この現状は異常だ。
「魔境の中心。国止山脈は、新しい環境への進化を完全に成し遂げたみたいだ」
「それって、『消去』を分解する土壌が整ってるって事?」
背後のサーティーン、セカンドの代理として送られた『遺児』が質問をした。
「ああ、そうかもしれない。だけど驚くべき内容じゃない。学府一帯は『消去』を受け入れる進化を遂げていた。ここは『消去』を排除する方向に舵を切った、俺達からしても信じられない光景に見えるのは、あまりにも違う進化体系を為してしまっているから。ここから先は、今まで以上に気を引き締める必要がある」
この解答に、首を捻る二人へ自分は更に続けた。手すりを掴みつぶさに観察しながら。
「もう、俺達の常識から完全に外れた世界へと踏み込んでる。ジャバウォックの種族も、今まででとは比にならない多さになる。不思議に思うか?ここは『消去』を呑み込む浄化を選び取った環境の中心点なんだ。浄化と言っても、その方法は千差万別。種類だ、種族によってやり口は大きく変わり、その日に触れる『消去』の余波、強弱により何千にも程度が及ぶ。今まで以上に『消去』と懇意にしている」
理解に至ったらしく、二人は済んだ空気へと警戒を放った。
「そろそろ、真に『学府』から離れ始めた。俺達が向かうべき『教府』の空気に慣れるべきだ────フォース、俺達には選択肢が在る。このまま直進して新しい世界に触れ続けるか、それとも」
「高度が低い位置に移動して、私達の常識が残る世界に戻るか─────私は、このまま直進したい」
「同意見だ。どんな形だとしても、俺達は『学府』から完全に慣れるしかないんだ、今後は引き返す道が更に少なくなる。何も知らない世界の渡り方を、知っておくべきだ。サーティスはどう思う?」
「私、私は正直不安。私とは違う進化を遂げたジャバウォックが闊歩する世界を、何も知らずに走り続けるのは勇足過ぎると思う。星体兵器が効かない存在はいないとは思うけど、対処法を一から模索するのは非効率だし、この段階でするのはちょっと不安。『聖櫃』は安定した運行をまず成し遂げるべき。少し回り道に成ってでもいいから、あの山塊から離れる選択肢も視野に入れた方がいい」
隊長二人に面と向かって否と言える彼女は堂々としていた。セカンドが推す理由がわかる、彼女は冷静に今の状況を咀嚼、自分なりの答えと『聖釘』の役目を擦り合わせて、答えを導き出した。
「うーん、確かにそうかも、だけど‥‥」
「はい、わかってるから。セカンドも、こういう結果になるって知ってたみたいだし。私も直進に賛成、そう遠くない時間で、新しい世界の中に飛び込む事になるのだから。だけど提案があるの─────数日間、『聖櫃』を停止させて近辺の調査、採取に観測をすべきだと思う。もっと世界を知ってからでも遅くはないって感じるの。幸い、食糧は無制限に量産できる上に、循環装甲もメンテナンスの時期だし」
多くの理由の中で、最も懸念すべき内容を最後に置いた。恐らくセカンドと既に議論を交わしていたのだろう。事実として十日以上にも及ぶ強行の最中、『聖櫃』はあの青い防壁を呼び出したのだから。
「賛成だ、今後の為にも準備は万全にしておきたい」
「異議なーし、サーティスの案に賛成。私も、ちょっと不安に成って来ちゃったし」
腕から離れたフォースが「報告して来るー」と甲板から艦橋へと飛び込んでいく。その後ろ姿を見送った時、サーティスが隣へと歩み寄り改めて冠雪へ視線を向ける。けれど、その瞳は苦々しく写っていた。
「で、どうするの?羅針盤なんて私達は持ってない。信頼出来る外部組織なんて、ある訳ないのに」
「それは今までと変わらないだろう。『学府』に所属していた時から、向こう側は俺達を手駒としか見ていなかった。懐疑的ならまだいいが、リサイクル可能な資源扱いだったんだ。もたらされた情報を信じるしかない─────方角は間違っていないと思う」
「根拠は?私達を始末するつもりだった『学府』を、どうして信用出来る訳?」
五十年もの間、『学府』は外界との接触を取れていなかった。その理由は、あまりにも『消去』の余波が残り過ぎていたから。忘れそうになるが、『遺児』でもない人間達が砂塵に撫でられれば、たちまち細胞が暴走し、無秩序な発展と進化を繰り返し、肉体が耐えられなくなる。そして死に至る。
「事実として、『学府』周辺には先の大戦の残骸が残り、紛れもなく『学府』以外の技術の産物だと結論出来た。戦争が起こった事は間違いない、位置関係から見ても『教府』『警府』は通達通りの攻め方をして見えた。わざわざ虚偽を作り出して攻めれられた方向の整合性を求める必要もない」
「そんな作り話をするぐらいなら、リアリティのある事実を言う方が楽だから?」
「それもある。だけど、それ以上に─────あの女神への攻撃で確証を持てた。『学府』は警戒していたんだ、あの方向から訪れる何かに。10にも届く広域誘導弾を備えてでも、防ぐべき何かに」
「それは一体何?だって報告書によれば、『遺児』は他の戦力を常に圧倒してたんでしょう」
「それはまだわからない。だけど、あのサードが何も言わない以上、今はまだ進み続ける事が出来る。俺達は逃げ出した騎士団なんだ、狼狽して道行きを決めかねる状況にはなるべきじゃない。─────サーティス、もし俺達が言われた通りの存在じゃなかったとして、俺達が取るべき行動は変わるか?」
「わかってるから、結局変わらない。私も、何も知らずに処分されたくない」
隣から去っていく姿を追いかけ、自分も山塊に背を向ける。そして目を閉じ言葉を選んだ。
「期待通りの結果にはならないかもしれない、だけど、裏切ったりはしないから」
「‥‥それって、もしかして『学府』以外の話してる?」
振り返り、睨み付けるサーティスの瞳が自分を惑わせた。吐き出すべき言葉を迷うほどに。
「何を知ってるの?あなたは、特務の中で何を知った?」
天使の日常は逃走から始まる。 一沢 @katei1217
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。天使の日常は逃走から始まる。の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
近況ノート
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます