第92話

 俗に言う『十二単』を着るのは初めてだ。

 幼稚園の雛祭りで、赤い着物を着て、紙冠を被り、扇子を持って写真を撮ったことはある。

 いつか、お雛様みたいな着物を着たい――その時は、そう思った。

 それが――この最悪とも言える状況で実現するとは、皮肉だ。


 久住千佳は畳まれた美しい衣装を眺め、嘆息し、ブラウス・スカート・ソックスを脱ぐ。

 白足袋のような物を履き、白い小袖を手に取る。

 これぐらいは、介添え無しでも着られるだろう――。

 しかし――香織さんは両手を差し出し、落ち着き払った声でささやく。

「……ブラジャーも外して。その方が苦しくないから。着付けは任せて」

「……はい……」

 

 久住千佳は言われた通りにし、ブラジャーも外す。

 背後で広げられた白小袖に袖を通すと、前できつく紐止めされる。

 香織さんの着付けは巧みで、体を捻っても小袖が着崩れる感じはしない。

 

「若い頃、着付け教室に通ったの。十二単の着付けも一度だけ見た」

 香織さんは、寂しさの中に母親らしい顔を垣間見せる。

「正式な十二単の着付けは私だけじゃ厳しいけど、略装だから何とか。そんなに重くないでしょうし」


 略装と聞き、久住千佳は納得した。

 着物の枚数が、香織さんよりも少なく見えたのは正しかった。

 香織さんの着物は……白小袖の上に、黄緑・緑色が二枚・紫が二枚と白い上衣。

 華やかさよりは、落ち着きが強調された色合いである。


 自分のはどんな感じだろう――と想像しながら、真紅の長袴に足を通す。

 そして煌びやかな碧い着物と、紅色と薄紅色の着物を重ねた。

 薄紅色の着物には、黄色の糸で織り出された円形の花模様が浮き出ている。

 碧い着物は『単衣ひとえ』、他の二枚は『うちき』だと、香織さんは言う。

 


「……変じゃないですか……?」

 久住千佳は裾を引きながら歩いてみて――ちょっと恥ずかし気に訊ねた。

 こんなに裾の長い衣装は初めてで――場違いさに気後れする。

 ましてや、ここは敵地だ。

 けれど――こうして香織さんと過ごしていると、それを少しでも忘れられる。

 恐怖は鳴りを潜め、温かい気持ちになれる。

 

 何より――頑張ると誓った。

 彼が来るまで。

 それが自分の戦いなのだ。

 刀など持てない自分に出来る唯一の戦いだ。

 しかし……


「あの……呼ばれたら、挨拶をして……聞かれたことに答えれば良いんですね?」

 自信なさげに訊ねると、香織さんは最後に小袖の襟元を整えつつ答える。

 

「そう。私が呼ばれた時は、私の知る物語を聞かせているぐらい。『竹取物語』とか『白雪姫』とか……求められたら、その程度の物語を聞かせれば良いの。あの方は、そういう話を聞くのが好きなの」


「……はい。童話とかで良いんですね……」

 まあ――そのぐらいの話なら聞かせられる。

 だが、香織さんは『シンデレラ』や『眠り姫』は話したのだろうか?

 話が被らないよう確認しようとしたが――御簾みすの外から声を掛けられた。


白織しらほりの君、すぐに参上を。御方さまがお待ちです」

「はっ、はいっ」


 反射的に返事をしてしまい――すると、御簾みすの端が捲られた。

 慌てて膝を付き、そそそっと膝立ちで簀子すのこに出る。

 簀子すのこには、薄緑色の単衣ひとえに黄色いうちきを重ねた女性二人が居た。

 二十歳ぐらいで、きりりとした顔立ちで――だが、両者とも冷ややかな表情だ。

 目鼻立ちは違うのに、スタンプを貼り付けたような類似性がある。

 

 方丈日那女は、「自分たちのニセ者が造られている」と言っていた。

 自分自身、神無代かみむしろ和樹のニセ者を目の当たりにした。

 一瞬だけ見えたニセ者の彼の表情は、いびつだった。

 本人とは、似ても似つかない嘲りの色が浮かんていた。

 彼女たちには、そうしたいびつさは無いが――生気も無い。

 彼女たちは、黄泉姫の世話をするだけのロボットなのだと理解する。

 

 とにかく――ここまで来た以上、引き返せない。

 久住千佳は、今一度香織さんを見て――そして頷き、立ち上がる。





 家屋の簀子すのこを進み、家屋と家屋の間の橋を渡る。

 それを繰り返し、より大きな家屋に入った。

 久住千佳は、学校で習った『寝殿造』の構造を必死に思い出す。

(真ん中に寝殿があって、左右に対屋があって、庭があって……)


 それが忠実に再現されたかの如く――広々とした庭には真紅の花が咲き乱れ、松の木がそびえ、大きな池がある。

 池には、鴨らしき鳥も泳いでいる。

 だが振り返ると……通って来た筈の家屋が見えない。

 橋の向こうは霧で覆い隠され、空には巨大な月がある。

 どうやら、独りで家屋の間を移動するのは無理のようだ。

 部外者には、逃げられない仕掛けが施されているらしい。


(……ナシロくんのお父さまも、ここのどこかに居るのかな?)

 ふと思い出し、霧の向こうを見つめる。

 写真でしか知らない神無代和樹の父親――

 息子に似た面差しの優しそうな青年だった。

 会えたなら、御挨拶をしたい。

 友達として――お母さまににもお世話になっています、と。



(……変なの。あたしが、この世とは違う場所で、死んだ人と話が出来るかも知れないなんて)

 そう考えると、本当に不思議だが……それにしても暑くなってきた。

 自分が居た部屋は秋っぽく感じたのに、ここは真夏のようだ。

 湿度が高く、空も少し明るい気がする。


 前を行く二人に「暑いですね」と問いたいところだが――安易に声掛けしない方が良さそうだ。

 何気ない一言が、相手の怒りの琴線を弾きかねない。

 口は災いの元、と言うが――ここは、沈黙こそが我が身の『盾』なのだろう。

 久住千佳は、しずしずと袴の中の足を踏みしめる。



 やがて、二人組は立ち止まった。

 一人が座し、声を上げる。

「御方さま。白織しらほりの君を連れてまいりました」


「では、こちへ。御方さまは、話し相手を御所望である。心してお仕えいたせ」

 御簾みすの内側から低めの女の声が響き、付き添いのもう一人が御簾を上げる。


 御簾の中には几帳が並べられ、その後ろには屏風が見える。

 手前には、青と薄紫の衣装の女が座っており、開いた扇でこちらを手招きする。

 座っている場所から、この女も『玉花ぎょくかの上さま』では無いと分かる。

 おそらくは――几帳の陰となっている屏風の前に、その御方は居る。

 

 

 久住千佳は膝立ちで、慎重かつ必死に歩を進める。

 御簾近くは、主にかしずく女たちで隙間が無い。

 『源氏物語』の姫宮には三十人もの侍女が付いていた、と習ったのを思い出す。

 平安朝を思わせるこの部屋にも、一クラス分の女性がひしめいているのだろうか?

 女たちは扇で口元を隠しているが、その端から覗く目は氷のようだ。

 久住千佳は首を垂れ、冷え冷えとした視線に耐え、几帳の奥を目指す。



 やがて――真正面に、紗のような生地を下げた几帳が現れた。

 それは二つ並んでおり、向こうの人影がおぼろに見える。

 その人は金屏風を背に座っているらしく、しどけなく伸びた長袴の裾が見える。

 


「そちが『白織しらほり』とやらか。何とも幼き風情よ……」

 几帳の奥の人影が言い、久住千佳はピクリと震えた。

 声は、蓬莱天音にそっくりだが――その響きは、毒々しく妖艶だ。

 映画で観た、男を誘惑する悪女を連想してしまう。


 だが、ここはひたすら頭を下げるのみだ。

 ひとまず腰を下ろし、床に指を付いて頭を深々と下げる。

 すると――相手は扇を几帳に投げ付けた。

 垂れ布に当たった扇は、軽い音を発して床に倒れる。


白織しらほりよ。それを拾うて、こちに持て」

「……はい……御方さま」


 詰まる声をどうにか押し出し、捲られた几帳の下をくぐる。

 手前に、枝に止まる鳥が描かれた紙製の扇がある。

 両手でそれを拾い、掲げ、顔を上げると――黄泉姫の姿が飛び込んだ。

 その姿に、久住千佳は絶句した。


 道具に肩肘を付き、身を斜めに構え、足を投げ出すように座っている。

 長い黒髪は、溢れた血脈のように敷かれた畳を覆う。

 白い肌は艶やかで、下半身は紫がかった濃い紅の袴に埋もれている。

 だが、たよやかな両の乳房は丸見えだ。

 頂く二つの桜の花びらもくっきりと、しかし控え目に色映えしている。

 

 うろたえ、目を凝らし、何度も瞬きをして――薄く透き通る単衣ひとえだけを纏っていると判ったが……



「クソ名月なづきも物好きなことよ……ほっほっほ」

 黄泉姫は、粘着ねばつくような笑い声を上げた。




 ◇◇◇



 おまけ。

 ↓黄泉姫の装束に関する解説はこちら。


https://kakuyomu.jp/works/16817139555149987426/episodes/16817330647767936510

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