第93話
クソ
それが『
三番目はともかく――他を差しているなら、あまりの言い草である。
「そんなひどい言い方って」と口に出しかけたが、香織さんの警告が過ぎり、何とか喉の奥に押し戻した。
挑発に乗って反論しては、命取りになる。
だが――こうして敵と相対して、これは相当にマズイ状況だと気付いた。
綾音さんの御両親と自分は、要は人質だ。
和樹たちが此処に乗り込んで来た場合、最悪の結果になりかねない。
自分たちを盾にすれば――彼らは一切の抵抗を辞めるだろう。
その先は……考えたくも無い。
あのステージ上で必死に闘っていた彼らの命が奪われるなど……
「……険しい顔をしておるな」
黄泉姫は御座所から降りて来た。
袴をスルスル引き摺りつつ、久住千佳の前に来ると――腰を落として胡坐をかく。
美しい椀型の乳房が真正面で微かに揺れ、その艶めかしさに思わず真下を向く。
漂う甘い芳香は、装束に焚き染められた匂いだろう――。
同性の自分でさえ、その妖美さに心が奪われそうだ――。
黄泉姫は――久住千佳の手から扇を奪い取り、開いて軽く仰いだ。
「そう下を向くな。こちを見よ。母君が何を言うたか知らぬが、我は無闇に
ザンシュ――
斬首――
形の良い唇から漏れた恐ろしい言葉に、心は
過去世の
が――それが、目の前で起きるかも知れない……。
「そう怯えるな。そちは客人だ。
黄泉姫が指図すると、背後に控えていた女たちが一斉に動き出した。
袴を引き摺る音がさえざえと響き――それが収まった時、膳が運ばれて来た。
紺色の
膳に乗っているのは、金属製の皿。
そこに削った氷が盛られ、薄い金色のシロップが掛かっている。
蜂蜜も氷の横に添えられている。
「
「……え?」
久住千佳は訊き返す。
パンを食べた、とはいつの話だろう?
この姫が現世に来た話は聞いたのだが――。
「まあ、良い。溶ける前に
「はい……いただきます」
久住千佳は、素直に従った。
逆らうのは危険だと警告を受けていたからだが――正直、甘味に飢えていた。
それが、目の前に蜂蜜添えのかき氷がある。
食べれば黄泉姫を怒らせないだろう、と言い訳しつつ――金属製の匙で氷をすくい、口に入れる。
金色のシロップは少し草っぽい臭いがして、かすかに甘い。
食レポなら「優しい甘さ」とでも表現するのだろう。
物足りなさを感じ、蜂蜜をすくって氷と一緒に口に入れる。
……やはり、こちらは美味しい。
心が安らぐ甘さだ。
目の前の脅威も暫し忘れ、蜂蜜の濃さと甘さに舌鼓を打つ。
が、その最中も――黄泉姫の食べる様子をチラ見はする。
匙を口に運ぶ様は、取り立てて邪悪には見えない。
蓬莱天音が、普通にお菓子を口にした時の表情と酷似している。
化粧こそ濃く、雰囲気も蠱惑的であるが、甘味に集中する様子は年相応だ。
「……
氷を食べ終えた黄泉姫は艶やかな黒髪を指先に絡め、微笑んだ。
「は、はい……御方さま……」
久住千佳も最後のひと口を味わい、匙を置き――考える。
その間に、ひとりの女性が紙を持って几帳の後ろに座った。
白い単衣に草色の袿を重ねており、先程の二人よりは年上に見える。
「そなたの語る物語を記す者だ。気にするな」
黄泉姫は後ろに下がり、御座所にしどけなく寝そべる。
「そう言えば、『ロミオとユリ』なる物語を聞きそびれていた。それを序より語れ」
「『ロミオとユリ』……ですか……」
久住千佳は、頭の中を整理する。
どう考えても『ロミオとジュリエット』のことだろう。
しかし、物語全体は覚えていない。
対立する二つの家の子供のロミオとジュリエットが、最後には心中する話だが……
(どうしよう……確か、神父さまに眠り薬を貰ったロミオが……ジュリエットと行き違って……ジュリエットが短剣で胸を刺すんだっけ……ロミオがモンタギュー家で、ジュリエットが……何家だっけ?)
――香織さんが黄泉姫に聞かせようとして、しかし何らかの理由で中断したと思われたが……とにかく、聞かせる以外の選択肢は閉ざされている。
多少のアドリブは仕方ない。
久住千佳は覚悟を決め、記憶の引き出しの中を探りつつ――話し始めた。
今から遠い昔。
ある国のある街で、仲の悪い二組の貴族が住んでいました。
タギ家とエトー家です。
ある日、エトー家で盛大な宴会が開かれることになりました。
タギ家の家長の一人息子のロミオは、ちょっとしたイタズラ心から、友人を誘ってお面を付け、エトー家の宴会に潜り込みます。
エトー家の家長も召し使いも、誰一人それに気付きません。
ロミオたちが宴席を回っていると、大変に美しい少女が目に留まりました。
真紅の衣装をまとった少女の名は、ユリ。
エトー家の家長の一人娘です。
ロミオは一目で恋に落ち、ユリもロミオに気付きます。
ロミオはそっとお面をずらし、素顔をユリに見せます。
その若々しい高貴な美しさに、ユリも一目でロミオを好きになりました。
しかし、ユリの隣には彼女の両親が座っていて、声を掛けることは出来ません。
宴会が終わり、人々は家に帰りましたが、ユリを想うロミオは邸に残り、その姿を探します。
すると、中庭の窓に立つユリが見えました。
ロミオは、窓から伸びている枝を伝って、ユリの元に辿り着きます。
「あなたは、どなた?」
ユリは嬉しそうに訊ね、ロミオは答えます。
「私は、ロミオ。実は、タギ家の家長の息子なのです」
「何と言う事でしょう。あなたは、私の父の敵の御子息。ああ、でもそんなことは気になりません」
「私もです、ユリ姫。どんな花よりも美しい姫よ。私の恋人になって頂けますか?」
ロミオは跪き、ユリの手を取ります。
ふたりは抱き合い、口付けを交わしました。
しかし、このことは直ぐにロミオの父に知られました。
エトー家の召し使いが、ユリの部屋から降りて来るロミオを見ていて、家に帰る彼の後を付けていたのです。
召使いは、ロミオがユリ姫を
ユリの父親も噂を聞いて怒り、ユリは部屋に閉じ込められました。
ロミオも家から出ることを禁じられました。
その五日後、ロミオの部屋に僧侶が現れました。
僧侶はロミオの親戚で、ユリとの噂を聞いて心配して駆け付けたのです。
僧侶は言いました。
「ロミオよ。ここに薬がある。これを飲めば、二日間は死んだように眠ってしまう。お前は死人と思われ、先祖代々の墓室に葬られよう。お前が死んだと聞けば、ユリも外に出られるだろう。薬のことは、私の知人に頼んで、ユリに伝えさせよう。お前は墓でユリと落ちあい、街を出て、私の古い友を訪ねよ。その街で、二人で幸せに暮らしなさい」
ロミオは喜びに涙を流し、薬を受け取り、僧侶が帰った後にそれを飲みました。
そして朝になり、部屋で死んだと思われたロミオが発見されました。
ロミオの両親は悲しみに泣き叫びます。
その知らせは、ユリにも届きました。
ユリも、突然の悲報に泣き崩れます。
実は、ロミオの薬の話は、ユリに伝わっていませんでした。
伝えに行った僧侶の知人は途中で盗賊に襲われ、大けがをして治療を受けていたのです。
何も知らないユリは家を抜け出して、タギ家の墓室に行きました。
地下の墓の中には、ロミオが安置されていました。
「ロミオ……どうして死んでしまったの!」
彼に縋り付いて泣きましたが、その時……彼の腰に短剣があるのに気付きました。
「ああ、ロミオ。私に、この短剣を遺して下さったのですね。愛しいロミオ。一緒に参りましょう」
ユリは、短剣で胸を突きました。
ユリの体は崩れ落ち、石の床に横たわります。
それから半日後。
ロミオは、やっと目を覚ましました。
すると、冷たい床の上で事切れているユリを見つけたのです。
「ユリ……どうして、こんなことに。でも、僕も君の所に行く。愛しい姫よ」
ロミオはユリの胸から短剣を引き抜き、自分の首に突き立てました。
そして、ユリに覆い被さるように倒れ……二人の魂は永遠に結ばれたのです。
その翌日……二人は発見されました。
若い二人の悲劇に、タギ家とエトー家の家長は激しく後悔し、抱き合って互いの罪を許し、和解しました。
ロミオとユリは夫婦として、並んでタギ家の墓に葬られたのです。
二人の物語を街の人々は忘れず、長く語り継がれたと言うことです……。
「……な、なんと……」
黄泉姫は震え、口を四角に開けた――
「なんと悲しき物語であることよ……不憫な……」
袴の腰ひもを持ち上げ、それで両目を拭いつつ、筆記する女房に問う。
「しかと記したか、
「はい。御方さま」
女房は筆を置き、小箱に仕舞う。
「ううっ……良き物語を聞かせてもらった」
黄泉姫は鼻を啜る。
その大げさな泣きっぷりに、久住千佳は
邪悪なのか、物知らずなのか、さっぱり本心が読めない。
まるで……気まぐれな幼児だ。
やがて――涙が乾いたのか、二度三度咳ばらいをした黄泉姫は姿勢を正し、小首を傾げて微笑んだ。
「返礼に、我が知る物語を語ろう。昔、ある国に『
――知ってたよ……ナシロくん……。
久住千佳は、無言で答えを呈する。
だが……いつしか気付いていた。
そうではないかと思っていた。
三人で過ごす時間は……苦しかった。
誰もが互いを気遣い……奥歯に物が挟まったように笑った。
知らない振りをしていれば、誰も傷付けないから。
「では……
黄泉姫の艶なる声は、
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