第94話
「人の心は、まこと奇怪であることよ……」
黄泉姫は長い髪を手指に巻き付けつつ――畳に頬杖を付いて語る。
彼らは、誇りに満ちていた。
第八十七紀の近衛府の四将。
賢明なる月帝を御守りする若き将たち。
剣士たちは無二の友にして、術士たちは麗しき姉妹。
だが――ほんの少しの風は、四者を嵐に巻き込む。
名誉、誇り、地位、恋……
わずかな歪みは、国を大きく揺らした。
それは『
月帝が、心正しき剣士に授ける力。
ただし、それを見た者は居らず。
それを振る姿を見た者は居らず。
それを授かった者も、沈黙する。
誰にも知られてはならず、ただ影の如くに国を護る。
だが――
己が最愛の友が、それを授けられたことを。
その瞬間、彼の心と誇りが音を立てて欠けた。
帝都貴族の長子であり、やがては国の宰相となる身。
誰よりも優れ、月帝の信を得ねばならぬ身。
だが、裏切られた。
月帝は、辺境の末席の書記の子を信頼した。
すべてが疎ましくなった。
恋人の
みな、己を嘲笑っていると思った。
同腹の弟だけが、信頼できる。
だが、『
それが何より恐ろしかった。
そして時が経ち、弟は第八十九紀の四将に選ばれた。
同じくして、奇妙な噂が流れた。
月帝が、
月帝と妃に御子は無く、
なれど、健勝な
なのに、月帝は召そうとしている。
そして、最愛の友は言った。
受戒し、数珠を手に月帝にお仕えする。
やはり、刃は我には似合わぬ、と。
『
こいつも、我を嘲笑っている。
死んでしまえ。
こいつも、
死んでしまえ。
弟の
弟は、我を尊敬してくれる。
慕ってくれる。
他は、敵だ。
敵は、死んでしまえ。
「……奴は、
黄泉姫は、くっくっと笑う。
久住千佳は、唖然と聞き入る。
ふと目を移すと、『
黄泉姫も、女性を顎で差す。
『
恐らく、他の女性たちも――
そして『
つまり、彼の過去世の兄が狂気に囚われ、友人や恋人を手に掛けた……らしい。
「そちの想像は正しい。奴は『
黄泉姫は寝返りを打ち、高い天井を眺める。
月の国に、死が吹き荒れた。
隣国の花の国は、逃れて来た第八十八紀と第八十九紀の四将たちを庇護した。
その中に
悪鬼は、無二の友を捕えた。
友は抵抗せず、その身を悪鬼に差し出した。
それを救うべく、第八十八紀の四将は、死を覚悟して挑んだ。
悪鬼の無二の友と、第八十八紀の四将は、第八十九紀の四将たちが丁重に弔った。
だが、花の国も無事では済まず。
悪鬼は花の国に進軍し、裏切り者たちの処刑を命じた。
悪鬼は四将の独りを騙し、他の三将の処刑に立ち合わせた。
粗末な身なりで処刑場に引き出された中に、
悪鬼は、ひそかに弟に願った。
どうか、泣いて詫びてくれと。
弟を助命し、他の二人も目を潰して追放刑にしても良いと思った。
だが、
無二の友、先達の四将、多くの仲間を殺した兄を侮蔑していた。
かくして
悪鬼みずから、二人を成敗したのだ。
そして……
彼の正面に座すは、花の国の姫の
ただし、二人は指先すら触れておらぬ。
幼き日に巡り会い、互いを想い、心は結び付いていた。
花の国の落城前夜、
夫の装束は、妻が整える習わし。
一度も触れ得ぬまま、
そして、
三人の亡骸は黄泉の泉に沈められ、ひとり残った四将の
「だが、真に忌むべきは……ここより始まる……」
黄泉姫の息が、少し荒くなる。
「悪鬼は、
……『忌み』を誰もが抱く。
だが、それを自在に操る者は稀なり。
巨なる力、虚無の力……。
悪鬼は、
母屋の屋根には、御神木の影に覆われていた。
花の国を見守って来た御神木の巨なる影が。
悪鬼は笑った。
月の国で逆らう者はおらぬ。
花の国の姫を妻とすれば、二つの国の王となれる。
悪鬼は、未だ世俗の地位に執着する。
もはや、真に求むものなど忘却した。
友と過ごした日々、家族の情愛、愛しき人……
何もかも、打ち捨てたと……思った。
「恐ろしきは、己を捨てた者の果て……」
黄泉姫は髪を払い、呟いた。
「我は、御神木より生まれた。
あまりに陰惨な情景に――久住千佳は絶句する。
よもや――
そんな筈は無い。
それは、この女の世迷い言に違いない。
この女は、邪悪な心の持ち主の筈だ……。
自分を騙そうとしているに決まっている……。
けれど、そうは思えない。
確かに妖しげな存在だが――邪悪とは違う気がする。
少なくとも、人殺しを楽しむタイプには見えない。
けれど、この女の言葉は受け入れがたい。
敵は
彼らの命を奪い、国を滅ぼした男を倒すのが彼らの使命だと信じたい。
そこに、
――どこからか、笑い声が聞こえた。
耳を澄ますと……
「……クソ
黄泉姫は、せせら笑う。
「クソ
「いえ……それは……」
答えようも無く――久住千佳は項垂れる。
いきなり攫われ、結婚などと言われても、承諾など出来ない。
こうして話した感じでは、黄泉姫は意外と親切に思える。
何とか、ここで匿ってくれないか……
淡い期待を抱き、黄泉姫を見つめたが――黄泉姫は眉を深く寄せた。
「いや……ひとり足りぬ。
その言葉に、久住千佳の淡い期待は打ち砕かれる。
ニセ者たちは学校祭に紛れ込み、観衆の前で和樹たちの抹殺を計った。
そういう連中を、信用しようしたことを悔いる。
それでも、無駄と思いつつも聞かずにはいられない。
「あの……御方さま……誰かを殺す…とは……」
質問をするのは厳禁だったが――だが黄泉姫も怒りは見せず、軽く相槌を打つ。
「そちの仲間を殺しに行ったに決まっている。奴が盗みをしに出掛けるとは思えん」
「……そんな……!」
やはり、状況は絶望的だ。
たった今、漏れ聞いた彼らの過去世――
正義のために命を捧げた和樹たちが、ニセ者と言えど同期の仲間と闘うなど――
「落ち着け。茶でも持って来させよう」
亜夜の君に合図し、唇の中で舌を動かす。
(さて……
そして――己の左手を見た。
乾いた血で固まった男の髪の感触が……残っているような気がした。
「……許さない、許さない、許さない! 地獄で永遠に苦しめ!」
狂気めいた怒号が、今も耳に轟く。
黄泉姫は、青ざめた久住千佳を眺め――思った。
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