第17章 空夢の楔

第95話

 蓬莱天音は、壁の時計を見る。

 もうじき午前九時だ。

 午前九時十八分に、動物園行きのバスが近くのバス停に停まる。

 動物園までは、約四十分で到着する。

 四時間もあれば、見て回れるだろう。

 

 祖母は、一時間前に出勤した。

 家の中を見回し、全開にしていたリビングの窓を半分だけ閉める。

 閉め切っていては、帰宅した時は室内がムワッとする。

 窓際に置いた鉢植えの土が湿っているのを確かめ、リュックを背負う。

 

 今日は、友人たちと楽しいひと時を過ごす予定だ。

 中学の同級生だった大沢真澄さんが帰省しており、一昨日に再会を喜び合った。

 

 心配の種だった黄泉千佳ヨミチカも……まあ、及第点だろう。

 自宅ではミゾレが見張っており、報告によると――夜は、食事以外は自室で過ごしているそうだ。

 夏休み中の今は、昼間は神無代家か、この村崎家で過ごす。

 勉強と云う名目で、黄泉千佳ヨミチカに色々と教え込んでいる。

 本人並の学力もあり、基本的な社会常識も刷り込まれてはいる。

 ただ、性格が幼稚な面は致し方ない。

 人前で大声を出さない・言葉遣いは丁寧に・自宅の自室以外では寝転がらない――などと約束させ、ミゾレの採点で◎が出たら、翌日にはお気に入りのバニラアイスをプレゼントしている。

 

 食べ物で釣る是非はともかく、アイス代は方丈家が負担している。

 方丈家は、不動産と投資で生計を立てているらしい。

 実家周辺の地主で、昔から住む住民も多く、当然一目置かれている。

 幾夜いくや氏と日那女がその家系に転生したのは、意図を持ってだろう。

 姓が『方丈』なのも、偶然ではあるまい。

 彼らは敵と対峙するために、資産家の家を「乗っ取った」のだ。

 如何なる能力を駆使したかは分からないが、他人の家を占拠した事実には少し胸が痛む。

 遥か過去の異界での闘いは、この現世にも喜ばしからぬ影響を与えているのだ。

 が、それも止むを得ない――そう割り切るしか無い。



 ――スマホの着信音が鳴った。

 ポーチを開け、チェックすると……方丈日那女からの電話である。

 急いで通話に応じる。


「はい。天音です。おはようございます、先輩」

「……緊急事態だ。敵が出現した」

「えっ…?」

 蓬莱天音は背筋を強張らせる。

 こんな時に敵が現世に現れた、などと望まざる事態だ。

 お弁当も用意したし、真夏の晴天日だ。

 残り少ない時間を大切に過ごしたい――そんな細やかな願いも、敵は許してくれないのか……。



「……どうすれば良いのですか?」

 落胆を呑み込み、低い声で『月窮げっきゅう』としての意志を示す。

 自分が消える最後の瞬間まで、彼らの幸福のために生きたい。

 彼らには、現世での幸福を謳歌して欲しい――。

 

 だが――方丈日那女の返事は意外だった。

「何もしなくて良い。動物園で楽しんで来い。私が敵と対峙する。助っ人も呼ぶ」

「助っ人……?」

「腕に覚えのある奴だ。心配するな。ただし……」

「はい?」

「動物園では、なるべく目立つ行動をしろ。他の客の目に留まるような」

「どういうことですか?」

「念の為のアリバイ作りだ。写真もいっぱい撮れ。動物園にも監視カメラぐらいあるだろう。それに映っていれば、なお良い。君は、女優の三木瞳に似てるしな。客の男どもの目に留まるのも良い。一戸くんと手でも繋いでくれ」


 その言葉で、蓬莱天音は察した。

「まさか……敵は!?」

「そうだ。一戸蓮のニセ者が現れた。黄泉千佳ヨミチカの件以来、監視を強めていたが、奴が引っ掛かった。奴は、一戸家の周囲をウロウロしている」

「私たちが闘った方が……」

「いや……私がやる。奴は、竹刀袋を背負っている。一戸くんが出掛けた後に、一戸家を襲撃するつもりだろう。竹刀袋に収めた本物の太刀でな……」

「そんな……!」

「セコイが効果的な作戦だ。一戸家を襲撃し、罪を一戸くんになすり付ける気だ。彼を社会的に抹殺する手段に出たか……。特撮御用達のニセヒーロー案件だな」

「……どう対処するんですか?」

「安心しろ。ニセヒーロー退治は、この私に任せたまえ!」

 

 ……電話の向こうから、得意気な笑い声が聞こえた。

 本心から楽しんでいるとは思えないが、方丈日那女を信頼するしか無い。

 彼女の推測が正しく、敵がチームリーダーの雨月うげつの大将を狙って来たなら、自分は本人を守るだけだ。


「天音くん。このことは、他の者たちには極秘だ。敵が分かりやすくウロついているのだから、現場を押さえる。逃がさずにな……」

「分かりました……では、出かけます」

 蓬莱天音は了承し、電話を切る。

 不安で胸が締め付けられるが、ここは方丈日那女に従うのが良策だろう。

 チャランポランな黄泉千佳ヨミチカの行動も、目立つという意味では悪くは無い。

 けれど大沢さんは、一昨日の黄泉千佳ヨミチカの爛漫さに戸惑い気味だった。

 あまり羽目を外さないように、釘は刺して置かねばならない。


 蓬莱天音は覚悟を決め、玄関ドアを開ける。

 自然な態度で、でも目立つように――

 リビングを今一度眺め……外に出る。

 向かいのマンション前で、神無代かみむしろ和樹と黄泉千佳ヨミチカが待っている筈だ。





「……ふぅ……」

 スマホを置いた方丈日那女は、息を吐いた。

 横になっていた布団の周りを見回すと――周囲には八個の洗面器が置いてある。

 枕元と足元に一個ずつ、都有に二個ずつ。

 池から汲んだ水に、黄泉の泉の雫を混ぜた水を注いだ水で満たされている。

 

 水影月みかげづきとしての能力の一部は、この世界でも健在だ。

 学校の水飲み場でも発揮した探知能力――それは、眠っている間にも発揮できる。

 黄泉の川を彷徨っていた月城が浮上した庭の池は、深い所で黄泉と繋がっている。

 そこに、舟曳ふなびき氏から譲り受けた黄泉の水を混ぜれば、強力なレーダーとなる。

 負担が大きいから、一日置きに探知していたが――早朝に引っ掛かった。

 異変を感じて目覚めると、枕元の洗面器に、一戸蓮が映っていた。

 どこか狂気めいた顔付き、制服風の黒ズボンと半袖シャツから、瞬時にニセ者だと察したのだ。


 一戸蓮本人に伝えようかと思ったが、彼らの楽しい時間を壊したくなかった。

 全員を生き残らせたい。

 だが、最善を尽くしても叶わぬこともある。

 特に、蓬莱天音は……最後は、この世から去る運命だ。

 彼女に多少の負担は掛けるが、貴重な思い出を作って欲しかった。

 


(さて……奴を押さえてからが問題だな。生け捕りが最適だが……)

 日那女は白ソックスを履き、対策を考える。

 ニセ者たちは、所詮はコピーだ。

 ただし、複数コピーは不可能らしい。

 侵入した雨月うげつのニセ者を抹殺しても、次のコピーが作られるだけだ。

 ならば、手足を斬り落としてでも生かして置いた方が良いが……


 思案しつつ、床板に置いていた竹刀袋を取った。

 こちらも、中に刀が納められている。

 相手は、『第八十九紀の大将』の剣士でだった男だ。

 一戸蓮本人の実力に、雨月うげつの剣技が加味された存在と診るべきだろう。

 自分は水影月みかげづき並みの太刀筋はあるが、彼には敵わない。

 だが助っ人が二人いれば、勝ち目はゼロでは無い。

 

 立ち上がり、準備運動するように腰を回す。

 制服の紺のプリーツスカートが、綺麗な波を描いて回る。

「やっぱり、刀剣少女はセーラー服だよな! それも長袖!」


 纏った冬服の長袖トップスを見つめ、ご満悦でポーズを取った。

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