第96話
真夏の北海道らしい晴天だ。
乾燥気味な空気は軽く、空はくっきりした青。
千切った綿菓子のような白い雲は、山の向こうを右方向にゆっくり流れている。
「気を付けてね…」
沙々子は笑顔を作って、お弁当を詰めたパックを和樹のリュックに詰める。
鮭と梅のおにぎり、ザンギ、かぼちゃのサラダ、ズッキーニと茄子のマリネ、フライドポテトのベーコン巻き、ゆで卵、プチトマト、カットパイン、緑茶入りの水筒。
このカットパインのパッケージのQRコードの抽選で、千円分の電子マネーが当たった。
沙々子は大袈裟に喜んだが……意気消沈している息子を気遣ってのことだろう。
――インターホンのチャイムが鳴った。
和樹はリュックを背負い、母親に頭を下げる。
「お弁当ありがとう、母さん」
「お夕食は、エピピラフとザンギの残りとかで良い?」
「うん、充分だよ。母さんも気を付けて。『黄泉エキス』の分量に異変があったら、すぐ連絡してね」
和樹は、玄関に置いたボトルを眺める。
『三途の川エキス』は、ボトルいっぱいに満たされている。
黄泉姫が訪れた後にチェックすると、空っぽになっていた。
が、
霊力が強いか悪意のある敵にのみ、反応するらしい。
つまりは、『闘う可能性がある者』に。
「ナシロく~ん。起きてまっちゅか~?」
素早くドアを開けると――その途端、ミゾレが駆け入って来た。
今日は久住家が留守なので、
沙々子は、すかさずミゾレを抱き上げた。
「ナシっち、ナシっち、おはよっち~☆」
ドアの向こうでは、
明るい茶色の膝丈パンツにロゴ入り白Tシャツ、黒ソックスにスニーカー。
白いキャップに、ベージュのキャンバストートバッグを斜め掛けしたコーデだ。
久住さん本人が好むコーデだが……その笑顔には、どうにも締まりが無い。
同じ顔でも、醸し出す雰囲気は雲泥の差だ――。
「行くよ、
「……千佳ちゃん、良い子で過ごすのよ」
沙々子は不安気に声を掛け、ミゾレも大きく尻尾を振る。
「はい、ママちゃま。お弁当ありまとございまちゅら~☆」
久住さんのお母さんは今日は仕事だから、沙々子は月城の分も含めて三人分の弁当を作ったのだ。
「行って来ます……」
和樹は
ドアが閉まり、エレベーターは速やかに下降する。
どのくらいの回数、久住さんとこれを乗り降りしたのだろう。
だが、彼女はここに居ない――。
居るのは、同じ顔のニセ者だ。
本物は自分たちの闘いに巻き込まれ、簡単には手の出せない場所に居る。
「……いいか。外に出たら、その口調は禁止だからな」
「ふぁい、先生。バニラアイス、お願いしまちょっぴ~☆」
コロコロと笑う
彼女を守れなかった自分の愚かさを。
「ナシロくん、久住さん、おはよう」
マンションを出ると、待っていた蓬莱さんが声を掛けてくれた。
パウダーピンクのブラウスに、デニムのフレアースカートに白いグルカサンダル。
それに淡いグリーンのリュックと、白いスマホポーチ。
ミディアムロングの髪を下げており、いつも以上に女優の三木瞳に似て見える。
心の中に――熱い想いが迫り上がる。
彼女を恋焦がれる、かつての自分の心に間違いない。
それに溶け入るように、今の自分の心の痛みが背筋を撫でる。
少しでも気を緩めると泣いてしまいそうで……声を張り上げた。
「さ、急ごう。月城の乘ってるバスに乗り遅れる!」
「そそそっと、そうでしゅね!」
「……そうだね!」
少女たちの笑顔を受け、和樹は空を見上げて歩き出す。
空の青は眩しく、射す光は強く、目を刺激する。
和樹は額に腕をかざし――ゆっくり下に降ろした。
腕を掠めた水滴は、音も無く地に染み込んだ。
バス停では、上野が待っていた。
前掛けのリュックを見ると、重箱でも入っていそうな膨らみっぷりである。
目を丸くしつつ、到着したバスに乗り込むと――月城が最後部座席に座っていた。
背が高いので立つよりも邪魔にならないし、それに車内は空いている。
動物園行きの平日の路線バスは、こんなものなのだ。
「おはよ、月城」
上野は挨拶し、リュックを抱えて月城の隣にデンと座った。
その横ひとり分のスペースを開けて和樹が座り、蓬莱さんと
そして次のバス停で、一戸と大沢さんが乗り込んで来た。
大沢さんは髪をポニーテールにして、スクエア型のメガネを掛けている。
白い半袖トップスに紺色のガウチョパンツにバレエシューズ。
オフホワイトのリュックを右肩に掛けている。
二人を見つけた上野と
大沢さんは後部座席に近付いて来たが、一戸は中央の吊り革に掴まる。
彼は、座席には決して座らない。。
その方が鍛錬になるから、と武道に携わる若者らしい考えだ。
和樹は、大沢さんの席をどうしようかと見回した。
自分が左窓際に詰めてその横に座って貰うのが早いが、女子ひとりは嫌かも知れない、と考えあぐねていると……
「おい、窓際にずれろ」
「え?」
上野がささやき、尻をぶつけて来たので、和樹も左端に尻をずらす。
「大沢さん、ここ空いてるよ」
上野はニヤニヤしつつ、開いた月城の横の席を示す。
見ると……月城がホワンとした眼差しで、大沢さんを見ていた。
和樹も、ふと思い出す。
以前に、上野が大沢さんの写真を月城に見せたことがあった。
『彼女、親戚の実家に近い農業高校に進学したんだ。おばさんの酪農場を継いで、乳製品を販売したいんだって』
『農家を?』
『そういや、お前は農村の出身だったよな』
『ああ……米や
『そっか。彼女、夏には帰省するから会ってみろよ。話が合うかも知れんぞ』
――ああ、そうか……と、和樹の頬は緩む。
だから、大沢さんが横に腰掛けた時――月城の肩は冷たいコンニャクを当てられたように跳ね上がる。
「初めまして。月城くんですね。久住さんたちから、お話は伺っていました。本当に背が高いんですね」
「……初めまして。はい、月城
快活に話しかけた大沢さんに対し、月城はしどろもどろで返答する。
その様子を見た和樹は、上野や一戸と目で合図する。
これは一肌脱がねばならない、と。
――時計は、午前十時を差した。
一戸
駅前行きのバス停で、友人たちと待ち合わせをしているのだ。
両親は既にパティスリーに出勤し、家には祖父母が残っている。
祖母は蕎麦打ちをしており、祖父は気難しい顔で墨を擦っていた。
出かける前には、祖父に声を掛ける決まりである。
祖父は「午後二時までは帰るように」と言っただけで、どこに出掛けるのかは聞かなかった。
兄には厳しく、自分にもどこか冷淡だ。
とにかく、兄への異常な叱責だけは止めて欲しい――。
叶わぬ願望に溜息しつつ、バス停に向かう道すがら――竹刀袋を背負って歩く人影に気付いた。
(……お兄ちゃん……じゃないよね?)
目を凝らしたが、後ろ姿しか見えない。
背格好と髪型は似ているが……黒い学生服らしきズボンを履いている。
それなら制服が違うから、兄では無い。
(そうだよね。お兄ちゃんは動物園に行ったし。でも、制服ばっつん気味……)
少年の着ているシャツとズボンは、遠目にもサイズが合わないと判る。
だが、
あと二分でバスが来る――。
(フン、一戸漣の妹か……)
一戸蓮の偽りは、遠ざかる気配に舌打ちする。
(ジジイとババアだけでなく、妹も殺した方が効果的だと思ったのだが)
しかし、立ち去ってしまったものは仕方が無い。
次に注意すべきは、襲撃する時間帯だ。
今は……周囲には誰も居ない。
自動車とやらは通るが、そこは一戸家から少し離れた広い道だ。
家の前を複数人が通るまで待った方が良いと判断し、来た道をまた引き返す。
一戸家の人間を殺し、血塗れの姿を住民どもに目撃させ、自害せよ――
それが
勅命は絶対であり、拒否することなど考えられない。
それを実行すべく周囲を歩き回り、街並を観察し続けた。
結果――殺しを遂行後に『通行している自動車に身を投げる』のが効果的だと判断した。
ただ――不満点がある。
彼が使った衣装だが、自分には少しきつい。
(止むを得ん。脱いでから斬り付けるか……)
偽りは袖口を引っ張り、周囲を見回す。
空は青く、雲は白い。
光が眩しい。
故郷で見る巨大な月は、どこにも無い。
目の前の道を、大きな自動車が通り過ぎた。
透き通った窓の向こうに、一戸漣の妹の顔が見えた。
彼女は、楽しそうに笑っていた――。
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