第16章 黄泉姫と白織の君
第91話
久住千佳は――目を覚ました。
背に触れるのは、畳の固い感触だ。
畳の周りは白い几帳で囲まれ、外は見えない。
だが――どこからか、太鼓の音が聞こえる。
朝を告げる太鼓の音だと教えられた。
この太鼓が鳴ると、寝床に居る人々は動き出す。
夜通し宴会を開く貴族たちはともかく、市井の住民の動きは活発になるらしい。
市井の住民と云っても、黒い
意志を失い、目的も無く、ただ市中を動き回るだけ――。
(お母さん……お父さん……ミゾレ……)
家族の顔を思い浮かべつつ――几帳から這い出し、恐る恐る
隙間から庭を眺めると――外は少し明るい。
庭の青草に混じって咲く花の――白い花びらが見て取れる。
ホッと胸を撫で下ろし、膝立ちで几帳から這い出した。
蓬莱天音――いや、村崎綾音の母の香織から、夜は絶対に外に出ては駄目だと念を押されている。
月の光を現世の者が浴びると、命に関わるらしい。
庭の花を覗き見て、花びらが金色に輝いて見えたら、それは夜の証――月光に照らされている証だと言う。
花びらが白く見える時以外は、危険な時間帯なのだ。
「……ナシロくん……」
囁き、見上げた空は――青みがかった鉛色だ。
太陽はこの世界には無く、邸の屋根の上には巨大な白い半月が座す。
クレーターもはっきりと見え、荘厳さと不気味な美しさを醸し出している。
下級の女房が置いて行ったのだろう。
朝の膳も置いてある。
白粥・干し魚・青菜と里芋の煮物・塩・味噌に似た
現代の食事と違って薄味で、新鮮な食材が皆無と言っても過言では無い。
生野菜を食べることは無く、卵を食べると災いが起きると信じられているらしい。
ここに連れて来られてから、三度目の朝。
腕時計はあるが、午前九時を指している。
時計の針が変なのか、時間の流れが現世と異なっているか、だ。
身一つで拉致されたので、現世の物は衣服と靴、ポケットに入れていた生徒手帳と腕時計のみ。
他はトートバッグの中で、予備校のトイレの中に置いたままだ。
――現世では、どれくらいの時間が経過しているのだろう。
――自分は、何者かに誘拐されたことになっているのだろうか。
あのトイレで何が起きたのか、未だに理解しきれないが――和樹たちの会議に参加して聞いた『和樹のニセ者』に拉致されたことは間違いない。
「ひどいよ……」
鼻を啜って呟くと――横から、柱を軽く叩く音が聞こえた。
「おかあさま…!」
久住千佳は目を拭い、横に設えられている部屋の前に進む。
村崎香織さんの部屋だ。
平安時代風の家屋は体育館のような造りで、立て障子や屏風、几帳などで仕切り、小部屋を設える。
二人の部屋は二メートル近い立て障子で仕切られているだけだが、立て障子は異常に重くて動かせない。
何らかの術が掛けられているのだろう。
だから互いの部屋に出入りするには、庭に面した(
同じ部屋で過ごしたいが、別の部屋で寝るように指示されている。
香織さんも、御主人とは引き離されて暮らしていると言う。
御主人とは、十日ごとに手紙のやり取りが許されているが、会うことは出来ないそうだ。
手紙に寄れば、御主人は現世の話を此処に住む男たちに聞かせているとのこと。
その中に、例のニセ者たちが居るのだろう。
互いを人質に取られているに等しく、逆らうことは出来ない状況なのだ。
久住千佳は
香織さんは既に洗面を終えた様子で、寄って来た久住千佳の手を取った。
「
十二単に身を包んだ彼女は綺麗で、蓬莱天音に良く似ていた。
この異様な世界で、実の母親のように接してくれる彼女だけが拠り所だ。
「私も朝ごはんを食べていないの。一緒に食べましょう」
「はい……顔を洗って来ます」
久住千佳は部屋に戻り、教わった通りに洗面し、茶器で口を洗ぐ。
現世のような洗面所は無く、全ては部屋の隅で行う。
トイレはどうするのかと不安だったが、この家屋の端に個室が設置されていた。
畳敷きの三畳ほどの小部屋で、木製の和式タイプ。
紙は無く、棒の先に水に浸した綿が巻き付けられている。
下には川が流れており、香織さんの御主人に寄れば、古代ローマ式のトイレに近いらしい。
無論、香織さんの御主人の知識を利用して造られたものだ。
けれど有難いことに、尿意を殆ど感じない。
一日に一度、感じるか否か――その程度だ。
肉体を持つ人間は、此処では幽霊のような存在なのかも知れない――と香織さんの御主人は推論したそうだ。
食事をしても、それは正に絵にかいた餅を眺めるようなもので、実際は消化していないのかも知れない――と。
三日間を過ごしてみて感じたのは、ここは思ったよりも快適だと云う事。
現代的な娯楽は無いが、不潔さも無い。
汗も殆ど掻かず、髪もベタ付かない。
けれど、そろそろ風呂に入りたい。
家族に会って触れ合いたい。
学校に行って、友達と話をして……
久住千佳は、
使い終わった道具は
それらを
二人は向き合って朝食を取る。
現代の料理とは比ぶべくも無いが、母親同様に思える人と過ごせるのが救いだ。
独り寂しく過ごしていた香織さんは、よほど辛かったのだろう。
娘の綾音(天音)さんのこと、母親の七枝さんのこと、学校生活のことなどを訊ね聞き、何度も声を潤ませた。
綾音さんと友人たちが、この『
「信じられない……あなたのお友達や綾音は、ゲームや小説の中に出て来る『伝説の勇者』なのね。みんなが来てくれることを信じましょう……」
そして、香織さんは強く肩を抱いてくれた。
二人は現世の話に花を咲かせつつ食事を終えた時――
「
女は、
折り畳んだ、美しい色目の衣装が入っている。
「……しばし、お待ちを。私が手伝いますから」
香織さんが答えたが――久住千佳は青ざめる。
『
敵が造り出した、禍々しいニセ者の姫――。
そんな人物に、独りで会わねばならないのだろうか――。
「おかあさま……あたし……怖いです……」
久住千佳は心細さに身震いし、香織さんに抱き付く。
香織さんは、幼子に言い聞かせるように耳元で囁いた。
「
「……はい……」
久住千佳は、香織さんの
やはり、ここでは敵に従うしか生きる術は無いのだ――。
それを悟り、覚悟をゆっくりと決める。
泣いていてはいけない。
彼が来てくれた時、「頑張ったよ。蓬莱さんのお父さんとお母さんも無事だよ」と笑顔を向けたい――。
香織さんを見て、十二単を着た時の動きは覚えた。
長袴を軽く蹴る感じで歩くと、つんのめらない。
とにかく従順に――相手を挑発しないことが大事だ。
(……ナシロくん、来てくれるよね……!)
久住千佳は、体育感のステージで見た剣士を思い浮かべ――顔を上げる。
彼は、仲間たちと共に命懸けで闘ってきたのだ。
剣は持てなくても、今の自分に出来ることはある。
生きて、彼を待つことが自分の闘いだ。
――あの勇気を少しでも、ほんの少しでも。
久住千佳は、ブラウスのボタンに手を掛けた。
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