第90話
夜の十時半を過ぎた頃。
方丈家の風呂場には、
「お風呂、広~い♪ さっすが、先輩♪ あーあ、オッパイ大きくて良いな~」
横目で日那女の胸を眺めつつ、アヒルのオモチャ七個を湯舟の縁に並べ、「ごっこ遊び」に夢中だ。
方丈家の風呂場は、三人が入っても不自由なく動ける広さである。
洗い場の奥に、ヒノキ製の正方形の湯舟がある。
縁の高さは洗い場より少し高く、湯舟の中の階段に一度足を降ろして中に入る。
しゃがむと湯は肩の高さに届き、ちょうど良い塩梅だ。
方丈日那女と蓬莱天音も湯舟に入り、ヒノキの香りの湯に暫しの休息を得る。
夕食には、ピザをデリバリーした。
和風チキン・スペシャルシーフード・スパイシーマルゲリータを一枚ずつ。
サイドメニューの野菜サラダも注文した。
飲み物は、家にあった烏龍茶と無糖紅茶をチョイス。
もちろん、カロリーを少しでも控えるためである。
浴衣に着替えた三人は、写真を撮りつつピザの到着を待った。
日那女の浴衣は、青紫地に白い大きな花模様で、帯は黄色。
天音の浴衣は、白地に紺色の手まり模様で、帯は深みのある赤。
日那女は自分が着替えた後に、手際よく二人の着付けをしたのである。
そして届いたピザを平らげ、暗くなった庭で花火をした。
半分掛けてはいるが月は明るく、池にも金色がくっきりと写り込む。
「……先輩……」
あることを感じ取った天音は、線香花火を手に取りつつ囁く。
「お父さまのお部屋に……」
「ああ、
「……御挨拶をしたいのですが……方丈さまにも」
「いや……父は殆ど眠った状態だし、触らぬ方が良い」
日那女は池に映る月を眺め、不敵に微笑む。
「父は考察しているのだ……『
「吉日……」
「あの世界は、迷信的なものが信じられていただろう? この日は縁起が悪いから、外に出るな。朝起きたら、特定の方角に祈りを捧げよ。そんなのばかりだ。この現代でも、そう大差は無いかも知れんが」
「はい……」
「だが『
日那女は口元を引き締めたが、すぐに笑顔を取り戻す。
「今は……その話は止めよう。花火が無くなったらアイスを食べて、みんなで風呂に入って寝る!」
「はい……先輩!」
天音は頷き、深く屈み、点火用キャンドルの炎に線香花火を近づけた。
花火の先端が炎に触れると斜め下に火花を飛ばし、先端が丸まり――八方に、細い炎の花を咲かせる。
それは儚く美しく――ひと時の夢のようだった。
そして入浴後――。
三人は色違いのガーゼのパジャマに着替え、座敷に布団を並べ敷いた。
日那女が中央で、左右には天音と
枕の左右には、日那女の怪獣縫いぐるみが転がっていた。
「……先輩、彼女を家に帰して大丈夫でしょうか? 講習も、三日分が残ってます」
天音は、やはり不安を隠せない。
本人並の知能や知識を有していても、態度が幼稚すぎる。
この分では、彼女の両親は半日たたずに不信感を抱くだろう。
何より、連れ去られた久住さん本人の安否が気掛かりだ。
悪い考えばかりが浮かんで来て――眠れそうに無い。
「夏休み中に、私が教育する。
日那女は、強い口調で――自分と彼女に言い聞かせる。
『
……花の香りが漂っている。
……爽やかで優しい匂いだ。
久住千佳は――寝返りを打とうと肩を揺らした。
が、枕が固い。
マットレスも固い。
大きな違和感に、重い瞼を開ける。
視界に広がったのは、高い天井である。
木柱が格子状に組み合わされ、横を見ると――美しい絵が描かれた屏風がある。
「ああ……気が付かれましたか……」
声に引き寄せられ、反対側に視線を移す。
漫画やドラマで見た十二単姿の女性が座っていた。
髪を後ろで束ね、黄緑色の着物を重ねている。
「……ここ……ナシロくん……?」
「落ち着いて……怪我はしていません。起き上がれますか?」
「……はい……」
母と同年代らしい女性に手を差し伸べられ、ゆっくりと身を起こす。
「……あたし……寝てたんですか……?」
「まずは、これを飲んで。昆布茶ですよ」
女性に背を支えられ、差し出された深めの小皿の中身を飲む。
お吸い物のような薄味の出汁だ。
熱くも冷たくも無く――だが喉の渇きを覚え、それを全て飲み干す。
「あの……ここは……」
訊ねながらも、自分の置かれている状況を確認する。
薄布が敷かれた畳に寝ており、掛布団の代わりに大きめの着物が掛けられている。
ブラウスとスカート、ソックスを身に付けたままだ。
屏風と垂れ布に囲まれており、周りは薄暗い――。
「あたし……予備校で………」
――ここで、全てを思い出した。
予備校のトイレで、
だが、その表情はまるで違った。
自分の知る彼の、温和さと柔和さは微塵も無く――首に腕を回され、気が付いたらこの状態である。
「ここって……まさか……『
悲鳴まじりの声で訊ねる。
和樹たちから、方丈日那女から、何度も聞かされた場所。
和樹たちが、心を擦り減らして闘っている場所。
学校祭のステージで見た彼らが、敵を迎え撃っていた世界……。
下を見ると、畳の端に『生徒手帳』が置いてあった。
思わず、手に取り――中を確認する。
高校名、校則、自分の住所・氏名に顔写真が貼ってある。
「久住さん……悪いと思ったけれど、中を見てしまいました」
女性は、申し訳なさそうに頭を下げる。
「私は……あなたと同時代の者です。気付いたら、夫と共にこの世界に居ました」
「ムニャサキさん……!」
久住千佳は叫んだ。
「看護師のムニャサキニャーさんの娘さんで……アニネさんのお母さま……」
――名前を正確に喋ったつもりだが、正しく発音できない。
だが、相手には伝わったらしい。
「やはり、母と娘を知っているのですか!?」
村崎香織は、久住千須の手を握る。
「母と住所が近かったから、もしやと思ったのですが……」
「そうだよぉ~~ん♪」
屏風の陰から少年の声がして、ふたりは思わず抱き合った。
その声は――予備校のトイレで聞いた、和樹のニセ者の声そのものだった。
「それでぇ……ここでは君を『しらほりひめ』」って呼ぶからね。『白い織姫』って書くんだよ。じゃあ、婚礼の日までぇ、ここで過ごしててね。大好きだよ♪」
――声と足音は遠ざかった。
「……お母さま……」
久住千佳は、震えながら涙ぐむ。
自力で逃げられる可能性はゼロだ。
助けを待つしか無いが……
「あたし……何が何だか……怖い……」
久住千佳は、村崎香織の腕の中で号泣した。
混乱して、何も考えられない。
心は、真っ二つに折れた。
村崎綾音の母が居なければ、泣き叫びながら走り回っていただろう。
母親同様の齢の人に抱かれ、どうにか正気を保っている――。
(……お母さん……お父さん……帰りたいよ……ナシロくん……!!)
迷子の幼児のように、優しい腕の中で――愛する人々を思い浮かべる。
籠に囚われた雀のように、虚しく声を上げるだけ。
その声は、愛する人には届かない。
巨大な月に照らされた『
王宮を囲む闊歩するのは、黒い影たちだ。
自我を失った住人たちの末路である。
その中に佇むのは、白装束を纏った影――方丈老人である。
一見すると、他の影たちと変わらないが――
向こうから、牛車が来た。
牛、牛飼い
方丈老人は道端に寄り、牛車が近付くのを待った。
牛車の
「陰の月(偶数月)に出歩くとは、不吉な」
すると――
「ものごいか? あほうが。こよいは、ふみづきさいごのひじゃ」
かつての貴族と思しき男の――大きく歪んだ声が小さく響く。
牛車は何事も無かったように通り過ぎ、方丈老人は辺りを見回す。
『
かつての貴族たちの邸では、宴席が設けられている様子だ。
どうやら――生前の習慣通りの生活を送っているらしい。
が、それも記録された映像を再生しているに等しい。
身勝手な郷愁に、憤りが募る。
自ら滅ぼしたものを懐かしみ、偽りの暮らしを構築して満足している――。
「ここも、現世と同じ七月か……」
方丈老人――
婚礼は、『偶数月』を避ける習慣である。
長い間、『
時として、ここは現世とは異なる時間の流れ方をする。
注意が必要だが――婚礼を行うとすれば『九月九日』に違いない。
奇数が並ぶ縁起の良い日だ。
(さて……それまで波乱が起きねば良いが……)
この『
そこに『宵の王』が座している。
そこが、最後の戦いの地となる。
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