第89話

 午後四時半――。

 神無代かみむしろ家は、陰鬱な空気に包まれている。

 上野・一戸・月城がリビングのコーヒーテーブルを囲む横で、和樹は仏壇と向き合い続ける。

 上野たちもスマホを見て――時折、囁き合うばかりだ。

 


 

 ――玄関チャイムが鳴った。

 ドアが開いた音と、コンクリの床に響くヒールの音。

 上野と一戸は腰を浮かしたが、それより早く和樹は立ち上がった。

 その顔を見た月城は――胸を突かれた。

 和樹の表情は、あの時の神名月かみなづきと酷似している。


 

『……そんな顔をするなよ……こっちまで哀しくなるじゃないか……』


 

 ――仲間と遺骸と自分の死を前にして、なお他人を思い、耐え忍んでいた。

 今も、母親を心配させまいと必死に取り繕っているのは明らかだ。

 自分は、自力で『魔窟まくつ』に潜行できる。

 この魂と引き替えに久住千佳が取り返せるなら、躊躇わずにそうする。

 神逅椰かぐやに三千回斬り刻まれることで、彼女が解放されるなら、迷わずに身を差し出せる。

 だが、あの時の二の舞は御免だ。

 神逅椰かぐやを信用するのは、飢えた虎に手を差し出すに等しい――。



「……みんな、居てくれたの!?」

 蒼白な沙々子だったが、勢揃いしている四人を見て、僅かに目尻が緩んだ。

 午後三時の小休憩時にメールを読み、方丈日那女と通話し、額から大汗が流れた。

 倒れなかったのが奇跡と思うぐらい、心臓が戦慄わなないたのである。


「……母さん、大丈夫。落ち着いて」

 立ち尽くす母親に近寄り、ソファーに座るように促す。

「方丈先輩とも話し合った。当面は、様子見だよ。敵は、久住さんは傷付けないよ。大事な人質だからね。それに、憑依されていた中越さんも外傷は無いし」


「……でも……そんな……」

 沙々子は、一戸を見た。

 振られた一戸は――彼女をなだめようと、首を縦に振る。

「和樹くんの言う通りです。今夜にでも救出に向かいたいところですが、方丈先輩に止められました。罠に違いない、と」



「何てこと……可哀想に……」

 沙々子は顔を歪め、吐き気をこらえるように口元を押さえる。

 自分の息子に関わったせいで、隣家の少女に万一のことがあったら……

 そう考えると、生きた心地がしないのだろう。

 うち震える母親の肩を――和樹は抱く。

「先輩から聞いたと思うけど、久住さんのご両親に気付かれないようにしないと。敵が残したニセ者はバカっぽいと言うか……だから今夜、先輩と蓬莱さんが彼女を教育するって」


「……ああ……ミゾレに伝えなくちゃならないのね……?」

 方丈日那女から聞いた限りでは、久住さんの両親に勘付かれないようにするのは、かなりのハードルのようだ。

 数日なら誤魔化せるかも知れないが、それはいつ終わるのか――。

 和樹は、混乱して考え込む母親に――告げる。

 

「桃を買って来たから、それを持って久住さんのお母さんに……ミゾレに解るように説明できる?」

「……そう言われても……何も思い付かない……」


「それなんですが……」

 上野はスマホの画面を提示した。

 そこには、こう打ち込まれていた。


『千佳ちゃんは、お泊りですか? いてくれたら良かったのに。そう言えば、先日はミゾレちゃんが大鳴きしたそうですね。同僚の飼い犬のヨミちゃんは、同僚にしか懐かないそうですよ。同僚の双子の妹さんが来ても、すぐに同僚と違うと見分けられるそうです。猫ちゃんも、本物とニセ者の区別が付いたりするかも知れませんね』



「みんなで、それっぽい話を考えたんですが、これが限界で……変な文章で、すみません……」

 上野は申し訳なさそうに首をすくめたが、沙々子は文章を口の中で呟く。

 子供たちが悪戦苦闘して、最適解に挑んだのが分かる。

 久住さんの無事を祈り、彼女の家族を思い、助け出そうと必死なのだ――。

 自分も、下を向き続ける訳にはいかない――。

 沙々子は、背筋をゆっくり伸ばす。


「……あと十五分だけ時間をちょうだい。まだ、心臓がバクバクしてるから。呼吸を整えて……お隣に行って来る。……占い師のハッタリの見せ所ね」


 沙々子は、仏壇横の亡き夫の遺影を見る。

 夫は、在りし日のまま――微笑んでいた。

 夫も、遠い場所から見守ってくれる――。

 自分が、声を張らなくてはならない――。

 子供たちには、大人の助けが必要だ――。


 沙々子は、再びスマホ画面を見て――話すべき内容を確認した。

 ミゾレに伝えるために。






 そして午後七時――。

 月城は、神無代かみむしろ家の食卓に着いていた。

 沙々子の勧めで、今夜はこの家に泊まることになったのだ。

 上野や一戸のように家族と暮らしている訳でも無く――夕食は独りだと言うと、沙々子は一泊するように誘って譲らなかった。

 夕食のざるうどん、舞茸とピーマンのガーリックソテー、煮豆腐、スイカを三人で食べた。

 以前にカレーライスを食べた時とは打って変わり、沙々子も口数は少なく――それでも表面上は穏やかに、箸を動かした。

 テレビから流れる動物番組の音に聞き入り、食後は分担して後片付けをし、和樹の部屋に月城が寝る布団を敷き、順番に入浴した。


 

 午後十時には、リビングの電灯が消えた。

 程度の差はあれ、三人とも消耗していたが――久住さんのお泊りの件だけは、丸く収められた。

 沙々子が久住家を訪ねると――久住さんの母親は、娘のお泊りの話をしてくれた。

 娘(黄泉千佳ヨミチカ)と蓬莱さんからの電話で、信用したらしい。

 母親の足元に座っていたミゾレは――話が終わると、沙々子の靴を前足で何度も突いた。

 利発なミゾレは、ご主人の異変を察してくれたに違いない。

 

 あとは、黄泉千佳ヨミチカが自然に振る舞ってくれることに期待し、本人を助け出すことに専念しなければならない。

 それは、敵の本拠地に乗り込むことだ。

 無闇に突っ込んでも勝ち目は無く、慎重に事を運ぶ必要がある。

 だが、どれだけの猶予が残されているのか……

 

 

 

「……暑くない?」

 和樹は、自室の窓を半分だけ閉める。

 八月を目前にして、夜は去年よりも格段に涼しい。

 窓を全開にすれば、肌寒いぐらいだ。


「ああ、思ったよりも夜は涼しいんだな」

 去年の猛暑を知らない月城は、タオルケットと薄地の毛布を広げる。

 湯上りに着たのは、和樹の大きめのTシャツやハーフパンツだ。

 身長差はあるが、細身だから着丈が多少短い程度だ、見映えも悪くない。


「ごめんね。母さんが強引に引き留めて。月城の家と違って、寝るのは窮屈かな」

 和樹は、軽く苦笑した。

 六畳洋間の部屋にはシングルベッド、勉強机、本棚、タンスがある。

 勉強机にはノートPCが置かれ、本棚上段には小さな地球儀、怪獣のソフビ人形、

キリンの親子のフィギュアが並ぶ。


「まだ寝るには早いよね? 『リバーシ』でもする? 遊び方、分かる?」

 和樹は机の引き出しから、ゲーム盤を取り出した。

 二つ折りのゲーム盤を開くと、中には黒白の円形のコマが窪みの中に並んでいた。


 それを見た和樹の顔から、笑みが消える。

 ゲーム盤を開いたまま、ベッドに座り込み――動かない。



「……無理するな……」

 月城は、和樹の横に腰掛けた。

 ゲーム盤が古い物であることは、一目瞭然だ。

 盤上やコマの無数の引っかき傷が、子供たちが使い続けたことを物語っている。

 今までに数え切れないほど遊び――最も多く、その相手を務めたのは久住千佳なのだろう……。


「お前も、如月きさらぎも、雨月うげつも……愚かな俺を許してくれた。俺は、お前たちのために……お前の大切な人のために闘う……」


 その言葉が終わらぬうちに――盤上に雫が落ちた。

 雫の数は少しずつ増え、嗚咽が吹き込む夜風に溶け込む。

 

 月城は、我が手を見た。

 この手で、過ちを犯した。

 友の命を断った、血に塗れた手――。

 

 その指先で、盤上の雫に触れ、拭う。

 和樹はその手を握り、声を殺して泣いた。

 月城は、黙ってそれを受け止める。

 

 網戸からは、細い三日月が見えた。

 それは白く、ゆるりと輝いている。

 人は明日も、更に細くなった月を見上げるだろう。

 

 仲間が、この世で生き続けること。

 それが、自分の唯一の願いだ――。

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