第88話
「……まずは、落ち着こう」
日那女は、座卓に付いた全員を一瞥した。
程度に差はあれ、彼らは後悔と憤りを
敵の徘徊を許し、友人が拉致されたなど――最悪の事態だ。
中でも、和樹の憔悴は激しい。
何十年も放置されたホコリ塗れの人形のように、動く気配すら無い。
ここに来るのにも、月城と上野が支え、ようやくタクシーに乗り降りさせたのだ。
呑気に自宅で自習をしていた自分を、日那女も責める。
それを知った時に、ストレートに警鐘を鳴らすべきだった。
だが三人の複雑な関係を思い、胸に仕舞ったことが
(……まただ……過ちを繰り返した……)
遠い過去の記憶が押し寄せる。
狂気に陥った
しかし、その時には二つの国を繋ぐ街道は封鎖され、移動もままならなくなった。
国に潜入した時には、腹違いの弟も他の童子たちともども殺され、八十八紀の四将たちも惨殺されたと知った。
隣国に逃亡した八十九紀の四将たちの命も、風前の塵だった。
従者の
目的は、月帝さまの『宣命書』を賜ること。
八十九紀の四将たちを救う術は、それしか無かった。
だが――帝都王宮には強力な結界が張られ、潜入は不可能だった。
後輩の二人を犠牲にして、何も得られない――
夜通し宴会を開いていた貴族の邸にも、明かりは灯っていない。
野良犬も烏も姿を消し、黒い得体の知れぬ霊体が地を這い回っているのを感じる。
成す術を失った彼女だったが――思いがけぬ救いの主が現れた。
八十九紀の大将――
代々より近衛府の高官を輩出してきた家系であり、術士の才がある者も居た。
その者が彼女の潜入を悟り、
タウレリ家の――自害を覚悟の行動だった。
老いた使者は白馬に跨り、月帝の『宣命書』を携えていた。
「事態を憂慮されていた月帝さまより託されておりました。月帝さまの御名と御印が記されあそばした『宣命書』でございます。空白の部分に、
使者は涙を浮かべ、白馬と一枚の霊符を託して去った。
霊符には、空間に『道』を開ける術が記されていた。
しかし、間に合わなかった――。
日那女は、口を固く結ぶ一戸を見た。
彼は――
いや、他の者も――
彼女自身、自分の一族の末路を知らない……。
――摺り足の音が近付き、「失礼します」と低めの女性の声がした。
「お飲み物です。お菓子もお持ちしますね」
「……ありがとう、島田さん。そこに置いたら、今日は帰っても良いですよ」
我に返った日那女が答えると、女性は「はい」と言ってから一度姿を消し、トレイをもう一つ置いてから「ごゆっくりどうぞ」と言って下がった。
上野と月城が立ち上がり、廊下に置かれたトレイを持って来る。
人数分の蓋つきのドリンクジャーは、炭酸入りのピンク色のジュースで満たされており、白い大皿には個別包装のクッキーが並んでいる。
「家政婦さんだ。いつもお世話になっている。彼女とは別に、父の訪問看護も頼んでいる。こちらは、一日置きに来てくれる」
日那女はドリンクジャーを各自に配る。
「……おい、ヨミチカ。お前も食え」
「あーい。うっひょ~い♪」
寝そべっていた久住千佳のニセ者は飛び起き、クッキーを勢い良く開封して口に放り込み、ストローでジュースをゴクゴク飲む。
「うみゃみゃ~♪ ピンクグレープフルーツ味でした~ん♪ にゅまにゅま♪」
久住さんとは掛け離れたニセ者の態度に一戸は呆れ、渋い顔をする。
「ヨミチカ…と呼んでるんですか?」
「ああ。
日那女は忌々しそうに、
「おい、ヨミチカ。『枕草子』の『春はあけぼの』の冒頭を言え」
「春わぁ、あけぼの~。やうやう白くなりゆく、やまぎわ少しあかりてぇ、ムラサキだちたるクモのぉ、白くたなびきタルタル」
「はずれ。細く、たなびきたる、だ」
「アチャパー! 先輩、ごめんちゃいちゃい♪」
「……こいつの鼻の穴に、カンチョーをブッ込んでいいっすか?」
上野は、クッキーを食べ散らかす
「……好きにしろ」
日那女は座卓に肘を付き、額を抱えて一戸に説明する。
「こやつから、事情は聞いた。今朝、気が付くとホテルに居たらしい。私のニセ者と一緒にだ。部屋で朝食を食べ終えたら、ニセ者の
「奴らは、ホテルに滞在してたんですか!?」
「そうだ。喫茶店で目撃された私のニセ者と女……女は、『悪霊』に憑依された中越くんだろう。久住くんの夏期講習のスケジュールを、ニセ者に伝えたと思われる」
「久住さんは、教室で講習に通う話をしてました。中越さんも聞いていました……」
蓬莱さんは項垂れる。
傍にいながら、中越さんが憑依されていることに気付かなかった自分を責める。
いや、気付かなかったのはここに居る全員もだ。
クラスメイトなのに、全く気配を察知できなかった。
「……彼女に取り憑いていた『悪霊』は、弱い部類です。
申し訳ない、と言うように――月城は、深く頭を下げる。
だが和樹は――顔を強張らせたまま、微動だにしない。
「……腑に落ちん」
日那女は、六個目のクッキーをパクつく
「一戸くん……君が
「え?」
「久住くんが行方不明になれば、世間や学校は大騒ぎだ。だが、ニセ者を置いて行く必要があるか? まるで、世間の騒ぎを最小限に留めようとしている感じだ」
日那女は、ジュースをひと口飲む。
「こう言うのはナンだが……私が
喋った本人と、
障子越しに、雀の可愛らしい鳴き声が響く。
日那女はクッキーをポイと放り、キャッチした
「こいつは珍妙な奴だが、敵意は感じない。本人並の学力もあるようだ。ヨミチカ、アイスを持って来てやるから、ちゃんと正座しろ。お行儀よく行動すれば、家に帰してやる」
「はい、方丈先輩。頑張りますっ」
しかし――和樹は見ようともしない。
「蓬莱くん。今日は、お祖母さんは仕事か?」
「夜勤ですから、あと一時間ほどで家を出ます」
日那女の問いに、蓬莱さんは時計を見て確認する。
「そうか。では君のお祖母さんと、久住くんのお母さんに電話だ。今夜は方丈先輩の家に泊まると言ってくれ。必要なら、私も直接話す」
「泊まるんですか…?」
「ヨミチカもだ。今夜は、女子会だ。風呂に入って、浴衣を着て、花火をする。上野くん、スーパーで『花火セット』を買って来てくれたまえ」
日那女は、キョトンとする
「久住くんの件は、私が
「先輩、それよりか……今夜、敵地に乗り込んだ方が良くないですか?」
上野は訊ねた。
乗り込むなら、癒しの術が使える蓬莱さんにも同行して欲しいのだが――日那女は首を振った。
「止めて置け。網に飛び込んで焼き魚になるだけだ」
日那女は軽く牽制し、立ち上がる。
敵も、怒りに押し切られたこちらの襲撃を予想しているだろう。
彼らを、みすみす罠に飛び込ませる訳にはいかない。
何より、
「上野くん、電子マネーを渡すから買い物を頼む。それで帰りのタクシー代も払え」
日那女はスカートの皺を伸ばしつつ、不敵に笑った。
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