第7話 ラピスラズリの夢
ハグラジュリー駅の物寂しいホームへと降り立つと、午後の絡みつくような熱気の濃密さをその肌にじっとりと感じた。
十月下旬の雨季の終わり頃ともなれば、インドも比較的過ごしやすい気候になると拓也は聞いていたが、先日まで滞在していたニューデリーからやや南東に位置するこの一帯は、まだ蒸し暑さの残る時期であるようだ。
薄曇りの空の下、同行の桂子が少しやつれた顔をして額の汗をタオルで拭っている。
「タク、こんなとこまで付き合わせちゃってごめんね」
拓也はそこで久しぶりに桂子の気遣いの言葉を聞いた気がした。
アッサム州にあるハグラジュリーへの訪問については、そもそも拓也は旅行のスケジュールに組み込むことに当初から難色を示していた。しかし新婚旅行先をインドに決めたのは、この訪問を主な目的としたい桂子からの提案であり、彼女からすればそれを予定から外すことはまさに本末転倒としか言いようがない。そのため、桂子は拓也の意見には決して譲ることをしなかった。
しかしインド到着後の数日はデリー周辺を観光するなどして、ふたり穏やかに楽しく過ごしていたものの、昨日国内線でグワーハーティー空港に降りたってからは、桂子の機嫌が次第に悪化していくのが拓也の目にも明らかだった。
何より気になるのは衛生面である。国外からの観光客向けに多少は洗練されているニューデリーと比べ、たしかに食べ物には普通にハエがたかり、不快な臭気が漂う場所にもよく出会う。
特に前日に宿泊したランギアの宿屋では、シャワーはまともに使えないし、壁にはトカゲが這うし、ベッドのシーツには小さな虫たちが蠢いているしで、桂子はよりイライラを募らせ、拓也につい当たってしまうこともあった。
拓也自身は、東南アジアやアメリカ大陸をバックパッカーとして過ごした経験もあり、こういったことには少なからず耐性があるのだが、夫のその平然とした態度も、より桂子を苛立たせたようだ。
拓也からすれば、自分がこの地に来ることを望んだくせにまさに“逆ギレ”じゃないか、という不服な思いが桂子に対してフツフツと沸き上がり、ふたりは朝からほとんど言葉を交わすこともなく、ランギアから東へと向かう列車へと乗り込んだのだった。
列車に三時間あまり揺られつつ、昨晩は“虫ベッド”のせいでほとんど寝られなかったために居眠りをしている桂子を隣りにして、拓也は車窓を流れる景色をひとりただ眺めていた。
初めは、何故こんな厄介な新婚旅行になってしまったのかと後悔を感じていたものの、異国の自然が織りなす美しい風景にぼんやり目をやっていると、その景観が麻布に落としたインクのように次第に彼の心に沁み渡ってきて、ついにはここへ来て良かったと素直に感じるまでにその心境は変わっていった。無理矢理桂子に付き合わせられているという感情が、どこかその態度に滲み出てしまっていたのかも知れない、と彼女の不機嫌の原因の一端を作った可能性を、拓也は反省するようにさえなっていた。
彼らの他に誰も降りる乗客はなく、列車が去ってしまうと、駅のホームに立つのはふたりだけとなった。
桂子が口にした気遣いに、拓也は感じ入るように目を伏せる。
「まあ、僕も今はここに来て良かったと思ってるけどね。それにケイ――
そう返したものの、拓也は自分の吐いたセリフが妙に気恥ずかしくなり、ふと目を背けては遠くに聳えるヒマラヤ山脈を見遣った。その言葉を聞いた桂子は、嬉しそうに彼のもとへ駆け寄ると、普段ならば素直に抱きつくところを、身体中が汗でベトついているのが突如気になり、咄嗟に拓也のバックパックにしがみつく。バランスを崩した拓也は、変な声を上げてその場によろけてしまうのだった。
拓也とその五歳下の桂子との出会いは、マサチューセッツ工科大学のキャンパスだった。
それぞれ拓也が電気工学を、桂子がシステム工学を専攻する学生だったが、共に日本人ということで話も合い、外国での暮らしに戸惑う桂子をアメリカでの生活の長い拓也が助けることもあって、ふたりは次第に親密となってゆき、やがて彼らが交際に至ることは自然の流れだった。
拓也は大学卒業後にアメリカの友人たちと、先鋭的な製品を開発する小さなエレクトロニクス会社を設立し、まだ在学中だった桂子も卒業と同時にそこを手伝う話がついていたが、友人らの勧めもあってそれを機にふたりは結婚することを決めた。
結婚一ヶ月後の長期休暇をふたりは新婚旅行に充て、インド旅行が終わったら日本へと戻り、それぞれの実家へ挨拶に向かう予定である。
ハグラジュリー駅前には小さな商店が幾つか点在しているものの、辺りに人通りは少なく、たまに車やバイクが通っていく程度で、拓也は少し物寂しい印象を受けた。
ただ、これまで人口密集地を経由してきたために、そのように感じるだけかも知れない、と彼は駅の周辺を漫然と眺めている。
一方の桂子は、自分のバックパックから地図を取り出すと、早速目的地の確認を始めた。
その場所はここから北東へ3kmほどに位置しているが、タクシーもリキシャも見当たらないので徒歩で向かうより他はなかったし、元よりその覚悟でもあった。
ふたりは線路をまたぐ大きな通りを北へと進んでいった。やがて目印の看板が見えてきたので、地図に従ってその先を右に逸れると、そこには樹木に囲まれた舗装の施されていない細い道が伸びていた。
そこを道なりに進めば目指す集落にたどり着けるようだ。
ふたりは汗を拭いつつ、目的地に向かって一歩一歩足を進めていく。
道を挟んで
時折木々が風もないのにがさがさとざわめき、鳥たちの鳴く声があちこちから聞こえてはくるが、何故かそこにはひっそりとした空気が流れているのをふたりは感じていた。
密林に挟まれた道をしばらく歩いていると、前方からこちらへ向かって歩いてくる者たちの姿が見えた。
その姿形がはっきりと見えるまでお互いが近づいた段階で、彼らが赤褐色のクルタを纏った男女であることが分かった。
黒い蓬髪と長い髭にその顔を覆われた男は、何やら民族楽器のようなものを肩から吊るしているようだ。女のほうは頭にベールをかぶっていて、その胸には赤ん坊を抱えている。
拓也と桂子は不躾にそのふたりをジロジロと眺めていたが、彼らは目も合わさずそのまますれ違っていった。
「あれってバウルかなあ」
桂子は後ろに振り返り、遠くに彼らの背中を見て呟いた。
「バウル?」
「うん。流浪の吟遊詩人みたいな感じの人たち。でももっと南のバングラデシュのほうにいると思ったんだけど……ってタク、話聞いてるの?」
拓也は桂子の説明を聞き流しつつ、少し別のことに心を奪われているように見えた。
「いや、あの男の人がさあ、ちょっとインド人っぽくない気がして」
「たしかに言われればそんな気もするけど……」
「もしかして……日本人とかかな?」
「まさか、こんなとこに日本人なんている?」
桂子の言葉がジョークなのか本気なのか拓也の中で判然としないまま、ふたりは再び歩き出した。
さらに道を進んでいくと、ふと桂子が何かに気付いたのか急に足を止めた。
ついで彼女は道端へしゃがみ込んでは、そこに生えていた草の葉をむしりだすのだった。
何をしているのか不思議に思って拓也が声をかけようとしたとき、桂子はつと振り返り、手に持つ緑の葉を彼へと差し出した。
「これの香りを嗅いでみて。何か分かる?」
拓也は言われるがままにその葉へ顔を近づける。
強いミントのようなスッキリとした香りだ。
恐らくはハーブの一種だろうが、その辺りに明るくない拓也が答えあぐねているうちに、桂子は正解を明かしてみせる。
「ホーリーバジルっていうの。自生してるのって初めて見た。やっぱり野生は香りが強いよね」
彼女は葉の香りを嗜みつつ、うっとりした表情で微笑んだ。
「この草はインドだと『死神を寄せつけない』とか『寿命が延びる』なんて信じられている聖なるハーブなの。実際
そう言って桂子は照れたような笑顔を見せる。
「まあこれ全部、アデリーの受け売りだけど」
新婚旅行の行き先をインドに決めたのは、桂子の強い希望であり、さらにそれは学生時代の彼女のルームメイトであるアデリーという白人女性の影響だった。
アデリーはかつて単身インドへ旅行した折に、
その占い師はマジッドという一見年老いて見えるインド人男性で、彼女がニューデリーで高額な詐欺被害に遭いそうだったところをたまたま助けられた(初めは詐欺師の一味だと思っていたらしいが)のをきっかけに、話をするようになったということだった。アデリー自身、そんな特殊な出会い方にも運命的なものを感じているようだ。
見た目は白髪白髯でヨーガの行者のようなマジッドだが、英語も堪能で知的な語り口を持っており、実は
アデリーが彼に生年月日・誕生時間・出生地を伝えると、マジッドはその情報をパソコンへと打ち込み、彼女の過去から現在の悩み、この先の予測までをも見事に答えてみせた。
膨大なインド独自のホロスコープの知識を基に、手計算することも本来可能なのだが、それでは時間がかかるので今はもっぱらPCのソフトを使うことが主流であるようだ。ただし、占いの答えがそのままプログラムの計算結果として現れるのではなく、占い師の経験と直感によりそれをどう解釈するかがポイントとなってくるらしい。故に出生情報を得るだけでなく、実際本人に会って話さないと、正確な占いができないということだった。
その当時のアデリーはまだ桂子と出会う前だったが、マジッドから「いずれ東洋人と共に暮らすことになる」と予言されていたらしく、ふたりがルームシェアを決めたとき、アデリーは「これは
マジッドにひどく心酔していたアデリーの強い勧めによって、桂子も次第にその気になり、今回の新婚旅行を機に、そのインドの占星術師に占ってもらうことを拓也に提案したのだった。何かと危険ともいわれるインドへ女性ひとりで行くのは不安だったので、夫に同行してもらえるこのチャンスを逃したくなかったのだ。なお、アデリーのインド行はひとり旅だったが、彼女の無鉄砲さはとても真似できないと桂子は思っていた。
アデリーと共にインドに向かうという手も桂子は考えたものの、彼女は現在経済的にも時間的にも厳しい状況にあって、そのアイディアには大変魅力を感じたようだが、とても残念そうに断られた。少なくとも大学を出るまでは、金銭的に厳しい状態が続くことがすでに予言されていると、アデリーは悲しげな顔で語っていた。
しかしいざ新婚旅行のプランを立てようとしたとき、ひとつの問題が発覚した。
アデリーがメールでマジッドに確認したところ、彼はISROも占星術学校の教師もすでに引退しており、今はアッサム州の息子夫婦のところに世話になっているということだった。マジッドは遠い昔に妻を亡くしてからずっと独り身であり、今は足も悪くして遠出したりはできないらしい。
ただ、今暮らしている家まで来てもらえば、占いをすることは可能との話である。桂子は拓也との相談の結果、新婚旅行の終わりにアッサム州のマジッドの家に訪問することを決めたのだった。
密林に挟まれた道を数十分あまり進むと、やがてふたりの視界は開け、木々の少ない平地へと足を踏み入れた。
少し先に、数軒の家がまばらに点在しているのが見える。
桂子が再び地図で確認したところ、それらのうちの赤い切妻式のトタン屋根を冠した、黄色く塗られた壁の建物が、マジッドの暮らす家であるようだ。
少し緊張を覚えながらもその家へとたどり着くと、庭では子供たちが楽しげに遊んでおり、年若い母親らしき女がそのそばで洗濯物を取り込んでいる様子だった。
桂子はその女性に声をかけてみる。英語は通じそうにないものの用件は理解してくれたらしく、恐らくはアッサム語なのだろうか、桂子たちには未知の言葉で子供たちのひとりに何か指示を出し、家の中へと向かわせた。多分マジッドに来客の旨を伝えさせたのだろう。
その後彼女は、桂子と拓也を邸内へと促した。日本家屋でいうところの“土間”に相当するところがないために、つい忘れがちになるが、ふたりは玄関先でスニーカーを脱いでから、家の中へと入っていった。まずはインド綿のラグが敷かれた広間に通され、あまり良い振舞いではないと分かってはいるが、つい桂子はキョロキョロと辺りを見てしまう。邸内は外から見た印象よりも、なかなか広い造りになっているようだ。やがて奥のほうから戻ってきた子供が女性に何か伝えると、そのままその子の来た方向へとふたりは連れていかれた。
ふたりは、奥にある小さな書斎に通された。小部屋に入ると、数多くの古びた書物が棚にぎっしりと並べられており、それらの蒼古とした叡智に囲まれて、占星術師――マジッドが悠然と椅子に座っていた。彼の隣にある机の上には、水晶玉などではなく、部屋の様子とは少し不釣り合いな最新型のパソコンがある。
桂子は彼の姿をアデリーから写真で見せてもらってはいたが、その白髪と髭に覆われた顔は優しそうでありながら威厳に満ちていて、いにしえの知識を蓄えた象牙の塔に住まう老賢者のような趣を感じさせた。
「遠くからよく来てくれたね。足が悪いので、このままで失礼するよ」
彼は流暢な英語で、不作法の許しを請うた。マジッドの膝から下には、ラリーキルトの布がかかっている。
ふたりは前に進み出ると、それぞれが自己紹介と握手を交わし、自分たちで部屋の隅にある木製の簡素な丸椅子を持ってきては、それに腰を掛けた。
占いは無償と聞いていたが、一応のお礼としてお土産のアメリカ製チョコレートやMITのTシャツなどを渡し、初めてのインドの印象などの無難な会話もそこそこに、帰りの列車時間も考慮して早々に占いを始めることになった。
マジッドはパソコンに桂子の生年月日・誕生時間・出生地の緯度と経度を打ち込むと、画面を眺めつつ少し考え込んだ。そして、彼が口にした言葉に桂子は息を呑んだ。
「あなたは妊娠しているね」
旅行前にその兆候は無かったものの、結婚したばかりで、いつ妊娠してもおかしくはない状況であるため、それ自体は不思議なことではないが、まるで医師に診断されたかのように、桂子はマジッドの言葉を事実として受け止めていた。
その後も日本の家族構成やアメリカ留学の際のトラブル、子供の頃の怪我のことなど、本人さえ忘れていたようなことまで言い当てられ、桂子はただただ驚くばかりだった。
「あなたは今の夫と結婚することで、将来大変裕福な暮らしを得るだろう」
マジッドの予言を聞いて、嬉しくなった桂子は思わず拓也の顔を見るが、彼は微妙に複雑な表情を浮かべていた。そもそも拓也は占いのようなものに、懐疑的な人間だからだ。
「これから先、アメリカと日本のどちらで暮らしていったほうがいいですか?」
桂子が身を乗り出してマジッドに尋ねる。この件は、アメリカでの成功に賭けたい拓也と、慣れ親しんだ日本での生活を望む桂子の間で、よく議論になるテーマだった。
「ビジネスとしては、やはりアメリカがいいだろう。ただこれから生まれてくる子供にとっては、祖国での暮らしのほうが苦難が少ないはずだ」
「ではどちらを選べば……」
桂子は困り果てた顔で再び拓也に目をやるも、この人に訊いてもアメリカ生活一択だったと思い直し、マジッドの顔をじっと見つめて彼の答えを待った。
「これは必ずしも二者択一の問題ではない。もっとも妥当な方法を選択するとすれば、夫はアメリカ中心の生活、子供は日本で生活し、妻であり母親でもあるあなたは双方を往復するという形だろうか。なかなか面倒な生活にはなるが、金銭面では全く問題にならないはずだ。ただし十年後に夫の仕事が新しい局面を迎え、そこであなたの助けが必要となる。あなたは、子供がある程度育つその頃までは日本を中心に、十年後からはアメリカでの生活に比重を上げるといいだろう」
桂子はマジッドの話に頷きながら熱心にメモを取っている。一方の拓也は納得がいかないような顔つきだったが、とりあえず発言は控えていた。
「私が日本にいない間の子供の世話は……」
「それについては心配には及ばない。信頼できる者を雇えばいい。そうだな……あなたの親族にそういったツテがあるはずだ」マジッドはそう言ってパソコンの画面を見つめ直す「ただ彼女は――」
「彼女、ですか?」
「ああ、あなたがたの娘だ」
「娘!女の子なんですね?」
「そうだ。彼女は、あなたたち両親のカルマを負って生きることになる」
「カルマを……?」
マジッドの言葉の意味するところが分からず、助けを求めるように桂子は次の言葉を待つが、彼は目を伏せて何か考え込んでいる様子だった。
しばらくしてようやくマジッドは顔を上げると、その強い力を持つ目を拓也へと向けた。
「正確な
占いの類を全く信じない拓也は、今回は特に占ってもらうつもりはなかったものの、桂子が勝手に彼の実家に問い合わせて、誕生時間や出生地の詳細を聞き出していた。
桂子が拓也の出生情報のメモを読み上げると、それをマジッドがパソコンへと打ち込む。その様子を、拓也は黙ったまま渋い顔をして見ていた。
マジッドはモニターを見つめた状態で、しばらく考えを巡らせている様子だったが、やがて深く息をつき、拓也のほうへとゆっくりと顔を向けた。
「まず、あなたのビジネスの成功は、あなたのアイディアをベースに実現されるだろう。それは……とても小さく……人体に関わる何か……そして別の現実を作り出す……」
拓也はそれを聞いて一瞬にして顔色を変えた。
「ど、どうしてそれが分かるんですか!?」
マジッドが挙げたいくつかの特徴は、まだ具体化するまでには至っていないものの、拓也が今自分の中で暖めているプランを炙り出すように示していた。その内容については、友人たちはおろか桂子にさえまだ話していない。
「……?」
そのとき桂子は、部屋の中にこれまで嗅いだことのない不思議な芳香が漂うのを感じた。その香りはエキゾチックな手触りに覆われながらも、果肉は甘く濃厚であり、脳を痺れさせるような蠱惑を感じさせる一方で、どこかしら厳粛な色合いも帯びていた。
漂う香りに少し酩酊した気分になりつつも、逆に彼女の五感は鋭く研ぎ澄まされてゆき、マジッドの微かな息遣いや目線の僅かな移ろいまでもが、直接心の内側へと届いてしまうような異様な官能の変化を感じていた。
彼女は取り憑かれたようにマジッドからすっかり目が離せなくなり、拓也もまた、桂子と同じ状態に陥っているようだ。
マジッドは
「あなたのビジネスが作り出す
桂子はいつの間にか、何の荷物も持たずにひとり薄暗い林の中を歩いていた。
恐らくは来た道を進んでいるようだが、不思議なことにマジッドの家を出た記憶はないし、拓也ともどこで別れてしまったのかまるで思い出せない。
辺りにはうっすらと靄がかかっているかに思えるものの、それが自然現象なのか、ぼんやりした意識がそう見せているのか判然としなかった。
木々のざわめきは耳元で精霊が囁く声のように響き、鳥とも獣とも知れない鳴き声がそこかしこから聞こえてくる。
そんな異界じみた気配の中、どこからか歌声が聴こえてきた。
それはインドの民謡のようであり、歌の背後では幽かに楽器の音も鳴っている。
桂子は歌声に誘われるように道を外れ、暗い林の中へと足を踏み入れた。
鬱蒼と茂る草木を分け入って進むと、そこにはひと組の男女が胡座をかいて座っているのが見えた。彼らはマジッド宅へ向かう際に道ですれ違ったふたりだった。男は
彼らの歌い奏でる姿は、桂子の目に秘教的ともいえる神々しさをもって映り、薄暗い密林の中でほのかに光を放っているかにも感じた。
桂子はおもむろに彼らの前へと跪くと、まるで祈りを捧げるかの如く異郷の歌に聴き入った。そのよく通る澄んだ歌声と、この地に伝わる独特の節回しと間拍子によって、樹木の間を吹き抜ける風が枝葉を揺さぶるように彼女の心は強く震わされ、ただ忘我の表情を浮かべる桂子の頬には知らず涙がつたっていた。
そのとき――大きな暗い影が彼らの頭上を覆った。
陶然とした意識のまま桂子が見上げると、頭部だけで子供の背丈ほどはある巨大な白蛇が首をもたげては、こちらを紅瑪瑙の瞳でじっと見つめていた。揺らめく炎のように真っ赤な舌をその大きな口からヌラヌラと伸ばしている。
だが不思議と、桂子は恐怖を感じることもなく、その場に茫然と座り込んでいた。
大蛇が巨大な口を開けて、彼女を飲み込まんばかりに迫ってくる。男が背後に置いていた剣を素早く握り、桂子を守ろうとしているのか、その前へ蹶然と立ちはだかった。
桂子は赤子を抱えた女に腕を掴まれたことで、ようやくはたと我に帰る。
そして女に引きずられるように、近くの気根が絡まる樹幹の陰へと逃げ込もうとした。しかし大蛇はそれを見逃さず、目の前にいる男を無視して彼女らにその首を向ける。
その動きは、まるで桂子のことを狙っているかのようだ。
大きな蛇の頭が、駆け出す彼女たちを捕らえようと迫っていく。男はそこで素早く跳躍し、大蛇の頭に飛び乗った。そして蛇の目へと剣を深く突き刺す。
すると大蛇はその頭を狂ったように振り回し、激痛に苦しむ様子でその長い胴体をのたうたせる。男は刺さった剣の柄を握りしめながら大蛇の頭の上でしばらく耐えていたが、やがて勢いよく振り落とされ木の幹にしとど身体を打ちつけた。
彼はそのまま樹下に倒れ動かなくなった。桂子と共に幹の陰に隠れた女が心配げにそこから顔を覗かせるが、大蛇が酷い勢いで暴れていて近づくことができない。
蛇はその胴体を次々と周辺に衝突させ、樹枝を激しく揺らしては大量の葉を降らし、さらには木を根元から薙ぎ倒すこともあった。
時折木々の間からジュッという音を立てて白い煙が上がる。大蛇がその口から酸のような液体を撒き散らし、それが周囲のものを溶かしているようだ。
大蛇の尻尾が、桂子たちの身を潜める木へと絡みついた。そしてそれを根こそぎ引き抜くように薙ぎ倒す。隠れ場所を失った彼女らは、危険から逃がれるために他の場所へと駆け出そうとするが、不意に女が思い切り桂子を突き飛ばした。
草むらへと倒れ込んだ桂子は、一瞬何が起きたのか理解できなかったが、すぐに左腕に焼けるような痛みを感じた。見るとシャツの袖に溶かされたような穴が空いていて、腕に赤い火傷の跡が見える。
身体を起こして振り返ると、女が赤子を胸に抱えた状態でうずくまっていた。彼女の後髪から背中にかけて焼け爛れた跡があり、そこから白い煙が上がっている。女は飛散する大蛇の毒液から桂子を庇ったのが分かった。
桂子が思わず女に声をかけようとしたとき、ズンッという重い音が森に轟いた。ようやく力が尽きたのか、操り糸が切れたように大蛇がその頭を地面へと落下させたのだ。
事切れたのかは確認出来ないが、大蛇はその動きを全く止めている。
その陰から、男がゆっくりと立ち上がるのが見えた。どうやら彼は無事である様子だ。
再び女のほうへと桂子が目を向けると、彼女は子供を抱えたまま苦しそうに肩で息をしていた。
女の状態が心配でそばに駆け寄るも、彼女に対しどうしたらいいのか分からず、桂子はただ戸惑うばかりでいる。
男は倒れた大蛇の目から剣を抜き取ると、彼女らのほうに向かって歩いてきた。
そのとき突如、警笛のような甲高い音が鳴り響いた。
男の背後、倒れた大蛇の胴体の上に、誰かが立っている。それは一般的な成人男性よりもひとまわり程度大きな体格で、全身が白い毛で覆われていた。赤みがかったその顔は、人間というよりも猿に近い。警笛のように思われた音は、その口から発せられているようだ。
猿人は蛇から飛び降りると、桂子たちのいる場所に向かってきた。
男がそれを止めようと、背中から剣で切りかかる。
猿人は血飛沫を上げて地面に膝を着くも、すぐに立ち上がり、男に向けて鋭い爪を持つ手を振り下ろした。
男はそれを剣で躱すが、両手で交互に繰り出される攻撃に、もっぱら男が防ぐ一方の戦いに見える。
「逃げろ!」
男が叫んだ。
桂子の頭はそのとき混乱の渦中にあり、彼の発した言葉が日本語であることは気にも留めず、ただ酷い火傷を負った女を連れてどう逃げるかを考えていた。
すると女は、桂子に向けて赤子を差し出した。
どうやら子供を連れて逃げて欲しいと言いたいようだ。言葉は分からないが、苦しげで切ない表情が、彼女の訴えを桂子の心へ届かせる。
差し出された子供を見ると、その子も顔に焼け爛れたような傷を負っていた。
彼女から赤子を引き取り、桂子がその口に耳を近づけると、微かに呼吸音が聞こえる。この状況下で一切泣き声を聞かなかったが、たしかに命は繋がっているようだ。
男と猿人は、依然激しい攻防を繰り返している。
恐らく母親であろう女は、今の怪我の状態では走って逃げることは出来ないだろう。せめてこの子供だけでも助けてあげるべきでないか。
そう考えた桂子は、女に頭を下げると、子供を抱え一気に走り出した。
本来は来た道へと戻るべきなのだが、もはや桂子には方角が分かっておらず、ただ闇雲に出来る限り猿人から遠ざかろうとしていた。
赤ん坊は生後何ヶ月かは分からないが、恐らく5〜6kgはありそうだ。そんな荷物を抱えて走った経験は桂子には無いし、さらには森の中は足場が悪い。しかし桂子は、自分と赤子、加えてお腹の中の子供の命を守るため、悪条件の重なる中を必死になって走っていた。
やはり彼女の向かう方向は元来た道では無さそうで、森は次第に濃さを増し、頭上を覆う枝葉が日の光を遮り、辺りはすっかり薄暗くなっていた。
どのぐらいの時間走ったのか桂子自身見当もつかない状態になっていたが、ここまで来ればもう大丈夫ではないかと考えて、ひと休みすることにした。
一旦休んでしまうと、もう動けなくなりそうという心配もあったが、それでもそろそろ身体の限界を感じていた。
丁度寄り掛かれそうな木があったので、そこで休もうと布に包まれた赤ん坊をそばにある柔らかい草むらへと下ろす。呼吸を確認すると、微かに聞こえるので桂子は少し安心した。だが頭から顔にかけて火傷を負っている様子で、すぐにでも治療が必要なはずだ。病院に連れて行くべきとは思うが、その前にそもそも人里にたどり着けるのかという問題もある。
絶望的な気分になりながら、桂子が赤ん坊を悲しげに見ていると、ふとその首に何かが掛けられているのに気付いた。
ペンダントのチェーンのようだが、その先は赤ん坊を覆う布の中にあり、彼女はそれを恐る恐る引っ張り出してみる。
チェーンの先端には直径3㎝ほどの青くて丸い石が付いていた。ラピスラズリのようだ。
魔除けか何かだろうか。桂子は特に宝石類に関しては明るくないものの、その深みのある青色が醸す神秘的な趣に何となく効験の働きを感じて、そのままその石を赤ん坊を包む布から外に出しておいた。
桂子は赤ん坊を隣にして、ぐったりと樹幹に寄り掛かると、激しい疲労からかすぐに粘りつくような眠気が襲ってきた。
このまま眠ってはいけないと、大きく目を見開いて前方を見据える。
それほど数は多くないものの、頭上からは光線状に木漏れ日が射し、暗い森の中でもまだ夜には至っていないことが分かる。しかし、森の奥は真っ暗闇であり、このままそこへ向かって進んでいいのか桂子は心の中で呻吟していた。でももう引き返すことは出来ない。
それにしても、何故こんな状況になっているのか、桂子はひとつも呑み込めないでいる。
いつの間にかひとりになり、歌に誘われて森へ入ると、大蛇や猿人に襲われたので赤ん坊を抱えて逃げ出す……そもそも何故自分が狙われなければならないのか……そこで桂子はマジッドの言葉を思い出す。あの怪物たちが狙っていたのは、自分でなくこのお腹の子であるということを。さらに娘の命を狙うのが、蛇と猿だけでなく、もう一種類いたことを……
桂子があれこれと思案しつつも森の奥を見つめていると、遠くにある小さな赤い光の灯しに気が付いた。それは僅かに上下に揺れながら、次第に彼女たちのいる場所へと近づいてくるように思える。
やがて赤い光は、その全容を桂子が視認できるほどまでに近づいた。
裸の上半身に肩布を掛けた男が、桂子の数十m先に立っている。赤い光は、その男の額から発せられているようだった。
男はそこで立ち止まると、矢筒から一本の矢を取り出し、それを弓につがえた。そしてそれを――桂子へと向ける。
桂子は男の一連の行動を見ていたが、全身を襲う倦怠感からなのか、全てを諦めてしまったのか、もはや少しも動けないでいる。
矢が弓から放たれた。
その矢が桂子に届くまでは一瞬のはずだが、何故か彼女にはゆっくりと時間が流れている感覚があった。
ふと桂子は目の端に強い輝きを感じる。
赤ん坊の胸にあるラピスラズリが、眩しい光を放っているようだ。
それは不思議なことに次第に膨らむように大きくなってゆき、やがて桂子と赤子をドーム状に包み込んだ。
勢いよく飛んで来た矢が、その障壁と化した光にぶつかる。
その途端、大きな爆発音と共に色とりどりの星々が弾け、やがて桂子の視界は白一色へと覆われていった。
気がつくと、桂子の目には白い壁と蛍光灯らしきものが映った。
それは恐らく天井で、自分がベッドに寝ていたことを徐々に理解する。
「目が覚めた?」
「あの、ここは……」
「よかったあ」
ベッドのそばに拓也がいて、泣きそうな顔で桂子を抱きしめようとする。
「痛っ!」
「あ、ごめん」
拓也が桂子の左腕に触れたとき、痛みが走った。彼女が袖をまくって確認すると、そこには包帯が巻かれている。桂子は自分が病院の患者衣のような服を着させられていることにも気づいた。
「そこ、火傷してたみたいなんだよね」
「ここって病院なの?」
拓也によれば、桂子はマジッド宅からの帰り道で突然荷物を残したまま消え去り、慌てて周辺を探すと、草むらの中でボロボロになった服の状態で気を失っていたのを見つけたということだった。どんなに揺さぶっても一向に目を覚ます様子が無かったため、彼女をおぶったまま大通りに出て、通りがかった車に乗せてもらい、この病院までたどり着いたということらしい。
「あの、赤ちゃんは?」
「え、お腹の子のこと?君がまだ妊娠してるとは――」
「いえ、そうじゃなくて、もう産まれた赤ちゃん。顔に酷い火傷を負ってるはずなの」
「?」
拓也はそんな赤ん坊は周囲にいなかったと言っている。
あれは夢だったのだろうか?
桂子は思い返してみるが、夢にしてはリアル過ぎたし、実際火傷も負っていて、全身に激しい運動の後の筋肉痛も感じる。
しかし、赤ん坊やその父母と思われるふたりの境遇を思えば、あれは夢だったほうが良かったとも桂子は思っていた……
予定よりも二日ほど遅れただけで、拓也と桂子は何とか日本へ戻ることができた。
桂子の左腕の火傷については、跡は残ってしまうが、一ヶ月ほどで完治するだろうとの診断だった。
拓也は桂子の話に初めは半信半疑の様子だったが、彼女が嘘をつく理由も無いし、実際火傷も負っているわけで、今となってはマジッドに催眠術か黒魔術をかけられたのではないかと疑い出していた。
火傷の治療もあり、今回の件で精神的なダメージも大きいことから、桂子はしばらく実家で静養させてもらうことにして、仕事のためにアメリカへと戻る拓也と離れ、ひとり日本に残ることになった。
桂子は久しぶりの実家で、両親に甘えて日々無為に過ごしていたが、ある日パソコンで何となくネットを見ていると、驚くべきニュースを見つけた。
インドで日本人男性、変死
さる先月22日、インド・アッサム州にあるブータン国境近くのダランガメラにて、日本人男性の遺体が見つかった。遺品から男性は涌井正吾さん(28)と見られ、武道家である涌井さんは修行のためにインドへと渡ったとのことだが、その後日本への連絡がとだえ所在不明となっていた。
涌井さんの死因は、爪のようなもので切り裂かれたことによる出血多量と見られ、そばにはさらにインド人女性の遺体も発見された。現地警察の発表によると、涌井さんと女性は婚姻関係にあったとされている。
また、現場から数百m離れた場所で生後数ヶ月と見られる男児も発見され、やけどを負っていたものの奇跡的に命をとりとめたとのことである。男児は、涌井さんとインド人女性との間に生まれた子供と見られている。
現地警察は事件として捜査を進めているが、地元住民の間では、数ヶ月前にニューデリーに出没したと噂される
その後、国際電話で現地に問い合わせまでして、桂子はこの事件についての詳細を調べた。
二ヶ月ほど要して、やっと分かったのは次の点である。
・三人はアッサム州を放浪していた
・女性の名前はカシ族出身のミルダ
・ミルダの死因は火傷によるもの
・男の子の名前はリンド
・リンドは日本にいる涌井正吾の兄弟に引き取られた
涌井正吾という名前はネットで検索しても引っかからず、その兄弟が日本のどの地方で暮らしているかも情報が得られていない。
事件現場のダランガメラと桂子が訪れたハグラジュリーでは100kmは離れている。しかし通常であれば関連のない事件のはずだが、何より桂子が体験した不可解な状況との符合が多過ぎるのだ。
アメリカにいる夫の拓也は、桂子がこの事件に取り掛かりきりになることを心配していたが、テレビ電話で懐妊が確定したことを伝えると、諸手を挙げて喜んでいた。
結局、桂子は少なくとも出産後までは日本に留まることになった。拓也は仕事が順調なようで、現在会社が破竹の勢いで業績を伸ばしており、なかなか日本に帰る時間が取れないことを嘆いていた。だが桂子は、商売繁盛はこれから生まれてくる子供にとっても良いこと、と彼を慰めるのだった。
やがて八月になり、桂子は女の子を産んだ。
彼女の名前は、ミルダの一部からと、“美しい
偶像乙女昂星(Lagna)録 まずい水 @temoashimodenai
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