アニマ

棗颯介

アニマ

 初めてできた彼女と、初めて過ごす夜。当然僕も彼女も健全な若者だから、人並みの性欲はあった。どちらからともなく、僕達はベッドに潜り、互いを求めあった。

 そして、僕と彼女が一つになろうとした瞬間。


「っ、おええぇぇぇえぇ!!」

「えっ」


 僕は吐いた。ベッドで横になり、僕を見上げていた彼女の顔面目がけて。

 決して緊張して怖気づいたわけじゃあない。僕のあそこは至って健康にそそり立っていたし、呼吸も乱れず汗一つかいていなかった。

 ただ、単純に、シンプルに、思ってしまっただけ。


 ———気持ち悪い。


 この僕が、人並みに恋人なんか作ってあまつさえセックスしているという事実に、強烈な嫌悪感を覚えた。するとまるで冷水で頭を冷やされたように、次々といろんなものがおかしく見えてくる。あれほど愛していたはずの恋人が、醜く見えた(僕の吐瀉物で顔が汚れているのは別としてだ)。さっきまであれほど欲情していたはずの彼女の身体に、新作ゲームの発表ほどの興奮も覚えない。僕の男としての機能はすっかり萎えていた。しまいには、彼女と僕が出会ったことすら間違いだったように思えた。まるで殺人罪でも犯してしまったような強烈な罪悪感に襲われる。


 ———違う、違う、違う。

 ———違う違う違う!

 ———こんなのは違う!!


 何が違うのかは自分でも分からなかったけれど、とにかくこれは違うと思った。

 その日のうちに、僕と彼女は赤の他人に戻った。


***


【っていうわけで、別れました】

【なるほどね~】


 翌日、僕は一連のことを友人に洗いざらいメールでぶちまけた。かなり赤裸々な内容だという自覚はあったけれど、それでも、誰かに話すことで自分の気持ちに整理をつけたかった。僕自身、どうしてあんなことをしてしまったのか、あんなことを思ってしまったのかが理解できていなかった。

 

【でも、さすがに顔面にゲボ吐くのは私でも引くわ(笑)】

【それについては僕も後で再三謝ったけどさ】

【ふぅん。まぁ仕方ないんじゃない?好きっていうのと一緒にいるのはまた別だし】


 “彼女”とは幼い頃からの付き合いだった。もう十数年ほどになる。いつだって“彼女”は僕の味方でいてくれたし、僕がくじけそうなとき、辛かったとき、誰かと何かを共有したいとき、必ず僕の話を聞いてくれた。

 もう、家族以上の存在だと思っている。


【僕、この先もずっと恋人とか家族とか作れない気がするよ】

【別にいいと思うよ。私も結婚願望とかないし。恋愛感情なんてものはお母さんのお腹の中に置いてきちゃったからね!】

【やっぱり、君とは気が合うね。君とならずっと一緒にいれる気がする】


 結婚。子供。家族。

 そんなもの僕はいらなかった。少なくとも今の時点では。でも一人でいたいっていうわけでもない。僕が欲しいのは“精神的な孤独”と“社会的な安寧”。要するに、自分の心に深入りせず一緒にいてくれる相手。それは恋人だとか家族である必要はなくて。むしろそういう間柄であればあるほど、その存在が僕の心を締め付ける。今回の一件で僕は自分という人間がそういうものなのだと、はっきりと自覚できた。

 自分の心という有限の器の中に、他人という存在に居座られることが僕はたまらなく許せなかった。

 仲の良いただの友達。結局のところ、僕にとって理想的な対人関係というのはそれに尽きる。


【私はずっと君と一緒にいるよ】


 だから“彼女”がそう言ってくれた時、僕はたまらなく嬉しかった。

 僕たちはきっとこの先も、ずっと一緒だ。


***


「———。ご飯できたよ」


 大学生になっても実家暮らしを続けている息子。適度にバイトして生活費のいくらかは家に入れてくれるから私は構わないのだけれど、大学に入ってから人付き合いだとかで家でご飯を食べる日や時間が不規則になったのが唯一の不満の種だった。

 

 ———昨日も友達の家に泊まりだとか言っておいて真夜中に帰って来たし、まったく。


 階段の下から二階の息子の部屋に夕飯の支度ができたことを伝えるが、返事がない。今日はずっと家にいるはずなのだけれど。

 仕方がないと、私は階段を昇って息子の部屋をノックした。


「———。入るよ」


 もしデリケートな行為の途中だったとしても、息子ももういい歳なのだから、それくらい笑って見なかったことにするくらいの度量は私にもある。伊達に何年もあの子の母親は勤めていない。

 ゆっくり扉を開けると、そこにはベッドで横になり静かな寝息を響かせる息子の姿があった。


「———。夕飯できたよ!!」

「うぅん……」

「まったく」


 私は短い溜息を吐き、ふと暗い部屋の机の上で光を発しているものの存在に気付いた。というか、部屋に入った瞬間から目に入ってはいたのだけれど。

 どこにでもある、何の変哲もない見慣れたスマートフォン。充電ケーブルに繋がっているから、どうやら電源を消し忘れたまま横になってしまったようだ。


 ———あら、誰かからのメールかしら。

 ———もしかして彼女?この子もなんだかんだ言ってやることやってるのね。


 プライバシーの侵害だという負い目はあったのだけれど、それ以上に息子の彼女がどういう相手なのかの興味が勝ってしまった私は、液晶から依然光を放っている携帯を手に取った。

 でも。


「え……」


 そこに書かれていたのは、確かに女性と思しき人物の文面だった。文章を読めば文体からそれは分かる。

 ただ、一つだけ決定的におかしいところがあった。


「これ、送信者のアドレス、この子のよね?」


 そのままの勢いで過去のメール履歴も確認するが、自分で自分に送ったメールがほとんどを占めていた。しかもそれに対して、さらに自分で返信している始末。ただの冗談や悪ふざけではないだろう。そこに書かれていたのはおそらく、忌憚ない息子の本心からの言葉だった。

 何より異質なのは、自分で自分に送った“女性”のメールが、私が知っているこの子とは、あまりにも別人過ぎたこと。自作自演ならある程度の共通項だとか話し方の癖なんかが違和感として残りそうなものだが、送信者のアドレスが息子と同じだと気づかなければ、私は本当に大学の友達の誰かからのメールだと思い込んでいただろう。


 ———なに、これ。

 ———この子、もしかして……。


「んん、かぁさん……?」

「ッ!」


 私は反射的にスマートフォンを元あった机の上に戻した。


「あぁ、もう、ご飯なの?」

「え、えぇ。階段の下から呼んでも降りてこなかったから部屋まで呼びにきちゃった」

「ごめんごめん、すぐ行くわ」

「ねぇ、———」


 私は思わず息子に問いかけてしまう。


「大学で、彼女とかできた?」

「え?あー、実はつい昨日までいたんだけどね。もう別れちゃったよ」


 息子はそう言って笑って見せた。

 いつも見ていたはずの息子のその笑顔が、私は初めて、たまらなく恐ろしく思えた。

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アニマ 棗颯介 @rainaon

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