堀之内くんの辞書

吉岡梅

堀之内君の辞書

 辞書、というとどんなものが思い浮かぶでしょう。国語辞典、英和辞典、漢和辞典、書く事に親しんでいる方であれば類語辞典や人名辞典、なかには神名辞典などのエスペシャリィな用途の辞書を連想する方もいるかもしれません。でも、私が思い出すのは、堀之内ほりのうち君の辞書です。


 堀之内君。中学の時の同級生。お寺の子。物静かで運動はそんなには得意ではなく、かといって勉強も得意というわけではない。でも、決して落ちこぼれだとかというわけでもなく、全体的に中の上。ちょっと不思議な上品さをまとった、すらっとした細面の子。


 私の通った中学校は1学年に3クラスしかなかったのですが、堀之内君と一緒のクラスになったことはありませんでした。にも拘らず、堀之内君の名前はわがクラスの男子達にも轟いていたのです。「堀之内はヤバい。特に辞書が」と。


 辞書。中学1年のころ、全員一律で辞書を購入します。確か三省堂さんの、手ごろな国語辞典。それでも今まで見ていた教科書とは違う、ちょっとどうかと思う分厚さ。ぱらぱらと中を見てみると、知らない言葉を知っているかもしれない言葉で解説しています。


 中学生の頃の私は、辞書を持っているとちょっと偉くなったような気分になっていました。とはいうものの、実際に辞書を引く機会はそうはなく、誰かに意味を聞いた方が速いと思っていたタイプ。周りの皆もほぼ同様で、結果、せっかくの国語辞典は宝の持ち腐れになり、皆のロッカーの肥やしになってしまいます。


 しかし、堀之内君の辞書だけは違いました。皆、自分の辞書は放っておいて堀之内君の辞書に夢中になりました。その評判は同じクラスの生徒だけではなく、隣のクラスの私の耳に届くほどの大人気です。


 同じメーカーの、同じ判の、同じ辞書。いったい何が違うというのでしょうか。興味を持った私は隣のクラスに乗り込み、あまり面識もなかった堀之内くんにお願いしました。「辞書を見せて欲しい」と。


 すると、堀之内君はニヤリと笑って頷きます。机の中から取り出した辞書は、私のものと変わりありません。しかし、そこにはたくさんの付箋が付けられていました。


 早速付箋のページを開くと、そこには几帳面に蛍光マーカーで印がつけられていました。


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あい‐ぶ【愛×撫】

[名](スル)なでさすっていつくしむこと。「赤ん坊を愛撫する」

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 思わず堀之内君の顔を見ると、「わかってるよ」といわんばかりの渋い笑みで頷きました。そう、堀之内君は辞書を先頭から読み込み、エロく感じる単語にマーカーを引いて付箋を貼るという地道な作業を続けている探究者だったのです。


 付箋は堀之内君にしかわからない分類できっちりと色分けされ、直近の付箋とは干渉しないよう丁寧に場所を変えて貼られています。


 その飽くなき探究心は力強く、そして深い物でした。「キス」「セックス」などの直接的なものはもちろんのこと、「接吻」「性交」などの関連語、「まぐわい(う)」などの中学生レベルを超えた単語、さらには「きぬ」等の「これがエロいのか?」と思うような単語まで網羅していました。


 ネット環境などはまちまちな中学生時代、ましてや、お寺の子というある意味のを抱えたはずの堀之内君の偉業に、周りの男子達は色めき立ちました。


 結果、同学年の男子全体に「堀之内の辞書がヤバい」という名声があっという間に流れます。かの辞書は「三省堂国語辞典」ではなく、「堀之内エロ辞典」としてわが学年の男子の間で一種の聖典として崇められる一大ブームが起こりました。アホですね。中学生男子。


 しかし、熱しやすく冷めやすいのも中学生のさが。一時期は隆盛を誇り、レンタル待ちすら発生していた堀之内君の辞書もすぐに下火になりました。


 ブームが去り、皆が山崎やまざき君が持ち込んだ横光三国志に夢中になっているころ、ふと堀之内君の辞書を思い出した私は、なんとなく彼に声をかけ久しぶりに辞書を見せてもらいました。


 すると、かの聖典には明らかに付箋が増えていました。どれだけ大事な単語があるのか。手にしただけでわかる彼の熱量。驚いて堀之内君に目を向けると、彼は「わかってるよ」といわんばかりの渋い笑みで頷きました。かつてと同じように。


 読書の秋。”読書はこころとことばを豊かにする”などと言われます。そんな事を聞くと私はつい思い出してしまうのです。堀之内君のあの情熱と、あの辞書を。


 堀之内君。今頃はどこかのお寺で菩提を弔ったりしてるのだろうか。立派なお坊さんになっているといいな。


 朝晩は冷えるようになり、すっかり秋です。こんなエピソードで申し訳ありませんが、本を読むには良い季節です。皆さまも良き本との出合いがありますように。📚






 

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