第3話

「なるほど」

 男が呟いた。この部屋に来て初めて男が発した独り言だ。

「この部屋に入ったとき、お前は銃を構えていた」

 男はこちらに向き直る。半ば語りかけるように、半ば独り言のように続ける。

「だが抗う意思も、逃げる意思もなかった。それが奇妙だった」

「…は、あんな動きを見せられれば逃げる気も」

人間ひとは」

 男は私の言葉など聞いていないかのように続けた。

人間ひとは、逃げるんだ。抗って、勝てなければ走って逃げて、足が潰れても這って逃げる。それでも逃げられなくなったら妄想に逃げる。命乞いが通じると信じ、天国に行けると信じ、死ぬのは苦しくないと信じる。お前はどれでもないように見えた」

 男はここで初めて私に目を合わせた。相変わらずの暗闇だったが、男の目がこちらを真っ直ぐ見ていると分かった。それは先ほどまでの冷徹な印象とは、何かが違って見えた。

「それが奇妙だったが、今は分かった」

「一体何を言ってるんだ」

「……」

 暗殺者は何か言おうとした様子だったが、代わりに一度息を吸った。

「俺は、仕事をしなければならない」

 ああ、そうだろう。君の仕事は私を殺すことだ。悪は滅びる、それが正しい。

「だから、悪く思うな」

 今更何を言うのだ、私は死を受け入れている。


依頼主クライアントからの伝言はこうだ。“僕のアイリーンを奪ったからこうなるんだ、地獄で後悔しろ”」

「…は?」


 アイリーン…奪った? 何の話だ。殴られたように頭が真っ白になる。アイリーンは元妻だ。パーティで出会い、家庭を築き、別れた。誰が奪っただと。いったい何を。そこまで考えて思い出した。あの男の顔。どこぞの二世議員だとか言っていた、婚約前の妻にしつこく付きまとっていた。あの。

「…おい待て! 君の依頼主は」

依頼主クライアントの情報は教えられない」

 見れば男はいつの間にか銃を構えていた。銃口がこちらに向いている。全身の毛が逆立つ。心臓が思い出したように大きく、一度だけ動く。こんなところで、私は死ぬのか? こんなくだらない理由で? 馬鹿な。納得できるわけがない!

「待て…そんなものは逆恨みだ! 私は、こんな」

 叫びながら違和感があった。なぜ彼の銃はもう硝煙を上げている。どうしてこんなに叫んでいるのに自分の声が聞こえない。下半身が消えたような浮遊感があった。身体が後方へと傾くのが分かる。脳裏に浮かぶ言葉が意味を拾う前に消える。

 こんな、こんな意味の無い死など、


(了)

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虎は死して皮を留め 御調 @triarbor

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