5魂目

そんなことを考えながら資料を捲った。

この班最後の資料だった。



「とうとう、来ましたね」



赤い顔の鬼の言葉が静かに響く。

それと同時に、自分の体の奥深くが、ピキリ…と音を立てた。


上手く、体が動かない。

頭も。


ただ、心臓の音が耳の奥で煩い。


とうの昔に止まったはずの

鳴るはずのない、心臓が。



「心臓ではありません。それは心です。貴女の」



こころ。

そう口の中でつぶやく。


閻魔に心などない。

なら、これは。



「閻魔様、任期終了でございます」



その言葉を合図に、煩かった音が止む。

代わりに、パリン、と何かが割れるような音がした。


目の前を色々なものが流れていく。



思い出した。

人間だった頃の記憶を。

そして─



「人生を、捧げた人」



目の前にいる人を見つめた。

最後に、鬼に連れられながら現れた魂。

それは、人間わたしが生涯かけて愛した人。



「…あなた!」



弾かれたように身体が動いた。

縺れる足で、最愛の人に駆け寄る。



─どうして、忘れることができたのだろう。

 こんなにも、愛していたのに。



「え…? お前…、どうして、此処に…」



私の存在に、虚を突かれながらも

また会えるなんて…と、彼のがっしりとした腕が抱きしめてくる。


ああ、懐かしい。愛しい温もり。


死んでいるなんて、嘘のようだ。

生きていた頃に感じていたものが、今、変わらずに此処にある。



「閻魔様の最期とは、人間の魂に戻り、

 他の魂と同じく、還るべき処へと還ること。

 そして、人間の魂に戻るきっかけとは、愛」



赤いのが、抱き合う私達を見つめながら呟いた。



「例え、記憶は消せても

 魂に刻み込んだ想いを完全に消すことは出来ない。

 それが、愛ならば尚更に。

 愛は人間が生み出し、神の手から離れたところに存在するものだから」



話し終えると、赤いのは目を閉じた。

何か役目を終えた時に、赤いのがする癖だった。


私は、閻魔ではなくなる。

今、人へと戻っていくのだ。



「閻魔様、長命な私には感情があるのです」



静かに呟いた後、赤いのは仄かに口元に笑みを浮かべた。

だが、その形に慣れていない顔の筋肉は、その仄かな笑みを引きつらせてしまう。

…いいえ、慣れていないからだけではない。



「どうか。来世があるのなら、幸せになられますよう」



キラリと、固く閉じられた瞼の横から雫が零れ落ちた。

鬼の涙を、初めて見た。なんて、美しいのだろうか。




「ええ…、ありがとう」



目の奥が熱くなるのがわかる。


この鬼は、一番最初から片時も離れず、どんな時でも私の傍にいた。

どんな時でも、私のことを考えてくれていた。

大切に思ってくれていた。

そして、私も、この鬼のことが好きだった。大好きだった。

愛しくさえ、思っていた。

感情が無くとも、想いは芽吹いていたのだ。



「さあ、この先へお進みください。

 長らく、お待たせしてしまいました」



いつも、私がしていたように。

たった1つの道を、鬼が指し示す。



「…どうか、お元気で」



この世界で、お元気でという挨拶は変でしかないが、

そこに、鬼の愛を感じる。

共に過ごした、時の厚みが滲んでいた。


そして私は、その言葉に、ただ頷いた。

今にも零れてしまいそうな涙を堪えるのに必死で、告げることは出来ない。

だが、私も願っている。



「さあ、行こうか」



最愛の人が、私の手を引く。

それに応えるように、しっかりと手を握り返して

鬼が示してくれた道を進んで行く。


どこまでも続く、真っ白な道。


振り向きはしない。でもわかる。

ずっと後ろで、赤い鬼を筆頭に、皆が見送ってくれている。



怖いと思われていた閻魔が坐するこの世界は

いざ身を置いてみれば、そんなことはなかった。


確かに、見た目が可愛らしいものなどはいないが

でも、そこには確かに優しい温もりがあった。


とても、複雑な世界。

人間が作り出した世界なのだから、それも当然なのかもしれない。



「…もし再び、此処に来ることがあるならば」



その時まで、どうか元気で。

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Middle world 星海芽生 @mei_h

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