帰郷

ナツメ

彷徨っている

 ひどくなつかしい、と感じるかと思ったが、意外なほどに覚えていなかった。

 それは町並みのほうが変わった部分もあっただろうが、なによりおれ自身が思い出に頓着しなさすぎる。子どものころのことなんてろくすっぽ覚えてやしなかった。

 だから、おまえのこともはじめはすっかり忘れていたんだ、冗談めかしてその髪に触れるとくすくすと笑うように指先をくすぐる。うそだよねぇ、そう言って口の端を引くおまえの顔は、見なくたって容易に脳裏に形を結んだ。

 

 うそだった。

 住んでいた町も、通っていた学校も、クラスメイトも担任も、親の顔すらおぼろげで、濃霧におおわれたようなおれの記憶の中で、おまえだけがはっきりとした輪郭を持っていた。

 いや、半分は本当だ。おまえの記憶はクリアでも、それを思い出すことはなかった。地層のように積み重なったおれの振り返られることもない思い出の、その奥底に完璧な姿のままのおまえが埋まっていることになど、気付けようがないだろう。

 おまえがおれの前に現れなければ、おれは一生おまえのことを忘れていたさ。おまえの記憶が奥の奥のほうにこびりついていることにも気づかずにそのまま死んでいただろう。こんなふうに、おまえとふたり、故郷のまちを訪ねることもなかった。その方が良かっただろうか。わからない。

 

 それでも最初、ほんの一瞬は本当にわからなかった。だっておまえ、髪なんか伸ばしてるんだもの。一瞬あとにおまえだと気づいて、そうしたら記憶の墓場から子どものころのおまえが這い出してきて、その姿があまりにも生々しいことに一度おどろいて、それから目の前のおまえと見比べて改めてもう一度おどろいた。

 おれが散々からかって、馬鹿にして、気持ち悪いと不潔だと罵って、それでおまえはその癖毛を、ほとんど坊主みたいに刈り込んでいたじゃないか。ちがうな、からかうなんてもんじゃない、あれはいじめだった。おれは毎日おまえをいじめて、手も出したし、それでおまえはべそをかいて、いじめられたくないってある日坊主にしてきたんじゃないか。これで不潔じゃないかなっておどおどと聞いてくるから、それもまた腹が立っておまえの脛を蹴ってやったんじゃないか。

 なのに、なんで伸ばすんだよ。子どものころはアフロみたいに爆発していたくせに、長くしているからなのかやや緩く波打って、まるでモデルかバンドマンみたいに様になっている。背も昔はチビだったくせにおれよりも高くなって、あの卑屈な上目遣いもしない。

 そんなふうないでたちで、覚えてる? 小学生のときクラスメイトだった、なんて声をかけてくる。なんでだよ。なんの目的でおれに近づいたの? おまえは答えない。おれもまあ、今となってはどうでもいいんだけど。

 

 あてにならない記憶を頼りに、通学路だったであろう道を歩いてみる。ただの住宅街で、なんの面白味もない。家は変わってたり変わってなかったりなんだろうが、おれはあまりピンとこない。おまえはどうなんだろう。言葉を発することもなく、ただ黙々と歩く。

 別に、この道をおまえと歩いたことなんてなかった。そりゃそうだろう、いじめっ子といじめられっ子が一緒に登下校するか? 正直、おまえの家も知らないから、おまえがこの道を通っていたかどうかも知らない。それでもなんとなく、おまえを連れてここを歩いてみたかった。

 途中の角に自販機があった。そういえばここまで全力ダッシュで競走するのが仲間内で流行ってたな。自販機は昔と変わっていないようで、記憶と同じ落書きがあった。妙なディテールだけは覚えているもんだ。おまえ以外の記憶があったことに、なぜだかすこしほっとした。

 

 なんでこんなふうになったんだろうな。おまえに再会したあとに起きたことは、自分のことでありながらおれにはちっとも理解できない。それまでおれは、安アパートに一人暮らしで、くたびれたスーツを着て、ブラック企業で日々あくせく働く平凡な人生を送っていた。彼女もいた。今は金がないから無理だが、まあそのうち結婚とかして、子どももひとりくらいは作って、それなりに平凡に暮していくはずだった。

 ぜんぶおまえのせいだよ。

 大人になってから暴力を振るったことなんてなかったのに。おまえが煽るから悪いんだよ。馬乗りになっておまえの顔を殴った。ガキじゃない、大人が大人を殴ると、殴る方もこんなに痛いのかって思ったよ。おまえもわりと綺麗な顔してるのに、それを腫らしてあざ作ってさ。もっと最悪なのは、おれが殴りながら勃起していたことだ。本当に最悪だ。そんなこと一生知りたくなかった。最悪だよ。

 こうなったらもうおれはおまえの言いなりだったね。弱みを握られたおれはおまえに逆らえない。彼女と別れ、おまえがうちに転がり込んできた。

 

 おまえはおれに復讐がしたいの。そう聞いたことがあった。おまえはどう答えたっけ。枕に広がる緩く波打つ黒髪を忌々しく眺めていたことしか覚えていない。

 

 昔のことに限らず、おれは過去のことを断片的にしか覚えていないようだ。ついこの間別れた彼女の顔すらもうあいまいだし。

 だから、昨日もさ、なんでああなったんだっけな。覚えてないんだよ。おまえは覚えてる? 当然返事はない。

 おれが何か言ったのか、おまえが何か言ったのか。頭に血がのぼる感覚だけは覚えてる。首から上が急に熱くなる。耳が塞がったように音が遠くなる。視界が狭まる。そういう感覚。

 馬乗りになったままだったおまえの首を両手で掴み、上から体重をかけた。腰を浮かせて、前のめりになって。

 おれのしたでおまえの口がゆっくりと開いてゆく。後ろの方で脚のばたつく気配がする。おまえの手が伸びてきておれの腕を何度も掻く。まるですがるようだった。

 顔色がどんどん変わっていって、舌がだらしなく出てすごいブサイクな顔になってるのに、おまえの眼球はずっとおれのほうを向いていた。気持ち悪いけど手は離せないから、なにを思ったか、おれはおまえのその目玉に涎を垂らしたんだ。両手に体重をかけたまま、口から糸を引いて伸びた唾液が眼球の表面に触れても、おまえは目を閉じなかった。

 それでやっと死んでるって気づいた。

 

 頼りにならないおれの記憶はどうやら合っていたようで、小学校のまえにたどり着いた。門が閉まっている。日曜だし人はいない。というか、門がずいぶん錆びていて、使っていないような印象を受ける。とっくに廃校になっていたのかもしれない。

 別に目的があってここにきたわけではなかった。ただ、おれとおまえの共通点がここしかなかっただけ。来て何をしようとか何が起こるとか、そんなことも考えてなかった。ここしか思いつかなかっただけだ。

 手にしていたコンビニ袋の中身を取り出す。ティッシュで雑に包まれた、ひと束の黒髪。切り口がまばらなのはしょうがないとして、もう少し綺麗に包んだつもりだったが、駅に着いたときなんとなく中の髪に触れてしまったからその時崩れたのかもしれない。

 

 動かなくなったおまえのからだを見下ろして、しばらくぼうっとしていた。そのあと、煎餅布団に広がる髪が気に入らなくなって、その辺にあったハサミで適当に切ってやった。髪は艶々としてなめらかだった。それもまたおれを苛立たせた。

 それから、逃げようと思った。ここはおれの部屋で、こいつの首にはおれの指紋がついているし、こいつの目玉にはおれの唾液がついている。逃げたって意味ないと思うけど、自首する気はなかった。おまえを殺したこと、今も別にそんなに悪いと思ってない。

 なんとなく、おまえの髪を持っていこうと思った。おれをこうしたのはおまえなんだから、おまえはおれを最後まで見届ける責任があるよ。ひとつかみほどの髪の毛を集めて、ティッシュに乗せた。遺髪というのだろうか、テレビなんかで見る白い紙で髪の毛をまとめたやつ。ああいうふうになるかなと思ったけど、うまくできなかった。おまえの髪がうねうねと波打ってるからいけないんだ。髪は揃わなかったが、ティッシュをきつめに巻いて、その辺にあったコンビニ袋に突っ込んだ。

 

 錆びた校門の前で、そっとティッシュを広げる。風で飛んでいかないように左手で束の上の方を強く握って、右手で毛先のほうに触れる。くすくすと笑うようにおまえの髪がおれの指先をくすぐる。

 なあ、おれ、別におまえのこと嫌いじゃなかったよ。子どものときから。

 おまえのこと不潔だと思ったこともなかったし。ただ、おまえがおれのいいなりになるのが嬉しかっただけ。おまえのなかでおれの存在が肥大していくのがたのしかっただけ。

 そういう意味では、再会した瞬間が一番おまえのこと嫌だったよ。おれのいいつけを忘れて髪を伸ばしてんだからさ。おまえの中でおれがどうでも良くなったってことじゃん。ムカついたよ。おれのものじゃなくなったみたいで。それまで忘れてても、所有物が勝手するのはムカつくんだよ。

 結果的に、おまえは最後までおれのものだったね。誤算は、おれがおまえのものにされてしまったことくらいだけど、それはこの際ゆるすよ。許せないこといっぱいあるけど、まあ、殺した分とトントンでゆるしてやる。

 そう言ったらおまえはまた笑うんだろう。赤黒く腫れ上がった顔で、いつもみたく口の端を引くんだろう。

 気づいたらおれも、瞼の裏のおまえと同じ顔をしていた。こんな姿になって、特に思い入れもないふるさとで、なんだかおれたちははじめてあるべき形になったような気がする。

 ティッシュに包み直して、おまえをまたコンビニ袋に戻す。おれは踵を返す。

 どこに行くでもない。行くあてなどない。ただおまえとこうして彷徨っている。

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