小箱に隠して

サトウ・レン

小箱に隠して

 ふたりで暮らすにはちょっと狭いけど、ひとりだとすこし持て余すね。


 一緒に暮らしはじめてすぐの頃、仕事を終えて帰ってきた僕に彼女がそう言ったことがある。


「別に疑っているわけじゃないんだけど、たまに、ふと思うんだ。ふたりは恋人同士だったんじゃないか、って。ごめん、嫌な気持ちになったら」


 と夏澄かすみさんが言った。


「いえ、大丈夫です。本当に僕と悠紀ゆきは、友達、でしたよ」


 私たちは友達。誰よりも一番大切な、友達同士。


 それが性別の違うふたりが同じ部屋で生活することを決めた時の彼女の言葉だった。だから僕たちの生活は同棲を思わせるような甘いものではなく、仕切りの先にある彼女のスペースに入ったことは片手で数えるほどしかいない。


「なんで自分から死ぬなんて……、ほんと、バカだよ」


 夏澄さんは悠紀の大学時代の同級生で、もっとも気を許していた同性の友人だ、と彼女の口から聞いたことがある。僕を心配してくれているのか、あるいは僕を怪しんでいるのかは分からないけれど、悠紀の死後、よく僕のもとを訪れるようになった。


 夏澄は性格が私とは正反対だから、気楽で、うまくいったんだ。たぶんだけど、ね。


 その頃は、悠紀の話を通してでしか夏澄さんを知らなかったので、いまいちぴんと来なかったのだが、いまならよく分かる。確かに夏澄さんの性格は、悠紀とはまったく違う。それはどちらが良いとか悪いとか、そんな話ではなく、ただ違うという事実があるだけで、比べる気はない。


 ほんのわずかに開いた窓から差し込む夜の空気が、窓の手前に置かれた観葉植物の葉をちいさく揺らしている。観葉植物の名前は知らない。すこしでも気を紛らわせることでもできたら、と夏澄さんがプレゼントしてくれたそれに、興味を抱くこともできないまま、いまは景色の一部となって、そこにあるのが当たり前になっていた。


 なんで、か。


 じゃあなんで僕たちは生きているんだろう。僕はそう思ってしまうし、たぶん彼女もそう思っていたはずだ。そして夏澄さんは考えない。いやひとの感情なんて分からないから、もしかしたら考えているかもしれない。でも死ぬほどに思い詰めることはきっとないんだろうなぁ、となんとなくそんな気がした。馬鹿にしているわけではなく、本当に心の底から羨ましい。


 ぼんやりと死について考えて、ただなんとなく死を選ぶ。そんな死だってあるかもしれない。


 僕は彼女のスペースに足を踏み入れる。もうそこを彼女が使うことなどない、と分かっていても、心の片隅にはつねに罪悪感がある。


 絶対に勝手に入らないでね。約束を破るひとが、私は世界で一番嫌いだから。


 遺品の整理をする前から、彼女のスペースはとても綺麗だった。逆に僕のスペースは、というと、片割れの不在により他者への気遣いもなくなり、無造作に脱ぎ散らかされた服や乱雑に積み重ねられた本、収集日に出されることもなく放置されたゴミなどに圧迫されていく一方だ。


 悠紀の使っていたキャビネットを開ける。彼女が死んで以降、一度も開くことのなかった、存在理由を失ったそれは、まるで僕のようだ。


 小箱を見つけ、それには見覚えがある。すこし色褪せたそのえんじ色の小箱を、僕が見たのは、高校時代のことだ。僕と悠紀は出会ったばかりで、まだお互い敬語で話す距離感だった。雑貨屋できのう買った、と僕にではなく別のクラスメートに話しているのを偶然聞いて、その話が耳に残っていて、その数日後に、僕も彼女に小箱のことを尋ねてみたのだ。


 この前、雑貨屋で見つけて。店員さんに、人生でもっとも大切な物を入れて保管しておく箱なんだよ、って言われて、つい買っちゃいました。


 確か彼女は、そんなふうに言っていた。


 何が入ってるんだろうか。だけど開けてはいけないような気もした。ふたりで暮らしはじめてからも、一度だけこの小箱について話したことがある。いまこれを見るまで忘れていたのだけれど……。


 僕はリビングの机に箱を置き、気持ちを落ち着かせるように冷蔵庫から持ってきた缶ビールを一本開ける。プルタブを引いて鳴る音は、ぷしゅり、とやけに弱く感じた。


 そう言えば高校時代に話した小箱のこと覚えてる? お、すごい記憶力。実は、さ。あれに入れる物、決まったんだ。えっ、何、って……? 言わない。だって友達関係にひびでもできたら嫌でしょ。うーん、そうだな……、じゃあもし、もしも私がいなくなったら、好きにしていいよ。


 彼女はあの時点で、もう自身の未来を決めていたのだろうか。知りたい気持ちがない、と言えば嘘になるが、どれだけ悩もうと、それは彼女にしか分からないことだろう。


『生きてるって、生きてるだけで素晴らしいんですよ。これはね理屈じゃないんですよ』


 ふいにそんな声が聞こえてきて、僕はテレビを付けっぱなしにしていたことに気付いた。周りの音に鈍感になってしまうほど、いまの僕は余裕がなかったのだろう。映像に目を向けると、ひとりの少年が写真の中で笑っていた。自殺した少年を追うドキュメンタリー番組だった。死の理由をめぐって、関係者や心理学者、番組のコメンテーターが各々の考えを語っている。


 久し振り。私は死にたかったのに、まだ生きてるよ。


 高校を卒業してからずっと顔を合わせていなかった悠紀と再会した時、彼女は僕に笑顔でそう言った。その表情があまりにも美しくて、僕は怖い、と思った。次の日の朝、彼女が死んだ、と聞かされても驚かないような気がして。


 彼女は大学を中退したあと、働きはじめた会社もすぐに辞めて、職を転々とするようになった時には、もう家族と没交渉になっていた、と聞いている。通夜や葬儀の時に、はじめて悠紀のご両親を見たけれど、僕としても、おそらく相手としても、お互いに何を話すべきか分からず、会話はほとんどなかった。


 死にたいくせに、まだ誰かを求める気持ちはあってね。でも家族は違う気がする。誰よりも大切な友達。うん。それ以上でも以下でもない、あなたがいい。勝手なこと言ってるのは、分かってるんだけどね。もし嫌じゃなかったら、私とすこしの間で良いから、一緒にいてくれませんか。


 彼女とそんな話になったのは、再会してから三度目に会った時だろうか。再会した頃の僕はまだ大学を卒業したばかりで、彼女はすでに働いていた。ふたりとも地元から離れた大学だったが、結局ふたりとも地元に戻ったことで再会することになったのだ。と言っても、悠紀の通っていた大学は隣県にあり、だからこそ同性の何よりも気を許せる友人の夏澄さんとの繋がりも残ったままだった。


 生きたくても死んじゃうひとがいるなら、死にたいひとくらいさっさと死なせてくれればいいのに、ね。本当に神様って理不尽だ。


 悠紀が高校を卒業してから、僕と再会するまでの間に起こした自殺未遂がどんなものだったのか、僕は知らない。そしてその失敗が彼女にどんな感情の変化を与えたのかも。彼女が一緒に住む相手に僕を選んだのは、僕なら自分の気持ちを分かってくれる、と思ったからかもしれない。でももしもそうなら、それは違う。僕は彼女寄りの考え方をできる人間かもしれないが、彼女ではないし、結局のところ分かったような振りをすることしかできないのだ。


 青く膨らんだ死に顔はいまも網膜に焼き付いている。彼女のもとへ僕も行こうかな、とぼんやりと考えながら、そんなことなどできない自身の性格を自覚もしている。ちっぽけな生を呪いながらも、僕は死を選べない。


『生きてるって、生きてるだけで素晴らしいんですよ。これはね理屈じゃないんですよ』


 また繰り返されるようにその言葉が聞こえてきて、僕はその画面を消した。彼女のことを馬鹿にされたような気がしたのだ。


 死ぬことの理由は求めようとするけど、誰も生きることの理由を求めようとはしないよね。前に夏澄にも聞かれたんだ。なんで死にたいの、って。なんで生きたいの、ってのは聞かないくせにね。


 僕は覚悟を決めて、小箱を開ける。


 そこには二つ折りになった一枚のメモが入っている。


〈友達ではない感情がありました。ずっと好きでした〉


 いつ書いたものだろう。友達という関係にひびが入るかもしれない、とかつて彼女は言った。秘めた想いは言葉になり、それはかすかに震えていた。


『生きてるって、生きてるだけで素晴らしいんですよ。これはね理屈じゃないんですよ』


 さっき聞いたばかりのテレビから流れた声が頭の中で鳴り響く。それが正しいとか間違いだとか、そんなことはどうでもよかった。知ったこっちゃない、というか、僕と彼女の間に流れる死と生には何も関係のないことだ。


 だって僕は死ぬことが悪いことだから、生きていることが素晴らしいから、彼女に生きて欲しい、と思ったことなんて一度もないからだ。


 僕は、彼女に、生きて欲しかったのだ。一緒にいたいから、というただの個人的な感情で、これはもう本当に理屈じゃない。ただ彼女とふたりでもっと先の景色を見たかったのだ。


「勝手に過去の話にすんなよ」


 僕はひとりつぶやき、彼女が小箱に入れた人生でもっとも大切な想いに自分の言葉を新たに添えて、


 そして折りたたんだ想いを、またそっとしまい込む。

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