第26話 そして、別れ
時は流れ、留美も大学受験の時を迎えていた。それでもミケには時々会っていた。ミケと過ごす時間は、勉強の追い込みの
「ミー」
冬の
「ミケ、それじゃあ元気でね。しばらくしたら、また来るから」
本当は、試験が終わったら直ぐにミケの所に来たかったのだが、結果が発表になってからにした。それまでは気が落ち着かないのだ。
湘南大学を志望したのは、近いという事もあるが、そこの生物学科の教授が気に入ったからだった。動物学が専門の大畑先生と言う。ひょんな事から学祭に行き、その研究室の存在を知った。著書も読み、ますますお気に入りになった。先生は動物学の分野にありながら、人や社会のあり方にいろいろと口出ししていた。発言は、医学や環境科学に留まらず、社会学、哲学にまで及んだ。当然、医学系、人文系の学者からは煙たがられ、専門である動物学会からも、なんとなく敬遠されていた。しかし、留美はそんな先生に師事したいと思っていた。
先生の主張は多岐に渡るが、動物本来のあり方から大きく変容してしまった人の生活について警鐘を鳴らしている点に共感した。というのは、これまでミケに教えられてきたことに通づるものを感じたからだ。
「んー、もう直ぐだ。んー」
気を揉みながら発表を待っていた。第一志望はもちろん湘南大学の生物学科だ。そして、とうとう発表の日を迎え、留美は無事、合格した。
「やったあー」
もう、それ以上言うことはなかった。頑張った。長かった。なんだか、まだ社会人にもなっていないのに、人生に一区切りが付いた気がした。晴れ晴れとした気分だ。
落ち着くと、早速ミケに会いに行った。もちろん、合格の報告をするためだ。三週間ぶりだろうか。
「ミケ?」
いつもの土手にミケがいない。
「ちょっと時間が遅くなったから出歩いているのかな。また明日、来てみよう」
しかし、翌日も、その翌日もミケの姿は無かった。何か嫌な予感がした。とっさに畑の向こうにある草むらに行ってみた。以前、ミケが、他の猫を看る為に分け入った所だ。少し緑を増した草むらを掻き分けていった。
「あっ」
ミケはいた。かつて、弱った猫が横たわっていた草むらの窪みにミケが横たわっていた。
「ミー」
ミケは力なく鳴いた。元気が無さそうだ。病気だろうか。
「ねえ、どうしたの? どっか悪いの?」
ついつい人間の感覚で考えてしまう。しかし、ミケは動物だ。病気なら、それを克服できるか、弱って食べられるかだ。老衰なら、ただ、食べられる時を待つだけだ。しかし、留美は人間的な思いを寄せずにはいられなかった。
「分かっているわ。でも、元気になってね。また、一緒に冒険に行こう。イエーイ、さあ、猫大陸だ!」
そういう留美を、ミケはじっと見ていた。
「ミケ、じゃあ、帰るね。そう、わたし大学に合格したの。その報告に来たの。またね」
一緒に楽しく合格祝いをしようと思ったのに、できなかった。でも、これは必然であり、正常系だ。決して、特別な事ではないし、偶然でもない。ましてや運が悪いなんて事でもない。時には逆らえない。ミケも留美も単なる時の
何日かしていつもの土手に行ってみたが、やはりミケの姿は無い。草むらに入ってみると、ミケはいた。
「ミケ、こんにちは。調子はどう?」
そう言いながら、涙が込み上げてきた。ミケは一目で分かるくらい痩せていた。何も食べていないのだろうか。でも、留美はもう、獣医に連れて行こうなんて考えなかった。ただ、見守っていた。ミケは動物だ。しかも野良猫だ。動物には動物の摂理がある。それを侵犯してはいけない。ちょうど、以前、ミケが弱った猫を見守っていたように、留美はただミケを見つめていた。
何十年かすれば、今度は留美がここに横たわり、そして誰かが見守るのかもしれない。ふとそんな光景を思い浮かべたが、不思議と自然な事に思えた。その時までは、食べられないように一生懸命生きればいい。今、こうして勉強して大学に行くのも、その一環であればそれでいい。ミケがそんな風に言ってくれているような気がした。
そして、一週間ほどが経ったある日、草むらからミケの姿が消えた。もちろん、土手にもいない。何ものかに食べられてしまったのだろうか、自分でどこかに行ってしまったのだろうか。
留美は、もう探さなかった。探すのはミケの動物としての尊厳を傷つけるような気がした。ただ、あるようにしてあげたい。これで、ミケとはお別れだ。もう、現れないだろう。
「ミケ、ありがとう。沢山の思い出をくれたね。私、悲しまないよ。生きているものは皆んな、こうして順番に入れ替わっていくんだね」
ミケは、最後まで大切な事を教えてくれた、と感じた。寂しさを胸に、草むらを後にした。
高校生活も最後の日、学校の帰り道に土手の所まで来ると、やはりミケがいないだろうかと、見回してしまう。しかし、ミケはそこにいなかった。
「そうよね、ミケはもういないんだよね。私もこれから大学生だわ。もうこの道を通学で通る事もなくなっちゃうね」
そう思っていると、畑の向こうの草むらに、何やら白い塔のようなものが建っているのが見えた。
「あれっ、あんなものあったっけ?」
それは、ミケが最後に横たわっていた辺りに建っていた。行ってみると、それは高さが十メートルくらいの鉛筆キャップのような白い塔だった。入り口がある。
「んー、なんか見た事あるなあ」
中に入ってみると、小さな
「あっ、あのお婆さん!」
そう言うと、とっさに数歩後ずさりして、入り口の上にある文字を読んだ。
――しあわせ館
お婆さんはニコニコしながら声を掛けてきた。
「ようこそ、留美さん。そうそう、大学合格おめでとう。ま、ま、炬燵に入りなさい」
留美は言われるままに炬燵に入った。狭いが、頭の上は細長く高い空間になっている。確か人ランドで見た時には、かまくらくらいの大きさで、高さは背丈も無かったはずだ。
「はい、お婆さん、ありがとうございます。大学で動物学を専攻するのが夢なんです。それにしても『しあわせ館』は随分と高くなりましたね」
「そうね、人々が幸せになってきたからかしら。それともこれから幸せに向かうのかしらね」
お婆さんは、何だか意味ありげな事を言う。留美は、怒ったように運転する車や、苦虫を噛み潰したような顔で接客する店員なんかを思い浮かべ、しあわせ館が成長する程、世の中は変わってないのになあ、と思っていた。周囲の人が特に幸せになってきた感じはしなかった。いつもと変わらない。
「それにしても、ここにこんなおっきな塔ができたら、近所で騒ぎになりませんか。私はつい今、気付いたんですけど」
「これはね、あなたにしか見えないの、留美さん。だから大丈夫よ」
「あ、そうですか」
ミケとの日々で、いくつも不思議な事を体験しているので、そんなお婆さんの言葉にもさほど驚かなかった。
「そうそう、お婆さん、ミケがいなくなりました」
どうしても「死ぬ」という言葉を使いたくなかった。これは生きているのを期待しているからではなく、ミケから学んだ事だった。死ぬのではなく、食べられるという命のバトンタッチが行われただけなのだ。
「そうねえ、ミケさんはいなくなったわね。でも、ブチさんやトラさんは元気そうよ」
そういえば、ブチとトラにはしばらく会っていない。一緒に、二度も猫大陸に渡った仲間だ。彼らにも合格の報告をしに行かないと、と留美は思った。
「それにしてもお婆さん、どうしてここに『しあわせ館』が現れたんですか。確か、人里には現れないって聞いていたんですけど」
「特別よ、留美さんのため。合格祝いって事にしておこうかしら。あなたはミケから沢山の事を学んだわ。これをこれからの大学での勉強、研究に生かせるといいわね」
「はい、できれば大畑教授に師事したいんです。教授は独特の視点で動物と人の関係を捉えていて、面白いんです。ミケから学んだことが生かせる気がするんです」
「はい、はい、期待しているわよ。私は思うんだけど、そんな考え方を普及させていったら、人はもっと幸せになるんじゃないかしら。動物達のあり様から学ぶ事は沢山あるわ」
「私もそう思います」
お婆さんに期待され、合格の喜びと相まって気分が高揚した。しかし、それと同時に、例の宿題を思い出してしまった。
「あのー、宿題のことなんですけど。まだ・・・・・・」
「あ、いいのよ。留美さんはもう答えに辿り着いているわ。だから答えなくても大丈夫。これまで色々と考えて、体験してきた事が重要よ」
留美には、何故しあわせ館が高くなったのか、宿題の回答はなんだったのか、今ひとつ釈然としなかった。しかし、問題を設定して、正確な回答を求めるのは、人の世界だけだ。動物の世界で考えれば、それほど
その代わり、ちょっと疑問に思っていた事をお婆さんに聞いてみることにした。
「夢や希望は人に特有で、それには功罪があるという事をミケから学びました。人も本来動物ですから、夢や希望が無くても、しっかり生きていけると思うのですが、私も受験をして、動物学者を目指すなんてしています。なんだか、ミケから学んだ事と、自分のやっている事が矛盾しているような気がして」
「いいところに気付いたわね。そんなに気にしなくていいのよ。人は動物だったけど、動物じゃないんだから。動物から学べる所は学んで、そうでない所は今のままでいいのよ」
なんだかちゃんとした答えになっていなかったが、気にしなくていいといわれて、留美は安堵した。
「思うんですけど、動物学って、動物を学ぶんじゃなくて、動物から学ぶって事に思えます。教授の著書にも、そんな
「そうね、その通りよ。さて、そろそろ店仕舞いして、次の『人ランド』の会場に移動しなくっちゃ」
「『人ランド』は今度はどこに現れるんですか」
「秘密よ。本当は千年くらい前の東京に現れるといいんだけど、それをやってしまうと、ちょっと影響が大き過ぎるらしいの」
お婆さんが何の気なしに、宿題のヒントをくれたような気がした。もう一度、お婆さんに礼を言うと、しあわせ館を後にした。振り返ると、白く高い塔が、上の方からゆっくりと消えていくのが見えた。
「お婆さん、さようなら。またどこかで。そして、ミケもさようなら」
留美は誰もいなくなった土手と草むらを後に、家路についた。暖かさを増した日差しが、頬に気持ちよかった。
猫と MenuetSE @menuetse
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