黒い小さな友だち

 表面を焼かれるような痛みと熱。

 それが彼の覚えている最後の記憶だった。






 世界は三つの層で構成されると考えられている。


 人の生きるイシュ、魂の住処であるアゴラ、神や魔などが存在する別次元のキリクである。この三層は全く同一に重なって存在し、それがゆえに魂の剥離である死は唐突に訪れたように見えても、実際は隣家に足を運ぶがごとく魂がアゴラにその存在の場を移すだけのことに過ぎない。

 聖職者や呪者、魔術師と言った人間はそれらの行き来を感じ取ることができるから特別な存在なのだと言われる。肉体を離れた魂はアゴラへ移動する際にマゴスと呼ばれる不可視体となり、しばらくの間はイシュに留まっている。特別な術を修めた者はその不可視を可視に、あるいは感じ取ることができるのだ、と。

 葬送儀礼とはイシュに留まる死者の魂をアゴラに移すための儀式であり、イシュやそこに在る肉体に想いを残すことなく移行できるよう喜びの中で送り出すことが良いとされ、葬儀は祭りと同義である。

 魔術師も研究者も、長い歴史の中で積み重ねられたその研究成果を事実として疑っていない。

 だが、彼は正しい世界を知っていた。




 世界は二つの層で構成されている。


 人や獣、魔や魂と言ったこの世界のあらゆるものが存在するイシュルメタルと、それらを超越する創造主の在るメフルターシュである。つまり、魔法を操る者たちは自分たちが力を引き出している魂たちの存在する次元、アゴラと呼び習わしているそれが自分たちと同次元に存在すると認識できていないのである。

 彼にとってはまさに「ちゃんちゃらおかしい」ことであった。

 理解できないものを理解の外に置いて、さも理解したような顔をする。道化以外の何者でもない。

 もし彼らの主張が正しいなら、どうしてこの自分が、彼らが言うところのイシュに干渉できるのか。自分がアゴラに存在する者であるのなら、なぜこうして肉体と感情を持ち考えることができているのか。イシュに存する魔術大学を出て、国立魔術研究所でエリートと持て囃されている存在が、アゴラなどという別次元の存在である訳がなかろう。

 万が一そうだとしたら、なぜアゴラの存在がイシュで「生活」しているというのか。


 不世出の天才と言われた彼は、愚かな人間の中で羨望と嫉妬とに塗れうんざりしていた。

 別次元などという「逃げ」を打つから、自分の立つ領域に誰も辿り着けないのだ。下らない先入観や先人への尊崇など邪魔なだけだ。馬鹿げた「常識」とやらに囚われているから、いつまでも魔術などしか発現できず、彼のそれが魔法であると見抜けないのだ。

 魔法を行使するのに最も重要なこと、それは世界を在るがままに見る視界である。魔法は世界の法であり、術などという小手先のものではない。世界を決定づけるもの、形作るもの、規定するものであり、そのための術に堕している限り上位である規定者にはなれない。


 だが、とも彼は思う。

 その領域に至ることを人間に求めるのは酷であろうと。

 創造主を貧弱な想像力で小さな偶像と窮屈な教義に押し込めなければ定義付けられない、そんな矮小な存在に世界が何であるかを認識することは困難だ。


 創造主とは神ではない。

 慈愛などという人間の定義に当て嵌められるような感傷など持ち合わせていない。創造主は創造主であり、ただ創るだけの存在だ。そう言ってしまえば大したことのない存在に思えてしまうのだが、実際は無から有を創り上げるということであり、とんでもない存在である。

 だが、だからこそ。

 主は何も成さない。

 創り上げたモノに対して何ら干渉をせず、心を寄せず、ただ在るがままに在らせるだけだ。創造物が何かを成そうと何かを生そうと、過とうと正そうと、主は関与しない。生まれ出たモノは、自らの責任で何かを成せば良い。その在り方に主は何かを成そうとは考えない。

 故に創造物は自由である。

 何にも縛られず歪められず、在るがままに在ることを許されている。その権利を行使せずに自ら縄打ち縛りつける、その愚かさこそが人間の限界である。

 彼らが目の敵にする魔獣とやらを見るが良い。彼らは在るがままに在っている。だから魔法が使えるのだ。

 世界に在るがままに自由に存在するものたちを、勝手に枠を作り型に嵌め、自縄自縛する人間が魔術しか使えないことと好対比ではないか。


 それでも彼は人間に同情を寄せる。

 知性がない故に魔法を使う魔獣と、知性を練り上げたが故に魔術に堕する人間と、どちらが幸いなのかがわからないからだ。

 彼がそう思うことすら、きっと主の御心に叶うことなのだろう。


 では。

 そう認識する自分は果たして人間なのか魔獣なのか。手足を見れば、人間そのものだ。ところどころが跳ねた栗色の癖毛、これも人間にはよく見られるものだ。目、鼻、口、すべて外観は人間そのものであろう。

 それでも彼は魔法を行使する。それは彼が人間でないことを意味している。

 散々こき下ろしたものの、人間が魔法を扱えるようになると彼は思っていない。

 在ることを在るように思う、世界を自由に定義し規格する。それは言うほど簡単なことではない。知性ある人間なら尚更だ。

 例えばの話、自分は空を歩く者である、そう考えて首都のランドマークである尖塔の上から一歩を踏み出せるものだろうか。

 あの天を突く尖塔の上から?

 無理だ。

 それが人間であり、魔術の限界と言える。

 だが彼にはそれが出来る、魔法が使える。

 魔法、とは言っているが彼らの定義ではなくあくまでも人間の定義付けによれば魔法と呼ぶのが相応しいというだけだ。彼にとっては在るべくようにして在るだけだから、魔法という特別な定義付けを必要としていない。

 だが、人の間に紛れ暮らすのであるから、已むを得ず人の呼び方に倣っているというだけに過ぎない。


 いつまでこうしているか、決めてはいない。

 多分飽きるまでは生きていくのだろう。







 アージュは優れた文明を持ち、最盛期を迎えていた。

 その様子を見て創造主が満足しているのかどうか、それは認識すらできない人間には想像の埒外であるし、彼にも理解できることではない。

 創造主は自らが生み出した者が、自らが生み出した物をどう用いどう進むのかに興味を持たない訳ではなく、それらがどのように在るのかを使者と呼ばれる意識体に観察、報告させている。

 使者もまた、ただの装置として世界の様子を主に送るために見守り続ける。そう、ただ見守るだけという主の在り方を実現する装置でしかない。

 その在り方は主と同じメフルターシュから意識体として眺めるだけであったり、彼のようにイシュルメタルに降りて存在と交わりながらであったりと様々だ。

 使者もまた創造主の創造物であり、在るように在ることを主は否定しない。だから端末としての在り様は自由であるし、そして在るように在るためにたった一つだけ「在りたいように」在ることを許している。

 それは報告ではなく、願いを送ること。

 たった一度だけ、使者には主に願いを送ることが許されている。それをどのように用いるのかは使者に任されているが、願いを使った使者は使者たる存在意義を失い、その世界は主の観察から離れることになる。


 何をしているわけではない。

 何の干渉もしない。

 在るがままに在ることを許容している。


 そんな創造主の下を離れることが世界に何らの影響を与えることはないかも知れない。主の存在を知らない想像物にとっては、そうだろう。だがそれは、知の可能性を捨てることである。

 在るがままに在れと主が願った世界に、原理的な不可能は存在しない。今は知ることの出来ない創造主を、人間はいつか認知することができるかも知れない。

 それは世界の在り方を知ることであり、魔術ではなく魔法に至る階梯を登る可能性を保留しているということでもある。けれど、使徒が願い、世界が主の下を離れた時点でそれは保留ではなく放棄となり、原理的不可能へと変化する。

 無いものを認識することが出来るのは創造主だけだ。

 加護とは言えないかも知れない、祝福とも異なるかも知れない、けれどそこに至る可能性を捨てる、いや世界に可能性を捨てさせることを意味する願いの送信を使者は世界に対する、あるいは世界を創造した主に対する裏切りと考えている。


 だから彼は人間の愚かさに辟易しながらも観察端末として人間と同じ体を持ち、人間の中に交わりながら願いを使うことは夢想だにしていない。同情は寄せている、だからこそ人間を創造主から切り離すことはしないのだ。

 けれど観察するだけの存在であろうとしたからこそ、人間の愚かさから導出される行動の愚かさを考え至らなかったのかも知れない。






「何だお前達は」

 国立魔術研究所の実験室で、銃を突きつけられた彼は静かに問うた。

 誰何は不要だったのだが、様式美というやつだ。

 予想通り、彼を取り囲む兵は何も答えず銃口を下げることもしない。

「やれやれ、全くもって愚かなことだ。メンフェル派の暴走なのだろう?お前達も突き合わされて不幸なことだな」

 だがまあ、それが軍人の性というやつか、と呟くとくるりと背中を向けて興味を失ったとでも言うようにやりかけの実験に戻る。その背中に、軍人とは思えない軽い声が掛けられた。

「わかっているのなら貴様の研究データを出してもらおうか」

「ふむ。メンフェル直々のお出ましとはご大層なことだ」

 カツン、と音が響く。

 兵の後ろに隠れていた臆病者が、彼の抵抗がないと知ったのか出てきたのだろう。

 だが、それでも彼は振り向くことをしない。

「残念だが実験の途中なんでね。お帰り願おうか」

「そうはいかん。認めるのも業腹だが、貴様の魔術は人類にとって有益だ。だが誰も理解できん。と言って貴様ほどの人間が『理解させられない』とも思えん。どこかに基礎理論を隠しているのだろうと思って探らせてもらった」

「お褒め頂き光栄だがね、お前に渡したところで結局は隠匿し独占するのだろう?公にすることを拒否しないが、だからこそお前に渡すことはできんよ」

「馬鹿なことを。私は人類全体の幸福を考えている。貴様が持つよりよほど有用だよ。さあ……」

 再び足音がする。同時に、がちゃりと兵たちが銃を構え直す音が響いた。

「貴様の中に刻まれた魔術刻印、全て渡してもらおうか」

「断る」

「……貴様、自分が今どんな状況にあるかわかっているのか」

「お前ほど愚かではないのでな、わかってはいるさ。だがお前と話す時間よりもこの実験を進めることの方が私にとっては重要だと、そういうことだよ」

「愚弄しおって……!」

「愚弄などしていない。そう思うのならお前が自分で自分の愚かしさを認めているということだろう」

 ちらりと視線すら向けることなく、実験の手を動かす。背後で膨れ上がった怒気が、突如緩んだ。

「ふ……脅しだと舐めているな?」

 気の長い男ではない。

 彼の舐めきった言動に怒りを募らせるかと思っていたから、存外に落ち着いた声音が聞こえたことを不思議に思い、手元から顔を上げる。

 ゆっくりと振り返ろうと顔だけを向けた彼の目に、引き金にかかった指を動かす兵の姿が見えた。


 途端、激しい銃撃音が響き無数の銃弾が撃ち込まれる。

 まさか、と思う余裕もなかった。

 甘く見すぎていた自分を呪う猶予すら与えられず、呻き声を上げて崩れ落ちる。実験は、と見上げた彼の目に傷ひとつつけられず背後にあった実験装置が映る。

「魔術師用に法理を記述した銃弾だ、貴様の息の根を止めることだけに特化したものだから安心しろ。おい!」

 靄がかかったような視界と思考で、こいつの言葉を聞くだけしか出来ない自分を呪う。その言葉が最悪なものであることが、彼の意識をぐずぐずにすることに拍車をかけた。


「すぐに処置室へ運べ。生皮は剥いで表紙とするのだ。脳だけでないぞ、目玉も爪も、肉片ひとつ残さず書の材料としろ」

 薄れていく意識の中で、どたどたと複数の足音が聞こえ訓練された兵のものでないなと感じる。そんな感想を抱く余裕があることを不思議に思うが、人の最期とはそんなものなのかも知れない。そう思えばやはり自分は人であったのだろう、と妙な安堵感を覚える。

「書となって人類の礎となるのだ、貴様には過ぎた名誉だな」

 閉じた視界の中で聞いた、それが最後の言葉だった。











「マタラエロイム・アサタ・ダッシロタム・イル・カシュマ」


 小さな姫がそう口にしたかと思うと、血塗れになった本が光り部屋中を覆い尽くす。

 視界が完全に閉ざされるほどの眩惑の中で、幾つもの叫び声が上がった。目を閉じることの出来なかった兵たちが、眼球を壊されたことによる悲鳴なのだろう。幸いにして痛みに目を閉じていた閣下と呼ばれていた男はその難を逃れたが、瞼を通して焼いてくる光の乱舞に目を開けることは敵わない。


「良かった……あなたは無事だったんだね」

 姫の小さな声が落ちる。

 一緒に本へ置いていたネズミの体は、発光と共にまるで本に吸収されるかのように消え失せ、本とネズミの代わりに黒い長衣を着た青年が立っていた。

「それが……あなた、だったんだ……ああそうだ、名前……つけてあげれば良か……」

 目の前で消え失せつつある生命は、この光がある間だけ留まることを許されている。だから彼は膝をついて視線を落とすと、姫の頭に優しく手を置いた。

「ピオだ、姫」

「ピオ……ふふ、ピオ……もっと呼んで上げたかったな」

「アージュの魔法使いだった私は、才能を妬んだ男によって殺され体を本にされていた。最後の意地で誰にも読めぬ書にしてやり、残った血でネズミの体を構成させ生きながらえた。たが、解放されるには私を認識できる、在るものを在ると認識できる人間の血を必要としたのだ。簡単に解読される訳にいかずギリギリの中でそんな制限をかけることしか出来なかった……そのために姫の血を必要としたこと、済まないと思っている」

「よ、く……わからないけど、いいの、それでピオが、幸せにな……れる……なら」

「君は幸せだったか、アンジェリカ」

 ピオの言葉に姫は大きく目を開いた。

 すぐに閉じると、嬉しそうに微笑む。

「初めて名前……呼ばれた。それもピオに……ふふ、嬉しいな……嬉しい、なぁ……」

 だから今、自分は幸せだと。

 収束していく光の中で、忘れられた小国の忘れられた末姫であるアンジェリカは、小さく呟いた。


 その言葉を最後に、美しく揺らめていた命の火が消える。

 同時に牢獄を埋め尽くしていた光も収まり、あちこちに転がった兵たちの呻き声だけとなった。


「何だ貴様は!」

 どこかで聞いたようなセリフだな、とぼんやり思いながら視線を入り口に巡らせる。

 扉の外にいたからであろう、光の難を逃れた男が叫んでいる。最初に閣下と呼ばれた男を導いた者だ。誰何の声に答えず、じっと見返すピオに、男は廊下に控えていた兵たちに指示を飛ばした。

「と、捕らえよ!閣下を早くお救いするのだ!」

 だが超常の現象を見た後だ、何もわからない兵たちは及び腰で率先して踏み入れる者はいない。

 何の感情も見受けられない瞳でぐるりと見渡したピオは、ゆっくりと口を開いた。

「お前たちに慈悲を与える、だが人類全体には裏切りの罪を背負わせる」

 それは自分もまた背負うものだ。アンジェリカを殺めた世界と自分が、共に負う創造主への裏切りの罪。

 最後に幸せだったと微笑んだ、世界が捨てた幼い姫を殺めたこと罪。二千年の時を超えて彼を解放した、魔法使いである姫を手づから失わせた人類は罪を負わなければならない。その流れを作り上げた自分もまた、同じように、いや主と姫に対する自責の念が世界を知る者としてより強いだけに、より大きな罪を背負うだろう。

 そしてその罪に相応な罰を追うのだ。創造主の目に映らない、という罰を。

 だが、それもまた主の在るように在るという御心に叶うものなのかも知れない。だから彼は迷わない。


灯は消えるエル・フィナ

 小さく口の中で呟くと、無事なものも負傷したものも一斉に静かになる。鼻を押さえて転がりまわっていた閣下も、糸が切れたように動きを止めた。

 高い小窓から入ってくる木々の葉擦れの音、何もなかったかのようにいつも通り呑気に響く小鳥の囀り。その他には一切の音を失った牢獄で、ピオはアンジェリカを見下ろした。血溜まりの中、僅か十年の時を誰からも認識されず過ごし、最期のたった数ヶ月をネズミと共に幸福の中に包まれて逝った少女。

 一瞬だけ目を閉じると、彼は決意に満ちた眼差しを石天上の向こうへ向けた。


「主よ」

 迷いはない。


「我が父たる主よ」

 罪は我が身が悠久の果てまで背負っていく。


「我が母たる主よ」

 恨みもない。


「あなたの子たる、あなたの僕たる使者、ピオが請い願います」

 ただ、願いだけがあった。


「僕たる私の、ただ一度の請願を行使致します」




「無垢な魂に、永遠の祝福を」


 そして世界に再び、光が満ちた。











 エルシュは王国としての最盛期を迎えようとしていた。


 帝国を滅ぼし共和国を従属させ、大陸全土に覇権を及ぼしたエルシュ王国は内政にも力を入れて交通網や水道を整備し、治安を保ち商業を振興させ、教育や衛生を徹底させている。

 五千年、いや文献にもないことからもしかしたらそれ以上の昔であろうと考えられているアルジュという超文明が滅んだ後、この世界で最も長く栄えたのが八百年の歴史を持つ帝国であると言われていた。その帝国を僅か数ヶ月で滅ぼし、帝国の歴史を超える千年王国となったエルシュ王国には、建国神話と目される伝承がある。


 賢者と聖女の伝説だ。


 末期の帝国は共和国に潜ませた間諜によってもたらされた、失われた魔術の研究に溺れ、何の成果も出せないままオカルトのような様相を呈してきたそれに国力を注ぎ込み、国土は荒れ人心は荒廃する。共和国とじゃれ合っているかのような小競り合いは国庫と人的資源に大きな負担を掛け、勃発する一揆や内乱を力で抑え込むことでそれは加速した。

 そんな中、北の半島、誰からも忘れ去られていた小さな属領が反旗を翻す。小さな村落が五つ六つ程度のその国で興された反乱は、あっという間に帝国軍に鎮圧されるかと思われた。

 だが、そんな予想に反し彼らは次々と帝国軍を打ち破る。当時の人々は伝説の勇者の存在を疑ったが、人知を超えた存在は確認されなかった。代わりにあったのは奇蹟とも思える魔法。


 当時は帝国エルシュ属領軍と呼ばれた彼らはアルシュの末裔を名乗り、周辺諸国に最初は侮蔑と嘲笑を持って受け止められた。

 が、行軍の先々で賢者の魔法と聖女の治癒によって負傷者を一切出さずに完全な勝利を収めると、諸国はそのあり得ない事実を受け容れざるを得なくなった。あり得ないことが起きている。それは奇蹟か魔法かでしかない。ならば、従軍する彼らが魔法使いであることは間違いない。


 そうして大陸諸国が右往左往している間に帝国は属領と共に滅ぼされ、その様を見た共和国は構成国がこぞって恭順を示し国を解体して差し出した。

 初代王として即位したアレルガンドⅠ世は大功のあった賢者と聖女の言を良く聴いて善政を敷き、大陸覇権のみならず隆盛の礎を築いて次代へ引き継いだ。

 件の賢者と聖女は歳を経ず戦場に合った頃から姿形も変化のない、人外であると目されていたから引き続き傍に侍るかと思われたのだが、新王の戴冠式を見届けたその翌日には誰にも何も告げず姿を消したと言われている。

 彼らが残した言葉はたった一言だけであった。


「我らは見ている」


 ただそれだけの言葉を新王に残し、二人は影も形もなくなった。その徹底ぶりは、使っていた部屋がチリ一つなく完全に彼らが入る前の状態に戻されていたと言うから驚きだ。

 そして残された言葉、「神」ではなく「我ら」ということが王家の至言として引き継がれ、代々の為政者を戒めたことは間違いない。

 神という無形ではなく、我らという有形であることが。

 以来、王家はその言に従って己を律し、千年一三五代まで系譜は繋がっている。

 帝国を下した際に遷都した大陸中央の王都ピノ、副都アンジュに賢者と聖女の名前を戴いて。






 その副都アンジュは、秋の収穫期を迎えて聖女祭の真っ只中である。

 中央に立つ聖女殿から伸びる聖道は掃き清められ、両脇には屋台が立ち並ぶ。行き交う人は普段の数倍となり、肩をぶつけずに歩くのにも苦労するといった様相だ。道々にはどんな小路でも聖女を象徴する鼠が表紙に描かれた本の図柄の旗が風に靡き、その下で子どもたちが手に手に同じ装丁の本を手にして走り回る。そんな賑わいの中でも決してゴミを散らかしたり喧嘩が起きたりしないのは、王家の善政もあるがここが聖女アンジェリカを祀る聖都でもあるからだろう。


「やっぱり恥ずかしいよ、ピオ」

 この時期になると必ず副都へ行こうと誘うピオに、彼の悪戯心を咎めるアンジェリカの声が掛けられる。

「そりゃまあ……私だったら恥ずかしくて来られないな」

「やっぱりわざとだった!豊穣の祈りがどうの、歳時記がどうのとか言って、結局わざとじゃないの!」

 憤懣やる方なし、と言った様子でむくれるアンジェリカに笑い声をあげる。腰の上くらいまでしかない彼女の頭をぽんぽんと撫でながら謝罪するが、にやけているから全く誠意が見られない。

 自分を祭り上げる行事に出てくるなんて、どんな羞恥プレイなのか。

 そりゃアンジェリカだってお祭りは楽しい。

 もう二千年近くこの姿で過ごしてきたが、どうも精神の成長はさほどでないらしい。

 だから何度も楽しく賑やかな祭りは経験してきたというのに、ピオの嫌がらせだとわかっていても未だこうしてやってきては、きょろきょろと周囲を見回し美味しそうな匂いに釣られてはふらふらしてしまうのだ。


「ああほらアンジェリカ、あちらは聖女飴だって。食べるかい」

「食べない!」

 そうしてピオにわざとアンジェリカを冠した食べ物を勧められては、つんと顔を背ける。

 どうして王都に賢者祭がないんだ、あったら絶対に、引きずってでもピオを連れて行くのに、ネズミの姿にして。

 そう思うのだがないものはない。

 いつだったか行軍の最中、ピオがアルに強く念押ししていたのは自分を冠した祭祀を絶対にしないこと、アンジェリカを冠した祭りを必ず開催すること、その二つを指示していたに違いない。

 こういうところは年の功、どうやったってアンジェリカはピオに勝てないのだ。


「そんなに食べて、喉が乾くよ」

「んー。確かにそうかも」

 苛つきを食べ物で発散しようとするかのように、むしゃむしゃと食べ続けるアンジェリカにピオが声を落とす。ちょうど向かいの出店に飲み物が並んでおり、大きな箱できんきんに冷やされた瓶にアンジェリカの目は釘付けだ。

「どれが良い、アンジェリカ」

「そうね……ピオは?」

 どれにしようかと物色する二人に、店主が声を掛ける。

「お二人さん、賢者様と聖女様と同じ名前なんだね。ならこれなんかどうだい」

 在庫分だろうか、奥に置かれた同じ箱から一本の瓶を取り出す。深い緑色が美しく、頂点に差し掛かり始めた秋の陽光を受けてきらきらと輝くそれに、アンジェリカは思わず声をあげた。

「わあ、きれいね。おじさん、これ何のジュース?」

「ぶどうジュースなんだけどね、最近西方で品種改良されたピオって品種を使ってるんだよ」

 途端にピオが難しい顔をし、アンジェリカはけらけらと笑い始める。

「じゃあピオジュースね!」

「そうだな、まだ商品名とかついてないが……売れそうだな、お嬢ちゃん」

「絶対売れるよおじさん、ピオジュースって名前にしようよ!」

 盛り上がる二人に、渋い顔をしたピオが口を挟む。

「いやいや、賢者様の名前をつけるなど不敬なんじゃないかな」

 賢者に様をつけるくだりで更に渋面を深めたピオに、アンジェリカの笑いは一層大きくなる。

「賢者『ピオ様』がそんなこと気にする訳ないよ」

「だな、お嬢ちゃんの言う通りだ。賢者様は自分の名が何かの役に立つなら使うが良いって言いそうだ」

 うぐむ、と妙な言葉を口の中で漏らしてピオは黙り込む。

 完全にしてやられた。

 が、アンジェリカが幸せそうに笑っているのだから、それでも良いかと気分を切り替えた。


「そう言えばお二人さんは兄妹かい?お嬢ちゃんが兄さんを名前で呼んでるが」

 早速瓶に口をつけて、美味しい!とはしゃぐアンジェリカを微笑ましそうに見ながら、なんとなくの話題繋ぎ程度の質問を投げかける。男の子にピオ、女の子にアンジェリカと名付けるのは多いから違和感はないが、二人の距離が不思議だった。

 目を合わせた二人は軽く頷くと、

「いや、私はピオ」

「私はアンジェリカよ」

「え?」

 いやそれは知っている、と言いかけた店主の目がまん丸く見開かれる。

 さっきまで町民に紛れていた二人が、くっきりと周囲から浮かびあがって見えたからだ。

 店の周りにいた人波も気付いたか、同じような表情で二人を見る。中には口をあんぐりと開けている人までいる始末だ。


「我らは見ている」

「幸せを祈ってるね」


 その言葉を残し、揺らめきと共に二人の姿はかき消えた。

 一瞬の静寂が訪れ、次にどよめきがうねりのように聖道に満ちた。

 二人がいた辺りに向かってひれ伏す者、祈る者、聖女殿に向かって駆け出す者、様々な興奮が渦巻き今年の聖女祭は特別なものになることを予感させる。




 そんな風景を、聖女殿尖塔の屋根に腰掛け、アンジェリカは自らが命名したピオジュースを飲みながらのんびりした声で、

「これでまだ幸せな時代は続くかな」

「ああ、私達は主ではない、人間だからな。こうしてたまに働きかければ彼らの幸せな時代は続くだろう」

 だが、と。

 隣で、んぐんぐと美味しそうにピオジュースを飲むアンジェリカを見る。たまに、どうしても気になってしまうのだ。

「アンジェリカ」

「なに、ピオ」

「君は幸せか、アンジェリカ」

 悠久の時を少女のままで過ごすことになった、アンジェリカ。

 自分の願いが人間と世界を変えた、それよりもアンジェリカの在り方を決定してしまったのではないかという恐怖。

 だからこうしてたまに確認する。

 そうして彼のそんな思いを知っているアンジェリカは、いつも以上の笑顔で言うのだ。

「もちろん。幸せだよ、ピオ」


 あの牢獄で出会った初めての友だち。

 小さな黒いネズミ。

 それがネズミであろうと人間であろうと、アンジェリカには大した問題ではない。

 隣にいるのがピオで、時折あの歌のような文言を一緒に歌う。

 それだけで彼女は幸せなのだ。


 聖都の澄み切った秋の空に、アンジェリカの楽しげな歌が響く。


見よ、見よ、我が眼タン・タン・シェレム歌え、歌え、世界の在り様をレグ・レグ・ダルタン・エト地に栄え天に満ちよ我が子らアネンケルシェレツ・ジュバ・シェネ・ジャンダル主は汝らの行く道を照らすだろうヤウ・ダル・ファハト・アスクーラ」と。

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小さな友だち 皆川 純 @inu_dog

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