小さな友だち

皆川 純

塔の小さなお姫様

 その国はそう、一言で言うなら末期であった。


 大陸の隅の隅、中央を占める巨大な帝国や西方に版図を広げる共和国などが見向きもしないような北の半島にある小さな国。

 北、西、南は海に囲まれ、唯一地続きの東が帝国属領に繋がる小さな小さな国。

 真ん中の王城の周辺に街が広がるけれども、そこから十字に伸びる街道の終点までそれぞれ馬車で二日もあれば辿り着ける、そんなささやかな国でも人の心は他と変わらなかったようだ。




 きっかけもまた、どんな規模であっても国は国、人は人として生きているのだと思わせるようなことで。




 その国の王は豪奢を好まず残虐を愛さず、かと言って賢者を招くことも民を慈しむこともなかった。

 凡庸である、と言って良いだろう。善でもなく悪でもなく、為政者として正しい姿ではなかっただろうが、時勢もまた平凡でさえあればその父や祖父たちと同じように、ベッドの上で臣下や家族に看取られながら天上の女神の御元へ召されたかも知れない。

 けれど時が悪かった。


 天災は一年だけなら被害を出しつつも何とかなった。

 二年なら城の倉が空っぽになるだけで済んだ。

 だが、三年続くと天からも地からも見放されたとしか考えられなかった。

 王家や家臣たちも、手を拱いていたわけではない。

 一年目は倉を開放した。

 二年目はそれでも足らず、隣国へ援助を求めた。

 三年目はどうにもならず、属国化を願い出た。

 それでも駄目だったのだ。

 晴れの日を数えた方が早いくらいに一年中薄雲に覆われ、土壌は三方を囲む海からの風で肥沃とは言えず、海産物も荒い潮流で豊かに穫れるわけではない。大陸北端の半島の先、地政学的にも物流経済としても全く旨味はない。政治的にも軍事的にも重要でない猫額の荒れ地を投資してまで求めようという国がなかったことは、今までこの国が他国からの侵略を逃れてきた所以であり、それがそのまま亡国の理由となったのも皮肉なことだ。


 何もしなかった訳ではないが、それでも彼らの危機感は甘かったと言える。

 この地の住民は朴訥で穏やかだ。

 だが、寡黙は感情がない訳ではなく、喜怒哀楽は気性の陽気さ荒さの基準ではない。心を晒け出すことをしないだけで、彼らも人であることに変わりはないのだから。

 そのことを支配者たちは理解できていなかった。

 だから甘く見てしまった。国民が耐えてくれていると思ってしまった。

 状況は危機的だったが、きっかけは些細なこと。いや、だからこそ些細なきっかけで大きく事が動いてしまったと言えるだろう。


 三年目の夏、王や家臣だけでは最早どうにもならず、国内に三つある大きな村の村長にまで知恵を求めようと御前会議が開かれた。今となってはその時の王家の真意はわからない、がもしかしたら王やあるいは城勤めの使用人は、苦しい中で足を運んでくれた村長たちに、せめてご馳走を振る舞って労いたいと善意を示したのかも知れない。

 けれど国民の生活は彼らが思う以上に疲弊し、精神は荒廃していた。


 村へ戻った村長は報告をする。

 ある村では城にはまだ食料が豊富にあると勘違いをした。

 ある村では王家が豊かな生活をしていると思い込んだ。

 誰かがぽつりと不満を漏らせば、誰の心にもしまい込まれていた不平が爆発する。それはたちまちに大きなうねりとなって村を覆い、周辺を巻き込み、小さな王国はすぐに大きな内乱に襲われることとなった。

 明日には死ぬかも知れない。木の根や皮まで食糧にせざるを得ない状況では、今立ち上がらなければ後がない。そんな恐怖に後押しされて、国民は王城へ押し寄せる。骨と皮ばかりの人の波は、常であれば王家の脅威にはならなかったろう。

 だが、目ばかりが異様に光る様はおぞましく、危急の事態に慣れていない王家を慌てさせるには充分な効果があった。

 始めは市壁の警備兵が。

 次には城の護衛兵が。

 兵たる彼らだって満足に食えていない、だから王家も吐き出せる倉などない、そんなことは理解していたけれどももとより平民階級である彼らもまた、家族の誰かを飢餓で失っている。


 兵を巻き込んだ群衆は城に迫る。

 僅かに残った忠義者の手引で隣国へ落ち延びようとした国王一家は、一人を除いて市壁を出たところで皆殺しにされた。首は市門前に晒され、この国特有の強く乾いた北風であっという間に干からびた。小さいながらも数百年続いた王家の血筋は、一人を残して途絶えてしまったのだ。

 残った一人は、幼い末姫。

 それは可もなく不可もない国王のただひとつの罪。

 人倫から外れた手付によって出来た、誰からも愛されない十歳の姫は王家が落ち延びる際に時間稼ぎの生贄として、初めて着飾らされて謁見の間に放置された。

 国王一家が発見され血祭りに上げられたことどころか国から逃げようと去ったことすら知らない群衆は、怨嗟の声を上げながら荒々しく足を踏み入れた広い空間に、ぽつんと残された姫を見て怒りと同時に人の心を取り戻す。

 殺せと言う声。さすがに憐れだという声。

 頭上で交わされる議論ひとつひとつにびくり、と肩を震わせる姫は、たったひとつ残された母の形見である古びた本を抱えて縮こまる。嵐が過ぎるまで、何をされても大人しく待つ。それが忘れ去られていた姫が幼くして会得した処世術であった。

 やがて国王一家の無残な最期が後方から伝わり、それを合図としたかのように議論は終息する。ここに至れば、彼らにだってわかる。王城に何も残されてなどいないことが。崩折れそうな徒労と虚無感だけが広間に満ち、誰もが途方に暮れて謁見の間を見渡す。

 誰かの虚ろな目が小さくなる姫を写し、誰かが力なく呟く。

 首謀者などいない無秩序な集団において、誰もが責任の在処を放棄したまま小さな姫の処遇は決定された。











 背伸びをしてもとても届かない高い位置に、小さな明り取りの窓。石壁で囲まれた円形の牢は城の最も高い塔の天辺。帝国をはじめ大陸の国々で主流となっている地下牢でないのは、大昔の風習そのままに罪人の咎が決まればそのまま地面に突き落としていたからだという。もう何十年も使われたことがないことも、そういった古い慣習が残ったままである理由なのだろう。

 石壁に囲まれた小さな円形の牢。

 藁の上に麻布だけの寝床、汚物入れの桶。

 生まれて初めて着た綺羅びやかな衣装も、剥ぎ取ったところで売る宛もないから群衆に奪われることはなかったけれども、代わりの衣服がある訳でもない。

 けれどそれは、外に出られないというだけで今までと大きく変わるものでもない。自分の未来に希望など端から持っていなかった姫は、何を考えるでもなくぼんやりと牢の中で時折本を開いてはこの国の誰もが読めないような文字を眺めて過ごしていた。




 不思議に思ったのは、閉じ込められて四日目。空腹と乾きに耐えかねた頃から突然食事がよくなったことだ。

 日に二度、この二年食べたこともないようなスープ、パン、水が差し入れられ、見たことのない小綺麗な兵が汚物入れも交換してくれるようになった。

 兵の格好は見たことがない。だから恐らく他国の兵であろうと見当をつけるが、わざわざ声を掛けて確認したりはしなかった。どうせ答えてはくれないだろうと思ったからだ。その認識は正しかったのか、牢の番人であろう兵士は必要な作業を済ませるだけで姫に興味も関心も寄せていない様子だった。

 それでも姫は概ね満足していた。

 今までも誰かに興味を持たれていた訳ではない。この三年は必要最低限の食事すら与えられなかったこともあったから、城の裏庭などで採取することすらあった。それに比べれば黙っていても食べられるこの待遇は、さほど悪いものとも思えない。

 この先どうなるかなんて、以前からもわからなかったことだ。政略結婚の価値すらない小国のこと、飼い殺しになるだけでそのうち存在も忘れ去られて朽ちるのが関の山だったろうとも思う。


 それに、と姫は足元に目をやる。

 そこにいるのは小さな黒いネズミ。


「あなたがいるしね」


 姫には硬く感じるパンのかけらも、齧歯類の強靱な歯には何でもないようだ。小刻みに動く頭を見ながら、姫は初めてできた友だちに理解できていないであろう言葉をかける。

「あなたはそれだけで満腹になるの?家族やお友だちに持って行ってる様子はないけど」

 餌を取ってすぐに巣穴にでも持ち帰るのではないか、と思っていたネズミはいつも姫の足元で食べきってしまう。満腹になったら巣穴に帰るかな、という予想も裏切られ彼はずっとこの牢で姫と一緒に過ごし、食事以外ではちょろちょろと走り回っている。

 一体何をしているのかと不思議に思って声を掛けると、その時だけは部屋をうろつくことをやめて足元に戻ってくるのだ。人の言葉を理解できているとは思わないが、そんな様子が姫には物珍しく、自分の言葉に反応してくれる初めての存在はとても嬉しいものであった。

 黒い毛皮に覆われて区別がつきずらい小さな目が、小窓から入る光に反射してようやくそこが目なのだとわかる。そんな目で見上げられた姫も、何となく彼の言葉がわかるような気がした。もちろん、ネズミの言葉や心情なんて理解できないから、あくまでも姫の想像の中でのことに過ぎないけれども。


「私は嬉しいけど、あなたにとっては退屈でしょ。仲間のところに戻っても良いのよ。でも、たまに顔を出してくれると嬉しいな」

 姫の言葉に、何を言っているんだとばかりに首を傾げる。

「一人きりには慣れていたけど、あなたが友だちになって……でいいのかしら、友だちよね、私たち」

 じっと目を合わせたかと思うとちょろちょろと座り込む姫の足から駆け上がる。立てた膝の上に来ると、後ろ足で立ち上がり再び目を合わせた。

 その様子を見た姫は小さく微笑んで、

「そう、ありがとう。あなたが友だちになってくれて嬉しい。だからまた一人になってしまうのは寂しいの。いなくなってしまうのは悲しいから、たまに私と遊んでくれる?」

 今度は膝から腿へと駆け下り、そのまま体をよじ登る。

 生地を通して伝わる細かい振動に思わず笑い声をあげると、ネズミは肩の上で立ち止まった。そのまま今度は座り込み、どうやら動くつもりはないらしい。それが彼の意思であり、姫への回答なのだろうと思うと、少しだけ胸が暖かくなった気がした。

「嬉しいわ。あ、そうだ一緒に本でも読む?」

 床に置いていた本を取り上げる。

 覚えてもいない母の形見であり、他に何も残してはくれなかった。

 肩の上で顔をあげる雰囲気を察した姫は、

「これ?お母様の形見なんだって。お母様は帝国の向こう、ずっと東で生まれてこの国には商売で来ていたみたい。その時陛下に見初められて私を産んだんだって聞いたわ」

 肩の気配は動かない。

「すぐ死んじゃったから私は会ったこともないし覚えてないの。それにね、この本も東のものみたいで」

 本を撫でながら彼にも見えるよう持ち上げると、視線が向いた気配を感じた。

「誰にも読めないみたい。大陸の文字じゃないんだって誰かが言ってたけど……」

 ゆっくりと銀の飾り枠が踊る重厚な皮表紙を開く。

 何の皮が使われているのかはわからない。薄汚れたせいなのか元からなのか、茶色い濃淡が古びた印象をより強くする表紙を開くと、黄ばんだ紙が何百項と続く。


「クルト・オム・エスラディーニャ・オーレス・イ・ヴァンベルテフォート。カリ・ム・ナ・ハッティ・マリエリテ」

 中程の項を開いて読み上げる。

「意味は全然わからないんだけど、読めるの」

 肩の気配はきっと、読み進めようと言ってくれている。塔の牢獄に閉じ込められた幼い姫のせめてもの慰めに、一緒に付き合ってくれているつもりなのかも知れない。

 ネズミにそんな心情があるのかどうかわからないが、姫はそう思うことにして項を進める。

「何ことかさっぱりなんだけど、たまにね、音楽みたいに感じられて楽しくなることがあるわ」

 そう、この辺りの韻律とか。

 何度も開いたお気に入りの項なのだろう、他よりも少し紙の端がよれて薄汚れている。

「タン・タン・シェレム。レグ・レグ・ダルタン・エト。アネンケルシェレツ・ジュバ・シェネ・ジャンダル。ヤウ・ダル・ファハト・アスクーラ」

 途中からネズミが耳元でチュッチュと併せてくる。

 先程は「音楽みたいに」と言ったけれども、実のところ姫はしっかりと音楽を聴いたことなどない。たまに広間から流れてくる晩餐会の微かな音に、これが音楽なのだろうと耳を澄ませて楽しんでいたくらいだ。

 けれどネズミがあわせてくれるリズムで呟くこれは、きっと彼女の本当の音楽になった。久しく忘れていた笑顔になって、姫は楽しく繰り返す。

 初秋の気が早くなった夕陽が微かに小窓から差し込む牢は、姫とネズミのパーティ会場だった。











 この世に公平なんてないし、理不尽は常に傍らでその陥穽に陥れようと狙っている。


 姫は人としての幸いを感じたことがない。生まれてからずっと、城の片隅で誰とも知れぬ人たちに最低限の世話だけをされて生きてきた。

 四年前からはそれすらなくなり、おっかなびっくり厨房を探し出しては食を恵んでもらい、辛うじて着られる服を着回して過ごしていた。世話をしてくれた人たちの動きを覚えていたのは幸いで、たまにベッドのシーツや毛布を日に干したり、裏庭の井戸から汲み上げた水で洗濯をすることが出来たのは我ながら観察眼を褒めてやりたいくらいだった。

 けれども、そんな人らしい暮らしができたのは二年前まで。天災がいよいよ国を飢餓の渦に巻き込むようになってからは、厨房に行っても得られるものが殆どなかった。仕方なく夜中にこっそり持ち帰ったり、それでも足りなければ庭の草を摘み木の実を拾い、その場で火にかけた鍋に入れて煮込んで食べた。

 人が来なくなってからは厨房などで食を恵んでもらう時くらいしか言葉を発しなかったが、形見の本を音読していたことで幸いにも声を失うことはなかった。

 忘れられた姫は、そうして一人で生きてきた。


 やせ細って力が入らなくなった初夏、過ごしやすい季節になったことに微かな感謝を抱いた姫が、そろそろ洗濯もしなければと気怠い体を起こしたところに足音が響き、怯えたような眼差しに写ったのは兵の姿。

 驚いて目を丸くする彼女を、兵に従ってきた侍女が無言で裸に剥き、持参した衣装を着せる。抵抗する気力も度胸もなくただなすがままにされていた彼女は、あっという間に一国の姫らしい格好にさせられ、初めて謁見の前に連れ出された。

 奥まった裏庭に面した一画と厨房、倉庫しか知らない姫は「こんなに広いのに屋内なのか」と見当違いな感想を抱いて驚きつつ、遠くから響くわんわんとした人の叫びに気をとられる。

 そうしている間にも、一際立派な身なりをした男が姫を囲んでいた兵たちに指示をすると、全員が姫を残して広間を去っていく。混乱していた彼女は、何が起きたのか理解する余裕もなく誰もいなくなった謁見の間にただ呆然と座り込んでいたが、じわりじわりと先程の男の指示を理解し始めた。


「この身なりならば、奴らには王家の人間だとわかるだろう。生贄として時間を稼ぐ間に、国王御一家を落ち延びさせ奉るのだ」






 そうしてこの塔の罪人となった彼女だが、黒いネズミのおかげで生まれて初めて穏やかな気持ちになった。城で一人だった頃の虚無でも諦観でもなく、ただ生きているのでもなく、本にあるお気に入りの節をネズミと一緒に口ずさんでいる間は幸せを感じることが出来た。


 けれど、やはり理不尽は彼女を逃してはくれないらしい。


 二ヶ月も過ごした頃だろうか、短い夏が終わり、秋の足音が高い小窓から聞こえてくるようになったある夜、いつもの虫の音やフクロウの鳴き声だけでなく他のざわめきが城に満ちている気がした。

 何かあったのか、と思うものの牢獄に捉えられている身では知りようもない。考えることを放棄し、寒くなったと感じながら早々にネズミと共に麻布にくるまって眠った姫は、朝陽と同時に登ってきた複数の足音に目を覚ました。

 汚水処理や朝食を運んできた訳ではない。

 外に溢れる気配は、姫を路傍の石程度に無関心な目で見るいつものそれではなく、明らかに意識してやってきていた。

 せめて、と麻布を被って牢の端に寄る。こんな狭い牢で距離をとってもたかが知れているが、幸せを諦めきれない姫の防衛本能だ。

 がちゃがちゃと鍵を弄る音がする。

 本をぎゅっと抱え、扉に注視する。

 かきん、と錠前が外れた音がしてドアが重苦しい音を立てながら開いていく。小窓の外から聞こえる、小鳥の鳴き声が嫌に場違いに感じた。


「閣下、こちらでございます」

 開かれたドアから、予想していた大人数は入って来なかった。代わりに入ってきたのは、落ち着いた声とそれに答えるかのように踏み出した軍靴が石を叩く、カツンという音。

 これ以上下がりようがないけれども、姫はその音に不吉な予感を覚えて石壁に背中を強く押し付けた。

「……このボロ布が、そうか」

「は」

 麻布を被る姫をそう表現したのは共和国の軍装を身に纏った壮年の男だった。帝国の属領と属国にしか隣接していないこの国だ、恐らく海路でやってきたのだろう。

 つまりこの二ヶ月の間姫を生きながらえさせてきたのは共和国であり、追い詰められたこの国の王家が主権のすべてを差し出した時には何の手も差し伸べなかったのに、彼らは今になってわざわざ帝国領を避けて荒波を押してまでやってきたのだ。

 その理由は、

「ふむ……どう探しても見つからなかったものが、まさかこんな辺境で受け継がれていようとはな。我が国の諜報部隊も良い仕事をしたものだ」

「は。暴徒に紛れて城へ押し寄せた際、見つけたようです。願わくば閣下よりお褒めの言葉を賜りますよう」

「もちろんだ。こんな僻地の任務でさぞや腐っていたであろうからな。報奨は望むままと伝えよ」

「ご厚情、ありがたく」

 姫には全く理解できない遣り取りを短く交わした後、閣下と呼ばれた男が近づく。それに追随して足を踏み入れた兵を片手を上げて留めると、そのまま姫に近づき麻布を剥ぎ取った。

「ほう。小国の忘却姫にしてはなかなかの器量だな。薄汚れてはいるが、磨けばそれなりになろう」

「……お戯れを」

「冗談だ、真に受けるな。さて、姫よ」

 怯えた目を向ける姫に、男は不躾な視線を落とすと声を掛ける。答えるべきなのだろうが、初めて見る体格の良い軍人に姫はわなわなと唇を震わせるだけで反応することが叶わなかった。


 そんな姫をじろじろと見ていた男が、ふと視線を動かす。

「ん?なんだこのネズミは」

 足元で威嚇するかのように四肢を踏ん張り見上げてくる黒いネズミに、怪訝そうな顔をすると邪魔だと言わんばかりに片足を上げる。

 それを見て初めて姫は大きな声を出した。

「駄目っ!」

 手を伸ばしてネズミを掴もうとするが、一足早く男の靴が落ちる。

 だが、さすが小動物だけあって身のこなしは素早く、さっと避けると差し出された姫の手を駆け上り頭の上に至ると黒い目をきらりと光らせた。

「牢獄でペットを飼っていたか」

 心なしか愉快そうな声を上げると、障害になり得ないと判断したのだろう急速に興味を失い、

「では改めて姫よ、私は共和国からあなたに用があってやってきた。その本……」

 視線を抱えた本に移す。

 嫌な予感を得た姫は、抱える力を更に強めた。

 男はそんな姿も何ら気にする風でなく言葉を続ける。その内容はしかし、姫にとってはまさに寝耳に水であり、考えもしなかった自分の出自についての驚愕の事実だった。

「その本はあなたの母から受け継がれたそうだな。この国や帝国などでは理解できなかっただろうが、我ら共和国はその本の価値を充分に知っている。その本を読むことが出来る一族の価値もな」

 驚きに目を開き、後ずさることも忘れたかのような姫を面白そうに見ると、

「それは古アルジュの秘本だ。失われた魔法というものを再現するための秘術が記されている。だが、古代アルジュの民は滅亡していて文献も歴史も残されていない。存在自体は示唆されていたが、誰も読めぬものを手にする必要性を感じる者などいなかったのだ。それが世界を変えられるものであってもな」


 知らない。

 古代アルジュの民など聞いたこともないし、魔法というものが何かも想像つかない。確かに読むことはできるが、書かれている意味までは理解できないのだ。

 だが、そんな彼女の動揺を見て男は口を開く。

「その様子だと何も知らぬようだな。それも報告通りか。さて姫よ、教えて差し上げよう。古代アルジュの民は東の大海を超えた遥か先、東都に栄えた古代文明だ。遺跡は残っているが文字も絵も、一切の記録が残されていない。故に存在は確かだが詳細が謎に包まれている。微かに残された口伝では、魔法を使う文明であり神をも封じる術を持っていたと言う。彼らに魔法の行使を可能にさせた神を封じた書というのが、あなたの持つ」

 言葉を止めて、再び抱えた本に視線を落とす。

 頭に乗ったネズミの温もりが一瞬にして消え失せ、抱えた本が脈動するかのごとく発熱したように感じた。

「その古アルジュの秘本であり、それを読むことが出来るあなたはアルジュの末裔なのだ」

 鋭い眼光に射すくめられた姫は、辛うじて口を開く。

「……う」

「ん?」

「違う……違う、私はそんなんじゃ……」

「だが読めるのだろう?意味まではわからないようだが、何せ記録を残さなかった文明だ、時間はかかるかも知れんが言語学の研究者にあなたが協力してくれれば、この世界に失われた魔法を取り戻すことが可能になるだろう」

「知らない、私はそんなこと知らない!」

 叫んだ姫を、頭上のネズミが気遣うように頭を下げる。

「今は何もわからないだろう。だが協力してくれるのであれば我が国であなたの生活も保証しよう。さあ、その本を渡し給え」

「いやっ!」


 将来に希望なんてなかった。

 親の顔も見たことがなかった。

 自由はないけれども、この狭い牢獄で初めて出来た友だちと歌うように過ごせればそれだけで幸せだった。

 魔法なんて知らない。

 古代アルジュなんて知らない。

 やっと得た小さな幸せだけあれば良かったのだ。共和国だとか帝国だとか、そんな訳のわからないものに協力することは怖い。目の前の男からも、信頼できる雰囲気は感じられない。

 世界の知識を何ひとつ持たない姫は、初めて得たこの小さな自分の世界を奪われることを拒絶した。

「困った姫だな。まあ良い、どのみちあなたに拒否権はない。よもや帝国が気づくとは思えんが、こんな国土に我が共和国は興味もない。早々に立ち去りたいので同行願おうか」

「いやっ、行きたくない!」

 手を伸ばしてくる男から逃げようとするが、背後にあるのは冷たい石壁だけだ。

 小さな友だちとの微かな幸せな時間を与えてくれた、ずっと一緒にいる本を胸にしっかりと抱え絶対に手放さないと意思を明らかにする。

 ぴくり、と眉を動かした男がそんな姫に一切構わず本を奪おうと踏み出した、その時。


「チュッ!」

 と、飛び出したネズミが男の鼻先に噛み付く。

「ぐあっ!このっ!」

 思わずを目を閉じて痛みに呻く男は、見当をつけて伸ばした手でしっぽを掴み引き剥がす。

「ぎゃああ!」

 それでも噛み付いた歯を離さなかったネズミに肉を齧り取られ悲鳴を上げる。

「閣下!」

「医療兵を、早く!」

 その声を合図にドアの外で待機していた兵が雪崩込み、ネズミを引き剥がそうとするが、

「ぐわっ!こいつ!」

 小さな友だちの行動に奮い立った姫が、飛び込んできた兵を押し退けて男の手に噛み付いた。

 そうだ、武器などない。

 だが、彼が全身で抗ったように、この身の使えるものは何でも使って自分の世界を守らなければ。


 何も望まなかった姫が、たったひとつ望んだ小さな世界。

 だからこそ彼女は必死だった。


「この餓鬼が!いい加減に……」

「くそっ!どこからこんな力が!」

 手当り次第に噛み付き、闇雲に爪を振るう。

 がり、と音がして右目から血を流した兵が呻く。それを確認する余裕もなくひたすら暴れる姫に、業を煮やした兵が遂に剣を抜いた。

「待っ……!」

 誰かの制止が響く。

 だが、幼い姫にかき回された怒りによって混乱したこの場に、それが届くことはなかった。


「あ……?」

 背中が熱い。

 もう秋なのに、夏の陽射しに当てられたかのように背中の一部だけがひどく熱かった。

 誰かの肉片をつけた指先が力なく垂れる。

 真っ暗なのか真っ白なのか、視界が曖昧だ。


 ……彼は。

 小さな友だちは無事だろうか。


 ごつん、と音が遠く響き、辛うじて映るぼやけた視界に入るネズミと一緒に座り込んで歌った石床が、自分が倒れたことを示していた。

 友だちはどこに。

 そう思って「ああ、名前をつけてあげれば良かった」と今更な感想を胸に浮かべる。眼球だけを動かすと、血塗れになった本の近くにネズミの黒い姿が見えた。

 顔を上げた彼は、ちゅ、と小さく鳴く。

 やっぱりネズミの言葉なんてわからない。

 でも、

「そ……うだね……」

 何が言いたいのかはわかった。


 だから彼女は歌うように一節を口にする。

 どれにしようか、と考えるまでもなく浮かぶ。

 小さな黒い友だちと口ずさんだ一節を。




「マタラエロイム・アサタ・ダッシロタム・イル・カシュマ」




 瞬間、世界は光に包まれた。

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