約束の夏

雪村悠佳

約束の夏

    1


 僕が彼女と初めて出会ったのは、桜の花が咲いた頃だった。


「ソラネ・アイカワといいます、よろしくお願いします!」

 澄んだ声でぺこりと礼をする彼女の後ろには、今声にされた、その名前が黒板に書かれている。背はちょっと低めで、黒い髪の毛は両側で短くくくられている。――いわゆる転校生。


「胸、ちょっと大きくないか?」

 後ろに座ったユーフォスが、小声で僕に向かって言った。

「男ってのはこれだから」

「お前も男だろ、ハイティ」


 もっと小さな声で呟くように言ってやったが、相変わらずの減らず口が返ってくるだけ。そしてそう言われると、僕も思わず胸を観察してしまうわけで。確かにまぁ、中等学校2年の、周りの女の子に比べるとちょっとだけ大きい気がした――気がしただけだって。

 名前の響きも、ちょっと周りと違う気がする。その印象を裏付けるように、先生が言った。


「アイカワさんが来たのは――」


 それは、この田舎町からは遠く離れた――都会から来たとかそういう次元ではなく、名前しか知らないような国の名前だった。ちょっとだけどよめきが上がる。


 そのどよめきが落ち着くのを待つように、先生は言った。

「じゃあ、アイカワさんの席は……」

 ユーフォスが後ろからこっそり肘でつつく。気付いてたさ。隣の席は空いてる。

「そこ、だな」

「はいっ」

 先生に指さされた席に来たソラネは、隣に座る僕に向かって笑みを浮かべて言った。

「よろしくね!」

 とても柔らかい笑みに、僕は何故だか、ひどくどきりとして、自分の脳みその中のどこかが溶けるような気がした。


    2


 何故だろう。

 桜は散って、ちょっと暑くなってきた頃。青く晴れた空を見上げて、僕は自問自答していた。なんでこんなことになってるんだろう。

 川原に腰掛けて、ぼんやりと揺れる水面を眺めながら、さらさらと水音を聞いている。その音に、いつもの澄んだ声が混ざる。


「ハイティ、待った?」

「待ってない待ってない」

 そう言いながら腰を上げる。

 いつの間にか、休日にこうして2人で過ごすのが慣例になっていた。周りには冷やかされる――かと思いきや、むしろ生暖かく見守られているらしい。だいたい分かる。

「ここ、すごくきれいだね! 夜になったら虫の音とかしそう」

「虫の音するよー。その声を聞きながら星空を見上げたら最高の気分」

 そう言いながら空を見上げるけど、今は昼間で、星も月も見えるわけもなくただ青空だけが広がっている。

「いいなぁ。楽しみ」

「あ、でも」

「ん?」

「電車でちょっと行けば高原があるんだけど、そこだと周りが虫の音と星空に包まれる感じ」

 そんなとりとめもないことを話しつつ。

 何となく聞いてなかったことを問いかけてみた。

「そう言えば、ソラネってなんでこんな遠くの町に来たの?」

 僕が聞くと、ソラネは複雑な顔をして言った。

「うちのお父さん、軍人なんだ」

 軍人。――この田舎町には警察官ぐらいはいるけど、軍人、という響きそのものが聞き慣れず禍々しく思える。

「びっくりするでしょ。私もちょっと複雑。……だけど、黙っていても私たちのことを守れないから、ってお父さんは言ってる」

 何とも言えない顔をしつつも――それは決して、嫌がってるという顔ではなかった。

「本当は、戦争をするのが軍の仕事じゃない、理不尽な暴力に対して人を守るために軍というものはあるんだ、って。――だいたいおかしいよ? お父さん、軍から留学してこいって言われてこの国に来たのに、気に入ったからってこんな田舎町に来て、毎日電車で時間かけて首都まで通ってるの」

 くすっ、と小さく笑う。

「首都は遠いよ……」

 電車で1時間半ぐらいだろうか。僕は一度も行ったことはない。

「ねー」

 そう言いながら首を傾げて笑うソラネの顔。


 何故だか――何故だろう、じっと見つめてしまって。

 ソラネと目が合って、心臓がどくんと一つ鳴って。

 少しソラネの目が大きくなった気がして、驚いたような表情を浮かべて。


 その時ちょうど、電車の音が聞こえてきた。

 川をまたぐ鉄橋を、多分都会にはもうないであろう古い電車が、ぶおおおん、エンジンのうなりを上げながら、ごとごとごとと轟音を立てて渡っていく。

 気がつくと僕とソラネは、お互い笑い合っていた。

「夏休みになったら、一緒に高原に星を見に行こう」

「友達みんなで?」

「そうじゃなくてもいいけど」

「どういう意味かなそれ」


 また楽しそうに柔らかい笑みを浮かべる。

「そういう意味でもない」

 僕は思わず顔を逸らした。


 さっき電車が走り去った鉄橋を意味もなく見ながら、小さな声で呟く。

「――いつまで、いるのかな」

 何気なく聞いた言葉に、ソラネはちょっと考えて答えた。

「分からないけど――しばらくはいると思う」

 もちろん、こう言った時のソラネは、嘘をつくつもりなんて微塵もなかったんだろう。

 だけど、「しばらく」という言葉はとても曖昧だと、この時の僕たちは知らなかった。


    3


 夏休みがもうすぐ始まろうとする日の、日暮れ前だった。

 電話が鳴って、電話に出て、ちょっと出かけてくる、とだけ叫んで飛び出すように家を掛け出して。走って行った先。あの日青空を見上げていた川原には、既にソラネが待っていた。


「ソラネ、どういうことさ……引っ越さなくちゃいけない、って」

「ハイティ」

 僕に向かって、ソラネが呼びかける。

「私、お父さんについていかなくちゃいけないんだ」

 お父さん。確か軍人だと言ってた気がする。

「私の国の情勢が怪しくなったから、留学は打ち切りだって」

「――そっか」

「多分、これが軍人としての最後の仕事になるんじゃないか、ってお父さんは言ってた。これが終わったら、きっと平和になって、ゆっくり暮らせるって」

 ソラネの国はまだ戦争が終わっていない。そんなことは僕も知っている。

「私もお父さんも、この町が大好きだから。……全てが終わったら、もう一度この町に戻ってきて、2人でゆっくり暮らそう、ってそう言ってた」

「……そう、なんだ」

 上手く言葉が出ずに、ただ、こくこく、と訳も分からずに頷く。

「ハイティ」

 もう一度、僕の名前を呼ぶ。

「言ってたよね、電車に少し乗ったらきれいな高原があって、虫の声がとても綺麗だって」

「うん」

「約束だよ。――戻ってきたら、一緒に高原に行こうよ。一緒に虫の声を聞こうよ」

「……ああ」

 それだけを絞り出すように言う。

「約束、だな」

「うん」

 にこっと柔らかく笑う。


 その顔をじっと見てられなくなる。気付くのが遅いよ。僕はこの笑顔がとても好きなんだ。いや、笑顔が好きなんじゃない。この笑顔を作る人のことが、とても好きなんだ。

「じゃ、約束ね。……私が生まれた国の、子供がよくやる約束の方法なんだよ。『指きりげんまん』って言うんだ。こうして、小指同士を絡めて」

 黙っている僕の手を取って。ソラネは僕の指を一本一本曲げて、小指以外を握りこぶしの形にしてから……同じようにした自分の小指を、僕の小指に絡めた。

「ゆーびきりげんまん、うそついたら、はりせんぼん、のーます!」

 僕の小指を絡めたまま、腕をぶんぶんと上下に振り回す。

「ゆーびきった!」

 最後にそう言うと、ソラネは小指をさっと離した。

 僕は小指を曲げたままの形で、その指をじっと見つめる。

 ソラネの顔を見たら涙が出そうな気がして……そんな格好悪い姿を見せられなくて、目を伏せていた。

「……これだけじゃ、足りないかな」

 顔を上げられない僕に、ソラネのいつもの澄んだ声が降ってくる。

「じゃあ、今度はハイティの国のやり方の約束、だと思うんだけど、これでいいのかな」

 そう言うと……僕の顔を、ソラネが両手で挟んでちょっと持ち上げて。

 ソラネの顔がみるみるうちに近づいてきて。

 何か柔らかくて温かいものが、僕の唇に触れた。

「……え?」

「――これで大丈夫だよね。約束だよ。来年の夏、必ず案内してね」

 そう言う彼女は、手を大きく振りながら、もうこの場所から掛け去っていた。

「またね!」

 その声は随分と上ずっていた。

「ああ、必ず案内する!」

 大声で叫んだ僕の声も、かなり変な声だったけど、きっとソラネに届いたと思う。


    4


 あれから、3年の月日が過ぎた。


 この町は相変わらず静かに時が過ぎているように見えて。それでいて、ちょっとずつ新しい建物が建ったり、古い建物が取り壊されたりしている。あの頃古い電車が発着していた駅は、ある日急に新しいぴかぴかの電車が来るようになった。クーラーも効いて乗っていても快適だけど、外の風をいっぱいに取り入れて走っていたあの頃が、ちょっと懐かしかったりする。

 こんな平和な町では、地球のどこかでは今日も戦争が起こっているとか、あまり実感はない。3年前から続いていた遠くの国の戦争は、大きな犠牲の果てにやっと停戦が実現して、新政権が実現しそうだ、とか昨日のテレビは言っていた。


 僕の背は伸びて、見た目もちょっとは大人になったけど、河原に座った時に見える景色は案外、あの頃とあんまり変わらなくて。

 隣に誰もいないけど、時々河原に座って、ぼんやりと青空を眺める。


 ソラネはまだ、この町に帰ってこない。


 ――約束の夏は、まだ遠い。

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約束の夏 雪村悠佳 @yukimura_haruka

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