最終話 帰宅
「俺、ランリンのことが好きだ。行ってほしくないよ」
「ごめんね信康。もう国に帰らなきゃいけないんだ」
小学校の桜の木の下で、俺は沈痛な面持ちでランリンと向かい合っていた。俺の視界はだんだんとぼやけてきて、頬に
「そっか……そうだよな」
「……でも、ボク嬉しい。ボクも信康のことが好きだから」
周囲には、誰もいない。二人だけの世界で、ランドセルを背負ったランリンは俺の唇を奪った。
――そこで、目が覚めた。こんな事実はありはしない。夢の中だから何でもありだとはいっても、「小学六年生の時にこんなことがありました」な内容(当然ながら嘘八百の作り話だ)の夢を見せてくる俺の脳みそはどうにかしている。
夢の内容が至極プラトニックだったのは、昨晩トイレで失敬したからだろう。もし寝る前に抜いていなければ、夢の中の俺はランリンを押し倒してあれこれしていたんじゃないか。いや、それはない。いくら美少女めいた美少年でもあいつは男で、俺は根っからの異性愛者だ。それに一度「バカなことを一緒にやる旧友」というカテゴリに放り込んだ相手を性の対象にするのはさすがに気が引ける。
ランリンはすでに起きていて、朝食を用意してくれていた。リビングに足を踏み入れたちょうどそのタイミングで、トースターのチンという音が鳴った。
「駅まで送っていくよ。昨日は夜道だったし、駅までちょっと道が複雑だから」
「ああ、悪いな」
朝食をいただいて出発の準備をした後、俺はランリンと一緒に外に出た。通りに立ち並ぶ桜はちょうど満開で、そよ風にあおられてひらひらと薄紅の花びらを舞い散らせている。
そんな桜並木の道を歩いている時であった。突然、白交じりの無精ひげを生やした五十、六十ぐらいの男が正面から向かってきた。男の足取りには覚束ないところがあって、どうやら酒に酔っているらしいことが分かる。
「よう姉ちゃん、俺と遊ぼうや」
酒臭い息を吐く男は突然、ランリンに腕を絡めようとしてきた。俺はランリンを守るため、咄嗟に両者の間に割って入った。
「何だぁてめぇ、邪魔だ!」
鉄拳が、俺の顔面に飛んできた。避けようとしたが間に合わず、左頬に一発もらってしまう。さらにもう一撃、追い打ちの拳を左脇腹に食らった俺は、体を大きくよろめかせて街灯のポールに背中をぶつけてしまった。
――このままじゃ、ランリンが危ない。
そうした焦りは、全くの杞憂だった。いつの間にか、ランリンはまるで警察官のように酔っ払い男をアスファルトに押し倒して取り押さえていた。
「すげぇ」
俺の口からは、この言葉しか出なかった。俺はランリンを称賛するとともに、自らの情けなさを恥じ入った。
俺がランリンと出会ったあの日、俺はこいつのために死闘を演じて、見事に
結局このことはちょっとした騒ぎになってしまい、酔っ払いは駆けつけた警察によって現行犯逮捕された。そのことで事情を聴かれるなどして、俺の帰りは大分遅れてしまった。警察署で事情聴取を受けるのは、人生で初めてだ。
とっぷり日の暮れた夜、俺はようやく帰宅した。幼馴染のちょっとした誘いに乗った結果、俺は気づけば県境をまたいだ一泊二日のちょっとした旅行のようなものをしていた。でも、何だか楽しかった。楽しかったけれども、ただ楽しいだけではなかった。
六十センチ水槽で飼っているゴールデングラミーとコリドラスたちが餌を食むのを眺めながら、俺は今、自分が身を置いている現実がひどくふわっとしたものに思えて、地面に足がついていないような感覚に陥っていた。そんな感覚のせいなのか、全身の神経が妙に昂っていて、どうにも落ち着かない。熱に浮かされたような頭で、幼馴染のことを考えていた。
俺はランリンのことを、どう捉えていいのか分からなかった。分からないけれども、少なくともザリガニを釣ったりカブトムシを戦わせてたあの頃と同じように接することは、もうできないんじゃないか……それだけは、何となく感じてしまう。
もうあの頃には戻れない。それは喜ぶべきことでもなければ、悲しむべきことでもなかった。俺たちは住む世界を少しばかり
気づけば、俺はトイレの中で幼馴染とその妻の痴態を思い浮かべながら、己自身を慰めていた。雑然とした感情を吐き出した後、俺はもう引き返せない所まで来てしまったのだ、ということを突きつけられた気分でいた。
幼馴染(15)が妻子ある身になって帰ってきた件 武州人也 @hagachi-hm
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