黒髪長髪の幼馴染と旅する話

藤田桜

友達


 本来なら断るべきだったろうしそもそも誘いを受ける前に逃げ出すのが正しかったんだろうけれども小学一年生のころからの友人たっての願いだからとのこのこと不用心についてきてしまったのを一生の不覚と言わずして何と言おう、

 予約してもらった温泉宿へは海岸沿いをバイクで数時間ほどかけて向かうらしいが免許を取ったばかりにしては荒々しい運転をしてくるので革製の座席が尻を痛めつけることはなはだしく、心理的にも肉体的にもそろそろ降りたくて仕方がない、

 というのも二人乗りなうえにヘルメットがフルフェイス仕様でないために眼や鼻が強風にさらされないように必死に彼の腹にしがみついてそのゆたかな髪に顔を埋めなければならないのがひどく恥ずかしいからであって、挙句の果てに何か話しかけようとしても高速道路を降りて赤信号に捕まったとき以外はごめん聞こえない後でと言われてしまうのである。


 高校を卒業してなお染めようとする気配もなくやわらかなリンスの匂いを漂わせている少女のようなそれのせいで胸はどきどきするもののこいつの正体は男であって、休日は薄く生えた無精ひげをそのままにして近所を出歩くし服だっていつもはドクロやドラゴンみたいなあんまりなものしか持っていないようなヤツだ、

 今日のために身だしなみを整えてきたのは分かるけれどそれでもやっぱり好きだという感情は湧かず申し訳なさばかりが脳を占める。


 ――こいつは告白するつもりなのが俺に知られていると分かってるんだろうか。


 どちらにせよこんなに残酷な話もそうそうあるまい。


 やがてスマホのマップ機能は正気とは思えないような道ばかり指し示すようになり中途半端な場所で案内を終了すると黙りこくってしまったのでチェックインぎりぎりになってようやく旅館にたどり着けたものの心身ともに疲弊してしまってとうてい夕食まで我慢できそうにない、

 部屋の隅にリュックを投げ捨てるとすぐさま横になって目を閉じるが「時間になっても食いにこなかったらホテルの人が困るだろ」と起こされたので仕方なく起き上がったまま瞑り、ついでにふと思い出したので運転お疲れさまと声を掛けた。


「つらくなかった?」


「筋肉の内側から締め付けられるみたいに痛い」


「ごめん」


「まあ次はタオルでも敷いて乗ろうぜ、多分それが正解な気がする」


「そーか」


「俺、お前と友達でよかったよ。こんなとこまで連れてってもらえてさ。運転はできないから次もやってもらうことになるだろうけど、今度は俺が場所探したりするからさ、また行こうな」


「着いたばっかりなのにそれ言う?」


 数十分ほどだべった後、四つほど隣の個室に移動させられるとそこには漆の御櫃や透き通った氷で満たされた小舟が待ち構えておりそれぞれの容器から漏れ出た匂いに思わず溢れた唾を飲み込んだ、

 出された料理はとても豪華なものばかりで、まだ透明なままのイカの活け造り、みりんを利かせた焼き魚に醤油が湯気を立てるサザエ貝、ぷりぷりのエビの身を吸い尽くせば天にも昇る心地がする。


「うまいなぁ、これ、ほんとうめぇ」


「語彙力溶けてるよ」


「いーのいーの、溶かしていこうぜ。旅行なんだし」


「……ほら、あーん」


「へ?」


「溶かしてくんだろ?」


「……おう?」


「よし次」


「え、どういう理屈?」


「ノリだよノリ、その場のノリ」


「俺達もうそんな若くないって」


「なに言ってんの、まだ十九じゃん」


「そうかあ?」


「そうだよ」


 食べ終わってからはお風呂のほうは深夜零時まで、朝は五時からご利用できますと聞いて部屋に戻ったら寝てしまいそうだしちゃちゃっと疲れを流してしまおうということで一緒に温泉に入るのは流石に気まずかったがここで急に拒むというのもそれはそれで苦しくなりそうだったので連れ立ったものの胃がぐじぐじするような感覚を覚えて思わず顔をしかめてしまう、


「どうした?」


「……その、あー、歩く度にケツが痛い」


「ごめん」


「お前が悪いんじゃなくてさ、とにかく、さっさと入ろうぜ」


 嘘を吐いた気まずさを追い払うかのように大きな足音を立てて濡れて滑りそうな床を踏みしめながらどうやらだれもいないらしい小浴場を我が物顔で歩く、

 備え付けのシャンプーやボディーソープを物色しつつシャワーの温度を調節して体を流し、ひととおり終わったところで湯船に浸かると相方が未だに桶に座ってもたもたしているのに気が付いた。


「それって自前のヤツ?」


「うん、肌が弱いから不用意に使えなくて」


「ふーん」


 あれが彼の髪の匂いのもとなんだと思うと変な感じがしてそっけない返事をしてしまったけれど勘づかれていないだろうか、慌てて次の話題を探すもののかえって不自然なものしか思い浮かばず空回りするばかり、

 やがて洗い終わってこちらに歩いてくればとうぜん生まれたままの格好のこいつのそれが見えるというわけで目を逸らせば逸らすほど不思議そうな顔をしながら追いかけてくる、

 お湯に入れば指で水鉄砲を撃ってくるわしがみついて底に引きずり込もうとしてくるわとまるでこっちを見なければ承服しないと言わんばかりにちょっかいを掛けられて平然を装うので精一杯、

 やっとの思いで風呂からあがって部屋に帰ると入り口のほうにある棚をあさって浴衣を差し出してきたので何も考えずに受け取ってしまったけれどこれはマズくないだろうか。


「せっかくだから着ない? 修学旅行みたいで懐かしいな」


「……おう」


 今纏っている服は脱がないで前を合わせてささっと帯をくくれば作法は間違っているだろうけれどいちおう出来上がり、白の地に紺色の模様が入っていて、彼を見れば湿ってはいてもなお肩の辺りに垂れかかった黒がつやつやと輝いている、

 もう少しだけとは思ったけれどあんまり見つめているのも不審だろうと顔を伏せてしばらく思案した後、試しに袖のなかに手を引っ込めてみると手品のように腕が縮むのが面白くってほいっほいっと出したり入れたりを繰り返すとつい状況も忘れて笑ってしまう。


「それ、ずっと前から好きだね」


「そうかあ?」


「小四の時からやってたじゃん。見ろ、見ろよこれすげえ! って」


「お前もするか?」


「しないしない」


 飽きてきたので布団にばたりと倒れ込むと忘れていた疲労がどっと襲い掛かり、たちまち体を征服してしまったせいでもう起き上がれそうにないしさっさと寝て逃げてしまいたい、

 きっとこいつが行動を起こすのは明日の夜だろうから今日はもう休んでしまっても構わないはずで、彼自身もドライヤーで乾かし終えたらすぐにおやすみと言って明かりを消したんだから間違いはないと思う、

 不意に暗闇のなかほっそりとした温もりが脛に触れ、そのまま探るように足の裏へと這いずってそのままめちゃくちゃに暴れ出した。


「えっ、待っ、お前待てよ、ふざけんなぁっ! っちょ、離せ、くすぐったいくすぐったいいいいい!」


「うらうらうらうら~!」


 愉快そうに笑うのが憎たらしくって、これはやられたままでいるわけにはいかない、何億倍にして返してやろうと必死に体を捩ったうちの膝蹴り一発が彼の窪んだ腹にぶち当たって「おえっ」と悲鳴を上げた隙に翻し、脇に指を突っ込んでぐにぐにと動かせば、


「違う待って痛い痛いそれじゃない待って」


「おかしいなぁ」


「謝るからやめてぇ!」


「俺はそう言ってやめてもらえなかったからな、とことんやるぞ」


 これで万が一こそばゆいからと嬌声じみたものをあげてしまって変な雰囲気にでもなれば大惨事に直結するだろうし痛いくらいがちょうどいいだろう、

 それから意識を失ったのはいつだろう、朝の光に目を覚ますと右の脚が涙が出そうなほどに痺れているので布団をめくって確かめれば気持ちよさそうに寝息を立てた相方がしがみついている。


「おい、起きろ」


「……あと五分寝させて」


「本当だろうな? 数えるからな、五分で起きろよ」


「……十一分」


「増やすな」


「……」


「えぇ……、嘘だろ」


 ちゃっかりと追加の睡眠を得た彼は何事もなく潔く目覚めたかのようにタイマーの鐘音で立ち上がるとささっと身だしなみを整えて「行くぞ」なんてのたまうものだから「お前さっきまで寝ぼけてたじゃねえか」とツッコミたくなるがここまで堂々とした表情をされると言っても詮のないことのように思えてしまう。


 朝食は一階の食堂で他の客に混じって摂ることになったんだけれどもやけに酢の物ばかり並べられていて閉口してしまうがまさか残すわけにもいかないのでセルフサービスのコーヒーを汲んできて味をごまかせば結構いけそうな感じがしたのでそのまま食べつづけたものの相方がジト目で見てくるので居心地が悪い、


「酸っぱいの苦手だもんね」


「こういう酢酸系のやつが無理なだけであって――」


「レモンとかミカンは問題なく食べれる」


「その通り」


「代わりに食べようか」


「いや、なんか作ってくれたひとに申し訳ないし」


「ブラックと一緒に口に入れて味を消しながら食べるのも大概だと思うけど」


「そうか?」


「そうそう」


「……じゃあ、悪いけどお願いしてもいいか?」


「あーんして」


「お前バカか。他の客がいるだろ」


「昨日はするばっかりでなんか不公平かなって思って」


「暴論をふりかざすな」


「そんなぁ」


「そんなもへちまもあるか。もういい、自分で食う」


「分かった、食べる、ちゃんと食べるから」


 なんだかんだ言って結局は手伝ってもらいながら平らげたあとバイクの後ろに乗ってここらの名所の城跡まで向かったところ改装中で中に入れないというので急遽その近くにあった美術館や歴史資料館を巡ることになり、

 瓜ざね顔のオンパレードや身長の何倍もあろうというほど巨大なタペストリー、十何世紀のスペインの画家の駆け出し時代の作品とべつにそういったものに興味があるわけではないもののふたりで一緒にあーだこーだ話しながら見てまわるのは楽しくて、

 昼になれば立ち食い形式の蕎麦屋に入って温かいのを注文して黙々と食べたのだがこれは大変うまかったので気分も上々、折角だから海に行こうぜと浜辺に降りたら貝を拾ったり靴下を脱いで裸足のまま波打ち際に足跡を付けたり、


「お前が女の子だったら、こう、水かけあってキャピキャピするのにさぁ」


「僕じゃ嫌だった?」


「いいや、やってやろうぜ、ヤロウ同士の地獄絵図だ。そぉれぇ!」


 某芸人のような裏声で女役をやれば無駄にのぶとく変えた声が応えるので思わず吹き出し、そのまま腹が捩れるほど大笑いすればそのまま腕を引っ張られてふたり揃って砂まみれになってしまったので余計に息はできなくなるし横隔膜は痛くなるし、


「予備の着替え持ってきててよかったぁ」


「は? ちょっと待ってよ、それズルくない?」


「ズルくないズルくない、これは正当だぞぅ、正当な勝利だぁ! ……てゆーかそもそも引きずりこんできたのお前じゃん」


「あーもう。近くに服屋あるかな――」


 拗ねたみたいに言うのがやっぱり面白くてまたツボに入ってしまってしばらく使い物にならなそうだしほとんど負ぶられるようにして砂浜をあとにしたら彼の着替え選びに付き合ってシンプルで小綺麗な店に入る。


「いっつもここで買ってんの?」


「そんなわけないじゃん」


「それもそうか」


「バカにしてるの?」


「してるしてる」


 流石に可哀想に思ったので「俺がコーディネートする、どうだ」と提案してみたところ意外にもそれですっかり機嫌を直してしきりにせっついてくるので宥めながら一着一着を吟味していく、

 こいつは髪がきれいでスタイルも申し分ないので飾り甲斐がありそうだと思ったのと大事な友人に何かしてやれるのは喜ばしいことだという気持ちもあったから一切の手抜きを排除して持ってこさせたカゴに入れていく。


「こんなにいらないよ?」


「俺が払う。お前はまた出かけるときにでも着ろ」


「えぇー、ありがとー」


 お互いすっかり一日のあいだほうぼうを巡ってへとへとになっていたのでお土産代をここで使い果たしてしまってもケラケラと笑うばかりで一向に気にすることはなくて、

 店を出るころにはすっかり日は傾いていたので大慌てで宿に戻ってまた豪勢な夕食を食べたあとは駆け込むように浴場へと向かって汚れを落としてからゆっくりと湯船に浸かったのだけれど昨日のようにはしゃぐことはなくぼんやりとしている、

 彼がつま先で脚をつついたり押したりして弄んでくるので逃げれば無理に追いかけてくることはなかったので拍子抜けし、つい「どうしたんだ」と訊いてしまった。


「――今日さ」


「おう」


「楽しかった?」


「心配しなくても楽しかったぞ。最高だった」


「そうじゃなくて……」


「ん?」


「例えば、もし僕が友達じゃなくなったらどうする?」


「どうせすぐ仲直りするさ。お前が謝ってこなかったら俺が謝りにいく」


「……えーと、仲は良いまま友達じゃなくなるんだったら」


「なんだそれ? 禅問答か?」


 それきり彼は黙ってしまったので気まずくなって湯からあがろうとしたとき微かに聞こえたすすり泣くような声に振り向けば彼が必死に顔を隠していたものだからそれでようやく察することができた、


 ――こいつは今、俺に告白しようとしていたんだ。


「俺は、ずっとお前と友達のままでいたい」


「知ってたの?」


「流石に露骨すぎたよ。お前、あーんとか普通の友達はしないぞ」


「……そっか」


「俺なんかのどこがいいのさ。男にせよ女にせよもっとマシなのいるだろ」


「なんでだろうね、本当。自分でも分からないよ」


「バカじゃねーの」


「僕、どうすればいいんだろう」


「俺はお前のことが大好きだよ。……恋愛的な好きではないけどさ」


「それじゃだめだから言おうとしたのに、僕のことなんかちっともそういう目で見てくれないから」


「しょうがないだろ。俺は同性愛者じゃない」


「……本当に? 今夜、試してみようか。言ってくれたら何でもしてみせるよ」


「やめろ、頼むから。お前とは友達でいたいんだ」


「だめ?」


「だめだ。そうしたらお前との間にどうしようもない溝ができそうな気がする」


「僕はどうすればいいのかな」


「悪いがそれは俺にも分からん」


「そっか」


「――のぼせた。あがる」


 ぶっきらぼうにそれだけ言い残すととことこついて来たものだから余計に罪悪感が増して「俺にできるのはこんなことくらいだけど」と一通り着替えが終わったあとにドライヤーで髪を乾かしてやるとくすぐったそうに目を細めた、

 こんなきれいな清流を傷めてしまうようなことがあっては腕一本じゃ済むまいとでもいうようなほどの緊張感をもって熱風を細かく震わせながら上から下に当てていくとなんだか胸が痛くなる。


「まだ一緒にいてくれる?」


「おうとも」


 それからはほとんど交わさず床に就いたものの中々眠れそうになかったので瞑りながら昨日と今日のいろいろを反芻していると余計に目が冴えてきて焦燥感ばかりが強くなる。


 ふと下腹部に冷たい空気が触れたせいでわずかに残った眠気さえも吹き飛んでしまったのでとりあえず起き上がろうとしたもののどうしてか体がぴくりとも動かなくて戸惑ってしまう、

 下腹部に当たる微かな息遣いは恐らく彼のものだろうけれど寝相が悪いと片づけるにはいささかダイナミックすぎるだろうしゆっくりと起こさないようにズボンやパンツを剥いでいるのを鑑みれば明らかに意識があっての行為だろうが、

 肋骨の下、腸のあるあたりにほっそりとした温もりが触れたのを感じて目的を悟ったけれどもただただ怖いという思いばかりが先走り、抗議しようにも声の出し方が思い出せない、

 ふとももにあの柔らかな髪の毛が掛かったのがまるで愛撫するかのように小さく揺れているのが悲しくて腹立たしくて、

 少しの静寂のあと彼の口から自分の名前が呟かれたのを聞いた途端にかっと血がのぼり、金縛りが解けた勢いそのままに頭をわしづかみにするとそのまま押しのける。


「なにやってんだお前!」


「……」


「よりにもよってこんなことする必要があるか」


「……ごめん」


「ふざけんのも大概にしろ」


 こいつが何もかもを台無しにしたのがあまりにも許せなくってせめてこらしめてやろうと掴んだままの髪の毛を引っ張ると抵抗のつもりか手首を握って締め付けてきたがろくに力も入っていなくて邪魔にもならない、

 片膝を彼のみぞおちにねじ込めば苦しそうなうめき声をあげたもののそれでも腹の虫が治まらないから構わずつづけるとやがてブチリという音と共にその頭皮から赤が流れはじめ、その色を見てようやく我に返った。


「すまん、つい――」


「お前が悪いんだ」


「……え?」


 彼が目から涙を流して咳き込みながら怨めしそうに言うのでまるでそれが本当のように思えて竦んでしまったその一瞬の隙に更なる言葉は吐かれる。


「僕がこの旅行中どんな思いで側にいたと思ってるんだ? そのくせ友達でいたいだなんて呑気なこと言いやがって。二つにひとつだ、僕がお前を侵すか、いっそ二度と会わないように離れるか」


「……それは」


「曖昧なのがどれだけ傷つくか分かってるのか? 手も届かないのにずっと側にいさせられるなんて嫌だ。それなら――」


 その先はもう聞きたくなくて目を逸らしたけれどべつに遮断できるわけでもないし玄関の外に逃げ出してそのままうずくまり、背中でドアを抑える、

 流石にずっと廊下にいるわけにはいかないのでしばらくしてから部屋に戻ると彼は布団に潜り込んですっかり黙ってしまっていたがその隣で夜を明かす気にはなれなかったので入り口の床に寝転がった。


 朝食を食べるときもチェックアウトのときも口を開けないほどの気まずさが場を支配していたものだからてっきりあれが最後になるんだろうかと怯えていたけれどバイクで人気のない山のふもとを帰っているときに速度を落として訊いてくるのは、


「ねえ、本当は僕にも脈があった?」


「……かもな」


「ごめん、あんなことして」


「犯罪だぞ、あれ」


「……うん」


 永遠に着きたくないとは思ったけれどもやがて見慣れた建物ばかりが視界を埋めるようになるとその願いは悲鳴にも近いようなものへと変わり、つい抱きしめた彼の背中に縋ってしまう、

 家の前でエンジンをとめるとそのまま乗りなおして去ろうとする姿を見るときっとここで何もしなければ後悔するぞと胸の内で誰かが囁く声が聞こえ、それに駆り立てられるように叫んだ、


「待って、待ってくれ!」


「……何」


 不機嫌そうではあったものの、ヘルメットのシールドをあげてこちらを向いてくれたのでその気が変わる前に彼を自分に繋ぎ留めなければならないのだと心に決めてその目を見つめる。


「俺は今でもお前のことそういう目で見れないし、これからも見れるかどうか分からないけど、お前と喧嘩別れになるくらいなら俺は何にだってなってみせる。――だからさ、行かないでくれよ。頼む、この通りだ」


「……OKってこと?」


「お前が、これでもいいなら」


「あんまり辛抱できないよ?」


「その時はどうにでもしてくれ。だから――」


「ありがとう」


 言い終わらないうちに抱きしめられたのでどうしようかと迷いながら結局その肩に手を回すことにしたんだけれどちょうど顔はさらさらとした髪に包まれたものだから旅のあいだの色々なことを思い出して涙しそうになる。

 もし明日目が覚めたとき今の自分はすっかり消えてなくなっていて彼への好意だけが脳内を占めてくれればどんなにいいだろうと願ったけれどこれからもずっと毎日のように顔を合わせて生きていかなきゃならないんだからそんなにうまくいくはずもないんだろうなと溜息を吐けば「どうしたの?」と耳元で囁く。


「いや、これから苦労するんだろうなと思って」


「やめておく?」


「やめるもんか。やってやるさ」

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