30.旅立ち

 先生は酒が得意じゃなかった。それなのに味は好きだとか言って飲みまくるから、私が後片付けをして先生の介抱もして、本当に迷惑だった。けど、今となっては良い思い出。だから最後の今日だけは、先生が一番飲みたがっていた日本酒を持ってきた。喜んでくれるかは、わからない。

 先生はとても優しかった。どれだけ私が失敗しても、その笑顔を崩したことがなかった。怒ることがなかった訳ではない。けど、先生が声を荒げるときは、決まって私が自分の命を犠牲にしてまで誰かを助けようとしたときだった。考えるよりも先に動いてしまう私の悪い癖を怒ってくれた。目的を達成できたとして、お前が死んでは全てが無駄になるだろう。そう言っていたのを覚えている。

 先生は私を大いにかわいがってくれた。修行は大変だったけれど、毎晩のように私の大好物を作ってくれたし、大きなことを終えるたびにご褒美として私が欲しがっていた物をくれた。何より、ずっと一緒にいてくれた。ひとりぼっちで他人が怖かった幼少の時代が嘘みたいに今は幸せだ。全部、先生のおかげ。

 だから先生から卒業するのが嫌だった。修行はいつか終わってしまうとわかってから、私はいろんな方法を探した。先生から離れなくて良くなるのはどんな状況か、考え続けた。先生は介護が必要な老人になることもないし、大きなグループの長になろうともしない。結婚、なんてことも視野に入れていたけれど、きっとそれだと先生に文句を言われると目を逸らしていた。

 遂に来てしまった卒業の日、私は何もできなかった。ただ先生と酒を飲み交わすくらいで、他には私がどこで働くことになったとか、これから会う回数も減って寂しいとか、そんなことを話したのを覚えている。先生は最後に美しい花を咲かせて見せてくれた。

 今、私も同じように、先生の前で花を見せている。――先生、見えますか。私ここまで成長したんです。あなたのおかげで、こんなこと簡単にできるようになったんです。友人もできたし、コミュニケーションを取るのだって得意になりました。先生との修行のおかげですね、先生ありがとう。ねえ、大好きですよ、先生。ほら、お酒もありますし、一緒に飲みましょ。

 どれだけ話しかけても答えはない。当たり前だ。先生は目の前にはいない。もうどこにもいない。あの日見た、抜け殻みたいな先生を思い出す。頬がこけて、目が落ちくぼんで、人間なのに作り物みたいに冷たくて動かない。苦しくて胸が詰まる。でも泣いていたら先生は困ってしまうから、私は泣けない。笑顔を見せなくちゃ。

 先生の名が書かれた石の前、私は先生の大好きな銘柄の酒を飲めずにいた。


お題「はなむけ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ノベルバー2021 30の物語 たぴ岡 @milk_tea_oka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説