Day30 はなむけ
お金が貯まったから兄を探す旅に出ることにしたと告げると、ナナエは泣いた。一番の友達に泣かれてあたしも悲しくなってしまった。ナナエは左手の小指を切り取って「これ、せんべつ」といってあたしにくれた。「それが動くうちに帰ってきてね」
あたしはうなずいて旅に出た。
ナナエの指はずっとポケットの中に入れておいた。どこに行くにも一緒だった。指は時々シャクトリムシのように動いて、あたしに何かを伝えようとしているように見えた。何を言っているのかはわからないけれど、きっとナナエは元気にしてるんだろうなと思った。
西の果ての砂漠まで足を伸ばしても兄は見つからなかった。最後に送られてきた絵葉書はここからなのにな、とあたしは何度か文面を見返した。故郷の住所と共に「元気です。母さんをよろしく」とだけ書いてあった。
よろしくと言われた母は、病気のためにもう死んでいる。兄はたぶん母の死すら知らないまま、その母のために薬を探しているのだ。早く探して、母のことを報せてやらなければならなかった。
兄の手がかりを失ったあたしは「どうしようか」と指に話しかけた。指はにょくにょくと動いて、やっぱり何か言おうとしているみたいだった。相変わらず何を伝えたいのかはわからなかったけれど、ただ指を持っているだけで、あたしはさながらナナエと一緒にいるみたいに心強く、めそめそせずにいられるのだった。
あたしはオアシスで兄の写真を持って聞き込みをした。もう何年も前に撮った写真だからあまり手掛かりにならないかもしれないけれど、ないよりはずっとマシだった。ラクダの世話をしていたおばさんが、写真よりもあたしの顔をまじまじと見ながら「あんたによく似た男の子なら、いつだったかうちでラクダを買ってったよ」と教えてくれた。
「母さんの薬を探しているんだって聞いたよ。えらいねぇ」
あたしがもう母は死んだのだというと、おばさんは黙ってしまった。
ラクダを買ったというなら、兄は砂漠を渡っていったのだろう。砂漠にはいくつもオアシスがあって、どこに行ったのかはおばさんにもわからないとのことだった。あたしはなけなしの財産をはたいて一番安いラクダを一頭買い、砂漠の中に出かけていった。
昼間は太陽が照りつけ、夜は冷たい風が体温を奪った。あたしはラクダと寄り添うように旅をした。ナナエの指はあたしのポケットの中で、時々思い出したように動いた。オアシスを次々に移動したが、兄は見つからなかった。砂漠のどこかで死んでしまったのかもしれない、と思った。
とうとう連れていたラクダが死んでしまい、あたしはオアシスの街のひとつから動けなくなってしまった。しかたなく街の薬局で働いているうちに、ミヤダと出会った。ミヤダは向かいの酒屋の店員で、毎日のように薬局にやってきた。そして二か月目に突然「きみのことが好きです」と言われた。
あたしもミヤダのことは好きだった。でもいずれラクダを買うお金が貯まったら、旅に出なければならない身の上だ。あたしが返事を渋っている間に、とうとう砂漠に砂嵐がやってきた。オアシスの上には天幕が幾重にも張られ、門はかたく閉ざされて、特別な許可証をもった人しか通れなくなってしまった。
「ナナエ、どうしよう」
あたしが尋ねると、ナナエの指はぴくぴくと動いた。
結局、あたしはミヤダと付き合うことにした。砂嵐は五年間に渡って吹き荒れた。その間にあたしは彼と結婚して子供をひとり産み、その子がよちよち歩くようになった。
いずれ旅に出なければいけないのに、あたしはこの街でとても幸せになってしまった。兄さんもこんな風にどこかのオアシスで幸せに暮らしていてほしいと思うと涙が止まらなくなる。泣きながらナナエの指を取り出すと、指はあたしの涙を拭おうとしているみたいに動いて頬をなぞった。
いよいよ砂嵐が止んだので、あたしはまた旅に出ることを考え始めた。でも新しい家族のことを考えるとなかなかそうもいかない。何にせよ、以前のように目蔵滅法飛び出すわけにはいかないので、行商が来るたびに写真や自分の顔を見せながら、あたしは兄を探した。その間、故郷に手紙を出した。ナナエからの返事が来るまでには三ヵ月かかった。彼女も結婚して楽しくやっているとのことだった。
月日が経ち、あたしの子供は走れるようになっていた。あるとき、隣の隣の隣のオアシスからやってきたという医者が、あたしによく似た男の人を診たことがあると教えてくれた。
「病気だったんですか」と尋ねると「ええ、もう亡くなりました」と言われた。あまりにあっけない旅の終わりだった。隣の隣の隣のオアシスにいたのなら、会いに行けばよかったと思ったけれど、もう仕方ないことだった。あたしはラクダに乗って兄の墓を訪ねた。兄は死ぬまで母の薬を探していたという。
ナナエに手紙を出して、兄の死を知らせた。新しい道路ができたから、手紙は一ヵ月ほどで届くだろうと言われていたのに、待てど暮らせど返事は来なかった。あたしは手の上にナナエの指を載せて尋ねてみた。
「ナナエ、どうしちゃったのかしら」
指はちょっと指先を上げてみせた。いつの間にか指の動きが少なく、鈍くなっていたということに、あたしはようやく気付いた。今度こそ、どうしても故郷に帰らなければいけなかった。
家族にしばしの別れを告げて、あたしはラクダの背に乗った。新しくできた道路は、なるほど故郷への道のりをかなり短縮してくれた。一ヵ月かけてあたしは懐かしい街にたどり着いた。そのとき、ナナエの指はまだかすかに動いていた。
あたしはまっすぐ彼女の家に向かった。ナナエはげっそり痩せてベッドに横たわっていた。しばらく前に事故に遭って怪我をしてから、すっかり体が弱ってしまったのだという。あたしに心配させたくなくて、黙っていたのだそうだ。彼女は首をかすかに上げて「おかえり」とあたしに微笑みかけた。
「遅くなってごめんね」
「ううん、私も手紙返せなくてごめん。もう目がほとんど見えないの」
ナナエの手に指を載せてあげると、何も言わないうちから彼女は「うわぁ、懐かしい」と言って笑い、それから静かに泣き始めた。あたしたちはしばらくの間一緒に泣いた。指はナナエの掌の上で、懐かしそうにすりすりと動いた。
ナナエは二日後のよく晴れた朝に死んだ。指もぴたりと動かなくなった。あたしはナナエの棺の中に、彼女の指を、たくさんの花と一緒に入れさせてもらった。ナナエの夫と一緒に墓穴に土を落とした。
それからラクダに跨って、あのオアシスの街へと、来た道を戻っていった。
Novelber 2021 尾八原ジュージ @zi-yon
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