Day29 地下一階
地下一階の部屋なら三万円安いというので、ぼくたちは飛びついた。
世田谷区のマンションで、設備が揃っていて最寄り駅まで徒歩十分。普通この値段で到底借りられるような代物ではない。洗濯物は外に干せないがそこはそれ、浴室乾燥を使えばいいし、ごく近所にコインランドリーもある。何とかなるだろう、と妻と話しあって決めた。
窓のないところに住むのは初めてだった。なんだか圧迫感があるよね、と言って妻は絵を飾った。ぼんやりと滲んだような風景画だった。うっかりブレーカーを落とそうものなら、部屋の中は真の闇に包まれた。
地下には四つ部屋があったが、うちふたつは空室だった。先住者は若い男で、カメラマンだという。
「ここ続かないんですよね、すぐ出てっちゃうひとが多くて」
たまたま出くわしたときに挨拶すると、気だるげな様子でそう言われた。「おれは暗室が持てるんで助かってますけど、なんだかんだですぐ彼女のとこに泊まったりしちゃうなぁ。やっぱり窓とかないと落ち着かないものなんですかね。住んでるひとにこういうこと言うのもアレですけどねぇ」
そうかもしれない、と思った。このところ妻の様子が少しおかしいのだ。
彼女はフリーで翻訳の仕事をしているので、自然とほとんど一日中家にいることになる。最初は静かでいいと言っていたが、最近外がうるさいのよ、と訴えるようになった。
壁は厚いしそもそも地中だし、うるさいことなんかないじゃないかと思うのだが、妻は決して譲らない。
「ここ、周りを囲まれているのよ。この壁もこの壁もすぐ外に土があるの。それが何の堆積物かわかる? きっと古い生き物の死骸が、部屋の外にみっちり詰まっているのよ」
鬼気迫る顔にぞっとしながらも、神経質だなと僕は笑う。そうするよりほかにない。
「それにしたって、うるさいなんて話があるかなぁ」
「うるさいの。一日中ぶつぶつぶつぶつ言われて」
慣れない住環境と仕事のせいで疲れているのだろうか? そのうち旅行にでも行ってみよう……と考えていた矢先のことだった。
ある日僕が仕事から帰ると、妻が仕事に使うレコーダーを持って出てきた。なぜか頬を綻ばせ、とても嬉しそうな顔をしている。
「外がうるさいってこないだ話したでしょ。それ録ってみたから、聞いてみてよ」
「ええ、本当かよ?」
外から声なんか聞こえるものかと思いつつ、ともかく妻を納得させるためには、録音を聞かなければならないようだった。僕はイヤホンを耳に入れ、再生ボタンを押した。それですべてわかった。彼らが何て言っているのか。やっぱり僕たちは取り囲まれていたのだ。それがわかったとき、僕は妻とおおいに笑いあったものだ。そう、大丈夫、とても友好的で愉快なひとたちだということがわかったので。今も何かしゃべっている。ほら、ちょっと、その壁に耳をつけてみてください。そしたらわかるので。
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