ルーシャのパン工場〜村長の息子から婚約破棄「雑草なんかと付き合えるかよ」と捨てられた。畑まで奪われた私は、雑草の実を使ってパンを作り始めて大成功。「やり直したい」と言われても、呆れてモノが言えません〜

神伊 咲児

 ルーシャのパン工場

 明日はキスをしよう。


 そう決心したのは私。


 村から離れたボロ屋に住む娘、ルーシャ・パエリア。

 

 1週間前、村長の息子ヒィデンス様と婚約した。

 

 私は乗り気ではなかったけれど、貧乏な私を金持ちが見初めてくれたのだ。


 こんな好機はまたとない。


 玉の輿とは正にこのことだろう。

 

 お母さんは大喜びで私にしがみ付いた。


「ルーシャ! こんなチャンスは2度とないわよ!」


 と躍起になる。


 なにせ、私の家は貧乏でギームの雑草が生い茂る貧相な土地に住んでいる。


 そこは水捌けも悪く、野菜が育ちにくい。


 しかも、先祖代代続く畑はたったの一反。

 端から端へ、40歩も進めば終わってしまう広さだ。


 それに比べて村長は100反以上も畑を所有している。その他にも大きな山や、土地を沢山。


 そんな息子に見初められたのだから、これが好機と言わずしてなんと言おう。


 母は結婚の申し出に2つ返事だし、私は乗り気ではなかったけれど、貧乏だから仕方ないか、と腹を括った訳だ。

 

 そんな彼は初日からガンガン攻めてくる。


 腕を私の肩に回し、人気の無い場所に行こうとする。


「なぁルーシャ、愛してるぜ。いいだろ? 俺達は婚約したんだ」


 そう言って顔を近づけてくる。


 勿論、全力で跳ね除けた。

 

 困ったことに私はそんな経験がない。


 もう17になるというのに異性と手すら繋いだことがないのだ。


 隣りのレイウェルさんとこの娘さんは15歳で結婚をしているというのに、私は奥手だったりする。


 別に、好きな人がいない訳ではないのだけれど……。


 その人は公爵様の息子だし……。


 私にとっては高嶺の花。


 だから、遠巻きに目と目があったら1日がハッピーに過ごせるとか、まぁ、そんなレベル。


 そんな私の一大決心が、明日はヒィデンス様とキスをしよう、ということなのだ。


 その思いが固まったのは婚約が決まって1週間が経った頃。


 彼は婚約を決まった初日から攻めて来たけれど、流石に心の準備ができていない。


 それに、正直、なんだか嫌だった。


 でも、お母さんは乗り気だし、私の家は貧乏だしね。


 そういうこともあって腹を括った。


 それでも、耐えた方である。


 本来ならば、彼はガンガン攻めてくるので3日もすれば観念して体を許していただろう。


 日を伸ばしたのには理由があった。


 私が迷っていた時に、心の整理をつけようと部屋を掃除していた。


 そんな時、おんぼろのカーテンが揺れて、その下に足が見えた。


 懐かしい、灰色の靴下。


「おばぁちゃん? そこにいるの?」


「ふふふ。わかっちゃったかい?」


 屈託のない笑顔をカーテンの隙間からヒョイと出す。


 でも、途端に心配げな顔になった。


「ルーシャ。ダメだよ。あの人はダメ」


「ヒィデンス様のこと? でも、おばあちゃん。私、あの人と婚約したのよ。玉の輿なんだから」


「でもダメ。あの人はダメだからね」


 そう言ってカーテンに潜る。


「誰と話してたの?」


 隣の部屋から訝しげな顔をした母が聞いた。


「ああ……。えっと……。おばあちゃんと少しね」


「ちょっと、冗談はやめてよルーシャ! おばあちゃんは去年亡くなったじゃない!!」


 そうです。

 おばあちゃんはいません。


 私はそういう体質で、少しだけ、幽霊が見えるみたい。

 

 でも、こんなことは秘密。

 みんなに話すと怖がられちゃう。


 私的には怖さを微塵も感じない。


 だって大好きだったおばあちゃんに会えるんだもん。ラッキーって感じ。


 残念ながら幽霊さんは一方的で、生前みたいに会話のキャッチボールは上手にできないのだけれど、それでもおばあちゃんの笑顔が見れるだけで嬉しい。


 うーーん。おばあちゃんは、「あの人はダメ」って言っていたけれど……。


 あの人ってヒィデンス様のことよね?


 キスを許しちゃダメってことか……。



 そんなことがあったから決心が遅れてしまった。

 

 それでも、もう決めた。


 私は彼から貰った婚約指輪を薬指にはめた。


 キラリと鈍く光る。


 ガラス玉みたいだけど、本物のダイヤってこんな感じなのかな?


 でも……ふふふ。


 こんな私を愛してくれるって、やっぱり嬉しい。


 きっと、男女の深い仲になれば、私は彼を好きになるはず。


 それに、ヒィデンス様はまぁまぁ男前だしね。


 ふふふ……。

 未来の旦那様か……。


 子供は何人欲しがるかな?

 

 

 幸せな家庭を築きたい。


 シンプルにそう思った。


 ああ、これが女の幸せ、なのかな……? 


 ごめんね、おばあちゃん。


 眉を寄せるおばあちゃんの顔が思い浮かぶ。


 「でもさ。幸せな家庭を作って、家族でお墓参りをするからさ。それで許してよ」


 私は誰もいないカーテンに向かって声をかけるのだった。







──次の日。


 私はお気に入りの口紅をつけて準備万端であった。


 勿論、薬指には指輪をはめている。


 そんな中、事件は起きた。


 母と私は村長の屋敷に呼ばれる。


 お母さんは目を見開いた。


「婚約…………破棄?」


 私はそれ以上に頭が真っ白で、もう何が何やらわからない。


 村長は当事者を気遣ってヒィデンス様と2人きりにしてくれた。



 

 

ーー裏庭ーー


 そこはジメジメとした雑草の生い茂る場所だった。

 そんな所で彼と話す。



「あ、あの……。ヒィデンス様、婚約破棄ってどういう意味ですか?」


「ふん! どういう意味もあるか! お前との婚約は無くなったってことだよ」



 そ、そんなぁ……。


 覚悟を決めていたのに。



「もともと、この婚約は短い期間で終わるものだったのさ」


「え? どういうことですか?」


「財産共有を目的とした契約書。お前ん所の貧相な畑なんざ少しも興味なかったがね。無いよりマシなのさ」


「あ!!」


 ハッとした。


 お母さんが満面の笑みで書いていた土地の契約書。


 あれって確か、私達の畑を村長さんの所有にするものだったはず。


 どうせ結婚すれば娘の私に村長さんの畑の権利が入るからと、お母さんは快諾したんだ。


「そんなぁ……。わ、私達の畑を奪うために婚約したの?」


「けっ! 今更気づいても遅いっての」


「わ、私のこと……。愛してるって言ってくれたじゃない」


 そう言って指輪を見せた。


「ははは! バッカじゃねぇの。そんなのガラスでできた偽物よ!」


 や、やっぱり……! 

 

 なんだか安っぽいと思っていた……。


「うう……。ぜ、全部嘘だったの?」


「ははは! お前本気にしてたのか? 雑草のお前と付き合えるかよ!!」


 ざ……雑草……。


「まぁ雑草でも綺麗な花は咲くみたいだからな。ちょっと遊んでやろうと思っただけさ」


 涙がポロポロと出た。


 こんなことってある? 


 わ、私達は騙されてしまったんだ。


「わ、私とお母さんは、あの畑を耕して細々と暮らしていたんだよ? こ、これからどうやって食べていけばいいの?」


「ふん! そんなこと知るかよ」


 彼は裏庭に生えるギームの草を1本抜くとと、その実をぐしゃりと握りつぶした。


「この雑草は腐るほど生えるよなぁ。摘んで駆除しないとたくさん生えるんだ。雑草なんかこの世から無くなってしまえばいいのさぁあああ」


 し、死ねってこと?


 少しだけ、噂話を聞いたことがある。

 村長の息子が遊び人だという話。

 



 でも……信じていた。なのに……。




「ああそうだルーシャ。お前が俺の遊び相手になってくれるなら。へへへ……毎月、生活できるだけのお金は恵んでやってもいいぞ。いい話だろ?」




 涙が滝のように流れた。


 指輪を外すと地面に打ち付ける。

 それと同時に、私は全力で走り出した。


 もう彼の顔なんか2度と見たくない。


 

「うう……! ううう……!!」



 涙を拭うと、手の甲に薄らと赤い口紅が付いた。


 彼の為に付けた、とっておきの口紅である。




「こんな口紅!!」




 私は涙で口紅を拭う。


 その手は血のように真っ赤になった。







◇◇◇◇


 家に帰ると一日中泣いた。

 私もお母さんも。


 これは失恋というのだろうか? 


 でもきっと……。


 そうなのだと思う。


 お母さんは、これからの生活に絶望して泣いていた。


 畑を奪られてしまった……。


 本当に、これからどうしよう。


 ポン、と誰かが私の肩を叩く。


 振り向くとおばあちゃんがいた。


「お腹が空いたら悲しくなっちゃうだろ?」


 おばあちゃんは優しい笑顔を見せてくれる。


 大好きなおばあちゃん……。

 ダメだ。なんだかまた泣けてきちゃった。


「おばあちゃん。私達畑を奪られちゃったよ。お母さんと2人。これからどうやって暮らせばいいかわかんないよ。うう……」


「畑が無くったってパンは焼けるさ」


 そういえば……。


 おばあちゃんが焼いてくれる、ギームのパンは美味しかったな。


 涙を拭うと、その部屋には誰もいなくなった。


「おばあちゃん? もっとお話ししたかったよ」


 私は外に出てそこら中に生えているギームの草を刈り始めた。




 しばらくすると、私の家からモクモクと煙が立ち上り、美味しそうなパンの匂いが充満した。


 私はできたてのパンをトレーに載せてお母さんの目の前に持っていった。


「お母さん。食事にしましょう」


「それって小麦のパンかい?」


「違うわ。おばあちゃんが教えてくれた。ギームのパン」


「ああ……。貧乏パンね。美味しそうな匂いだけど……カスカスで甘みがない」


 ギームのパンは、村では【貧乏パン】と呼ばれている。


「でもね。木の実やイチジクを入れたから、きっと美味しいよ」


「へぇ……。そんなのが美味しいのかしら?」


「おばあちゃんから教えてもらったのよ」


「ああ……。私はそのパンが嫌いだったから食べなかったけど、おばあちゃんはよく作っていたわよね」


「お腹が減ってるでしょ? 一緒に食べようよ」


 お母さんは涙を拭いて仕方なしに食べた。


「まぁ、これからはこんなパンでも食べて行かないと生きていけないものね……。モグモグ……。んんッ!?」


「どう? やっぱりダメ?」


 お母さんは飛び上がった。


「美味しぃいいいいいいいいい!! これ凄く美味しいわ!!」


「そう。良かった」


「パンは少しだけ癖があるけど、イチジクの甘みと木の実の風味がそれをかき消してる! ううん、それどころか、風味が相俟って、まったく新しいパンになっているわ!!」


 イチジクは庭に生えている物がまだあるし、木の実は山に行けば採れる。


 それに果物は山にも生えているしね。


 木苺、ブルーベリー。ヤマブドウもある。


「お母さん。ギームのパンはいくらでも作れるから安心してね」


「ルーシァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」


 お母さんは私に抱きついて泣いた。


「ごめんよぉおおおおお!! お金に目が眩んで、私はとんでもないことをしちゃったよぉおおお!! お前にも辛い思いをさせてしまったしぃいい!」


 まぁ……。辛かったけど、おばあちゃんのアドバイスもあって一線は越えなかったしね。


「私は大丈夫だから」


「うう……。先祖代代続いてきた畑を手放しちゃったよ……。ごめんねぇ……」


「泣かないでお母さん。きっとなんとかなるよ。さぁ、パンはまだまだあるからね。たくさん食べようよ!」


「ルーシャァアア〜〜! ありがとう。ごめんねぇええええ」


 私達はお腹いっぱいギームのパンを頬張った。




「あーー。もうお腹いっぱい!! 幸せぇ〜〜」


 お母さんは大きく膨らんだお腹をパンパンと叩いて笑った。


「でもさルーシャ。ギームの実って秋だけだろ? あと2ヶ月もしちゃうと冬になっちゃうよ?」


「あ、そうか。それまでには実をたくさん採る必要があるね」


「殻が付いていれば1年は保つからね。沢山採って保存しておきましょうよ。お母さんも手伝うわ!」


 

 こうして、私達は女2人でギームの草を刈る作業に入った。



 夕方にもなると、庭中のギームの草は刈り取られ、家の前に山のように積まれた。


 これだけあれば今年はなんとかなりそう。


「お母さん。毎日ギームのパンになっちゃうけど。飢え死には無いからね」


「うう……。ルーシャ、ありがとうね」


 お母さんは私の両手を握って、また泣いた。







 ──次の日。


 お母さんはテーブルに身を乗り上げた。


「ルーシャ! このパン売ってみましょうよ!!」


 味のバリエーションを変えようと、ヨモギを入れたのが良かったみたい。


 お母さんはパンの味に舌鼓を打って、とんでもないことを言い出した。


「でもさ。これって村じゃ貧乏パンって呼ばれてるんでしょ? 誰も買わないんじゃない?」


「そんなことないわよ! 絶対売れるわ! 値段はそうね……。安価な黒パンと同じにしましょうよ! これは黒パンより明らかに美味しいんだもん、絶対売れるわよ!!」


 うーーん。売り物にするとなると自信ないなぁ。


 お母さんはヨモギ入りのパンをもう一度味わって眉を寄せた。


「うん! やっぱり美味しい!! 昨日のも凄く美味しかったし、今日のも飛び抜けて美味しい! なんなら高価な白パンより美味しいかもしれないわよ!!」


「白パンより? うーーん。それは言い過ぎじゃない?」


 まぁ、白パンなんて2回しか食べたことがないけどね。


 お母さんは台車を用意してパンが売れるように工作を始めた。


「この台車を店にするからね! ルーシャはパンを焼いてちょうだい!!」


「で、でもさ。パンをたくさん焼いて売れなかったらカビが生えてダメになっちゃうよ?」


「大丈夫! お母さんを信じなさい!!」


 いや、村長に騙された人のセリフじゃないでしょうに。

 うーーん。売れるかなぁ??


 私はきょろきょろと辺りを見渡した。


「おばぁちゃ〜〜ん。アドバイス欲しいですぅう」


 こういう時に限って出てきてくれないんだよねぇ。


 私はお母さんの言うとおり沢山のパンを焼いた。



 20人分はあるだろうか。そんなパンを台車に積む。



 これ、売れなかったらカビ生えちゃうよ〜〜。絶対売れてぇえ。




◇◇◇◇



ーーボリフリ村ーー



 お母さんは自信満々で台車を引く。


「さぁ、呼びかけてルーシャ! あなたが作った自慢のパンなんだから!」


 え? いや……。流石に売れるほどとは思ってませんよ。


「さぁさぁ、ルーシャ!」


「あ……。じゃ、じゃあ……」


私はボソボソと声を出した。


「ギームの実で作ったパンです。おばあちゃんに教えてもらいました。美味しいですよ。買ってください」


 


し〜〜〜〜〜〜ん。



 反応なし。



「ほらぁ! やっぱり無理だよう! もう帰ろうよぉ!」


「何言ってんの。あなたの声が小さすぎて私しか聞こえないじゃない」


「だってぇ。これギームの貧乏パンなんだもん〜〜」


「んもう! 自信持ちなさい!!」


 お母さんは大きな声を張り上げた。


 その声は水辺で遊んでいた鳩が飛び立つほどである。





「さぁさぁ自慢のルーシャのパン!! 味は白パン! 値段は黒パンさぁあ!! 買わなきゃ損だよぉおおおお!!」





 うわ! 口上が上手い!!

 

 私の驚きと同時。


 村人がチラホラとやってきた。


 しかし、ギームのパンと聞いて難色を示す。


「貧乏パンを売るなんざ、正気じゃないわね。誰が買うのかねこんなパン」

「黒パンの方がいいでしょ?」

「食べれる物を売るのが商売なんじゃよ?」


 うわぁ! 正論がきたよ!

 

 論破祭りが始まった! 


 お母さん、もう帰ろう!!


 お母さんはニンマリと笑ってイチジクの入ったパンを取り出すと、一口サイズに切り始めた。



「まぁまぁ。みなさん、そう言わずに。一口だけでも食べてみてくださいな」



 そう言って切ったパンをみんなに配る。

 食べたみんなは目を見開いた。


「え!? なにこれ美味しい!?」

「すげぇえ、めちゃくちゃ旨い!!」

「白パン以上じゃなかろうか?」


 お母さんは胸を張って勝ち誇る。


「さぁ。値段は黒パンと同じですよ」


 みんなは殺到した。


「1つ買うよ!」

「あたしは3つだよ!」

「わしは2つもらおうか」



 たちまち完売する。


 う……売れちゃった。


 商売なんて初めてやったけど、こんなに上手くいくなんて奇跡じゃないだろうか。


 お母さんは私を抱きしめた。


「ルーシャア! やったよ! 私達はパンを売り切ったんだよぉお!」


「う、うん。なんだか信じられない。偶然って凄いよね」


「ルーシャったら本当に自信がないのね。これは運なんかじゃない。あなたの実力よ」


「あはは……。親バカなんだから……」


 お母さんは腕を組んで考えた。


 パン! と手を叩く。


「そうだ! バターを買いましょうか!」


「ええ? そんな高級な物買ってどうするの!? 贅沢するのはまだ早いよ。お母さんも私も誕生日がまだなんだから」


「私達が食べるんじゃないわよ」


「え?」


「パンの材料に使うの」


「ええ!? そ、そんな高級なパンにするの??」


「勿論、値段は上げるわよ」


「う、うーーん。黒パンより高いパンをみんなが買うかなぁ?」


「美味しければね。たくさん用意するのは黒パン並の値段。バターを使ったのは少しだけ値段が高いパンにするのよ」


「ああ、2種類用意するんだね」


「そういうこと♡」



 私達は家に帰ると、早速パンを作った。


 次の日にそのパンを売るとあっという間に完売となった。


 凄い……。

 お母さんが言うとおり偶然じゃ、ないのかな?


「流石はルーシャのパンね。やっぱり売れたわ」


「私より、お母さんの商才の方が凄いような気がしてきたよ」


「何言ってんの。あなたのパンを作る才能が人を虜にしてるのよ。バターを入れたギームのパンは絶品だわ」


 お母さんは金色の輝く物を取り出した。


「ふふふ。これなぁ〜んだ?」


「うわ! 金貨だ!! 凄い凄い!!」


「今回の売り上げよ」


「ちょっと触らせて!」


 私達はめったに触れない金貨に喜んだ。


 怪我の功名って言うのかしら? 

 

 もしかして農業よりこっちの方が良かったのかな? 


 こうして私達は毎日パンを作り、せっせと売り始めた。


 売り上げは好調で、その評判は山を越えたトンナリ街にまで響いた。

 

 


 そんなある日。


 公爵様が領土の視察に村にやって来ることになった。


 と言っても、その土地の広さは膨大で、御子息と共に手分けしてやる。


 だから、村の娘達は噂で持ちきりだった。


 若い女達はみな、一様に言う。 


 息子が来てくれ! と。



「ルーシャ。今日は視察の日だから、パンを売って昼過ぎには家に帰りましょうね」


 

 視察と言っても、公爵様が私達の貧相な土地を見るのは、いつも夕方だった。


 馬に乗ったまま遠巻きに少し拝見するくらいである。


 ギームの雑草くらいしか育たない使い道のない土地に、公爵様は興味がないのだ。


 いつものようにパンを売る台車は村人で囲まれていた。


 私達が汗を流して売っていると、周囲は急にかしこまる。


 皆、頭をさげてお辞儀をした。


 ん? どうしたんだろ?



「へぇ。パンを売ってるんだ」



 その声は澄んでいて美しい。


 金髪の髪。整った目鼻立ち。


 高いスラリとした身長で、私達の台車を覗き込んだ。



 

 公爵の御子息。

 ハイデルト様である。



 まだ昼前なのにどうして!?


 

 周囲は頭を下げたまま、お母さんまで恐縮して頭を下げる。


 私は驚いて、固まってしまった。


 だって、憧れの人が目の前にいるんだもん。

 そりゃ、動けなくもなるでしょう。


 こんなに近くで見るなんて初めて……。


 心臓の鼓動が速くなるのがわかった。


 でも、見惚れている場合じゃない。




「あ、いけない! 失礼しました!!」



 

 私が頭を下げるとハイデルト様は気さくに振る舞った。



「ああ、いいから。今日はたまたま早く来ただけだしね。みんなもさ。頭を上げてよ」



 村の女達は真っ赤な顔。

 ただ見惚れて茹で蛸のようになった。



「父さんはうるさいんだけどさ。まぁ僕の時はいいから」



 そう言ってパンを見る。


 食べたいのかな?


 私は試食用のパンを一切れ、竹串に刺して見せた。



「ご試食されますか?」



 これに反応したのはお母さんだった。



「これ! ルーシャ。貧乏パンなんて失礼です!!」


 

 んもう。

 お母さんったら、あれだけ自信を持ちなさいとか言っときながら、いざとなったらこれなんだもん。


 でもなんだろう、不思議な感じ。


 なんというか吹っ切れたというか、別に嫌われてもいいというか……。


 一度振られた女は強くなるのかな? 


 公子に貧乏パンを試食させるなんて、奇行なんだろうな。

 

 ハイデルト様は笑った。


「いいの?」


「ええ、もちろん。ですが、これはギームの実で作った貧乏パンですよ?」


「へぇ〜。郷土料理ってやつなのかな? えらく人気だけど?」


「ええ。みんな大好きなんです」


「これルーシャ! いけません!!」


 私が竹串に刺したパンを渡そうとすると、ハイデルト様はその手を掴んでパンを食べた。

 

 

「あ……!」


  

 私はみんなと同じように、いや、それ以上に赤くなった。もう全身が薔薇のように赤い。



「うん! 美味い! これは美味いよ!」


「娘がとんだ失礼を! 本当に申し訳あり……え?」


「このパン美味いよ。僕にも売ってくれる?」


 

 お母さんは大混乱。


「え!? あ!? そんな、ハイデルト様。これは貧乏パンですよ!?」


「でも美味しいよ? 僕には買えないのかな?」


「いや、でもぉ……。街に行けば白パンが売ってますしぃ〜〜」


「ははは。白パンより美味いって。全部欲しいけどね……」


「ぜ、全部ぅうッ!?」


 ハイデルト様は辺りを見渡した。


「僕が買い占めちゃったらみんな困るよね。2つ売ってくれる?」


 私は直ぐに包んだ。


「はい……どうぞ」


「ありがとう」


 彼は早速1つを掴んで食べ始めた。


「ふふ……。美味い」


 そう言って両肩を上げる。

 その屈託のない姿にみんなが見入った。


「えーーと。父さんには内緒にしておいてね。行儀が悪いのはわかってるからさ」


 みんなは笑いを堪えた。

 当然私も我慢した。


 ぷぷ……この人、公子なのに面白い!


「へへへ……。残りは家で食べよう」


 やった! 凄く喜んでくれた。


「このパンはいつ売ってるの?」


「毎日売ってます」


「へぇ……。そうか……。明日も来るよ」


 こうして、その日の視察を終えたハイデルト様は帰って行った。




 次の日。宣言通り彼は来た。


 新しい山ブドウのパンを試食されると、今度は3つ買って行った。


 次の日は4つ。その次の日は5つと。彼は貧乏パンの虜になった。


 公子の権限を使えば、「屋敷に持って来い」なんてこともできるのだけど。


 気さくな彼はそんなことは言わず、毎日、白馬に乗って足繁く通う。


 いつしか、名前を呼んでくれるようになった。


「こんにちはルーシャ。今日もいい天気だね!」


「いらっしゃいませ。ハイデルト様。気持ちのいい空です」


「おや? なんだか少し元気がないな? 目にクマができてる」


「そ、そんなことないですよ。えへへ」


 そんなことあったりする……。


 実は嬉しいことにパンの売れ行きはうなぎ上り。


 貴族が買いに来るパンと評判を呼んだ。


 今や【ルーシャのパン】は村の名物になって、山を2つ越えた街からも買いに来るようになった。


 そのおかげでパンを作る量が半端ではない。


 家の窯は3個も増設。


 人を10人も雇って毎日作っている。

 

「そういえば毎日パンを売ってるね……。休日の日は作らないのかい?」


「パンを売るのが……。好きなんです」


 本当はあなたに会いたいのが理由。


 新作のパンを作ると、その度に喜んでくれるし。


 彼の笑顔を見られるだけで幸せ。


 でも……ちょっと……。

 頑張りすぎたかもしれない。


「あれ……。クラクラするかも……?」


 私は気を失いハイデルト様の胸に倒れ込んだ。


「ルーシャ! 大丈夫かルーシャ!!」



◇◇◇◇



 ーー家ーー


 気がつくとベッドに寝ていた。


「おや、気が付いたかいルーシャ」


「お母さん……。私……どうして家に??」


「もうバカだね。がんばりすぎよ。あなたは村で気を失ったのよ」


 そうか……。

 私、ハイデルト様の前で倒れたんだ……。


「あれ……? じゃあ誰が私を運んでくれたのかな?」


 お母さんの横からハイデルト様がひょっこりと顔を出す。


「良かった気がついた」


「ハ、ハイデルト様がなんで家に!?」


「ハイデルト様が馬に乗せてお前を運んでくれたんだよ」


「えええ!?」


 うわぁ〜〜。気を失っていたのが悔やまれるぅうううう。


 てか、そんなこと思ってる場合じゃなかった!


「あ、ありがとうございますハイデルト様!!」


「うん、気にしないでいいよ。それより無理し過ぎだからさ。2、3日休むといいよ」


「そうよルーシャ。ハイデルト様がこうおっしゃってくれているんだから。休みなさい」


「で、でもぉ……」


「パンはお母さんが売るから心配しないでいいわよ」


 あーー。実はそっちじゃないんだけどなぁ……。


「じゃあ、僕は帰るから。ルーシャお大事にね」


「あ、ありがとうございます!」


 ええ! もう帰っちゃうの〜〜!?


 そういえば……。

 ハイデルト様、私が気がつくまで待っていてくれたんだ……どれだけ優しい人なんだろう。


 その夜、白馬に乗ったハイデルト様が私を運んでくれたことを想像してベッドの中でバタバタともがいた。


 嬉しすぎて寝不足になっちゃいそう。




──次の日。


 私は休みを取ることにした。


 ああ、今日はあの人の顔が見られないのかぁ……。


 なんてため息をつきながら部屋の掃除をする。


 疲れなんて1日寝れば取れちゃうのよね。


 今日は手持ち無沙汰だわ。

 

 そんなことを思いながらも手にはパン生地を伸ばす麺棒をしっかりと持っている。


「ははは……。なんかこれ持ってないと落ち着かないのよね」


 私はそれを腰に差して箒に持ち替えた。


「ルーシャ。お客様よ」


 お手伝いに来ている隣人のレイウェルさんがそう言った。


 お客様? 誰だろう??


 目に飛び込んで来たのはガーベラの花。


 黄色とピンク、オレンジも混ざる。


 その横から顔を出したのはハイデルト様だった。


「ルーシャ。元気かい?」


「ハイデルト様!」


 もう元気100倍です。




 2人きりで散歩をすることになった。


 憧れの人と並んで歩く。


 ああ、夢みたい……。


 子供の頃どんな子だったのだとか、どこで遊んだのだとかを2人で話す。


 貴族と貧民じゃあ遊ぶ内容が全然違うのだけど、それでも気さくな彼なので、何も気にすることはなかった。


 まるで空気のように抵抗がなくて、自然に笑みが込み上げてくる。


 ハイデルト様……。


 遠巻きで見ていただけだったけど、こんなに近くても素敵な人……。


 きっといい人がいるんだろうなぁ……。


「ルーシャは婚約者とかいるのかい?」


「え? い、いないです!!」


 一瞬、ヒィデンス様の顔がよぎるも、それを打ち消すようにブルンブルンと顔を振った。


「そうか……。良かった……」


 え? 何が?


「ハ……ハイデルト様は……。いらっしゃるのですか?」


「いないよ」


 ほっ……。良かったぁ……。


 って、なんで私がほっとするのよ。


 貧民の私とハイデルト様じゃ身分が違い過ぎるじゃない。



「いたら君に会いにこないよ」



 え? えええ??




「パンは美味しいけどさ。君に会いたいのもあったからね」




 んんん??

 

 貴族と貧民だよ……。まさか……だよね。


 ……というか、ハイデルト様は気さくな人だし、友達感覚なんだと思う。


 そうだ……友達だ。


 私のことは友達だと思ってくれてるんだ。


 憧れの人が私のことを友達だと思ってくれるなんて最高よね。


 こうして、私達の友達付き合いは始まった。





◇◇◇◇




 数日が過ぎた。


 相変わらずパンの売れ行きは好調で、それに伴って窯を3個も増設した。


 従業員は20人にもなって、昼夜パンを焼く。


 村ではルーシャのパン工場と呼ばれるようになった。


 ボロ屋だった我が家は一角を店に改装。


 と言っても、木の板と杭だけの簡易な物だけれど、それでも布や旗なんか立ててお洒落に見違えた。


 私はパン生地をこねていなくても麺棒を持っているようになった。


 村に行けば笑われてしまうこともある。


 ルーシャといえばパン。もう定着してしまったようだ。


 ハイデルト様は職務以外の時は足繁く通ってくれる。


 私達の仲は更に深まった。


 勿論……友達としてだけどね。


 そんなある日。


 2度と会うまいと思っていた、あの男がやって来た。


 その手には真っ赤な薔薇の花束を持って。


「ルーシャ。久しぶりだな」


 村長の息子、ヒィデンス様。


 今日はお洒落なタキシードを着ている。


「……なんの御用です?」


「なんだよつれないなぁ。お前に会いに来たんじゃないか」


「はぁ……」


 私は目線を合わさずにパン作りの作業をした。



「この薔薇! プレゼントだ!」



 そう言って私に差し出す。


 真っ白いピカピカのタキシードを着てるけど、まさか私の為?

 

 私は差し出された花束を麺棒でそっと押し返した。


「あのぅ……。どういうおつもりですか?」


「決まってるだろ! お前とやり直したいのさ! ホラ見ろ! 今度は本物だぜ!」


 小箱を開けるとキラリと輝くダイヤの指輪を見せた。


「気づいてしまったのさ。お前を愛していたことにな!」


「はぁ……」


 私はため息をつきながら指輪の箱を麺棒でそっと押し返した。


「もう一度やり直したいんだ」


「はぁ……」


「ルーシャの土地は勿論返す。外に馬車を控えせているからさ。俺の屋敷に行って将来について話そうぜ」


「はぁ……」


「こんなオンボロ小屋のパン工場じゃなくてさ。新しいパン工場を新設しようじゃないか! 2人で大儲けしよう!! きっと村の発展にも役に立つぞ!!」


「はぁ……」


 どの口が喋っているのだろう。


 ペラペラとよく動く。


 粗方、パンの評判を聞きつけて自分達の利益にしたいと乗り込んで来たのだろう。


「じゃあ行こうぜ。ルーシャ」


「いえ。行きません」


「は? な、なんでだよ!?」


「あなたが私に言った言葉を忘れたのですか?」


 私はギームの草を手に持った。



「雑草のお前と付き合えるかよ!!…………と、言ったのですよ?」



 彼は苦笑い。



「は、ははは……。そんなこと言ってしまったかな?」


「こうも言いました。『雑草なんかこの世から無くなってしまえばいい』と」


「それは……。そうじゃないのか?」


「ここのパンは雑草であるギームの実で作っています。雑草が無くなったら私達親子は飢え死にしていました。あなたに畑を奪われましたからね」


「は、ははは……。ま、まぁ、過去のことだ。お互い水に流そうぜ。お前ん所の貧相な土地なんか返すからさ。やり直そうぜ」


 信じられない。


 どれだけ神経が図太いのだろう。


 はっきり言わないとダメなタイプだ。





「帰って下さい。金輪際、あなたと話し合うことなんて一切ありません!!」




 私の怒号に彼は目を見張った。


 私は大人しい方なので、さぞや驚いたことだろう。



「おいルーシャ! 下手に出てりゃつけ上がりやがって!! 貧民のお前を特別扱いしてやるってのが迷惑なのか!?」


「迷惑です! お帰りください!!」


「この野郎。許せねぇ!!」


 彼は手を振り上げた。

 

 私は恐怖で固まる。


 肩をすくめて動けなくなった。


 麺棒を武器にすればいいのだろうけど、そんなことはとてもできそうにない。


 彼の暴力を受ければ、私にとって更なるトラウマになることだろう。


 そんな私の耳に聞こえて来たのは苦痛の叫び声だった。



「痛ででででででででででっ!!」



 見ると、ハイデルト様が彼の振り上げた右腕を掴んで捻り上げていた。



「ルーシャに何をする!」



 いつも笑顔のハイデルト様は眉間にシワを寄せて怖い顔になった。


 

「痛ででで! ハ、ハイデルト様ぁ!? ど、どうしてこんな所に!?」


「それはこちらのセリフだ。ルーシャから少しだけ聞いているが、婚約破棄はお前からしたことなのだろう?」


「くっ! そ、それは……」


「それに村人の噂では随分と女遊びが激しいそうじゃないかヒィデンス」


 ハイデルト様が掴んだ手を離すと彼は地面に倒れ込んだ。



「あでぇッ!!」



 ピカピカのタキシードはギームの粉と埃まみれになる。



「ゴホォッゴホォッ! くそッ! 覚えてろよルーシャ!!」



 そう言って馬車の方へと走り去った。


「ありがとうございますハイデルト様!」


「怪我はないかい?」


「はい。大丈夫です!」


 突然、おばあちゃんがハイデルト様の背後から現れた。


「あ!?」


「ん? どうかした?」


「あ、いえ! なんでもないです」


 ハイデルト様におばあちゃんは見えないみたい。

 

 でもどうして出てきたの??


 私が首を傾げていると、おばあちゃんは窓を開けた。


 途端に外の音が入る。


 丁度、ヒィデンス様の馬車が走り出すところだった。


「ルーシャ! この借りは必ず返すからな!!」


 なんの借りよ……まったく。


「あいつ……。危険な奴だな」


 ハイデルト様は去っていく馬車を見つめていた。



 ハイデルト様ってすごく頼りになる人だな……。

 

 思わず凛々しい横顔に見惚れてしまう。


 あれ? おばあちゃんがいない……。


 窓を開けて何がしたかったんだろう??


 ヒィデンス様の声を私達に聞かせたかったのかな??


 うーーん。おばあちゃん、もう少し会話したいです。

   

 えーーと、助けてもらったんだし、何かお礼しなくちゃ。


「あの……。お昼は食べられましたか?」


「いや、まだだけど?」


「良ければ、助けていただいたお礼にお昼をご馳走したいのですが?」


「そんな……。お礼なんていらないけどさ……。ルーシャが作るの?」


「はい……。こんなボロ屋なので贅沢な物は出せませんが……」


「そんなの気にしないよ。ルーシャが作るなら、なんだっていいさ」


 こうしてハイデルト様にお昼をご馳走することになった。


 怪我の功名?

 一緒にお昼を食べられるなんてラッキーかも!


 私は腕によりをかけてお昼を作った。


 そのメニューにお母さんは驚く。


「まぁーー。今日のお昼は豪華ねぇ」


「えへへ……。だって……、ハイデルト様に食べてもらうんだもん」


「私は従業員と話すことがありますからね。あなたはハイデルト様と2人で食べなさい」


 あれ……。

 お母さん、気を遣ってくれたのかな?


 ハイデルト様は私の手料理を見て大喜び。


「うわぁ。凄く鮮やかだね。うちのコックより凄いや」


「そんな……。公爵様のご馳走に比べたら……。恥ずかしいですよ」


「山菜の色彩が豊かだし、キノコが多種多様でかわいらしいしね。味も……モグモグ。凄く美味しいよ!」


 褒め上手だなぁ。

 もっとがんばって作りたくなっちゃうよ。


 私達は楽しいお昼を過ごした。


 



 ──食後のお茶。


「そうだ。ルーシャ。君のパンを貴族の品評会に出したんだけどね」


 ひ、品評会??


「聞いてないですよ?」


「ごめん。言ってなかったか。内陸の貴族達が特産品を競い合う品評会があるんだよ。それに君のパンを出したんだ」


「え……。そんな格式の高い所に私のパンを?」


「うん出しちゃった」


「もう……」


「それで思った通り大好評でね。各貴族がルーシャのパンをもっと欲しいと言って来たんだ」


「あーー。でも、もう一杯一杯ですよ? 増設した窯は10個になりましたし、1日に焼くパンは千を超えてます」


「それで、新しい土地に工場を作るのはどうだろうと思ってね」


「ええ!?」


「工場の設計から経営は大変だ。勿論、君が社長だけれど、僕がサポートしようと思っている」


「ハ……ハイデルト様がサポート……?」



 私が困っていると隣りの部屋からお母さんが現れた。


 すかさず私を抱きしめる。



「ルーシャ! こんな機会ないじゃない!! やりなさい!! ハイデルト様がいるなら尚更よ!!」


「ちょ、ちょっとお母さん! なんでお母さんが知ってるのよ!?」


「え? あはは! そ、そんなこといいじゃない!」


 さては、壁に聞き耳たてて私達の会話を盗み聞きしてたな。


「ルーシャ! こんなチャンス2度とないわよ!」


「またそんなこと言ってぇ。それで畑を奪られちゃったじゃない」


「僕はそんなことはしないよ」


「あ! も、申し訳ありません。そんなつもりで言ったんじゃないんです」


 

 私はハイデルト様と2人きりで散歩をすることにした。

 


「新しい工場を作る時は、ここを壊したりするんですか?」


「そんなことをするつもりはないよ。僕にそんな権限は無いしね」


「そうですか……」


「僕はあくまでもサポートさ。土地と資金を提供するね。運営の手助けはするけど、基本は今まで通り、君とお母さんでやって欲しいと思っている。だから、君が嫌なことは一切要求しないつもりだ」


「……私。この家が好きなんです。生まれた時からずっとここで育ってきました。まさか工場になっちゃうなんて思わなかったけど、だから、ここはずっと残しておきたいんです」


「うん。いいと思うよ」


「えへへ……。変ですよね。こんなボロ屋が好きなんて」


「そんなことないよ。君が育った家は素敵さ」


 ああ……。この人なら信用できる。


「はい。じゃあやってみようと思います! 新しいパン工場!」


「そうか! 良かった!! これから大変だけど、2人で力を合わせよう!」


「はい! よろしくお願いします!」


 私は不安と期待で胸が一杯だった。


「あーーでも、驚きですね」


「何がだい?」


「ハイデルト様がビジネスパートナーになるなんて」


「ああ…………。僕はそう思ってないけどね」


「ええ!? 違うんですか?」


 彼は私の手を握った。


「あ……」


「ぼ…… 僕は君のことを大切な存在だと思っているんだ」


 大切な存在? 

 そ、それって友達以上ってこと……?


「め、迷惑かい? こんなこと……」


「そ、そんなこと……! あ、ありません」


「そ、そうか…………な、なら良かった」


 うわぁ! 

 こんな大事な時なのに手の汗が半端なく出るわ!!

 

 こんなの絶対嫌われちゃう!!


「ご、ごめんなさい。汗が……!!」


 そう言って引き離そうとする手を、彼は更に強く握りしめた。


「いい! 大丈夫……。そんなの気にしないよ」


 ハ、ハイデルト様が私のことを……。


 う、嬉しい!

 

 で、でもまだ信じられない。

 

 夢なら覚めないで欲しい。

 

 この手にかいた汗のヌルヌルは間違いなく現実。


 凄く恥ずかしいけど、これは本当のことなんだ!


 

 私は全身を真っ赤にしながら家に帰った。








──その日の夜。



 ツンツンと誰かが寝ている私の頬を突いた。


「ムニャ……。誰ぇ?」


 寝ぼけ眼の私の前におばあちゃんが立っていた。


 人差し指をクイクイと動かして外を指差す。


「おばあちゃん、こんな夜中に何よぉ??」


 目を擦るとおばあちゃんは消えていた。


 おばあちゃん、こんな夜中になんだったんだろう?


 そう思った矢先。


 突然響く苦痛の叫び。





「痛でででででででででででででぇえええええッ!!」






 それは聞き覚えのある声だった。


 お母さんも起きたので、一緒に外に出ると、ハイデルト様がヒィデンス様を羽交締めにして取り押さえていた。


 その光景は松明に照らされて凄まじい。


 周りにはハイデルト様の部下が数人いた。


「ハ、ハイデルト様!? これはなんの騒ぎですか?」


「こいつがね。君の家に火を点けようとしたのさ」


 えええ!? 


 お母さんも私も驚愕。


「ちくしょう!! 離せぇええええええ!!」


 興奮するヒィデンス様をハイデルト様の部下が頭を叩いて黙らせる。


 その足元には油の樽が転がっていた。


 この油で私の工場を燃やそうとしたのか……。


 パン工場の火事なら誰も不審に思わない。


 なんて卑劣なんだろう。


「でも、どうやってわかったんですか?」


「あの時、聞こえた奴の声『この借りは必ず返すからな!』。これがどうにも気になってね。僕の部下に動向を調査させていたんだ。それで今夜、油と松明を持って君の家に向かったから、その直前で捕まえたという訳さ」


 これって……。


 あの時、おばあちゃんが窓を開けてくれたから、ハイデルト様がヒィデンスに注目するようになったのかもしれない。


 おばあちゃん、ありがとうね。


 ヒィデンスは観念したように泣き叫んだ。






「ちくしょう!! ちくしょぉおおおおおおおおおおお!!」





 

 ハイデルト様は彼を縄で縛ると馬車の中へと入った。


 カーテン越しに中から声が聞こえてくる。


「この重罪をどうするかは裁判で決まるだろうよ」


「お許しくださいハイデルト様ぁああああ! こんな貧乏人がパンを作っているなんて許せなかったんですぅうううう!!」


 馬車の中からバグンと大きな打撃音が聞こえるとヒィデンスの声は止んだ。


 馬車のカーテンの隙間からハイデルト様は顔を出して、いつもの笑顔を見せてくれた。


「気にしないで。ヒィデンスは眠っただけだから」


 ね、眠った!? 


 せ、詮索はやめておこう……。


「こいつは村でも相当な悪だったからね。余罪はこれだけじゃ無いと思うんだ。牢獄に入れて裁判にかけてしかるべき報いを受けさせるよ」


 これは身から出た錆というやつだろうか……。


 同情の余地はない。


「ルーシャ。もう心配することはないからさ。安心しておやすみ」


「ハイデルト様。ありがとうございます」



 こうして、ハイデルト様の活躍で大事件は終結した。





 それからしばらくして──。



 村長とその息子は、婚姻詐欺などのあらゆる犯罪が露呈して身分を剥奪。


 数十年投獄されることとなった。


 おかげで奪われた私の土地は返ってきた。


 村のみんなは、私がパンで儲けているからと、今更、貧相な土地が返って来ても使い道がない、などと言うのだけれど、そんなことはない。


 先祖代々続いてきた思い出深い畑だから、私にとっては大事なもの。


 おばあちゃんも大好きだった畑だしね。


 これからもずっと守っていきたい。



 ボロ屋を改装したパン工場は、隣人のレイウェルさんが所長となって運営を見てくれることとなった。

 

 私は新しいパン工場の前にいた。


 その場所は山の斜面にあって綺麗な海が見える素敵な場所。


 横には小川が流れていて、水車が粉を挽くために忙しく動く。


 工場からはパンを焼く香ばしい煙が立ち上っていた。


  

 何もかもが上手くいっている。


 ああ、なんだかとっても幸せだ。



 

 夕方。


 海がオレンジ色に染まる頃。


 私とハイデルト様はいつものように2人だけで散歩した。


 勿論、手を繋いでいる。


 小高い丘から見える夕焼け空の海はとっても綺麗だ。


 ハイデルト様は私の手を取って指輪をはめた。


「ルーシャ。結婚して欲しい」


「え……?」


 指輪は夕日に照らされて輝いた。


 その輝きはガラスなんかじゃない。


 明らかに高価な宝石である。


 こんなに幸せな申し出なのに、嫌な思い出が頭をよぎる。


 トラウマというのは一生消えないのかもしれない。


 ふと目を逸らすと、1本の木の横におばあちゃんが見えた。


 両手を上げて丸を作っている。


 その顔は満面の笑みで【合格】とでも言っているようだった。


 おばあちゃんありがとう。


 私は少し深呼吸をして答えた。


「喜んでお受けします」


「そうか! やった!!」


 ハイデルト様は私を抱きしめた。


 優しい顔が近づいてくる。

 

 こ、このパターンは……。


 うう……やっぱり少しトラウマになっているのかも。

 

 ヒィデンスに迫られたことが脳裏をよぎる。


 チラリと木を見るとおばあちゃんは消えていた。


 そっか……。


 自分で決めなきゃいけないこともあるよね。

 



 勿論、私はハイデルト様が大好きよ。





 私はそっと目を閉じて、彼の体を抱きしめた。







〜〜FIN〜〜

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ルーシャのパン工場〜村長の息子から婚約破棄「雑草なんかと付き合えるかよ」と捨てられた。畑まで奪われた私は、雑草の実を使ってパンを作り始めて大成功。「やり直したい」と言われても、呆れてモノが言えません〜 神伊 咲児 @hukudahappy

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