ジンフィズの夜、ロマンとワルツを

印田文明

ジンフィズの夜、ロマンとワルツを



「ジンフィズを。砂糖抜きで」


 いつものバーは、金曜の夜だというのに空席が目立っていた。店側からはともかく、俺から言わせればその方がありがたい。人がひしめき合うバーなんて、朝の満員電車より居心地が悪い。

 馴染みのバーテンダーはシェイカーにジンとレモンジュース、さらにレモン果汁を絞って入れると、慣れた手つきでシェイクした。バーなんてここ以外行ったことはないが、それでもこのバーテンダーの所作が他所より美しいことはわかる。店内に流れる小粋なジャズとセッションするように、シェイカーがシャカシャカと音を立てた。

 大きめのグラスに棒状の氷を入れ、それに伝わせるようにシェイカーから液を注ぐ。その上からそっと炭酸水を注ぎ、一周だけステアすると、仕上げに輪切りのレモンが浮かべられた。


「ジンフィズ、砂糖抜きです」

「ありがとう」


 差し出されたグラスから放たれる爽やかなレモンの香りが、いつか見たロスの花火を思い出させた。

 一口飲むと、不思議な安心感に包まれる。長年親しんだ味というのは、こうも心を癒してくれるのか。


 つまみのナッツをジンフィズでちびちび流し込みながら浸っていると、隣の席に奇妙な雰囲気の男が座った。

 正直、これだけ空いているのだから離れて座って欲しいものだが、その雰囲気になんとなく興味が湧いた。

 横目で見る限り、四十代ぐらいだろうか。明らかに仕立て屋が拵えた上等そうなスーツを見にまとっているが、頭髪は影ひとつないスキンヘッド。頬骨のあたりから耳の下あたりまでキズがあり、明らかにカタギの人間ではなかった。


「・・・何をお飲みになっているんですか?

 」


 チラチラ見ていたのがバレたのか、向こうから話しかけられて狼狽えてしまう。


「・・・ん、あ、ああ、ジンフィズ。砂糖抜きの」

「ほう、爽やかで良いですね。私にも同じものを」


 バーテンダーは軽く会釈をすると、先程と寸分違わぬ所作で作り始めた。


「・・・すいません、勝手に隣に座って。誰かと話しながら飲むのが好きでして」


 見た目からは想像もできないクシャッとした愛嬌のある顔で男は笑う。


「俺なんかが話し相手でよければ」

「ありがとうございます。二杯目は是非奢らせてください」


 こういう場面で自分から話題を振るのは苦手だ。長い社会人生活を経ても、コミュニケーション能力は一向に身につくことはなかった。


「今日はお仕事帰りで?」


 俺の気質を慮ってか、向こうから気軽に話題を出してくれた。そういう気遣いができるようにはとても見えず、思わず感心してしまう。


「ええ。仕事帰りは大体ここに寄ってます」

「私もよく利用する店なのですが、初めてお見かけした気がします」

「はは。ほとんど一杯だけ飲んですぐに出ますし、いつもなるべく端の席でひっそりやってますんで」

「では今日お隣に座れたのは何かのご縁かもしれませんね」


 もしやこの後、怪しげな粉末や無駄にカラフルな錠剤でも買わされるのだろうか。それはそれで、非日常を味わえるという意味では興味がある。


「ジンフィズです。砂糖抜き」

「ありがとうございます。爽やかな香りですね。仕事の疲れも吹き飛びそうだ」


 差し出されたグラスを、男は愛おしそうに見つめたあと、確かめるように一口啜る。


「私、ひとつ特技というか趣味がありましてね」

「趣味?」

「ええ。こうして話し相手になってくださった方のご職業を当てる、というものなんですが、どうでしょう、試してみてもよろしいですか?」

「・・・サラリーマン、とかはなしですよ」

「ははは。もちろん、サラリーマンならサラリーマンで、どんなお仕事をされているかまで当てて見せましょう」

「では、何か賭けますか」

「いいですね。ではわかりやすく、1万円でどうでしょう? 当たればあなたから私に、外せば私があなたに」


 賭博法を気にするほど、俺は清廉潔白であることに重要性を感じない。

 承諾の意を込めて頷くと、男は私に向き直り、頭の先から爪先まで舐め回すように私を見た。


「・・・ふむ。スーツや靴はかなり上等のもの。しかしシワや靴の汚れなどはさほど気にされないご様子。そして仕事帰りはいつもこのバーを訪ねるということは、独身でいらっしゃいますね」

「仕事を当てるのでは?」

「すいません、話しながらでないとうまく考えを整理できないタチでして。不快な言葉があれば遠慮なくおっしゃってください」


 若い頃は独身であることを気にしていたが、今となっては気にもならない。


「踵の擦り減りが激しいですね。ならば外回りが主でしょうか。でもそれならスーツにシワがあるのは先方からの印象もあるでしょうし、もう少し気を配りそうなものです」


 悩む男を尻目に、俺は氷が溶けて飲みやすくなったジンフィズを煽った。


「わかりました。あなたのお仕事は、銀行マンですね?」

「・・・その心は?」

「ははは。実は完全に当てずっぽうでして。降参です」


 ここで名推理でも飛び出すのかと期待していた俺は、多少がっかりはした。とはいえホームズもポアロも想像上の人物であるわけで、一般人の推理力はこんなものだろう。

 男は懐から瓢箪柄の札入れを取り出し、ピン札を一枚取り出した。


「どうぞ、お納めください」


 負けたというのに男の顔は実に和やかで、その札を受け取るのは気が引けた。


「・・・攻守交代しましょう」

「おっ、いいですね。では私の仕事を当ててみてください」


 正直、当てる気なんてサラサラなかった。適当に答えてみて、この一万円を返せればいいと考えたのだ。


 一応しっかりと観察してみる。

 スキンヘッド、顔の傷、それらを打ち消すかのような笑顔。上等なスーツに、腕時計。先ほど見た札入れも数十万はくだらないだろう。

 首元で輝く金のネックレス。純金だとすれば、とんでもない値がつく。それら全てが、見た目通りの仕事を想起させた。


「・・・裏の仕事、みたいなやつですか」


 サラリーマンというよりもあやふやな指摘。それを聞いた男は心底可笑しそうに笑った。


「いや、こんな見た目をしてますからね。面と向かって裏、だなんていう人はなかなかいないんですよ」


 そう言うと、男はまた懐から札入れを取り出すと一万円札、をとりだしかけて、五千円札を取り出した。


「半分正解、といったところなので、五千円といたしましょう」

「いやいや、サラリーマン、と答えたようなものですし、こちらの負けでいいですよ」

「あなたはゲームに先立って確認をしましたが、私はそれを怠りましたので」


 男はカウンターに置かれていた一万円札に五千円を重ね、こちらへズズッと押しやった。


「半分、というのは?」

「私みたいなものの仕事のほとんどは、カタギの方のものとさして変わらないんですよ。何かを欲っしているお客様のもとへ、必要なものを必要なだけ手配する、そんな仕事です。ただそれが、多少非合法なものであっても報酬次第では手配するというだけで」


 非合法。初めて直面している非日常に、年甲斐もなく心が浮き足立つ。


「・・・白い粉、とかですか?」

「粉はまだ扱ったことがありませんね。葉っぱなら年中扱ってますが」


 こともなさげに言うその姿に、俺はすっかりと魅了された。世の中にはこういう人もいるんだと、初めてちゃんと認識したのだ。

 ふと、思い浮かんだことがあった。それを口に出すか少し迷ったが、ジンフィズが程よく俺を酔わせ、口を滑りやすくしたようだ。


「・・・俺が、銃を売ってくれと言ったら、用意してくれますか?」


 優しかった男の目が鋭いものに変わった。決して威圧的ではないが、おそらくは仕事用の目つきなのだろう。


「銃、ですか。金さえちゃんといただけるのであればもちろんご用意しますが・・・。物が物だけに、しっかりと用途を確認しておきたいというのはあります。銃が使われれば、その出どころを探られるのが常ですので。私は一応プロなので対策は講じますが、やはり万が一というのがありますし」


 諸外国ほど銃が身近にない日本において、その懸念は至極真っ当なものに思えた。


「・・・人生にロマンは必要だと思いますか?」

「?」


 俺の言葉に、男は首を傾げた。自分でも遠回しな導入だと思ったが、やはり話し始めるならそこからなのだ。


「・・・殺したい奴がいます。そいつは人生に成果よりロマンを求めていて、そのためなら非合理なことでも喜んでやる。そんな奴です」

「・・・私個人の意見で言うなら、人生にロマンは必要ですね。ただし、成果はもっと必要不可欠です」

「どれだけ泥に塗れ、地べたを這おうとも、ロマンさえあればそれでいい。そういう姿があまりにも無様で、滑稽で」

「しかし、殺したいというのであれば、もっと手軽な手段がいくらでもありますよ。毒だとか、刺殺だとか」


 だからですよ、と言うと、また男は首を傾げる。きっとこの男は、俺が言いたいことがわかっている。あえて俺に話させることで、円滑なコミュニケーションを取ろうということだ。そのビジネストークの手腕に頭が下がる思いがした。


「・・・手軽な方法が溢れかえる日本で、意味ありげに銃で殺される。ロマンに縋り続けた男が、銃殺というロマンあふれる手段で死ぬという皮肉ですよ」


 男は先ほどとは違い、見た目に反せぬ怪しい笑みを浮かべた。


「・・・では、明日またこの店で会いましょう。ブツはその時にお持ちします」

「・・・値段は?」

「ブツが80、手間賃で50、と言いたいところですが、美味しいジンフィズを教えていただいたお礼ということで、合わせて100といたしましょう」


 100、想定していたより0がひとつ少ないぐらいだった。俺が知らないだけで、日本でも銃というのは相当数流通しているのかもしれない。単に需要が低いというのもあるだろうが。


「そういえば、この前新宿の方へ行きましてね・・・」


 男は話を変え、本当に他愛のない、文字通りの雑談を始めた。それに適当に相槌を打ったら、チャチャを入れたりして楽しい時間を過ごす。


 こんなに楽しいと感じた夜はいつ以来だろうか。




 ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪




 次の日、同じ時間にバーへ行くと、男は先に座っていた。軽い挨拶を済ませると、隣に座る。

 飲んでいるのはやはり昨日と同じジンフィズ。俺も当然同じものを注文した。


「さっそくですが、お渡ししますね」


 男は不自然に膨らんだ二つ折りの茶封筒をこちらに渡した。そのずっしりとした重量が、少し背筋を強張らせる。


「・・・ニューナンブN60。弾は5発がすでに装填済み。警察が持っているのと同じ型ですが余計なものは全部外してあります。なのでハンマーを起こし、引き金を引くだけで弾は出ます」


 淡々とした説明を聞きながら、俺は焦ったように封筒をカバンに押し込んだ。本当に入手できたという興奮もあるのかもしれない。


「・・・では、報酬をいただいても?」

「あ、ああ、そうですね」


 さっき銀行で下ろした全財産と、消費者金融で借りた75万。合わせて100万が入った封筒を男に渡す。

 さっき受け取った茶封筒より、厚みも重みもなかった。


「確かに。あ、あと、5メートルでも離れていると、素人では当たりませんからね。出来るだけ近づいて打ってください」

「ああ、だいじょうぶです」


 頃合いを見ていたのか、ちょうど取引を終えた時に俺のジンフィズが出来上がった。

 それを掴むように受け取ると、一気に喉へ流し込んだ。


「・・・では、俺はこれで」

「もう行かれるのですか?」

「居ても立っても居られないので」


 男を振り切るように、私は店を出た。


 焦っている? いや違う。


 念願のおもちゃを買ってもらえた子供の頃の記憶を鮮明に思い出せるほど、俺の心は躍っているのだ。




 ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪




「この店のbgmはいつもジャズ・ワルツなんですか?」

「・・・ええ。ただの私の趣味ですが」


 昨日もうちに来た強面のお客さんは、銃の売買直後とは思えない気軽さで私に話しかけてきた。


「いい趣味をお持ちだ。もっと通りに面した立地なら、かなり繁盛すると思いますよ」

「ありがとうございます。でも、私はこのぐらいが一番心地よいのです。ふらっと寄ってくださったお客様にこだわりの一杯を飲んでいただき、そして疲れを少しでも癒していただく。そこに今日のようなほんの少しのがあれば、もう言うことはありません」

「ははは。やはり全て聞いていらっしゃいましたか。できればご内密に。お気に入りのお店に来れなくなってしまう」

「お客様の情報を、おいそれと口外するような野暮はいたしませんよ」


 お客様にほんの少しの非日常を提供するバーテンダーとして、ここでの出来事は夢のように扱わなければならない。それがたとえ、公序良俗に反していたとしても。


「・・・あのお客様は、やり遂げるのでしょうか」


 ロマンに生きている人間を疎ましく思い、そのロマンに準じて殺害することにした。それだけ聞けばそこまでしなくとも、と言いたくなる気持ちもある。しかし、そこには本人にしかわからない激情があるのだろう。当然それを、私は知る由もない。


「必ず、やり遂げるでしょうね」


 男性は楽しげに言う。


「根拠がおありで?」

「・・・私たちが仕事当ての賭けをしていたのを聞いていましたか?」

「失礼ながら拝聴しておりました」

「では、バーテンダーさんは彼の職業がなんだと思いますか?」

「そう言われましても・・・。お客様は、もしやお分かりなのですか?」


 男性はジンフィズで口を湿らすと、ポケットからたばこを一本取り出し、火をつけた。

 灰皿を差し出すと、軽く頭を下げて受け取る。


「私も相当スーツにはこだわりがある方ですが、その私から見ても、彼のスーツは上等でした。しかし所々にシワがある。ところでご存知ですか? スーツは基本、シワがついたとしても、しばらく着ていればスーツ自体の自重でシワが伸びるものなのです。なのに彼のスーツにはシワが残っていた」


 男性の蒸した煙が天井へ上り、店内を少しだけ曇らせる。


「つまり、彼はさっきまでスーツは着ずにカバンの中にでもしまっていたんです。行き帰りはジャケットを羽織り、仕事中は着ていない。一方で、靴は使い込まれた様子。かなり歩き回るお仕事ようですね。ならきっと、彼はいわゆるビジネスマンではありません」

「通勤だけスーツ、ということですか」

「おそらくは、スーツのほかに制服があるお仕事でしょう。警備員や工場勤務かなと思いましたが、靴が使い込まれていることから察するに、清掃員だと私は推測しました」

「ならばなぜわざわざ通勤の時だけスーツを? それに、靴だってもっと動きやすいものにすれば良さそうですが」

「・・・ジンフィズの砂糖抜き、についてどう思われますか?」


 突然違う話になり、少し戸惑ってしまう。


「どう、と言われましても・・・こだわりがあるお客様なんだなぁとしか」

「・・・私はだなぁと思いました」


 朧げながらに、男性が私に示そうとしている真実が見え始めた。


「これもただの推測ですが、あの方はきっと昔は本当にビジネスマンだったのだと思います。しかし、理由はさておきその立場を失った。それでも当時の生活が忘れられず、仕事終わりに小洒落たバーで、癖のある注文をする生活がやめられない。仕事以外の場所では形だけでも整えたくてスーツを着ている、そんなところでしょう」


 実際、支払いをツケにしたことが度々あった。財布を忘れたとか、たまたま持ち合わせがないとかおっしゃっていたが、彼の推測が正しいとすれば、お金にも困っていたのかもしれない。


「では、必ずやり遂げるというのは?」


 男性は短くなったタバコを名残惜しそうに一吸いすると、灰皿に押し付けた。


「わかりませんか?」


 男性は、何度か見せた愛嬌のある笑顔を見せる。その印象は、最初見た時とは違い、純然たる悪を想起させた。



 捨てられない過去の栄光。

 見てくれだけの虚飾。

 地べたを這う現状。

 バーで見る夢。


 ロマンとはかけ離れた現実。


 では、あのお客様が殺したい相手とは。



「・・・今頃、自分のこめかみに銃を突きつけているでしょうね」



 了

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