Bar.404

月輪雫

開店休業……?


 赤提灯が軒を連ねる飲んだくれと飲み屋の戦場、大橋提灯通り。その少しだけ路地に入ったところの小さなバーを知っているだろうか。


――Bar.404


 かなり奥まったところにあるせいか、「心が疲れた人しかたどり着けない」だの「選ばれた人しか行けない」だの「会員制のバーで一見さんお断り」だの、よくわからん噂が独り歩きしている。実際はそんなことは無く、容姿端麗なマスターとオネエの用心棒が待っているレトロでノスタルジックな小さなバーだ。

「ねぇイブちゃん」

 時間は午後二十一時。そろそろ飲み屋から崩れた飲んだくれたちが店に顔を出してもいい時間帯だが、店にはイブと呼ばれたマスターと声をかけた主しかいない。

「なんだい?静さん」

 イブと呼ばれたマスターは、長めの前髪を耳に掛けなおし、カウンターの内側に洗って置かれているグラスに手を伸ばした。白いクロスで手に取られたグラスが磨かれるたびに、キュッキュッと小気味良い音が静かな店に響いていった。

 前のカウンターで頬杖をついているのは、やたらガタイの良い人であった。バッチリきりりと引かれた紺のアイライン。細めに書かれた眉は悩まし気に八の字に眉尻が下がっている。ドレスに入ったスリットから垣間見える鍛え抜かれた大腿四頭筋。アンバランスと言うか、一周回って整った容姿に見える。

「……お客さん、来ないわねぇ」

 彼(彼か彼女か迷うところではあるが、ここでは彼と言わせていただく。あしからず)はちらりと窓の外を見て、ふぅとため息をついた。イブは少し愉快そうに静のことを見ている。

「おやおや、来ないと決まった訳じゃないだろう?」

 磨かれたグラスを棚にもどしたマスターはすらりとした長身で、肩にかからない程度に切りそろえられた美しい髪をうなじで一つに結んでいる。紺色のベストにスラックスを身に纏った若そうな人であった。店に訪れた人はみな口々に老若男女問わず「ため息が出るほど美しい」と囁き合ったとか、いないとか。

 伏せられていた瞳が愉快そうにちらりと静を見た。その瞳には楽観的なイブに対して不安そうな静の姿が写っている。

「お店とイブちゃんを思っての事よ。ここがつぶれちゃったら、イブちゃんの家に押しかけ女房するしかなくなっちゃうじゃない」

「ふふ、そうだね。押しかけ女房は困るかな」

 そんなことを言っていると、店の奥の電話がジリリリと大きな音をたてた。電子音ではないその呼び出し音は、もはや年代物となった黒電話からだ。

「あらぁ? 店が開いてる時に、黒電話が鳴るの珍しいわねぇ。」

「……急ぎの用事かもしれないし、私ちょっと出てくるから。静さん、店番お願い。」

 はーい、と間延びした声で返事をすると、イブはグラスを棚に戻して店の奥へと入っていく。間もなく裏からイブと電話の主が話す微かな声がしてくるのを、静はおとなしく聞いていた。

(それにしても今日は店の前も静かね…… 本業より留守番業の方が板についちゃったわ)

 と気の抜けた冗談も、愉快そうに笑うマスターが来るまでは口に出すまいと、代わりに小さくため息を零した時だった。


 カランカランカラン……


「あら、いらっしゃい……って」

 店のドアが開けられる音がして、入口を振り返るがそこには誰もいない。しかし、誰かが通った後なのか、ドアはゆっくりと閉まっていく。

 静が座っているのは店の一番奥にあるカウンター席だ。ドアベルが鳴って間もなくそちらを見て、しかし店の中に人影はない。

「ちょっとぉ~、冷やかしぃ?」

 足を組み直し口を尖らせながら、ドアの方に首を向ける。ドアベルが鳴っても店の奥からイブが戻ってくる様子はない。ベルの音の余韻が消えた店内には、再び電話の相手と話をしている声がしている。

「あらあら……」

 そう言って静はカウンターから立ち上がった。店内には店の奥から聞こえる話し声と微かな音以外は何も聞こえない。しかし、静の耳にはとある音が聞こえていた。

「……久々に本業のお時間かしら?」

 そう言った彼の眉間に皺が寄り、先ほどまで悩まし気に下がっていた眉尻が上がる。

「招かれざるお客様~? 今すぐ出ていくなら見逃してあげるわよ~?」

 しかしその声に返事は無い。

「仕方ないわねぇ……」

 張り詰めた空気の中、彼はゆっくりとした動作でカウンターから離れた。腕を組み、短くため息をついて足元を彩る黒いピンヒールの踵でカツン、と床を蹴る。おおよそ静かにしか聞こえない部屋にヒールの音だけが響いていく。

「アタシはねぇ、とぉ~っても耳が良いの」

 そう、彼――鬼埼静は耳が良い。文字通り、それは小さな音を聞くだけでなく、生者の音を聴く「地獄耳」である。

「今のアンタからする音、姿を見えないようにしているんでしょうけど、黒板ひっかいた方がマシなくらい嫌な音がしてるわ」

 そう言って静は入り口側までゆったり歩くと、入口を背に店の中を見るように向き直った。

「これで私の勘違いと言うか、思い違いだったらイブちゃんに笑われちゃうわね……」

 再びカツン、とピンヒールが床を蹴る。その短い音だけが店内を支配する。

「そこね」

 キリリと引かれたアイライン。印象的な力強い視線が何かを捉えた。

 

パチン

 

 組んでいた左腕がゆっくり持ち上げられ、静の指が鳴らされる。それと同時に静は左側へと身を避けた。

 何かが勢いよくドアを突き破り、外へとはじき出されて鈍い音をたてた。静の髪をはじき出された何者かの通った風が揺らし、前髪が一筋、掛けられていた耳から零れ落ちた。やっぱりいた、と言わんばかりに獰猛な笑みが浮かべられる。

「はぁい、お客様♡」

 鈍い音の正体は店の前の電柱にたたきつけられた何者かの体がたてた音だった。

「私もまだまだねぇ…… こんな子ネズミをあの店に入れちゃうんだから」

 ドアの壊れた店の入り口にゆらりと現れた静はそう呟き、少し乱れた髪を掻きあげるようにして直した。鋭い光の灯った視線が見つめる先では、何モノかのうめき声があがるがその姿は見えることは無い。電柱の街灯の下にはじわりと空間ににじむような赤い色があったが、それもすぐに虚空に染みこむように消えていった。

「ふぅん、結構我慢強いのね。ちょっとだけ見直してあげるわ」

 カツリカツリと、静はその街灯の下へと歩を進めた。

「とうっ!」

 と言うニチアサもびっくりの掛け声とともに、明かりの少ない裏路地をその強い光が真昼のように照らし出す。

 飛び上がった姿は宙返りをしながら店の屋根の高さまで達している。その光の中で、ドレスを纏っていたはずの、筋骨隆々の男の衣装が変わっていくのがシルエットで確認できた。キラキラと桃色や緑など様々な色に変化する眩しい光の中に、円を重ねたような七宝つなぎや六角形の亀甲の中に花菱を配置した花菱亀甲の模様が浮かび、色とりどりの布が静のシルエットを包んでゆく。

 光が収まるころには、店の屋上にいつの間にか上った満月をバックに佇む十二単を纏った姿があった。

「本日は菖蒲のかさね色目で変身よん♡」

 ノスタルジックなバーの屋上に、月光に照らされる十二単の男。髪は変身する前と同じ短髪のままである。このシーンだけ見ると季節外れのハロウィンみたいだが、殺気立った状況に変わりはない。

 先ほどの街灯の下には数滴の血が落ちており、引きずったような跡がついていた。

「ちょっとぉ~?人の華麗な変身シーンを待たずに動いちゃうなんて、敵役として失格じゃないかしら~?プ〇キュアも仮面ラ〇ダーの敵も律儀に待ってくれるってのに!」

 手に持った扇で不機嫌そうに口元を隠しながら静々と屋上の上を歩く静の姿は、そこだけ見ると平安貴族がタイムスリップしてきたようだ。

 先ほどのにぎやかな変身シーンとは打って変わり、辺りには再び静けさが満ちている。

「折っっっ角、変身したのに逃がさないわよ」

 そう言って静は不敵な笑みを浮かべた。その時、静の背後から何かが空を切って飛んでくる音がする。

「あら…… 分からないとでも思った?」

 振り向きざまに右腕を上げ、空を切った正体をその重ねられた袖が受け止める。静に怪我はなく、十二単にも傷はない。弾かれたナイフがカラン、と言う無機質な音を立てて屋根の上に転がった。

「細身のナイフ…… ここまで細いとナイフって言うより針みたいね」

 転がったナイフの一本を手に取りながら、静は「面倒なことするわねぇ」とため息をついた。

「あ、言っておくけど、こんなおもちゃじゃ私の一張羅は傷つかないわよ」

 その声が消えるが速いか、何かがザザザッとうごめく音が隣近所の屋根を渡っていく音が聞こえる。

「ヒットアンドアウェイってことかしら…… 意外と策士ね」

 静を中心に目に見えぬ敵が近隣の建物の屋根を駆けまわる音がしている。その音に耳を澄ませながら、扇の内側でニヤリと静の口元が弧を描く。

「そろそろ遊びは…… おしまいね」

 その目が月光を受けて鋭く光り、扇がバチンと閉じられる。

「隔絶し、乖離し、その姿を詳らかにしなさい!」

 静がそう高らかに声を上げると、いつの間にか上がっていた満月がひと際強く輝き、銀色の光の円が店を中心にあたりを照らし出した。

「なッ」

 短く上がった驚きの声。駆けまわっていた不可視の術が剥がれ落ちて露わになったのは、黒づくめの男の姿だった。

「浄玻璃の枯山水は、目に見えないものとか悪しきものを露わにする。私の前ではウソも、誤魔化しも通用しないのよ」

 銀の月光に照らされる町は白砂の枯山水のように大地に漣が走っている。苦々し気な男の顔をみて、静は楽し気に笑みを浮かべた。

「不可視の術ねぇ…… アンタ随分と高等呪術使うじゃない?」

 露わになった黒ずくめの男は、舌打ちをして不可視の術を再び発動させようとしているが、何かに気が付いたらしく憎々し気な視線をこちらに向けている。

「くそ、どうなっていやがる」

 鬼埼静はその名の通り静かに微笑んでいる。

「あら、一度明らかになったものを再び誤魔化そうなんて、そうは問屋が卸さないでしょ? それに喋る余裕があるなんて」

 そう言って静の姿が男の視界から消える。

「随分、舐められたものね!」

 静の能力はあらゆるものを遮断する絶対の護り。彼が身に纏っている十二単はソレの最たるものだろう。ナイフを弾き、銃弾も通さず、炎でも焼けない。能力を発動させた静を傷つける事が出来るものは少ない。しかし、護りこそすれ、それは攻撃には向いていない。

 黒づくめの男はそう思っていたことだろう。

「ぐあぁっ!?」

 静の鍛え抜かれた右ストレートが男の鳩尾にめり込んだ。十二単の重さは約20キロ。これを身に纏って動けば、20キロのウェイトを付けて走り回るのと同じ。体がバキバキになるのは必然だ。

 彼は守ると決めたものを絶対に護る。そして危害を加えた者を絶対に逃がさない。護るだけではない、静は拳を以って絶対を証明する。

「そこで一生地団太踏んでなさい。そろそろ怖~い鬼が帰ってくるわよ?」

 冷ややかな視線を送りながら、吹き飛ばされて再び店の前の電柱に叩きつけられ、のたうち回る男を見下している。

「ふ~ん」

 という声と共に店先に現れたのは、紺色のベストに身を包んだこの店のマスターその人だった。

「そのこわーい鬼は私のことかな」

 先ほど、正確に言えば黒電話に呼び出されて店の奥に入っていく時と少し出で立ちが変わっている。その左手に漆黒の刀が握られていたのだ。

「いやねぇ、怖いは鬼にとって、誉め言葉ではなくって?」

 男の中に、最悪の状況がよぎる。

 バーのマスター、橋本伊部姫。男に静を殺すように依頼した依頼主は「橋本伊部姫を見かけたら逃げろ」と言っていた。お前に太刀打ちできる相手ではないとも。見るからに細身でひ弱そうに見えるその姿、しかし握られた長い刀がアンバランスな危険さをにじみ出している。

「そうかもね。あ、さっき電話中に新作のメニュー思いついたんだけど、静さん食べる?」

「なになに?甘いものだと嬉しいんだけど」

 始まった当たり障りのない日常会話に、おおよそ侵入者が店を襲撃しているという緊迫感はない。それに男は怒りをあらわにした。

「何を呑気に……!」

 仕込んでいたナイフに手を伸ばし、鳩尾から全身に走る痛みも忘れてイブに駆け出す。姿を消せずとも、こんなに呑気に話している奴の喉を掻き切るぐらいは造作もないと。

「ちょっと静かにしてくれる?」

 カチン、人気のない通りに乾いた納刀の音がする。イブの鳴らした音が通りに溶ける前には、男の姿は断末魔も挙げずに無くなっていた。

 一閃、太刀筋を目で追うことはできない。

 そう、文字通り男は消えたのだ。

「とりあえず」

「ん?」

 街を照らし出していた銀の円は、徐々にその光を細め、ふっとほどけるようにして夜空に消えた。

「降りよっか」

 そう言ってイブは店の前からにこやかに手招きしていた。




 次の日、白目をむいて気絶した男が商店街の交番の前で発見され、それと共に「不法侵入のため摘まみだしました」という紙が貼られていたとニュースになっていた。

「あ、イブちゃんこれ、昨日の男じゃない?」

「かなぁ? あんまり顔を見てなかったから」

 怖~、と静はお徳用パックの煎餅にかじりついた。昼間はお店が閉まっているので、二人ともラフな格好でのんびりとお昼のローカルニュースを見ていた。

「あ、扉の修理代は大家さんに何とかしてくださいって言ったんだけど、ダメだって」

「でしょうねぇ~ あの人、ケチだし」

「あんまり言うと怒られるよ?」

「嘘じゃなけりゃ、舌を抜かれないわよ」


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Bar.404 月輪雫 @tukinowaguma

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