ペンネームに込めた願い

さくら

ペンネーム

1.自己紹介


 いつの間にか平成が終わり、令和の時代が訪れた。新しい時代の幕開け。素晴らしいことだと思う。

  一方で、そのような世間の盛り上がりは私には一切関係ないことであり、年が明けて2020年、鼠年になった今もそれは本質的には変わらない。 鬱病の私には、オリンピックよりも令和よりも鼠年よりも、長い1日を終わらせていくことのほうが重大だ。

 エッセイを書くのは2回目だが、改めて自己紹介をしておきたい。

 私のPNは「桜宮沙綾(さくらみやさあや)」。 性同一性障害者であり、身体の性別は男だけれど、心の性別は女性寄りの中性。よく私たちは略字を使うのだが、それで言うとMtXからMtFの間、という説明になる。前に通っていたジェンダークリニックの医師からは「専門用語で自分を説明しようとする人が多いけど、本当はそうじゃないほうがいい。わかり易い言葉で説明できるようになってね」と言われたことを思い出すことが多い。だから私自身は、女性よりの中性という説明をよくする。

 ただ性自認については、私は結婚して子持ちになり、それからずいぶん経つまで言い出せなかったけど、ほとんどの人が、「気のせいなんじゃないか」という他者からの、そして自分自身からの評価に恐怖しながら人生を戦っていると思う。

 そんな恐怖を抱えながらも、それでも私は女性に憧れていたし、本当は「そっち側だったはずなのに」と思ってきた。なるべく女性として生きたい。ずっとそう思って生きてきた。

  しかし、現実では、当然ながら家人との妥協点を見出さなければならない。私の願いと家人の願いをすり合わせなければ、私と家族は前に進めない。私は造膣手術や改名などは考えていないけれど、ホルモン治療は希望している。妥協点に至るには、家人との話し合いの蓄積が必要不可欠なんだと思う。しかし、子育てと鬱病を抱えながら仕事をつづける、という重圧の中では、なかなか前には進んでいかない(現在、ジェンダークリニックに通院中)。

 ちなみに先に出した ”X” というのは、Xジェンダーの略称であり、日本独自の呼び名である。英語ではNon-binary や Gender queer(あまり調べてないので間違っていたら指摘していただけたら幸いである)というようだが、私は女性寄りなので、まったくど真ん中の中性、というわけではない。男性性はあまり要らないと感じている。だからbetween gender neutral and femaleというところだろうか。

 加えて、すっかり仲の良いお友だちになってしまった「鬱病」とも、人生をともに歩まざるをえなくなっている。まぁ言い直すならば、「友だち」どころか、リストカット(自傷行為)が止められず、大きな大学病院の精神科に入院し、そこで一旦は治まったけれど、今も希死念慮とリストカットの衝動に耐えて生きているほどの「大親友」である、とも言えるだろうか。今はこっちの方が私を蝕んでいる。

 このような鬱病と性同一性障害のことについてはエッセイの1作目で詳細に触れているので、もし同じ病気で苦しんでいる読者の方がいらっしゃったら、ぜひ読んでいただきたい。今回は、タイトルにもある通り、私の(そしてひょっとしたら、全てのユーザーの)ペンネームに込めた願いや思いについて書いてみたいと思う。


2.ペンネームについて


 最初は本名で登録していた。当時の私は「読み専」で、まだ性同一性障害を自覚してもいなければ診断されてもいなかった。単に自分の嗜好として好きなんだ、と思って、「男の娘もの」「女装もの」「TS(性転換)もの;もちろん女の子への性転換もの」を好んで読んでいただけだった(ただ、今思うと、やっぱり嗜好なのかもしれない、と思わなくもないのだけれど……)。

 でも「自分でも書きたいな」と思い始めて、名前を変えないとな、と思うようになった。

 最終的には冒頭で紹介したとおり、桜宮沙綾となったのだけれど、ここに至るまでに私自身の中ではかなりの葛藤があった。

 「桜宮沙綾」というのは、当初思いついた時、我ながらちょっとコテコテ過ぎるというか、極端な女性性を持つ名前ではないだろうか、と思わなくはなかった。でも、今は気に入っている名前だ。「桜宮沙綾」がリアルの私の人格にも少なくない影響を持っているので、これを変えるのは考えていない。

  で、なぜ「桜」をつけたかというと、週刊少年チャンピオンで連載されていた、『さくらDISCORD』という漫画で、男女ともに「さくら」の名がつく生徒が繰り広げる物語にどっぷりハマった、というのが一つ。この漫画がかなり面白かった。男子の名前や名字にも「さくら」という読みの漢字(もちろん「桜」以外も)たくさんあった、という点にビビッときた。

 本当は昔から大好きな「らんま1/2」のらんまちゃん(女子バージョン)から名前を借りようかな、とか思ったり、女の子であることを典型的に示す「姫」という漢字も入れてみたかった、というのもあった。実際、姫宮、という名字も候補だった(恥ずかしいな……)。

 でも、本名の頭文字のひらがなを取って伸ばすと可愛い響きになったので、気に入った漢字を選び、「沙綾」に決めた。

 ただ、『さくらDISCORD』がとても胸に刺さる作品だったのもあり、「さくら」もどうしても入れたかったので、姓に入れることにし、最終的に「桜宮沙綾」となった。

 それからはその名前でいろんなSNSに登録したり、女装サロン(もう10年近く前だけど)で呼ばれるときの名前に使ったりした。他のSNSサービスでアバターを作るときには女の子で登録し、その名前も沙綾で登録した。アバターに服を色々買ってあげて、ファッションを楽しむことができ、すごく楽しかった。今思うと、擬似的なお人形ごっこだったに違いない。最近はあまりいじっていないけれど、ちょっと前までは『幼女戦記』の主人公、ターニャ・デグレチャフを意識した衣装と髪型(なんと髪型も自由に変えられる。素晴らしい!)を着せていたけど、今は着替えてしまっている(アバターの話である)。

 ともあれ、とにかく楽しいの一言。着せ替えごっこってこんなに楽しいのか、と思いながらアバターを着替えさせている。

 このようにして「桜宮沙綾」となった私だが、オンラインではなく、オフライン(つまり現実)での最近の出来事もついでに紹介しておく。

 鬱の主治医から、精神障害手帳の発行の際に必要だった診断書に性同一性障害の診断をつけてもらったことで安心した私は、ジェンダークリニックに通うようになった。

 それから自分に踏ん切りをつけることができ、鬱の調子がいいときは、いろいろと活動することができるようなっている。

 たとえば都内某所の男装喫茶やメイド喫茶でも「さあやちゃん」でカードを作ってもらい、その名前で呼んでもらったりしている。あとは昨年、精神科病棟に入院していた時、仲良くなった患者さんにも「さあやちゃんさぁ、あのねー……」のような感じで呼んでくれていた。

 こういうこと、つまりペンネーム(アカウント名)である桜宮沙綾で読んでもらえることがかなり嬉しいことだと認識できたのは、私にとっては重要な気づきだった。現実の私を「桜宮さん」や「さあやちゃん」と呼んでくれるのはものすごく嬉しい。もし将来、改名するとすれば、「沙綾」にしたい。それくらい、今では愛着がある名前になった。

 「なろう」や「カクヨム」に登録しているペンネームの由来は人それぞれであろうし、人にとって思い入れがあると思う。 私にとっては、このペンネームは私の性自認とかなり密接な関係を持つに至った、と言える。私はリアルでも「さあやちゃん・さあやさん」なのだ。そう思うと生きる勇気を持てるし、喜びも嬉しさも持てる。それを上回るほどの嫌な出来事が起きたとしても。


3.ペンネームに宿る魂


 不思議なもので、ペンネームとはいえ、名前には「魂が宿る」と実感している。 最初はむず痒い感じがしていたけれど、だんだんと「桜宮沙綾」は実在の私と同一化していっているように思える。

 それはほかのSNSでも同じ苗字を使ってたりすることも起因しているのかもしれない。 ただ、確実に言えることは、「桜宮沙綾」という、いわば「理想の私」(望む性別、容姿などの要素を持つ架空の自己)を通して執筆することは、本来の私(つまり、現実世界での本名の私)とは、創造できる世界が異なる気がしている。

 理想像としての自己を通して物語を創造することは、すなわち自己が無意識の中で望む世界観を創り出し、自己が本当は体験したかった人生を物語の主人公を通して疑似体験し、そしてその世界の中で芽生えた様々な感情に、現実の自分を同化(投影)させることを、より容易にしていると考えている。

 少なくとも、私にとって小説を書くということは、理想の自己、つまり、本来生まれたかった性別として、その視点で描くことで、その世界を追体験したい、という欲求から発せられるものだ。私は、1人称で書き、それによって本来の性別ではない女の子として生き、または私と同じように自分の性自認(Gender Identity)に揺れ(ズレ・違和感)を持っている男の子として生きる。私が渇望してやまない「逆の性別としての身体と考え方」を持ち、その人生を生きている、ということに繋がっているのだ。

 これは、もし初期登録した際の本名のままであれば、今と同じ感覚を持てたとは思えないことだろうと思う。だからこそ、本名で活動することと比べると、いい意味での「ズレ」が生じてくれているように感じてならない。

 この作品も企画参加作品だが、幸いにも、一緒に参加したユーザーの方々から感想をもらうことが多い。その時も私は「桜宮沙綾」としてやりとりをする。私であることには違いないが、別の私である「桜宮沙綾」。この別の私を通して、私は「なろう」での活動も、オフラインでの活動も行っている。

 私のような趣味作家ではない、プロの作家であっても、いや、ひょっとすると俳優や声優といった職業についている人たちも、同じような感覚を持っているのではないか、と思うこともある。

 私は性別の違和感が強く、ペンネームによって私と自分が作り出す世界や人物が連鎖的に繋がっていき、生きてみたかった別の人生を送る、という擬似的な満足感を得ることができている。同じように、俳優や声優を生業としている人たちもまた、脚本をもとに、別の人格を演じる。その人の価値観、考え方をトレースし、人生を追体験する。彼ら・彼女らの多くはいわゆる「芸名」を用いている(勝手な想像で申し訳ないのではあるが)のだが、きっと本名とは異なるからこそ、別人を演じることを生業にし続けることができるのではないか、と感じなくもない。そう、もう一人の自分に、別の人格を宿らせるからこそ、自我を保ち続けることができるのではないだろうか、と考えてしまう。

 ペンネームや芸名、職業によると源氏名ということもあると思うが、それには本人の強いメッセージが込められている、と思う。それによって別の自分や理想の自分を生み出せることもできる。特に意味なく決めた、というユーザーもいるかもしれない。でも、それでもその登録名は、あなた自身であり、作家としてのあなた自身に他ならないと思う。その名前は、あなたの活動の軌跡を記録するための「核」であり、創作活動をするときの、あなたの考えやアイデアに、少なからず影響を与えるものだと思う。創作意欲に繋がり得るもの、とも言えるし、もっと概念化するならば、作家としての「魂」と言ってもいいのではないか、と思う。

 だから私のペンネーム「桜宮沙綾」は、私の魂であり、現実を生きていくための勇気と力を私に与えてくれていると信じている。それは私が私であるための核であり、現実世界の私に、桜宮沙綾が大きな力を与えてくれているのである。

 すべての人たちのペンネームが、みなさんにとって、何かの片鱗を持っていると信じている。



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