9(最終話)
朱色の嬬橋が、商店街の明かりに照らされて橙色に濡れている。その下を流れる鷺津川の水の流れがさらさらと耳に心地よい。化け物の群れは橋を渡り、対岸の深淵へと次々に吸い込まれていく。それは、延々と続く世界の終わりを意味していた。
彼らを橋の向こう側へと誘導している者がいる。彼女は、橋の欄干の上に座り、歌っていた。少し厚い唇が、赤く濡れている。橋の前に立ち尽くす静夜には目もくれない。静夜は反対にこの女性から目が離せずにいた。白みの強い灰色の髪が揺れ、見え隠れする瞳には光が宿っている。華奢な体から発せられる歌声は透き通るように綺麗で、力強い。美しい人だと思った。
最後の一体が橋を渡り終えると、彼女は歌うのをやめ、欄干から川へと勢いよく飛び降りた。静夜は慌てて欄干から橋の下を覗き込んだが、薄暗闇の中で彼女の姿は見えなかった。彼女が飛び込むのを見た後で、水音がしなかったことにその時になって気づいた。
化け物たちが消え、もぬけの殻となった商店街に一人、静夜だけが残っていた。
新月の夜、アーケードを抜けて届く僅かな星の光が灰色のコンクリートを寒々と青白く照らしている。音の無い廃墟と化した商店街を背にする静夜の耳に、楽しげな祭囃子の音が聞こえる。その音は橋の向こう側から聞こえ、静夜を誘っているようだった。
もうここに留まることは出来ない。きっと戻ってくることも。そう思うと、どうしても前に一歩踏み出すことが出来ない。自分の知らない、新しい世界は針のようで、鋭利なものを突きつけられた時の冷えた恐怖にはいつだって足がすくむ。繊細で、子供のままの静夜が震えた足で立っていた。
なにか大切なものが、抜け落ちてしまった。空洞の心臓は風通しよく、魂は生まれた時のままに綺麗に洗浄され戻されていた。こんなに綺麗な体では、向こうの世界では生きてはいけないと思った。
そんな静夜の左手にふと、小さな右手が触れた。冷えた指先を包み込むように温かな手だった。
少年が隣に立って、手を繋いでいた。化け物たちが橋を渡っていく中、この少年のみが商店街に残っていたのだ。少年は口を結んで、真っ直ぐに橋を見つめている。
「弱虫でも、きっと大丈夫だと僕は思うよ。」
少年が呟いた。静夜に言っているようでもあり、自分に言い聞かせているようでもあった。
「行こう。」
少年に手を引かれ、静夜はやっと、前に進んだ。
小さな背中がふたつ、嬬橋を渡っていった。誰もいなくなった世界はその役割を終えたように少しずつ、夜の闇へと溶けていった。
冷夏 ハイカンコウ @haikankou
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