エンディング

 公園の近くにある良樹の家のチャイムを鳴らす。ちゃんとチャイムを押すのは久しぶりだった。チャイムを押すのは一切の誤解もなく、あなたに会いたいと伝えるための行為だ。それが照れ臭く、人の家のチャイムを鳴らすことをずいぶんとしていなかった。

 呼ばれて出てきた良樹はぼくの顔を見て驚いていた。

「久しぶり」とぼくは言う。戸惑いながらも良樹は笑顔を見せてくれた。


 いつもの公園のベンチで隣り合って座った。何も言わずに離れてしまったことを詫びた。良樹はぼくの家まで来てくれて、母から事情を聞いていた。

 互いに何をしていたかを報告し合った後、ぼくは言いにくいことを言い出すために黙った。良樹もそれに気付いて黙る。言いにくいことだけど、言うべきことはわかっていた。

「ねえ、良樹くん」ぼくは良樹の名前を呼んだ。人のことをちゃんと名前で呼ぶのも久しぶりだった。改まって呼ばれた良樹は、うん と緊張したように返事をした。

 一瞬の沈黙のあと、ぼくは口を開いた。



 国道にはとってつけたような広い歩道が敷かれているがぼくらの他に歩いている人はいなかった。歩道の横をたくさんの車が通り過ぎていく。良樹が浩太から聞いたという犬の轢死体があったという場所は、国道としか聞いていないので具体的にどこかはわからない。二人で歩きながら車道の端を探す。

 八月もそろそろ終わりなのにずいぶんと暑い日だった。排気ガスとアスファルトの灼ける臭いで頭ががんがんする。国道はまっすぐに走っていて、果てがないみたいだった。

 歩いていると、「あっ」と良樹がなにかに気付いた。良樹が指さす先には、車道の端のアスファルトに変色した染みがあった。血の跡だった。でも、そこに死体はない。

 きっともう片付けられたのだろう。血の跡だけがそこにいた証拠だ。良樹は伺うようにぼくの顔を見た。染みの傍まで行き、しゃがみこむ。持ってきた点火棒で線香に火をつけ、アスファルトの上に寝かせて置いた。黙って手を合わせた。良樹も同じようにしゃがんで手を合わせてくれた。横を走る車の音も蝉の声も遠くで響いているように聞こえた。

「帰ろう」立ち上がって、ぼくは言った。良樹は黙って着いてくる。

「ねえ、良樹くん」とぼくは言う。

「なに?」

「手、握ってもいいかな」

 良樹は戸惑ったような顔を見せたが、ぼくに手を差し出した。ぼくはその手を握る。

 良樹の掌は汗をかいて湿っていた。ぼくの手よりも熱かった。ぼくのものじゃない体温だ。

 堰を切ったように涙が出てきた。我慢しようとしたが声も出るほど泣けてきた。12歳にしてはみっともない子供のような泣き方だった。夜中に誰かの体温を感じていないと眠れない赤ん坊のようだ。でも、ずっとこうしたかったんだという気がした。

 きっと、大人になっても誰かの体温を求めてしまうんだろうなという予感がある。12歳のぼくのなかにある子供の部分がそう感じていた。



 ねえ、ケンタ。これがぼくの過ごしたこの夏の出来事だよ。もう会えないけど、こうして語りかけることはいつでもできるんだ。

 辛いことも悲しいこともあったけれど、ぼくはこの夏をずっと忘れないだろう。君のことも。君の周りの風景のことも。

 君を探していた理由なんだけど、いろいろと考えてようやく結論が出たんだ。笑っちゃうくらい単純なことだった。ぼくは、君が大好きだったんだ。だからどうしても会いたかったんだ。



 最後のプールの開放日だった。ぼくがこの学校でプールに入れる最後の機会だ。

 良樹に頼んで一緒についてきてもらった。ぼくがプールに行きたいと言うと良樹は驚いていた。

 プールは奥の2レーンが泳ぐためのレーンで、他は遊泳用になっていた。奥のレーンへ近づくと、浩太がいた。

「珍しいじゃん」浩太がぼくに声をかけてきた。

「まあね」

「二十五メートル泳げるようになったのか?」

「もちろん」とぼくは言った。ぼくは、ずっと泳げたんだ。


 飛び込み台の上に立ち、大きく息を吸いこんだ。裸のぼくの体を太陽がじりじりと焦がしていく。

 ホイッスルは鳴らないから自分のタイミングで飛び込む。横にいた良樹が飛び込み、ぼくもほぼ同時に水面に入る。プールの水は日差しと体温のせいで温くなっていた。ぼくはプールの壁を蹴った。

 何度も練習したフォームを水中で再現する。右手をまっすぐに伸ばしたら、素早く右手をもどし交代に左手を前に伸ばす。前に進もうともがくような手の動きになるのがクロールだ。ぼくは必死に前に向けて手を伸ばした。

 そんな動きを何度も繰り返した。やがて、息苦しさがやってきた。体が新鮮な空気をほしがっている。自分のことなのになぜか他人事のようにそう感じる。手を交互に伸ばす合間に、顔をあげて水面に顔を出し、一瞬で息を吸う。それが息継ぎだ。やり方はわかっていた。

 機を見計らい、ここだというタイミングで水面に顔を出した。太陽の熱をすぐに感じた。息を吸うために、それまで固く結んでいた口を開く。口のなかに空気と一緒に水も入ってくる。でも、もう気にしない。吸い込んだ空気と一緒に水中に戻るとき、口のなかの水はいつの間にか吐き出されていた。

 今でも息継ぎは怖い。だけど、怖くても泳ぐことはできる。前に向け、手を伸ばす。今度は反対の手で前に向け、手を伸ばす。泳ぐことはそれの繰り返しだ。繰り返していると、どんどんと前に進んでいける。

 体が息苦しさを感じると、水面に顔を出す。水の上には太陽の光が輝いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

この夏が終わらなければ 瀧田通史 @windbell358

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ