第四話

 やることもないので日中は夏休みの宿題に手をつけた。中学受験をする人もいるからというので今年は自由研究や工作といった時間のかかる宿題は課されなかった。単純な問題を解いていく宿題しかなく、それらも始めたら三日ですべて終わってしまった。例年は夏休みが終わる前まで宿題なんて開こうともしなかった。やるべきことに飢えているとこんなことも熟せてしまう。

 いよいよ何もすることがなくなると埒が明かないことを考えてしまう。ケンタが独りで歩いていること、おばあちゃんがただ転んだこと、ハル兄ちゃんが冷たいこと、良樹に何も言わずに来てしまったこと、二十五メートルプールを泳げなかったこと。頭に浮かんだそれらの物事をなんらかの結論じみた考えが出てくる前にかき消す。

 浮かんでは消える思考に押しつぶされそうになった時には頭のなかで音楽を再生した。夜中にラジオから流れた音楽を思い出しながら空で聴く。聴き馴染みのあるヒット曲、初めて名前を聞いた歌手の曲、なにを歌っているのかわからない外国の曲。思い出せる限りでそれらを頭のなかで鳴らした。


 夕飯に呼ばれて居間に入ると、居間の隣にある仏間の様子が朝と違っていることに気付いた。仏壇の前には雛壇のようなものがあり、その周りには提灯が置かれている。お盆飾りだった。

 ぼくがそれらを眺めていると料理の乗った大皿を運んできた麻美おばさんに声をかけられた。

「もうお盆だからね。今日の昼間に用意したんだよ」

 居間と仏間を仕切る襖は開けっ放しになっていて、電気のついていない仏間に提灯の灯りが揺れているのを見ていた。

 いつも通りに夕飯が済み、ハル兄ちゃんもアキ姉ちゃんも部屋へ引き上げていった。麻美おばさんは食器を片付けにいき、居間にはぼくとおじさんの二人が残った。おじさんは黙ったままテレビを眺めている。仏間の提灯は点けっぱなしで、提灯の色のついた薄い紙を透過した光が畳を照らしている。

 そっと仏間に入り、仏壇の前に立った。花やお菓子で飾られた盆棚。灰の溜まった香炉。うちにある仏壇で使われているのとは違う線香。

 あのとき、おばあちゃんがケンタの家の前で線香を立てていたことを思い出した。あのときぼくは手を合わせなかった。

 お盆で死んだ魂が帰ってくるとしたら、ケンタの魂はどこに帰ってくるんだろう。国道で轢かれたという犬がケンタであるかはわからない。ケンタがどこにいるのかもわからない。またなにかが頭に浮かんでくる。それが言葉になるのをかき消すため、急いで部屋に戻って灯りもつけずにラジオを点けた。

 まだ夜の浅い時間のラジオはニュースを流している。音楽が聴きたかった。部屋の電気はついていないが、縁側の襖があいていて月の灯りが入ってくる。手元がはっきり見えるくらい明るかった。

 持ってきた荷物のなかから一枚の写真を取り出す。ケンタを探すためのポスターを作ったときにコンビニで印刷した写真だ。去年のぼくが幸せそうに笑っている。その隣のケンタがいたはずの空間は、ハサミで切り取られていた。ぼくが切り取ったんだ。ハル兄ちゃんがいて、アキ姉ちゃんがいて、そしてケンタの形の空白があった。

 その写真にケンタはいないし、あの頃のハル兄ちゃんもアキ姉ちゃんもいない。変わらずにいるのはぼくだけだった。

 この写真の頃に戻りたい。ぼくはそう強く願った。興味のないラジオのニュースの声は全然耳に入って来なかった。どうしてぼくはここにいるんだろう? わからなくなってしまった。ぼくはケンタを見つけなくてはいけないんだ。今もどこかで独りでいるケンタを、ぼくが抱きしめてあげなくてはいけない。そうだった。ぼくは、家に帰ることを決めた。




 伏見の家を出たのは昼過ぎだった。麻美おばさんには何も言わずに出てきた。一人で帰ると言うと止められるのはわかっていた。

 お父さんから何かあった時のためにお金を持たされている。歩いて駅まで辿り着けば電車に乗ってすぐにでも帰ることができる。来たときと逆の道を行けばいいだけだ。

 伏見の家から駅までは車で二十分ほどの距離だった。歩いていくとどれくらいの時間がかかるか分からなかったが、どこまでも歩いていけるような気がした。ずっとケンタを探し回っていたから身体に力がついたのだろう。色んな荷物が詰まった鞄を背負っていても平気だった。

 車の中から見ていた道を進んでいく。少しでも見覚えのある道を進んでいく。車窓の視点と実際に歩くときの視点が違っていて、正しい道であるのか段々と自信がなくなってくる。看板の色やなんとなくの方向感覚を目印に歩いていく。そうして歩いて行っていくつかの交差点を渡った時、いつの間にか全く知らない場所にいることに気付いた。慌てて道を引き返すも、引き返した場所も見覚えがない。完全に道を見失ってしまっていた。


 民家も疎らな田舎道だった。山沿いの道を当てもなく進んでいく。歩き続けていたらいつかは駅に辿り着くかもしれないと思った。立ち止まったら不安になるのもあった。山の影になって昼間でもやけに暗い。どれくらい歩いたのかわからないが、そろそろ日が傾いてきている。

 山道の入口があった。駅には通じていないが、ここは見覚えがあった。ずっと昔にハル兄ちゃんと遊んだことがある。たしか、山のなかにある池へと通じていた。知らない道を歩き続けていたので記憶にあるところを見つけてほっとしたのかもしれない。ぼくはふらふらとその山道へ足を向けた。

 ぼくが小学校に通い始めた年の夏にハル兄ちゃんに連れられてここに来たのだった。伏見の家からはかなりの遠出だったはずだ。舗装はされてはいるがメンテナンスは長いことされていないような山道は使う人もいないのか長い草に浸食され獣道と変わりなかった。木々が生い茂り、重い葉が空を覆っている。深い森だ。ハル兄ちゃんはぼくに池を見せたかったらしい。誰も知らない秘密の場所のような池だった。

 数年ぶりに見てみると、それはただの溜池で、落ち葉や泥でひどく汚れていた。ハル兄ちゃんと見た時には神秘的な光景だったものが、すっかり色褪せていた。ぼくは池の畔で座り込んだ。

 空は曇ってきたのかどんどん暗くなっていく。今は何時なんだろう。時計も持っていない。歩き疲れて座り込んだらもう一度立ち上がる気力もなくなった。頭の中にずっと避け続けてきた考え事が浮かんでくる。ラジオで聴いた音楽を思い出そうとするが、疲れているからか何の曲のフレーズも出てこない。

 浩太が見たという国道の犬。その犬は首輪をつけていたんだろうか。そして、首輪の先に紐の端がついていたんじゃないだろうか。

 本当はわかっていたんだ。ぼくは、その犬を確かめに行くべきだったんだ。ケンタであってもそうでなくても、ぼくは見ておかなくてはならなかった。

 見に行かなかったのは怖かったからだ。なにが? それは、ケンタの死を確かめることが。

 確かめないままでいたならば、ケンタは生きている可能性をずっと信じていられる。ある日ひょっこりと戻ってくることを夢見ていられる。


 きっと、もう、わかっていたんだ。


 良樹と遊ばなくなったのは何故なんだっけ? クラスが変わり、学校で良樹と顔を合わさなくなると自然と離れていった。公園の近くにある良樹の家のチャイムを鳴らし、一言声をかければいつでも遊べたのだろう。でも、それをしなかった。夏休みになるまで良樹のことを忘れたようなふりをして過ごしてきた。何故なんだっけ。

 良樹に新しい友達ができて、ぼくとは遊んでくれなくなる。今までの友達でも同じことがあった。ずっと友達でいられると思っていても、相手の交友関係も変わっていく。いつの間にか友達からその他の大勢になっていた。良樹に会うのが怖かった。会いさえしなければ、いつまでも友達だった記憶を塩漬けできる。それはぼくにとっての慰めだった。


 空は勢いを増して暗くなっていく。夕暮れが飛ばされたように急に夜になっていった。森のなかでも溜池の上には空が見えた。でも、月も星もなく、厚い雲があらゆる光を遮っている。鞄から写真を取り出し、もう一度見た。相変わらずのケンタのいない集合写真。ぼくだけが取り残された写真。


 この写真を撮ったとき、庭にはおばあちゃんもいた。バーベキューのあとで大人たちは集まってお酒を飲んだり話をしたりして過ごしていた。

 お医者さんはぼくのことを生きるチカラが強いと言っていた。おばあちゃんは生きるチカラが弱いのか。だから転んだだけで入院をするのか。

 ケンタがだんだんと元気がなくなっていることには気づいていた。ケンタの生きるチカラも弱ってきていたのかな。おばあちゃんも、いつかはぼくの前からいなくなるのかな。

 その考えは何度も頭に浮かんではかき消してきたものの一つだった。今、ちゃんと言葉にして考えてみたらぞっとした。

 ケンタもおばあちゃんも、おとうさんもおかあさんも、麻美おばさんもおじさんも、ハル兄ちゃんもアキ姉ちゃんも、良樹も。いつかはみんな、ぼくの前からいなくなる。本当はずっと、いなくなるってわかっていた。でも、ずっと忘れたふりをして、過ごしてきた。それを覚えていたままでは、みんなと一緒にいるのがあまりに怖すぎる。


 これは考えてはいけないことだったんだ。


 全ての明かりが消えた。ぼくの目にはもう何も見えない。手に持っているはずの写真にケンタの空白はもうない。ケンタの空白も、それ以外も、全てなくなってしまった。


 ずっと、考えてはいけないことがあった。終業式の日、家に帰ったぼくの目に入った噛み千切られた紐のこと。

 ケンタは、自らぼくから離れていった。ぼくがいない場所へ、ぼくを置いて行ってしまった。

 だからぼくはどうしてもケンタを見つけたかった。探し出して、最後に話をしたかった。確かめたいことがあったんだ。


 ケンタは、ぼくのことを嫌って逃げ出したんじゃないよね。


 ぼくとケンタの間にはいつも紐があった。散歩に行くときも、庭にいるときも、ケンタはずっと紐で繋がれていた。ぼくはきっと、その紐を見て安心していたんだ。繋がれている限り、ぼくから離れていくことはないって。

 ずっと握っていた紐が千切れたとき、ぼくは独りになった気がした。ケンタがいなくなったのではなく、ぼくがどこかへ放り投げだされた気がした。紐の先を辿っても安心できる存在がない。繋がれていたのはぼくの方だったのかもしれない。


 いつまで経っても闇に目が慣れない。目を開いているのか閉じているのかも文目がわからない。手の感触だけが写真を握っていることを伝えてくる。去年の写真。

 このときに戻してほしいと見えない星に願った。叶わないとわかっていた。ならせめて、これ以上ぼくから何も変えないでほしいと願った。おばあちゃんはいつまでも元気でいて、良樹は友達でいてくれる。この夏が終わらなければいいと強く願った。




 時間の感覚もなくなっていつまでそうしていたのかもわからなくなっていたころ、遠くに星が見えた。全てが真っ暗な世界のなかで、目の前に小さな星が映った。

 星は見つめていると、こちらに近づいてきた。溜池の向こうに見えた星は、池の周りを回ってこちらに近づいてきた。土を踏む足音も近づいてくる。星だと思っていたものは懐中電灯の灯りだった。

 ケンタがぼくを探しにきてくれたのかと思った。でも違った。懐中電灯が確信をもってぼくを照らす。誰かは確かにぼくを探しに来てくれていた。光の持ち主の顔を見ようと視線をあげるが、暗くて顔は見えなかった。でも、それが誰かはわかっていた。


「ミナト、ごめん」ハル兄ちゃんの声が聞こえた。




「なんで泣いているの?」ぼくは訊く。

「俺が冷たくしたから、ミナトは家出したんだろ。心細かったよな。辛かったよな」

 ハル兄ちゃんは泣き声で言った。麻美おばさんからぼくがいなくなったことを聞いて、探しに来てくれたらしい。思いつく場所としてぼくを連れて行ってくれた場所を巡っていたのだという。

 ぼくの重たい鞄を背負い、ぼくの手を握って歩き出した。

「ミナトがうちに来るから部屋を片付けておけって母さんが言ったんだ」ハル兄ちゃんはぽつりぽつりと呟くように語る。

「俺の部屋でミナトが寝泊まりするからって。でも俺は嫌だったんだ。ミナトが来ることがじゃなく、部屋で一人になれないことが。それで母さんと喧嘩した。ミナトを客間に一人で寝かせることに決まったけれど、後からやっぱり俺の部屋で一緒に寝泊まりしろって言われたくなくて、ずっと素っ気なくしちゃった。ミナトがあの家で寂しくしているって気付いていたのに。ほんとうにごめん」

 ううん。とぼくは首を振った。「気にしてないよ」と言った。本心だった。ハル兄ちゃんが変わってしまってショックだったことは確かだったけど、今こうして一緒にいてくれるなら、そんなことはどうでもよくなった。

「ぼくが帰ろうとしたのはハル兄ちゃんのせいじゃないよ」ぼくは言う。それはちゃんと伝えてあげなくちゃいけないことだった。ぼくを探して、ぼくを見つけてくれたのだから。

「ミナトは自分の家に帰りたいんだろうけど、今日は俺んちに帰ろう。母さんもミナトのために準備してたんだよ」

「え? なにを?」

「覚えてないのか? 今日は、ミナトの誕生日だろ」


 そうだった。13日はぼくの誕生日だ。自分の誕生日を忘れるなんて思ってもいなかった。ぼくはいつの間にか12歳になっていた。


「ミナトはうちの子に生まれてこなくてよかったな」

「どうして?」

「俺は春に生まれたからハルマだし、姉ちゃんは秋に生まれたからアキコだ」

「うん」

「ミナトがうちで生まれてきたら、ナツオみたいな安直な名前になっていたぞ」

 そう言ってハル兄ちゃんは笑った。ぼくも笑った。一緒に笑い合えるのが、涙が出るほど嬉しかった。

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