第三話

 電車の窓から流れる景色を眺めていた。

 四人がけのボックスシートに乗客はぼくしかいなかった。空いている席に重たい鞄を座らせた。大げさなくらいに膨らんだ鞄には数週間分の着替えとまったく手つかずの夏休みの宿題が入っている。携帯ゲーム機や何度も読んだ漫画も持ってきたが電車のなかでそれらを開く気にはなれなかった。

 一人で電車に乗るのはこれが初めてだった。駅でお父さんに渡された切符は子供料金と書かれていた。中学生になると大人料金になるのでこの夏が最後の小学生料金で電車に乗れる機会だとお父さんは言った。電車は駅を発つとぐんぐんスピードをあげ、窓の外の風景をあっという間に消し去る。絶えず風景が更新される。山間に小さな集落が一瞬現れて通り過ぎる。ぼくがそこに住んでいたらどんな暮らしをするのだろうかと頭のなかで想像してみる。想像が具体的な形を持ち始める前に電車はスピードを落としはじめ、次の駅に停まる。乗客の何人かが入れ替わって、また次の駅を目指して速度を上げていく。


 あの日、家に帰ってきたお母さんが救急車を呼んだらしい。家の周りに集まっていた人のなかに紛れて担がれて救急車に入っていくおばあちゃんを見送った。救急隊員の人が「付き添いの方は乗ってください」とお母さんに声をかけた。お母さんは「息子がまだ帰ってきてないので家で待っています」と答えていた。

 ぼく、ここにいるよ。と玄関先でぼくは言った。

 お母さんはぼくを険しい目で見つめた。ぼくの方へ歩いてきて、少し屈んで諭すように言った。「病院に行くから、一人で家にいなさい。お父さんが帰ってきたら、一緒に病院にきて」言い終わるとお母さんはくるりと踵を返し、救急車に乗り込んで行ってしまった。

 近所のおばさんたちが大丈夫だからね、と涙ぐんだ声でぼくに声をかけ、それぞれの自宅に帰っていく。

 玄関を開けて家に入った。おばあちゃんもお母さんも家のなかにはいない。ケンタもいない。日が暮れているのに電気がついていないリビング。遠くの工場のサイレンの音。ほこりっぽい匂い。ぼくはなんだか他の人の家に上がり込んだような気持ちになった。

 お父さんが帰ってきて、部屋の電気をつけた。気づけばぼくは暗くなるまでなにをするでもなくソファに座っていた。

「じゃあいこうか」とお父さんが言った。ぼくは黙って立ち上がり、父の車に乗り込んだ。


 数回の乗り継ぎのあと、ぼくが降りる駅に着いた。家を出たのが午前中なのにもう夕方になっていた。駅のロータリーへ出ると麻美おばさんがぼくを見つけて手を振った。

「ミナトくんおっきくなったねぇ。一年ぶりか。さあさあ車に乗って」

 ロータリーにワゴン車が停まっている。乗り込むと、運転席におじさんがいた。重たい荷物を後部座席に下ろし、麻美おばさんが助手席に乗り込むと車は出発した。

「ばあちゃん大変だったねえ」と麻美おばさんは後部座席の方へ振り向いてぼくに話しかけてきた。ぼくに合わせてばあちゃんと呼んでいるが麻美おばさんにとってのおばあちゃんは母親だ。大人がぼくと話すとき、いつもぼくの基準に合わせて話をしてくれる。

「たいしたことはなかったのですが念のための入院だそうです。しばらくの間、お世話になります」

 予め用意しておいた文言を諳んじて、頭を下げる。麻美おばさんはそんなぼくのことを見て、立派になったねえと褒めてくれた。おじさんは特になにも語らず、運転をしていた。麻美おばさんが話しかけてくるたびに返事をし、相づちを打つ。駅から二十分ほど走っただろうか。伏見の家に着いた。

 ぼくがリュックを背負って玄関を開けると、アキ姉ちゃんが出迎えてくれた。

「ミナトくん久しぶり! 背、伸びたね!」とアキ姉ちゃんが言った。去年は伏見家がぼくの家に遊びに来ていた。庭でBBQをして、ケンタとアキ姉ちゃんとハル兄ちゃんで遊んだ。あれから一年が経つ。アキ姉ちゃんも去年よりずっと大人っぽくなっていた。でも、そんなことは口に出せないから「お久しぶりです。お世話になります」ととってつけた礼儀正しい挨拶をした。

「ハルマ。ミナトくんきたわよ。おりてらっしゃい」麻美おばさんが階段に向かってよく通る声で呼びかけた。ハル兄ちゃんが階段から降りてくるのを待っつ。が、数秒経っても二階から物音はしなかった。

「ミナトくんごめんね。ハルマ、いまは拗ねているから」と麻美おばさんが言った。

 麻美おばさんの言ったことが分からなかったがとりあえず頷いた。

 すぐご飯にするから待っててねと言い残しておばさんは台所へ向かった。アキ姉ちゃんも自室に戻っていって、居間でおじさんと二人取り残された。リュックサックは居間の隅に置いた。おじさんはなにも言わずにTVをつけて眺めている。ぼくもすることがないので居間のローテーブルの前に座ってTVを見た。地方ローカルのニュース番組のようでぼくが見たことのない番組だった。司会の女の人が地域の催しについて語っている。

 おじさんはぼくがTVを見ているのに気づいて、「なんか見たいもんでもあるかい?」と聞いてきた。ぼくは「いや、なにもないです」と答えた。本当はアニメでも見たかったけど、素直にそう言ってしまったら子供っぽすぎると思って言い出せなかった。

 ぼんやりとTVを眺めているうちにおばさんが大皿に載った料理を運んできてテーブルに置いた。人数分の茶碗や小皿や箸を手際よく並べる。準備ができると居間から廊下に向かって、「ご飯できたよー!」と大きな声で叫んだ。しばらくすると階段を降りる足音がして、アキ姉ちゃんが居間に入ってきた。

「ハルマが降りてこないから呼んできてくれない?」おばさんがアキ姉ちゃんに言った。

「えーやだ。アイツめんどくさいもん。ほっとこうよ」アキ姉ちゃんが言った。そんなやりとりをしているうちにハル兄ちゃんが居間に入ってきた。去年のハル兄ちゃんとは雰囲気が大きく変わっていた。円くて人懐っこそうな目は食卓の家族みんなを睨み付けるように鋭くなっていた。背が伸びて大人みたいだった。

 ハル兄ちゃんはぼくの方を見たが、何も言わずに机の前に腰を下ろした。

「ほら、ハルマ。ミナトくんがきてるんだから挨拶しなさい」麻美おばさんが言った。

 ハル兄ちゃんはそれを無視して箸をとってご飯を食べ始めた。「おい、なんだその態度は」おじさんが低い声でハル兄ちゃんに言う。

 慌てて麻美おばさんが「ミナトくんが来てるんだから止めてよ。さっさと食べましょ」と言って手を合わせて料理に手をつけた。それにあわせてアキ姉ちゃんもおじさんも食べ始めた。ぼくは小さくいただきますと言って、その後は無言で食べ始めた。気まずい食卓だった。だれも見ていないTVのバラエティ番組で司会の人が発する明るい声だけが空しく響いた。

「そういやミナトくんの荷物、部屋に置いてきたらよかったね。食べ終わったらミナトくんの部屋を案内するね」とおばさんが言った。食事中もぼくの大きな鞄は居間に置きっぱなしだった。「え? ハル兄ちゃんの部屋じゃないの?」とぼくは言った。いつも伏見の家に泊まるときはハル兄ちゃんの部屋で一緒に寝ていた。今回もそうだと思っていたから改めて部屋を案内すると言われて意外だった。

 それを聞いたハル兄ちゃんが、叩きつけるように箸を机に置いた。茶碗に当たって大きな音が鳴った。

「オレの部屋に勝手にはいるなよ」ハル兄ちゃんが言った。一年ぶりに聞いたハル兄ちゃんの声は、去年と全然違っていて低く掠れていた。

 ハル兄ちゃんは立ち上がり、食卓を後にした。ハル兄ちゃんの背中におじさんが「おい!」と怒鳴り、おばさんは「いいから」と制した。アキ姉ちゃんはため息をついた。何度も繰り返されてみんな慣れているみたいだった。


 案内された部屋は台所と廊下を挟んで向かいにある客間だった。部屋の隅に畳まれた布団があり、あとは使われていないラジカセやストーブなどが仏間に重ねられているだけで他にはなにもない部屋だった。おじさんが折り畳み式の小さな机を持ってきて、部屋の中央に置いた。宿題をするときに使えるように配慮してくれたらしい。ありがとう、とぼくは言った。無口なおじは黙って頷き、部屋を後にした。

 伏見の家には何度も遊びに来たことはある。この部屋も両親が泊まっていた部屋で何度も入ったことがある。でも、記憶のなかの伏見家と今の気持ちは全くの別物だった。急に一人になった気がした。世界でだれもぼくのことを知らないような気分になった。居間から漏れるテレビの音が、すごく遠いもののように思えた。

 布団を敷いて部屋の電気を消した。今の気持ちに向き合ってなんらかの言葉にしてしまったら、すべてが壊れそうな気がする。夢も見ないようにすべてを閉ざすつもりで強く強く目をつむった。



 おばあちゃんの病室は大部屋で他に二人の入院患者がいた。処置が済んで普通のベッドにいるおばあちゃんは、見舞いに来たぼくに「大袈裟なことせんでええ」と言った。頭には包帯が巻かれて脚には固定用の機材がついているが、おばあちゃんは普段と変わらない声で語りかけてくる。

 お医者さんが言うにははおばあちゃんが病院に運ばれた原因は転倒なのだそうだ。消毒液の臭いに満ちた病室前の廊下でそう聞いたとき、ぼくは「それだけ?」と言ってしまった。お母さんはムッとした顔でぼくを見たが、お医者さんは優しい声で「君くらいの歳だと生きるチカラが強いから転んだくらいではなんともないけど、お年寄りだと大変なことになる場合もあるんだよ」と教えてくれた。

 大部屋の他の入院患者たちのベットにはカーテンがかかっていて姿は見えない。空いているベットは布団が敷かれていない。他の人の迷惑になるからとその日は父さん母さんと一緒に家に帰った。

 お盆の時期に伏見の家に遊びに行く予定をしていたが、おばあちゃんの入院で旅行は立ち消えた。お父さんもお母さんも仕事があって日中にぼくが一人になることと、夏休みの間にぼくがどこにも旅行にいけないのはさみしいだろうということで、ぼくだけが一人で伏見の家に預けられることになった。ハル兄ちゃんたちと遊べるのでぼくも楽しく過ごせるだろうと両親は思っていたようだが、ハル兄ちゃんもアキ姉ちゃんも部活で昼間は家におらず、帰ってきてもハル兄ちゃんは部屋に閉じこもってぼくと話もしてくれなかった。



 伏見の家で過ごし始めて一週間が経った。午前中に夏休みの宿題をして、午後からは麻美おばさんの買い物に付き合った。ほとんど部屋にこもりっきりのぼくを麻美おばさんはよく外へ連れ出してくれた。車で三十分ほどの大きなスーパーに行き、麻美おばさんが食料品の買い物をしている間にぼくは本屋やおもちゃ売り場を見て回った。見たいものはなかったが部屋にいるよりはマシだった。伏見家の周りはぼくの家よりも田舎で、遊び場らしい遊び場はない。公園はないし、そもそも子供が少ないようだ。このスーパーくらいでしか買い物もできない。

 夕方から麻美おばさんは晩御飯を作り始めて、そのうちハル兄ちゃんとアキ姉ちゃん、おじさんが帰ってくる。晩御飯ができるまで近所を散歩する。伏見の家は小さな集落のなかにあって、数軒の古い家が並んでいるが少し歩けば田んぼが広がっている。次の集落まで歩いて10分ほどの隔たりがある。

 昔ハル兄ちゃんに教わった場所を巡ってみる。大きなカエルがいる用水路、使われていない空いた畑、隠れ家のようになっているバスの停留所。ハル兄ちゃんと一緒に遊んだときには輝いて見えた景色は一人だとかすんで見えた。


 晩御飯を食べたあとはやることもないので持ってきたマンガを読み返したり携帯ゲーム機で遊んだりする。でも、それらも楽しくなくて、さっさと部屋の電気を消して寝てしまう。

 部屋の電気を消したあとにラジカセの電源をつけて、音を小さく絞ってラジオを聴いた。この部屋に元々あった使われていないラジカセだ。勝手に使ったらいけないかもしれない、夜中に聴いていたらうるさくてみんな起きちゃうかもしれない、そんな不安があってこっそりと小さな音で流している。カエルや虫の声のなかでラジオの音が微かに聞こえる。その音に集中して耳をすませる。生放送の番組でラジオパーソナリティの人がメールを読んだり曲を流したりする。そんなのを聴いていると、この世界でぼくのほかにも人がちゃんといるんだと安心してよく眠れた。

 一日のなかで一番楽しいのが、この夜中の時間になっていた。

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