あまりにもたくさんの蝶がとびたつ

水島南

あまりにもたくさんの蝶がとびたつ

 数多の羽ばたきが絶え間なく生む風は、まるで囁きのように、あるいは誰かがいたずらに吹きかけた息のように、高木義則の頬を、耳をくすぐってゆく。飛び立つ蝶の中には、一羽として他と同じ翅を持つものはいないだろう。彼はそれを確信している。翅が生まずにはいられない囁きは、一羽として同じものがいない者たちが、それでも互いの存在を知らせあうために必要な言語なのではないかと彼は思う。

 彼は人差し指を立ててみる。一羽の蝶が羽ばたき寄って、彼の指の上でその翅を休める。翅は動きを止め、その蝶は囁くことを止める。その翅を見て、彼はなぜか懐かしいような気持ちになる。


   *


 多くの子どもと同じように、幼い頃の彼は昆虫採集が好きだった。暖かい時期の休日には、決まって家の近くの公園に出かけていくと、キチキチと音を立てながら飛ぶバッタを追いかけ、時には宝物のような複雑な光沢を持つ甲虫を木から引き剥がし、そして少しだけ涼しくなってくると、山から街へと降りてきたトンボを日が暮れるまで追いかけた。蝶もまた、彼の関心の対象だった。そして、遠く南米の生まれである彼の母親が、彼に語り聞かせる生まれ故郷の昆虫の多様さもまた、彼の昆虫への興味を育てた。色鮮やかな蝶や甲虫が森の木々を縫うように飛ぶ。地面を覆い尽くすようなアリの隊列にうっかり手をつくと、火傷のように腫れて痛む。夜になれば、樹幹や濃い茂みの中から、耳を聾さんばかりの虫の音が聞こえてくる。市街地に生まれた彼の母親にとっても、こうした深い自然の光景は馴染みのないものであったはずだが、しかし、それでも確かにそうした環境の近くに暮らしていたと言うことが下支えする語りを、彼は寝物語に、あるいは団欒の時に、熱心に聞きながら、まだ見ぬ昆虫への憧れを逞しくしていった。

 ある夏休みの日、外から帰った彼を出迎えた母親は、彼に一羽の蝶を見せた。彼はすでに、身近に生息している蝶を一通り捕まえたことがあった。モンシロチョウのシンプルな模様も、キアゲハの目の覚めるような模様も、ツマグロヒョウモンの暖色も、彼は知っていた。しかし、彼の母が見せた蝶の模様を、彼は知らなかった。翅全体を覆い尽くす深い寒色は、しかし平板ではなく、微妙な色合いの変化が翅に複雑な陰翳をつけていた。指についた鱗粉でさえ落とすのが惜しく思えた。もとより蝶の模様は言葉を尽くしても言い表すことが難しいが、しかし、その蝶の美しさを表す言葉を彼は持たなかった。記憶の中だけに留めておくのももったいないが、標本にするために殺してしまっても、その蝶の美しさが損なわれるような気がした。だから彼は母親につままれた蝶を虫かごに仕舞って、蝶をスケッチする。母親から色鉛筆を借りて、首をひねりながら幾色も重ねて、どうにかしてその陰翳を写し撮ろうとする。彼の母は絵を描くのが好きだった。彼が熱心にスケッチするところを、向いから静かに眺めている。スケッチが完成すると、彼は抗い難い誘惑に負けてその蝶を掌に乗せ、しばらく眺める。突然、それまで微動だにしなかった蝶は羽ばたくことを思い出し、彼の掌を飛び立ってしまう。

 彼は夏休みの残りを蝶の採集とスケッチに費やす。一冊のノートを使い切ったが、母親が見せてくれた蝶は、それ以降見つけることができなかった。彼はそのノートを夏の自由研究として小学校に持っていく。彼の担任は、そのノートが幼い科学的探究心の現れだと絶賛する。彼はそれを喜び、授業参観の日の授業が終わった後、担任教諭のコメントがついたノートを両親に見せにいく。はやる心を押さえながらノートを開いて見せた彼は、一ページだけ、最も大切なスケッチのページだけが切り取られていることに気づく。

 それから蝶は、彼にとっての一番になる。

 暖かい時期は、時間があれば捕虫網を持って外に出て、見つけた蝶を捕まえていく。捕まえては、ボロボロのノートにメモを取っていく。珍しい蝶を捕まえると、三角紙に包んで持って帰って標本にした。学年が上がるにつれて、彼は新しい蝶との出会いを求めて、より遠くへと出かけるようになった。彼の部屋の棚が標本箱で三分の一ほど埋まったとき、両親が離婚した。彼は母国へ帰る母親ではなく、日本にとどまる父親に引き取られた。それまでは彼の母の母国の流儀で書くと高木=ゴンザレス・義則でもあった彼は、高木義則になった。そうしたことが彼の身の回りに様々なさざなみを立てた。その間、彼の考えることのほとんどは蝶のことだった。いつしか、誕生日プレゼントで父親がくれたデジカメがスケッチにとって変わった。幼虫の食草を庭に植え、そこに生みつけられた卵から孵化した幼虫の成長を見守ったりした。昆虫の図鑑と標本箱とで彼の部屋の棚はいつしか埋まってしまった。

「なんでそんなに蝶が好きなの?」

 初めてそう尋ねられたとき、彼は自分がその答えを持っていないことを初めて自覚し、しばらく言葉を返せなかった。質問の主は羽島襲はしまかさねという少女だった。あまり友達の多いとは言えない彼にとって、小学校に上がる前から互いを知っており、クラスが同じになることが多いせいで必然長い付き合いのある彼女は、彼が気安く話すことのできる数少ない同級生の一人だった。彼は、彼女の名前に「羽」の字が入っているところに、彼の好きな蝶との共通点を感じ、うらやましく思っていた。一度そのことを話したとき、彼女は「流石にそこまで蝶のことばかり考えるようになってたとは思わなかった」と言った。彼女は、彼が蝶を好きなことを、蝶にのめり込んでいく過程を知っていたし、大切な一枚のスケッチが破り取られていたことに彼が静かな悲しみを覚えていたことも知っている、数少ない友人でもあった。

 しばらく悩んで、彼は正直に答えた。

「わからないんだ。蝶の翅の模様が好きだし、飛び回る姿は種ごとに違うけど、それら全てが好きなのかもしれない。でも、それは蝶が好きだから翅や飛ぶ姿が好きなのであって、決してその逆じゃないんだ。だから、なんで、って問いに答えること自体が難しいのかもしれない」

 正確に答えようとすればするほど、持って回ったような言い方になってしまうことをもどかしく思いながら彼は答えた。羽島は「ふーん」と頷くと、

「いつかわかるといいね」

 と言った。


 近所の中高一貫校に進学した彼は、学校の校舎裏にいまは使われていない温室があることに気づいた。以前はその学校には園芸部があり、それが廃部になった後は、ただ誰からも必要とされずにそこに建ったままになっていた。周囲は空き地となっていて、夏は背の高い草が生茂り、冬はそれらが枯れて、そよ風が吹くたびにかさかさと乾いた音を立てた。

 彼は以前園芸部があった頃に顧問をしていた教師を訪ね、蝶を飼育したいのだが、その温室を使わせてくれないかと頼み込んだ。その教師は園芸部に対してさして熱意はなく、彼の、科学部の部員として蝶を調べたいという説明を聞くと、気軽に彼の頼みを聞き入れてくれた。

 彼は翌日から、温室に植木鉢やプランターを運び込み始めた。自分の知る限りの蝶の幼虫の食草や、蝶が蜜を吸いにくるような花を能う限り集めた。温室の中には穏やかな葉陰が常に揺れるようになった。それが終わると、次に彼は野外で採集した蝶を温室に放ち始めた。一ヶ月ほどかかって、温室は彼のための蝶園になった。学校のゴミ捨て場から捨てられていた椅子を持ってきて温室の中に置いた。彼は休み時間にはよくここにくると、椅子に腰掛け、植木の葉陰や温室の天井ちかくを飛び回る蝶を黙って見上げながら時間を過ごした。夏を迎える頃には蝶の数も種類もさらに多くなり、彼の身近に見られる種類はほとんど彼の蝶園に収まるくらいになった。初めは、ただ蝶が飛び回る空間をみて満足を覚えるだけだった彼も、やがて、そうした蝶のあり方を記述したい欲望に捉われるようになった。二羽の蝶が戯れるように飛び交わすところ、葉の上に止まった蝶が意味ありげに翅を閉じたり開いたりするところ、ある蝶が葉の表側に止まったり裏側に止まったりするところ、彼は様々なことを残さず記録するようにした。彼は、自らの蝶への関心を人生の中心に据える方法として、科学者というあり方があることをおぼろげながら認識し始めており、現実に起きたことの細かな記述は、それに近づくための一つの方法なのではないかと考えていた。

 そうして季節が過ぎた。冬が過ぎ、春が訪れ、様々な蝶が蛹から羽化して、また空中を飛び交うようになって、彼は初めてそのことに気づいた。温室の中で日に日に数を増していく蝶を、彼は来る日も来る日も椅子に腰掛けて眺めていた。ふと、彼は制服の紺色のズボンに目を落とした。彼の膝の上には、春の柔らかい陽が植木の葉陰の隙間から落ちてきていて、小さな陽だまりができていた。その暖かさに誘われたのか、一羽の蝶が頼りなく羽ばたき、彼の膝の上に近寄ってきた。彼は目を見張る。その蝶の模様は、昨年彼が見たどの蝶とも異なっていたからだ。

 彼ははじめ、異なる種の交雑を疑った。しかし、大抵交雑個体の模様は両親の中間的な特徴を具えることになる。しかし、その蝶の模様はタテハチョウの一種に似ていながら、しかし、彼がこの温室に収めたどの種とも異なる特徴を有していた。

 それから、彼は次々と新たな蝶の翅を目撃する。様々な分類群の蝶で、昨年は見なかった模様を持っている蝶を発見した。そしてそのいずれも、交雑と言うよりは、新たな変異のようだと彼は判断した。

 その年、彼は昨年にも増して事細かな記録を残した。暇さえあれば温室にいる蝶を捕まえて、すでに年季の入りつつあったデジカメで記録を撮った。新しい蝶を捕まえては温室の中に収めた。温室にいる蝶の模様は日に日に増えていった。

 そうして再び季節が巡り、翌年の春を迎えて、彼はこの温室ではなんらかの要因があって、遺伝的な変異の発生が、もっと言えば進化が促進されていると結論づける。温室の中にはすでに、彼の知らない模様の翅が溢れていた。それらの蝶は、互いに似ているものもあったが、いずれも異なる特徴を有している。


 それから彼は、温室の中のことを熱心に記録しながら、野外にも熱心に出かけるようになる。温室の中が、野外と決定的に異なると気づいたからだ。両者を共によく知っていることが、蝶をよく知ることだと彼は思っていた。そして、野外で新しい蝶を捕まえると、持って帰って温室へと放った。休み時間ごとに温室を訪れるので、彼が授業以外で何をしているのかを知っている同級生は少なかった。羽島と科学部の顧問以外に、彼が温室で蝶園を営んでいることを知っている者は少なかった。彼は一人で蝶を育て、蝶を知っていった。すべては翌年の春に向けた準備だった。昨年よりも蝶の数が増えているので、全てを記録するには時間が足りない可能性があった。すべては難しくても、可能な限り多く調べる必要があった。そうやってこの温室のことを知る必要があった。そうして季節がみたび巡った。彼は中学三年生になった。昨年よりも多くの蝶が羽化した。彼の知らない模様の蝶が増えている。彼は自らの時間を尽くして蝶を記録する。蝶の数は増え、模様も多様になった。それまでは彼の知っている種類の蝶にどこか似ているものが多かったが、世代を重ねるにつれてあるいは彼の知らないところで、知らない模様の蝶と知らない模様の蝶が交雑が起きていたのかもしれない、もう、その蝶がどのような模様の蝶から生み落とされたのか、わかるものの方が少なくなっていた。温室に差し込む陽は互いに異なる数多の蝶の翅のせいで、地面に降り注ぐ頃には翳ってしまっている。常に動いている蝶がいるから、明るいところと暗いところが常に移り変わる。彼の白い夏服には、一秒ごとに異なる陰が落ちる。過去に同じ形の陰があったことはなく、未来に同じ形の陰ができることはない。彼は椅子に腰掛けて蝶を見上げている。正確に言えば、蝶の作り出す影を見ている。


 彼は高校三年生になっていた。温室の中の蝶の数は限界に至っていた。すべての蝶が植木に翅を休めれば、必ず隣同士触れ合わずにはいられないくらいの密度だった。彼が温室に入る時は、間違って何羽かの蝶を逃してしまったり、扉を閉めるときに押し潰してしまわないように中が必要なほどだった。

 高校三年を終えれば、この温室を彼が使うこともなくなる。彼はいまだに蝶の記録を続けていた。新たな模様を一つ一つ記録しながら、彼は出どころのわからない焦りのようなものを感じていた。おそらくそれは、これを続けられるのは今年が最後になることから来るのだろう、と彼は無理に結論づけていた。そして、そんな時、彼はいつも羽島の言葉を思い出し、意識せざるにはいられなかった。

「いつかわかるといいね」

 彼は昆虫を学問として修めることができる大学を目指して受験勉強を進めている。羽島もまた理系を目指していたため、彼とは同じ授業をとることが多かった。高校三年生になっても、授業の合間などに言葉を交わすこともある仲だった。ある時彼女は、ごく普通の世間話のように、彼に問いかけた。

「あの蝶、来年からはどうするの?」

「おそらく、いまいる個体のほとんどは今年の冬までに死ぬはずなんだ。だから、蝶がいなくなったら、植木を燃やしたりして処分して、そうやって片付けることになると思う」

「ふーん」

 彼女の相槌は昔から変わらない、と彼は思う。彼女は少しだけ斜め上を見上げるように首を傾げると、

「じゃあ、ゴンゴンが今までやってきたことって、どうなるの」

「ゴンゴンって」

 彼女はまだ高木義則が高木=ゴンザレス・義則だった頃からの友人だったので、たまに彼をそうやってあだ名で呼ぶ。

「いいから、呼び方は。それよりも、それだけ血道をあげてやってきたことに、なんか結論が欲しくないの?」

「結論」

「蝶を育てた。新しい翅の模様を持った蝶がたくさん生まれた。それらが死に絶えた。そして、それらを全て、ゴンゴンだけが知っている。それでいいの」

 彼女は、あの温室で新たな模様の蝶が次々と生まれていることを知っていた。

「それでいい、と、僕は思っている」

「そんなはずないじゃん」

 彼女は食ってかかるようにそう言った。高木が高木自身について言及したことを否定することは、かなり珍しいことのように思われた。彼女のこれまでの言葉と、例えば「いつかわかるといいね」みたいな言葉と照らし合わせると、特にそうだった。

 高木はふと、自分が最近感じることのある、出どころのわからない焦りを思い出す。

「前にさ、羽島、なんで蝶が好きなのかって、いつかその理由がわかるといいねって言ってたことあるよね、覚えてないかもしれないけど」

「覚えてる」

 その言葉にも高木は驚いていた。

「羽島は、なんで僕が蝶好きなんだと思う?」

 そう問うてから、彼は慌てて付け足す。

「いや、変な質問してごめん。だけど、最近、自分がそのことばかり気にしてる気がするんだ」

 羽島はじっと高木の目を覗き込んだ。高木はなぜか気まずい気持ちになって、口を固くひき結んだまま、じっと羽島の目を見返している。

「なんで好きなのかはわからない。でも、なぜそこまで蝶のことを考え続けられるのかはわかる。むしろ自明なことのようにも」

「なんでそのことが」

 高木の言葉を遮って羽島は続ける。

「私はあのスケッチのこと、まだ覚えてるよ」

 ちょうどチャイムがなる。同時に先生が教室に入ってきて、羽島はなにも付け加えずに自分の席に帰っていく。

 高木はその日、ずっとあのスケッチのことを思う。


 高木義則は蝶が好きだ。少なくとも、蝶のことをずっと考えている。蝶の飼育にはまり込み、今は、毎日蝶園の中で蝶を見上げて、そして、その蝶一羽一羽の翅を記録し続ける日々だ。

 なぜ蝶の記録を続けるのか。それは、異なる翅を持つ無数の蝶の翅を、記録に残しておきたいからだ。知りたいから、と言い換えてもいい。しかし、記録したいという思いには、その先に続く道がないと彼は気づく。彼は昆虫学を修めたいと思っている。であるならば、記録するという行いは科学が延々と紡いできた営みの一つの形であり、彼自身の個人的な理由になったとは考えづらい。物事の順番が前後している。

 であるならば、別の道をとるしかない。

 つまり、飼育することで生まれた無数の種類の翅を記録したいのではなく、むしろ、無数の翅を生み出したくて、飼育している。無数の翅とは、彼の人生の時間的スケールと比較すれば、無限と言い換えてもいい。

 なぜ、無数の翅を生み出したいのか。

 無数の翅を生み出した先に何が待っているのか。

 彼はスケッチをした。そのスケッチは失われた。羽島襲はしまかさねは、彼がそれを悲しんだことを知っている。彼はなぜ悲しんだのか。そのスケッチがうまく描けたものだったからか。違う。そのスケッチに彼が格別の情熱を傾けたからか。部分的にあっているが、違う。

 その蝶は、彼が見たどの蝶よりも美しかったからだ。

 その蝶は図鑑にも載っていない。彼がこれだけ蝶を探し続けても、あれから一度も出会ったことがない。つまり、この世界のどこにも記録が存在しない。

 だから、悲しかったのだ。

 なぜ悲しいのだろうか。

 あの蝶は美しかった。手についた鱗粉を落としてしまうのが惜しいくらいに。高木=ゴンザレス・義則は母から借りた色鉛筆でスケッチをする。彼の母は、生まれ故郷の昆虫を、ランドスケープを、ことあるごとに彼に語り聞かせてくれる。彼の母は、絵を描くことが好きだった。

 彼は思い出す。いや、違う。これまで無意識に、しかし必死に思い出さないようにしていたことを、もはや抗うことができずに思い出してしまう。

 高木=ゴンザレス・義則の母、マヌエラ・ゴンザレス=アジェンデは、絵を、正確には、日本画を描くことが好きだった。

 マヌエラ・ゴンザレス=アジェンデは窓辺に止まった蝶を見つける。あるいは、玄関脇の庭木に止まっているところを見つけたのかもしれない。いたずら心から昆虫が好きな息子をからかおうと思ったのかもしれないし、あるいは、美しい昆虫を見せてあげたかったのかもしれない。彼女は蝶の翅に胡粉を落として、独特な模様を描いてしまう。そのままだと胡粉はすぐ落ちてしまうから、薄く糊を塗ったかもしれない。帰ってきた高木=ゴンザレス・義則に、マヌエラ・ゴンザレス=アジェンデはその蝶を渡す。幼い高木=ゴンザレス・義則は、その蝶のスケッチに熱意を傾ける。その姿を見つめるマヌエラ・ゴンザレス=アジェンデの内心を、高木義則は想像することができない。高木=ゴンザレス・義則は、その、偽物の模様を持った蝶の模様を忘れることができない。高木=ゴンザレス・義則は、もしかしたら、その蝶の向こう側に、まだ見ぬ南米の、数えきれぬほどの種類の昆虫を夢見ていたかもしれない。

 その蝶によって、息子が科学的探究心を芽生させたことは、傍目にも明らかだっただろう。そして、それは彼の担任でさえも知るところとなる。授業参観に赴いた教室で、何気なく手に取った彼の自由研究を見て、その発端が偽物の蝶であると突きつけられた時、マヌエラ・ゴンザレス=アジェンデがどのようなことを思ったのかも、高木義則は想像しない。ただ、あのスケッチは破り取られた。あのスケッチはさほどうまく描けたものではなかった。それだけでも根拠は十分なのかもしれない。マヌエラ・ゴンザレス=アジェンデは彼のイラストをこっそりと破りとる。

 そして、もっとも美しい蝶は、高木=ゴンザレス・義則の元を二度去ることになる。母親もまた、彼の元を去る。

 彼は今になってようやく、その蝶を求める気持ちを自覚する。せめてもう一度目にしたいと思う。そして、それが叶わぬことも。

 違う。実は、叶わないことではない。

 無限の蝶が、無限の種類の模様を持てば、その中には必ず、もっとも美しい蝶の翅と同じ翅を持つ蝶がいるはずだ。

 彼は今になって、自分自身がそう思っていたのだと気づく。

 彼はその蝶を見つけたいと願っている。そのために、無数の蝶を見上げている。

 

 蝶園の扉が開いてしまっている、と教えてくれたのは、用があって登校していた羽島だった。その日はもう夏休みに入っていて、予備校に通っていたのもあり、登校する頻度は学期中よりも低くなっていた。

 彼が予備校の夏季講習の教室を抜け出して校門を息せききって通り過ぎたとき、近くの植え込みに、見知らぬ模様の蝶が止まっているのを見つけた。それを見た彼はさらに足を早めて校舎裏へと向かう。

 自分の戸締りが甘かったのか、誰かがうっかり開けてしまって、びっくりしてその場を後にしてしまったのか、あるいは昨夜通り過ぎた台風のせいなのか、どれもがそれらしい理由だった。

「高木」

 羽島は温室の扉を力を込めて押さえ込んでいた。

「どうしたんだ、それ」

「開いてたから連絡してみたんだけど、閉じても閉じてもなんでか開いちゃうから、来るまで押さえてようと思って」

 高木は急いで扉に駆け寄る。扉に手をかけて、いつものように中に入ろうとする。

 風が吹いた。それは、無数の蝶がかき混ぜた空気が、塊となって彼の体を押しのけようとする風だった。

「わ」

 彼は後ずさる。扉を閉める力が緩んだ隙に、大きな空気の流れが、彼にさらなる後ずさりをさせる。バランスを崩して二歩、三歩と後ずさった彼の横を、ごう、と風が吹き抜ける。

 風ではない。無限の蝶だった。

 

   *


 高木義則は初めて蝶の羽ばたきの音を知った。これなら、蝶の羽ばたきが遠くの大地に竜巻を起こすと信じることさえできた。息を吸い込むと咳き込みたい気分になる。巻き上げられた砂のせいか、蝶が撒き散らす鱗粉のせいか。温室の容積を圧倒的に超えた体積の蝶が、温室の扉に殺到し、そして、外に飛び立っていく。密度の高かった蝶は黒々とした影を作りながら温室の周りを取り囲んでいた。周りに構わず飛び回るから、彼と羽島の体には絶え間なく様々な蝶がぶつかる。ぶつかった蝶は軽い音を立てて、それから、一目散に遠くに飛び去っていく。夥しい数の蝶の羽ばたきは、不規則で、砂嵐のように目が眩む。羽島は走って遠くへと逃げて、そこから高木に叫んだ。

「早く! 逃げて!」

 その声を聞いて、却って、彼はその場を逃げられないことを思い出した。

 到底信じがたい光景だったが、しかし、納得もできた。この温室では進化が促されていた。そういう仮説も成立するだろう。しかし、この温室が無限の蝶を生み出す温室だったという仮説もまた成立する。いずれにせよ、もう仮説検証の機会は失われてしまったのだろう。

 彼は飛び立つ蝶にぶつかられながら、舞い上がる鱗粉と砂埃と、耳を届く囁き声のような、それでいて強い風の音の中で、必死に蝶の群れに目を凝らしてみる。温室を飛び出した蝶はまるで一本の黒い柱のように、空に向かっている。その柱の輪郭はぼんやりとしていて、境界線を探しているうちに、視線が夏の濃い青色の空へと溶け込んでいってしまいそうだ。しかし、あまりにも数が多すぎて、彼の目は一羽一羽の蝶の模様を見分けることができない。

 思いつきで、彼は人差し指を立ててみる。すると、一羽の蝶が羽ばたき寄って、彼の指の上でその翅を休める。翅は動きを止め、その蝶は囁くことを止める。その翅を、その模様と陰翳を見て、彼は懐かしいような気持ちになる。彼は、この温室が無限の蝶を生み出す温室だったという仮説を採択することに決める。

 この温室が進化を促す温室であったなら、この蝶は進化の系統樹の一つの葉であるし、家系図の二分木の一つの根である。

 しかし、この温室が無限の蝶を生み出す温室であったなら、一羽一羽の蝶は進化の系統樹の葉ではない。一羽一羽は完全に孤立し、分断された蝶であり、それぞれが本物であり、同時に偽物でもあり、そして、模様によってのみ規定されうる。

 つまり、その蝶こそが、彼の見たかった蝶であり、探し求めていた蝶でもある。

 少なくとも、そう信じることができる。

 彼はその翅を愛おしげに二度、三度と撫でて、そっと空へと押し出す。無数の蝶の群れに紛れて、彼はすぐにその蝶を見失う。

 

   *


 街に突然現れた蝶は、ちょっとしたニュースになる。しかし結局、その蝶は学校の周りの比較的狭い範囲に広がったせいで、見た人も少なく、SNSで言及する人も少なかった。そのせいで、その蝶たちのことを知るものは少ない。蝶は数日の中に忽然と姿を消したが、それよりも早く、人の関心の中から消える。当時、突然現れた蝶の群れがどのように受容されたのかを知ることは、とても難しい。高木は自らでことの顛末を語りたがらない。

 それから十年ほどが経つ。

 高木義則は大学を出ると、昆虫の研究者としてアメリカに渡る。南米の昆虫を調べるにはその方が都合がよかったからだ。年に数回は、南米の熱帯雨林に調査に出かけ、そこで採取したサンプルやデータを下に研究を進める日々を送っている。彼はいくつもの蝶の新種を発見し、記載論文を発表したが、あの蝶を自分が新種として見出し、記載することはないのだと知っている。正しく言えば、あの蝶はこの世界のどこにも生息していない、それが真実であると確信している。

 ある年、彼は母国へと帰ったマヌエラ・ゴンザレス=アジェンデのもとを訪ねる。彼はFacebookで彼女を見つけ、連絡を取り、南米への調査のついでに彼女の住む街へと赴いたのだ。今や様々なところを当たれば、遠い異国の地へと帰ってしまった人とも連絡を取るのが可能なのだと知ったことが、彼の10年分の経験の一部であり、10年で彼にとっての世界が広がったことの現れでもあった。彼女は母国で再婚していたが、彼が訪ねた時は、夫は友人たちと飲みに出かけていた。彼女は夫と、首都のマンションの一室に二人で暮らしている。訪ねてきた彼を、彼女は喜んで、懐かしそうに迎え入れる。思い出話をしながら、彼はふと、明るい色に塗られた壁を背にしたサイドボードの上に、一枚の絵を入れた額が立っていることに気づく。長い時間が経って、額の中の紙は端っこがすでに黄ばみ始めている。その絵は一羽の蝶を描いたもので、幼い筆致が必死に、蝶の持つ陰翳を写取ろうとしているのがわかる。あまりにも長い時間が経ってしまって、その時のことを彼はぼんやりとしか思い出すことができない。あれだけ追い求めていた蝶の姿もおぼろげになって、目の前のスケッチの蝶こそが、彼の探していた蝶だったのではないかという気がしてくる。

「ああ、それ」

 マヌエラ・ゴンザレス=アジェンデの声が後ろから聞こえる。彼女は言葉を継ぐ。

「どうしても、申し訳ない気持ちがしたから」

 いいんだ、と彼はいう。彼はこのスケッチのことを、飽くことなく記録した無数の蝶のことを思う。彼は目を閉じる。聞こえるのは、マンションの開け放たれた窓から流れ込んでくる、絶えず行き交う車の音、人々のざわめき、風の音だ。差し込む日差しで暖まりゆく肌に、彼は温室を思い出す。そこでは無数の蝶が飛び交っていた。そしてまた、この大地にも無数の蝶が飛んでいる。そのことを、彼は今になって始めて知ったような気持ちになる。










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