纇碰趄

鷦鷯飛蝗

朞徸遛邐譚

 辺り一面に霧が立ち込めている。うすくぼやけて見える木々や湖が、普段とどうちがっているのか、よく気を付けなければわからないけれど、ちがうということだけは知っていた。足元の草はしずくをまとい、陽の光は影をおぼろにしか示さない。何より遠くの景色が白く閉ざされている。そうした、どうでもいいことたちをかみしめていられるほど、何もすることがなかった。秉榾は金属製の杭を地面に打ち込んでいる。かなづちが独特なかたちをした杭の頭を叩く音も、霧にすいこまれて、くぐもった反響しか返ってこない。何のためにそんなことをしているのか、訊きにくかったというのではなくて、ただ秉榾はだいぶ離れたところに居た。そこでじっとしてろ、と言われたわけでもなかった。しかし今朝がた逢ったばかりの見知らぬ他人との距離を測るのは容易なことではなかった。

「綸狳」

こちらに目を向けることなく作業を続けていた秉榾に名前を呼ばれて、伝えたばかりの名を用いられること、誰かに呼ばれるという形で名前というものが用いられうることが思い出される。足は自然と秉榾の方へ動いた。

「おわったの」

秉榾はかなづちやら、他にも広げていた道具を雑嚢に収めていて、こちらを見てはいないままだった。

「ああ」

何をしていたの、と、口にするか、少し迷った。口を動かすのがおっくうなせいにした。

遺街イガイは湖の下だから――」

訊かないでいると、秉榾の方から少し早口で説明があった。湖を見渡せば、霧に紛れて水面から突き出した、石造りの柱や壁が見て取れた。

「中身を回収するのは困難だし、しなくてもいいだろう。とりあえずは鍼子シンシを打って固定できればそれでいい」

説明だと思ったそれは、きっと説明ではなかった。説明だったとしても、自分にわかってほしくてしている説明ではないのだと思った。そのような語られ方がありえることは知っていた。

 帰り道は、行きに通った干上ヒアガリ滝があるのとは逆の方向だった。湖に沿って進むと、久しく聞かなかった、川の流れる音が響いていた。秉榾は黙って川沿いに進路を変えた。下草や木々をかきわける音に水音が加わっただけでも、口を開く困難さは減るらしかった。

「この辺りはミナシ川と呼ばれている。水無し、皆死に通ずるわけだが、わかるか」

自分が今朝まで居た村のようだと思った。

「この川はずいぶん水が多いようだけど」

轟轟と渦を巻く川面の下では、多くの砂や岩が削り取られ、山を下って行っているにちがいなかった。そしてきっとその流れに逆らって泳ぐ屈強な魚たちが生きているはずだ。

「本当に涸れたような川だったと記録されている」

足元が疎かになって、歩調が乱れるのも構わずに、川へ頭を向ける。この流れが、かつては今自分が踏みしめている下草にでも覆われていたということだろうか。

「干上滝の古名は知ってるか」

首を小さく横に振ってから、先を歩く秉榾に見えるわけもないと気付いた。

九擦クズレ滝、という」

返事を待っているわけではなかったらしい。或いは衣擦れを聞き取ったのかもしれない。少し無茶な想像とも思われた。もしかしたら、秉榾の作業中に自分の口を突いて出ていた音も、遠くから聞かれていたのかもしれないと気付いて、少し体温が高くなったような気がした。恥ずかしくなって顔が赤くなることを、それ自体恥ずかしがっていたら、首から上が冷めて、服に隠れた首から下が真っ赤に染まるような、そんな感覚を代わりに覚えるように、いつしかなっていた。長らく人とまともに話せなかったことで、そんな感覚も忘れていた。

「往々にして滝や川は位置を変えたり、別れたり、ひとつになったりする。九擦滝は、お前の村の辺りにかつて住んでいた氏族の記録によれば、九度その流れを変えたという」

自分の村が、別の氏族の集落跡を利用して作られていることは知っていた。あの村の子供なら、幾度となく古老に語られている言い伝え。遠く、異なる土地から旅をしてきたという秉榾が、その氏族の伝承を知っていて、自分は知らなかったことに、不思議な感覚があった。

 霧はいつしか晴れて、仄曇りの空が、薄くなった木々の隙間から見通せた。崖際に寄った秉榾は、湖を発って以降初めてこちらを振り向いて、また名前を呼んだ。

 開けた視界の脇に、稜線を割って白い煙をまといながら垂直に落ちてゆく、大きな流れがあった。

「晴れていれば虹でもかかっていたのだろうが」

滝の響かせる音に紛れて聞こえた、それが秉榾の感想だった。聞く限り、これだけの景色に、秉榾はしかし強く感動を覚えたわけでもなさそうだった。とはいえ先程まで説明しか語らなかった口が、少し感想のようなものを呟いたことに気付かないではなかったから、あの滝が秉榾にあたえたものが全くないわけではないようにも思われた。ここに至って、自分が、強くこの山の景色と、そして秉榾のふるまいに注意していたことを思わずにはいられなかった。

 滝は山肌にその行き着く先を隠して、滝壺までは見えなかった。周囲を見渡しても、川らしきものは見られなかった。木々の下に幾条も別れた細い川がある、とするには、圧倒的な水の量が、今もあの滝からは流れ落ちている。

「あれだけの水が、半地下となっている洞窟状の川を流れていくんだ。かつて同じような半地下の川が、お前の村の下にもあった。最近までは涸れもせず井戸だって使えていたんだろう。だが今やあの村は、空洞化した地面の上に立っている。ひとたび地震でも起きればあちこちが沈み込むよ」

想像しづらい景色だった。秉榾が傍らの木に添えていた手の、中指をパタ、パタ、と、拍子を取るように動かしている。

「つまり、この山を水源とする地域では、定期的に川が地面の下を削っては流れを変え、移動していたわけだ」

もう一度眺めを見下ろして、少し遠くへ視線を上げてみれば、細長い線状の村々が散らばっているのが見て取れた。あれらの下にも川が流れていて、いつかは涸れるのだろうか。

「そうしてまた沢山人が死ぬ」

開いていなかったはずの口からまた、言葉が漏れたかと思ってひやりとする。しかしそういうわけではないらしかった。

「原因はあの湖にある」

「湖に沈んでいた家に住んでた人たちが、呪ってでもいるの」

初めて返ってきた言葉を受けて、秉榾が山肌を見下ろしていた視線をちら、とこちらに向けた。すぐに視線を戻し、いや、もう少し伏し目がちにして、いいや、と秉榾は応えた。

「祖霊は皆ただしく祀られ、天上に至る。原因は、無人となった家々に巣食うモノの方にある」

祀る人の居ない骸たちはどうなるんだろうか。そう、思う。あの家に残してきた家族の冷たい肌や、いらえの無かった他の家々に遺されていたであろうものたちを忘れてはいなかった。

「あの湖にもそれが居る。あの湖に沈んだ遺街は、それが巣食うことで湖に害を為し、流れを操り、辺り一帯に人々を誘い込んでは殺し、そこに子を移し続けている。或いはそれ自身が移り棲んでいるのかもしれない。それは、名を這虚ハイキョという」

「はいきょ」

その響きに、寂しさと憧憬を、同時に感じてしまったのはどうしてだろう。家族を、村を滅ぼした仇ともとれる存在として語られた、その名前に。

「あの杭を打っていたのは」

「鍼子で遺街を固定する。少し突っ張らせるような形で、街の手足にポーズをとらせ、固める、と言えばいいのか。遺街は遺街なのだから、動かずとも困りはしない。死んでいるのだからな。しかし這虚の方はそうはいかない。あれは――」

伏し目がちなままだった視線を、秉榾は上に、遠くに向けた。

「生きている。生きているからには動かない死体が固められているそのままの姿勢ではいられない。その内もぞもぞと抜け出してくるのさ」

それに、と一呼吸置いて、秉榾は唾を飲み込んだ。

「やつらはいつまでも同じ遺街の中にはいない。近くでおきた街があれば、いつかそこを遺街にして移り棲む。賢いやつだと、片方の街を滅ぼしている間に、もと居た方の遺街に人を誘い込んで、そこをまた人が住める街にさせちまう。そうして今居る遺街を出たくなったら、復興させた街の方を滅ぼして移り棲むのさ」

そう言って秉榾は、両掌を上着にごしごしとこすりつけた。

 秉榾が語る話は、村で大人たちにされた悪霊や悪い神の話、山の怪物の話とは違った現実味があった。それと同時に、似た違和感も。本当に秉榾は、這虚が居ると信じているのだろうか。秉榾は鍼子と呼んだあの杭を、湖でいろいろな場所に打ち込んでいた。でも大人たちだって、祭りで捧げものをし、弔いでは静かに祓えを受けていた。大人たちは多分、悪霊や怪物を、きっと何か怖いことがあった時にしか信じていなかった。秉榾が同じだとは思わなかった。それでも、栗鼠リスや小鳥が居るように、這虚が居るのだとは信じることが難しかった。実際のところ、這虚は栗鼠や小鳥が居るように、遺街に潜り込んでいるわけではないと、聴いてわかっているつもりでも、釈然としないものがどこかに残ったままだった。



 仄曇りの空が見えない。窓の外はまだ昼だというのにすべて灰色をまとっている。見えなくてもわかる。寒いのは薪がくべられていないせい、だけではなくて、この体の内からも悪寒が発していた。布団で身を包み、しわがれた木目が目立つ床板の上で身を縮めているのは、寝床には家族が横たわっているから。誰も返事をしなくなってから、自分を呼んでくれなくなってから、そう長くは経っていないはずだが、時間感覚は既に少し曖昧になってきていた。自分も遠からず同じようになるのだと思って、それでも動けない体を眺めるでもなく眺めているような心地。

 いつぶりかに聴く音、玄関の開く音。生き残りを探しているのだと思った。連れていかれてしまうのだと。でもやっぱり、いやだとかうれしいとか、かなしいとかそういうものとはもうずっと遠いところに、自分はいたのだろう。

 体の裏側に滑り込んでいた自分が、肌に、鼓膜に、瞼の裏に宿り込みなおしていく。夢で感じていた悪寒は今でも続いていて、でもそれを覆ってくれる温かみに、体は抱かれていた。暖炉には火が入り、布団はふくらかだった。見覚えのある壁というものは、石やよく知らない建材がそのまま姿をみせているものばかりで、暖炉の火をうけて柔らかい色を呈している、布のような質感のこれを、なんと呼べばいいか少し迷った。

 木製の、重そうな扉が小さく軋んで、知らない老女が姿を見せた。秉榾の姿は見当たらい。

「まったく、秉榾も無茶をする」

何となく身を起こす。促されも、止められもしなかったが。

「お前さん、何日食べてないんだい」

「今朝がたと、山で干し肉を食べたより前は、二、三日食べてなかった、と思う」

正確に覚えているわけではなかった。熱っぽい体が、それでも食欲を感じているのは確かだった。

「そういうのを食うや食わずという。そんな子供を歩き回らせて、挙句山の登り降りなんてのはさ、無思慮ってんだよ」

別に言われるがままについていくしかなかったあんたを咎めようってんじゃないんだよ、と続けられたのは、表情に何か出てしまっていただろうか。老女は喋りながら寝台の脇に小さな机を寄せ、抱えていた手鍋と底の深い皿を器用に片手や両手、机の上を経由させて、柔らかく煮られた芋や葉野菜がたっぷり入ったスープを手渡してきた。

「持てるかい」

持ち上げようとした自分の手がひどく重いことに気が付いた。力が入らないほど疲れ切っていたらしい。ひどく不思議な心地がした。自分の体はすべて思い通りになるものではないことくらいは知っていても、これほどままならないというのは覚えがなかった。

「多分、匙の方は……」

迂闊に皿を受け取らなくてよかった。老女が机を寝台に寄せる。体を捻りながら食べるよりはと、机に正対しようとするのが、気の遠くなるような労苦に感じられた。息を整えるでもなく、しばらく皿を見つめて固まっていると、小さく食べていいんだよ、と促された。ゆっくりと手を伸ばし、匙を持つと、腕が小さく震えてしまう。それがおかしくて、小さな笑いが漏れた。

 食べ終わるまで、老女は窓際に取り残された、机と対の椅子に座って、こちらを眺めるともなく眺めていた。最後のひとくちを啜って、匙を置きながら、ふと疑問をこぼした。この問いを差し向けるべき人が、他に思い当たらなかったから、自然に口をついたのだろう。

「なんで秉榾は助けてくれたんだろう」

匙と皿が触れ合う音や、服と布団が擦れ合う音と同時に、こちらへ視線を合わせていた老女が、膝の上で組んでいた両手を解き、右手で頬に軽く触れる。

「助けられた、と思っているんだね」

家族も、村の誰もが死に絶えた中に、独り残されて、動くこともできないでいたところから、温かい寝床と食べ物のあるところへ連れてきてくれたのは、秉榾だと思っていた。きっとこの老女は秉榾の知り合いで、山を降る途中で歩けなくなったか倒れたかした自分を秉榾がここに届けてくれたのだろうと。

「まあ、助けたと言やぁ助けたには違いないだろうがね……」

老女はむずがゆそうにまた右手を動かしては顔や腕に触れている。

「あの子も……まぁお前さんと同じような経験をしてるのさ、私が連れ出した、あの子以外誰も生きてる者の居なかった村から――私がまだもう少し若くて、旅をできるだけの力が残ってた頃さね」

助けてやったというような意識は無かった、と老女は続けた。ただ、縮こまって震えている小さな子供を見て、連れ出してしまったのだと。そしてそれは、多くの大人が持ち合わせていたような、当たり前の庇護欲に基づいたものではなかったとも付け加えた。

「歩けるようならちょっとおいで」

立ち上がった老女は皿と手鍋を持って扉へ向かった。また器用に皿と手鍋、ドアノブを両手に分担させる。扉の先、廊下の、幾分つめたい空気が入り込んでくるよりは前に、どうにか布団をどけて、覚束ない足取りで後を追い始めていた。


 ◇


 「便所はそこ」

老女が廊下の突き当りで左に顎をしゃくった。右には開け放たれていた引き戸、その向こうには台所と食卓が見えた。両手に抱えていた皿と手鍋を台所に置いて、老女はまた廊下に出る。台所の入り口でまごついていたので、身を躱すのに難渋したが、老女の方は邪魔そうな素振りも見せなかった。向かった先は壁一面に木箱が飾られた窓の無い異様な部屋。中央には作業台、三面に腰の高さ程の棚や引き出しが詰まっていた。

「昆虫標本なんて、見たことないだろうねぇ……」

木箱にはそれぞれ色とりどりの虫たちが収められていた。大きな蝶、甲虫、知らない虫、見たことのある虫……

「ふっふ、子供らしいところをやっと見られた気がするよ、子供はみんな真っ先にでかい甲虫の前に行く」

「秉榾もそうだったの」

不自然ではない質問だったと思う。しかし老女の目にはためらいに似たものがあり、返答はあいまいなものに終わった。

「這虚の燻り出し方は私が教えた」

代わりに返ってきたのはきっと、寝室でされた打ち明け話の続き。

「もともと私は旅をしては、遺街を鍼子で固定して回っていた。遺街に這虚が棲むというのは私の一族の考え方だ。ものごころついた時期から私は街縫マチヌイになりたいと思っていたよ」

秉榾やこの老女の他にもああして遺街に鍼子を打ち込んで回る人々がいるのだろうか。それでどうやって食べているのだろう。祓師が食えるのは村で崇められ、寝食を世話されているからだった。人の居ないところへ行って祓えをしたって、誰も感謝してくれはしないのではないか。

「周囲の這虚が巡り巡って私たち一族の村々に来てしまわないよう、予め周囲の遺街を、這虚が棲めないようえてしまう、或いは既に棲みついているのなら追い出す、謂わば一族の尖兵が街縫だったのさ。同時に旅の行き帰りで外のものも買い込んで来る、行商でもあった」

「今もその、街縫をしているの」

作業台の前に腰掛を引いて、老女は座った。

「この年じゃ無理だぁね、今だって買い物に秉榾を行かせてる、旅なんてやっていられやしないよ」

「じゃあ今は、この虫の箱をつくってる?」

大きな目玉模様を備えた蛾の前に立って、周りの虫たちを眺める。それぞれの下に貼ってある名札は読めなかった。行商で食べていたのだとして、今この標本を作るだけで食べていけるものだろうか。この家も相当な金が無ければ建つようなものではないとすぐにわかる。

「私はさ、旅が好きなわけでも、遺街に佇むのが好きなわけでもなかった」

作業台の方へ目を遣ると、老女は話しながら手元の針で黒光りのする甲虫を縫い留めているところだった。

「この虫たちにしているように、固定して、その姿をそのまま留めてやること、それを自分がやることこそ私の喜びだった。遺街と虫の取り扱いは、それぞれよく似ているんだよ」

そのままにしておくと這虚のように何かが這入りこんでは中身を喰い、腐らせてしまう虫を薬液に漬けたり、掃除したりして、最後には脚をもっともらしく広げ、標本針で縫い留める。そういう工程を、老女は滔々と語った。

「ここに立ち現れるのは、それが生きていた時の姿じゃないのさ。私たちが――私が綺麗だと思う、色や姿勢。私がその素材に見出した、私のエゴの形に、私はそれを歪めちまうわけだね。長年街縫をやっていれば、そんなことに気付かずにいるのは難しかった。人の居ないところに行くってのは、ずっと自分だけと相対し続けなきゃいけないってことだからね」

空気が動かない部屋で、ランプの灯りに影だけが重量を増していく。

「私はあの時、秉榾の居た村を縫い留めたかったんだろうね。街縫の仕事は遺街を縫い留めること。死に掛けの街を殺すことではなかった。でもあの時の私はその領分を踏み越えたのさ」

「だからやめたの」

老女はそうだ、とも、そうじゃない、とも言わなかった。少なくともその口ぶりからすれば、掟のようなものを破ったわけではなくて、自分の中にあった基準の問題であったのだろうと感ぜられた。

「秉榾を、旅が出来なくなりそうな自分の代わりにしたわけじゃないんでしょ」

だから大丈夫なんじゃないの、と、続けた自分が何を言っているかは自分でもよくわかっていなかった。

「あの子は昔からあまり口をきく子じゃなかった。でも自分のことを伝えようとしない子でもなかったんだよ」

「だけど秉榾は、そのために誰かを使う人でもないんでしょう」

自分が秉榾に抱いている感情は、感謝と名付けられるものではきっとなかったけど、恨みや何か紫色の滲みのようなそれではないとだけは言えた。秉榾もきっとそうなんじゃないかと思えた。

「お前さんは賢くて、優しい子だね。信じられるかどうかということに拘らないでいられるのはいいことかもしれない」

丸みを帯びた厚い沈黙が、玄関の開く音と靴音に揺らされた。軋む蝶番と風音が顔をのぞかせたのだ。出入りの主は秉榾だった。

「師匠」

恐らく台所に買いこんできた食材でも置いてから、秉榾が部屋に入ってきた。ちら、と目が合って、秉榾はすぐに師匠と呼んだ老女の方を向いた。

「買って来たよ」

「ああ、これを済ませたら夕飯にしよう」

言って、老女は最後の針を下した。



 出発は三日後のことだった。老女の許で暮らすという考えは、誰の中にも無いようだった。秉榾は補充した鍼子を抱え、子供の丈に合った旅装を渡してきた。初めてあの寒村で逢った時と同じく、来るか、とだけ尋ねるでもなくつぶやいて。

 それはもう提案でも質問でもなく、ただ強制と命令の色に抵抗する気持ちの発露だったのだろうと思った。それから街を三つ超えて、田畑が尽きてなお遠くに見える山へ向かって歩いた。秉榾は恐らく、子供の足に合わせて頻繫に休憩をとった。いくらかぎこちなく。

 湖の時よりはいくらか薄いような霧が出た、朝方のことだった。湿原の切れ目に朽ちた、背の低い石橋を見つけた。欠け毀れた石のかけらが転がって、ぬかるむ足元の中で少しだけたしかだった。

 秉榾は何も言わず、背中に提げた鍼子を抜くと、徐に台地に突き立てていった。柔らかな泥をかき分けて、鈍色が景色を劃す。ふと、霧の背後に巨きな気配を感じて、ああきっとここに這虚はいるのだと、どこかで信じている。辺りを照らせないまま、ぼうっと拡散する陽の光で、ところどころ苔むした灰白色の細橋がなだらかな丘陵を背後に佇んでいる様に、声が漏れてしまった。

「美しいな……」

自分が発したはずの言葉が、幾分通る、自分のものではない声音として耳に届き、微かな困惑が走る。秉榾の声だった。それが人のたくさん死んだ跡や、人が棄てた跡であることを、あの山で強調するかのような口ぶりだった秉榾の、しかし感想はそれだった。秉榾は何か気まずそうな気配を漂わせながら振り返り、目が合うとまたゆっくり右手に握った鍼子へ視線を戻した。

「悲劇と結びついていることは、必ずしも美しさを阻害しない」

何本目かの鍼子を埋め終わって、そう呟いた秉榾は両掌を上着にごしごしと擦り付けた。



 湿原の廃橋を固定し終わると、秉榾は道具を片付けて、廃橋に繋がる道づたいに進み始めた。足元の泥がつくのを嫌った秉榾に持たされていた道具を返す時、秉榾は視線を道具だけに注いではいなかった。気まずそうに行き来する視線が合ってしまうと、秉榾はこれから向かう先について語り始めながら背を向けた。

「この橋が、修繕されなくなった原因へ向かう」

進むうち、べちゃ、ずちゅ、といった足音が、湿った土と下草を踏む音へと、いつのまにかかわっていた。

「元々この橋は二つの街を繋いでいた。ある氏族の宗教的要地と、交易と巡礼の中継地。十数年前、前者の街で祭祀のお家騒動があった。折悪く疫病が流行し、神意は量りかねられ、また顧みられなくなった。その結果が住民の流出、巡礼者や商人の途絶だ。人が住まなくなって5年と幾月、最後の住人がお師匠に語ったことだ」

恐らく稀覯の昆虫標本をつくっては売るばかりではないのであろうあの老女の活計たつきを思う。

「後者の街も衰えたが、遺街とまではなっていない。謂わばあの橋は、這虚と人の擦れ合う閾域だ。廃橋を固定して侵攻は差し当たり食い止めた形だが、このまま根を絶って安全を確保する」

これもまた、わかってほしくてしているのではない説明なのだろう。秉榾が師匠と呼ぶ老女の許で過ごした三日を、その中で老女と交わした会話を思い出す。秉榾はずっと、必要なこと以外はほとんど喋らなかった。

「私の気持ちは固定することの方に向いていたから、そう訊かれた時、すぐには応えられなかった。考えたことが無かったからねぇ」

かつて秉榾は師匠に、遺街とは、何をもって遺街とするのか、と問うたのだという。

「名の通り、遺された街と書いて遺街。ただそれだけのことだと、何となく考えていたんだがね」

誰かの都合で生み出されて、誰にも必要とされなくなり、顧みられず、棄てられた場所。求められないから、求め返してこない場所。老女はその性質を、その名の通り、骸に通ずるのだとしつつも、遺街は別にそれとして死んでいる訳ではなく在るのだと、湖で秉榾がしてくれたのとは少し違う説明を語った。そう思うようになったのは、自分で旅に出るのをやめてからだったという。秉榾の問に答えてより、後のことになるのだろう。

「秉榾は自分と、遺街を重ねていたのかな」

老女は、驚いたふうではなかったが、それまでのそれからは改まった表情になって、間を置いてから応えた。

「どうだろうねぇ……私は結局、あの子を連れ出したことで、生きた街を遺街に換えた上で、それを縫い留めてしまった。やろうとすれば、そういうことができるのだと知ってしまった。でも同時に、それに恐怖することができた。さいわいだったと思っているよ、それは秉榾がいてくれたおかげでもある」



 橋を発ってから何度目かの休憩で、秉榾がまた口を開いた。

「そういえば師匠はお前を、名前で呼ばなかったな」

「聞かれなかったから、教える機会が無かった」

遺街を縫い留める時は名前などつけないし、気にするわけでもないが、と老女は語っていた。虫を標本にするときは、名を得、それを標して完成とする。今の私が名前を知れば、また分を超えて留めたがってしまうかもしれない。そう、言っていた。それを伝えると、秉榾は小さくそうか、とだけ言って、口許まで運んでいた水筒をそこで留め、立ち上がった。表情は見えなかった。

 目的の遺街にはそれからすぐ着いた。大ぶりな石を隙間なく積み上げた祭壇や家々。秉榾は建物という建物に一軒一軒入っていった。自分が見つけられた時も、こんな風に秉榾はあの村の家々を見分していたのだろうか。

 数年前まで人が住んでいたとはいえ、手の入らない建物なだけあって、その状態はまちまちだった。少なくとも屋根がなくなっている家は無かったが、全く毀れていない家も無かった。

 老女は言っていた。人は家族しか弔わない。飼い犬や猫、家畜なんかがその内訳に入ることはあっても、家や街はなかなか、そうはいかない。何より、街については誰かひとりのものでも、家族数名のものでもない、と。秉榾は遺街を固定して、ひとりでは所有できないものを所有しようとしているのだろうか。誰も求めないから求め返さない遺街を、秉榾は求めているのだとして、秉榾はその遺街に求め返されているだろうか。秉榾が求めてしまった遺街は、そもそも遺街としての格を失ってしまっていはしないのか。

 どの家の壁も、それぞれに異なった渦巻きを基調とした独特の模様が刻まれていた。

「謂わばこれが表札であり、屋号として機能していたらしい」

秉榾が一際目を引く装飾を備えた大きな建物に入っていく。遺街にいる時の秉榾は心なしか足取りが軽い。はたしてそこは神殿だった。祭具や家具のようなものは見当たらなかったが、空間の広さと設けられ方で用途はすぐにわかった。

 秉榾は奥に見えた高座へとゆっくりと進んでいき、高座に上りかけて立ち止まった。中途半端に開いた彼我の距離の中で、石壁に開けられた小さな採光窓からさした光は、しかし秉榾の表情を映さない。こちらに背を向けた秉榾は斜め上を見るともなく見るように頭を傾けて、わずかに口を動かした。秉榾の左掌が、上着をごしごしと擦っていた。呟きはしっかりと聞き取れて、秉榾は自分の口から漏れた言葉に困惑したようではあった。

「お前を……ここで殺せたら、完璧なのかもな」

驚きはなかった。老女が自分に伝えた言葉は、秉榾との会話や、自分の仕草の端々から秉榾にも伝わっていたはずだから、秉榾の呟きが、秉榾の欲望や価値構造を正確に照らしたものではなくなっていると、わかっていた。

「秉榾はでも、そうはしないんでしょ」

秉榾の師匠は秉榾を連れ出すことができてしまった自分に恐怖した。秉榾は違ったはずだ。秉榾は、縫い留めることそのものには別に興味はなかった。あの昆虫標本にも。そして誰も求めない、誰にも求められないものの美しさにだけ感じ入るのだとしたら、自分はもうそれではなくなっている。

 秉榾は半身をこちらに向けて、埃っぽい空気の奥でその流し目と視線が合う。


 ◇


 陽炎が静かに立ち上っている。

 使われなくなった麦挽風車が立ち並ぶ海沿いの遺街。海風があっても照りつける日差しに肌が汗ばむ。あれからずいぶんと伸びた髪はなびいて視界を劃す。

分担して背負っていた道具からひとりひとつずつ使うものを秉榾に手渡す。流れるように、互いに背を向けてそれぞれの作業へ向かうと、あの日のように名を呼ばれた。

「綸狳」

概ね遺街の中でだけ、こうして時々、互いに向き直る。


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