首を刎ねるくらいで満足か?
神﨑らい
その酒、後悔するなよ
「なあ、深酒などやめたまえ――」
放っといてくれ――と、男は気に掛けてくれたのであろう友人の手を払い、フラフラと夜道を彷徨う。ただでさえ暗がりでは視界が狭いと言うのに、酔いに揺らめき、滲み、霞んでいた。
ビルとビルの間の狭い路地を、こんな息苦しいスーツなど破れてしまえばいい――そんなことをぼやき、壁に肩を擦り付けながら這うように進んだ。目眩がするし、足取りもおぼつかない。頭は冴えているつもりでいるが、言うことをきかない身体に少し不安を覚える。
「早く自宅へ――」
微睡みの狭間で男の思考は朦朧とし、意思に反して視界を閉ざした。
ううっ――苦悶に眉をひそめる。全身の節々が痛むし、酷く具合が悪い。胸の周囲に焼けるような吐気が襲い来て、瞬間的に溢れた唾液が口腔を満たした。躊躇いがちにゲップが這い上がり、胃のムカツキに耐えかねて目をカッと見開く。
胃が蠢めいた。ずるりと胃から口へ胃の中身が押し出される。粥のような熱くドロッとした、固形物の混ざる液体が、抵抗の余地なく食道を競り上がり、夕食と酒、胃液が混ざった吐瀉物を口からぶちまけた。酒気に、晩飯に食ったトンカツの油とソースの臭い、味噌汁、サラダ、枝豆、それから胃液の酸味が醜悪に溶けて混ざり、醜悪な味と臭いが口腔を占める。
ごぶっ――激しく喉が鳴った。留まることのない嘔吐。無慈悲に襲い来る第二波になす術ない。呼吸もままならない状態で、中途半端に消化された胃の内容物が、滝の如く口から排出された。堪らなく不快だ。眩暈、吐気、鼻が曲がる程の臭気、酸味と苦味と、口内を擦っていく細切れの固形物に、どろどろと粘りけのある液状のなにか。
吐瀉物が鼻腔にまで押し寄せ、喉と鼻の境目が熱を持ったようにヒリつく。胃酸に焼けた喉は腫れて痛いし、呼吸がままならないのが辛い。垂れ出る鼻汁に呼吸口を塞がれているし、幾度も襲い来る吐瀉物によって溺死しそうだった。
「げぶっ――! う、うっ――苦し、い」
派手な嘔吐を繰り返すあまり、苦痛に涙が流れ、鼻水や唾液と共に泣き言を垂らす。ゲボッっと胸が鳴き、酸味の強い黄色い液体が吐き出された。胃の中にはもう、固形物が残っていないらしい。粘り気の強い唾液がだらしなく口から垂れた。
男はベソをかき、荒い呼吸を繰り返す。目の奥が捻り潰される程の頭痛に眩暈、悪寒が走り、喉の奥がゲボゲボ鳴る。吐瀉物から漂う酒気――酒に当てられた症状に間違いなかった。ただ、その程度のことは意に介さない恐怖が、足元からふつふつと沸いて溢れ出た。
「なんなんだよ。どうしたって言うんだよ――」
そんなに悪いことをした覚えはなかった。なんで俺が――男は嗚咽を漏らし、怯えに染まる瞳を揺らした。胸をざわざわと撫で回されるような焦燥に、身がすくむ。男の心は平静と言うものを忘れてしまったらしい。
無理もない。男は垂れる唾液も鼻水も拭えないような、切迫した状況下にいるのだ。
不気味な静寂に包まれた暗い室内で、木製の簡素な椅子に拘束されていた。両手は椅子の背もたれをおぶるように、両足首は左右の椅子の足に縄で固定されている。腰に回された縄が腹の肉に食い込み、痛くて苦しかった。
暗さに慣れた目を凝らし、薄暗い室内を見渡す。扉があるだけのボロ小屋だ。椅子の足はコンクリートの床に埋めて固定され、ギシギシと椅子が軋むばかりで、少しも揺れはしなかった。
男は唾液で口内をすすぎ、勢いをつけて吐き出す。口回り、胸元から足先までゲロにまみれ、丁度股のところに固形の吐瀉物が山と積もっている。妙に生暖かいところと冷たく濡れた箇所があり、気持ちが悪い。不可解な状況下でも、風呂に入りたいと願う余裕はあった。
冷静に縄から抜けようと身をよじる。手首の皮膚が縄と擦れ、ヒリヒリと熱い痛みが走るばかりで、一向に抜け出せる気配がない。焦燥感ばかりが膨らみ、手首を引き抜こうとがむしゃらに力を込める。やはり抜ける気配はなく、肌を擦って痛めるばかりだった。
カツ――、コツン――
ゾッと背筋が凍る。靴音だ――男は縄脱けに集中していた意識を、じっと扉へ向けた。嫌らしくゆっくりとドアノブが回る。肌が泡立つ程の戦慄が走り、男は硬く身を縮めた。
「うわあ――もう、汚いなあ」
若い男の声だった。暗くて正確な風貌を視認できないが、かなり華奢な男とだけはわかる。
「あんた誰だ! いったいここはどこなんだ。どうして俺は拘束されてるんだ? あんたの仕業か?」
男はそう、怯まずに若い男へと吐き捨てた。口を動かしつつ、思考はここに至るまでの記憶をまさぐっている。無理な残業を強いられ、怒りにかまけ飲み歩き、居酒屋でビールを片手にトンカツを食べた。友人に呑みすぎだと止められたが、無視して許容量を超えて呑んだ。それから、それから――その辺りからの記憶がない。既に泥酔していたのだろう、友人とどうやって別れたのかさえ記憶になかった。
ふんごっ――! 突如、顔面を圧迫された。逃れようと頭を振り乱す。水だ――ホースを絞ったくらいの水圧で、大量の水を顔に浴びせられていた。痛いし苦しい。
放水が胸へ移り、解放された男は激しく噎せ込んだ。被った水を拭えず目が開けられない。水圧は胸から徐々に下へと移動していく。強い圧が股間を直撃し、腸を押し上げるような壮絶な痛みに悶絶した。悲鳴など出ない。低く呻き、不自由な身体を懸命に寄せて背を丸めた。
思考する余裕が戻った頃、放水は吐瀉物を洗い流すためだと理解した。が、あまりにも雑だし、もう少し気を遣って欲しかった。
粗方流れたようですね――言って、若い男はホースをその辺に放った。
「自己紹介をしましょう、僕はハル。泥酔したあなたを路地裏で見つけ、拾ってきました」
それだけです――と、ハルは言葉を切り、ポケットからなにか細く小さな、万力のような器具を取り出した。男は想像の及ばない道具に怯み、震える声で、なにをする気だ、それはなんだ――なにを、なんだ、なぜ、と口の動く限りに問い続けた。ハルは一切応答せず、不気味なほど静かに歩み寄り、男の眼前に器具を突きつけた。
ハルは可愛らしい顔をしていた。
「これは開口器です。お口を開けてください」
ハルの言葉に身の危険を感じた男は、ぐっと強く口を結び、嫌々と首を振る。
困ったなあ、とハルはこ首をかしげ、細く骨張った右手の親指を、男の左目に突き刺した。
「んうぬっ! んぬがあああああアアアアアア――!」
必死に閉じていた口を呆気なく開き、激痛に苦悶し絶叫を上げた。瞬間、右の奥歯にガチンと固いものが当たる。金属製の開口器が挟まり、固定されてしまった。
ハルは男の目から指を引き抜き、キリキリと音を立て器具を弄っている。ネジが巻かれる度に器具が開き、男の口が押し広げられていく。
限界まで開ききった口からは、唾液がだらだらと垂れ落ち、左目から流れる血液と、涙、鼻水、汗やなんかと混ざり胸元を汚した。
ハルの指先がつっと男の歯を撫でる。小さな刺激だが、男に深酒を後悔させ、激痛を伴う恐怖を連想させるに十分だった。
どんなに泣き喚き、死に物狂いで逃れようとしても、顎が外れるくらいに開かれた口は、全く閉じようとしない。奥歯に挟まった開口器のせいで閉口が叶わないのだ。
上顎や喉は乾燥しているのに、口の端からはだらだらと飲み込めない唾液が垂れ出ている。言葉を発そうにもあんぐりと開けた口では、ああ、ええ、と単純な母音しか出てこない。誰かとも、助けてとも、口にできなかった。
ハルの指先が再び下の前歯に触れる。男はかろうじて、空気の音だけが聞こえる悲鳴を上げた。激しい動悸に呼吸がままならない。
歯を撫でる手と逆なハルの手が、不吉な動きをしたのを視界の端で捉えた。神経が過敏になっているのだろう、見えずとも気配でその動きを察する。なにかを握っているようだ。短いナイフ――いや、ハサミだろうか?
ガチンと固いものが下の前歯に当たった。指で撫でられていた感覚とはまるきり違う。冷たく固く、鋭利に感じられた。それは一度歯から離れ、今度は前後を挟むように歯に添えられた。なにをされようとしているのかわからない。男は気圧されたように悲鳴を吸い込み、脂汗を流して身を凍りつかせた。
ガリっ、ゴリっ、バキッ――! 下顎を突き抜け、硬度な物が砕ける鈍く甲高い音が頭に響いた。悶絶する痛みが怒濤の如く襲い来る。
「んげえあああああアアアアアアアア――!」
下前歯二本を折られ、喉を引き裂かんばかりの絶叫を上げた。痛みに眼球を抉られ、脳天を突き破り顔面を圧し潰されるようだ。激痛にうち震え、呼吸が狂い喘ぐ。顔が熱い。耳の奥がざわざわとのたうち、気味悪くて仕方なかった。
滲んだ視界になにかがかざされ、見せ付けるように突き出されたそれは、血に濡れたニッパーだった。その小さく鈍い刃が、男の下前歯を割り砕いたのだ。
ハルは再びニッパーを男の口へと押し込んだ。圧し砕いた下前歯の右隣に、鈍刃をあてがう。刃に力が込められ、ニチニチと歯が悲鳴を上げた。男は恐怖に狂い泣き叫ぶ。強制的に記憶に残された痛みが恐怖の波となり、脳のみならず全身を貫いて回った。
バキッ――っと、エグい音が響き、記憶の何十倍もの激痛が下顎を介し、全身を駆け巡った。想像を絶し、悶絶する痛みに声にならない悲鳴を上げ、拘束された身体でのたうつ。
ハルは男の断末魔など意に介さないとばかりに、続けて隣の歯へとニッパーを当てる。一本ずつ、順序よく根本から砕きへし折っていく。奥歯の二本ずつを残し、下の歯から上の前歯へと移った。
どんなに狂い泣き叫ぼうと、激痛に全身を激しく痙攣させようと、ハルは淡々と男の前歯を挟み折っていく。笑いもせず、眉をしかめもせず、ただ淡々と無機質に、機械的に――。
折った歯から鮮血が溢れ、唾液と混ざったそれは顎からだらだらと垂れ出て、白かったシャツを赤く染めていく。悶絶する痛みに意識を飛ばせば、更なる痛みによって起こされた。逃げ道はない。
ゴリっ、ゴキッ、バキッ――! 堪らない音が脳内に響き渡る。頭蓋骨の内側に数十というゴキブリが這いずり回り、羽を羽ばたかせているような不快な音だ。そして、生物のように全身を動き回る激痛。顎を突き破り、脳を掻き乱してから喉を下り腹をまさぐる。内蔵やらなんやらを引っ掛け、腹をぐるぐると回ってから絶叫と共に口から吐き出された。
「んぐえあああアアアアアアアア――――!」
ゲコゲコと喉を鳴らし、断末魔の砲口と共に胃液と、それに溶けた固形物とを嘔吐した。息を吸えば口内の体液が喉に押し寄せ、呼吸が詰まると痛みにまさぐられた胃から体液が逆流する。思いの外長く呼吸が遮られ、ガタガタ震える男は苦悶に白目を剥いた。
股間がやけに温かく、絶え間ない痛みに震えが治まらない。折れた歯を指先で撫でられるだけで、舌を千切り取る程の痛みが脳天を突き抜ける。なにも触れなくてもチリチリズキズキと痛み、自身の吐く息さえも触れようものなら、歯根にネジを回し入れられるような、突き刺さる激痛が襲い身を震わせ喘いだ。
お望みならばと言う風に、ハルは細い釘を取り出した。容赦なく歯根管にその釘を打ち付ける。針のように細い釘だったはずだが、感覚はそんなに可愛らしくない。絶っする痛みは、五寸釘が顎骨を貫き突き破る痛みだった。
「どうです? 上手いものでしょ」
と、霞む視界でハルが笑った。激痛に朦朧とする頭では、彼がなにを言っているのか、なにが言いたいのか全く理解できない。ただ茫然と聞き流すことしかできなかった。
「実は僕、つい昨日まで口腔外科医をしていたんです。口のプロなんですよ?」
どう見ても免許を持つ医師には見えない。ハルの外見は十代後半だ、よくて二十歳そこそこだろう――いや、どうでもいいことだ。脈に合わせて訪れる、顔面を突き破るような激痛。呼吸さえままならない苦痛の前では、やはりあまりにも些細でどうでもよかった。
それよりも、周波数をなぞるような断続的に襲い来る痛みから、どうやって逃れられるかの方が重要だ。顔面がむくんでいるのがわかる。パンパンに腫れ上がって、きっと血に濡れて真っ赤に染まっているだろう。早々に神経が麻痺してくれることを願うばかりだ。
「僕の話を聞いてくれますよね?」
問われても変事などできやしないし、頷く気力さえない。ただ、これ以上の苦痛を与えられるのはごめんだ。機嫌を損ねるようなことはあってはならない。だから男は、返事の代わりにそっとハルの目を見た。
「昨日で僕は三十六歳になりました。きっと、誕生日のプレゼントだったのでしょう。僕は産まれて初めて」恋をしたんです――ハルは愛らしい瞳を恍惚に染め、艶かしく揺らした。
「初恋が一目惚れだなんて、あなたは笑いますか? だって、あんなに美しい歯を持った女性を、初めて目の当たりにしたんですもの」
本当に美しかったんです――そう言って、紅潮させた頬にうっとりと手を添えた。男の血に濡れた華奢な手だ。
彼が三十後半であることにも驚いたが、男はハルの異常性癖の方に意識が向いていた。
「とても美しく艶っぽい歯でした。僕はもう、堪らなくって――」
やはりそうかと男は肝を冷やす。ハルは彼が美しいと思う《歯》だけに、情欲を燃やすらしい。男は自信の歯並びに自信があったのだ。営業職を二十年続けてきて、初対面の顧客から必ずと言っていいほど、歯の綺麗さを褒められる。歯並びも歯の白さもきめの細かさも艶も、全てに自信があった。その自慢の歯も、今や上下左右の奥歯を二対残し、歯根を埋めたまま全てが割り砕かれている。
「彼女の持つ全ての歯を抜き去りました。無心で全ての歯を抜き終わり、ふと口から目を離すと、一帯が血に染まっていて驚きました。僕、気付かなかったんです。彼女が苦しみ悶える姿に、僕はちっとも気が付かなかったんですよ――」
失態でした――ハルは言って、暗鬱に眉を寄せて目を伏せた。
「刺激的な快楽に浸る余り、人を殺めてしまいました。殺すつもりはありませんでしたけれど、結果的にそうなった――。それからは淡々と、冷静に従業員の口を塞ぐ作業に取り掛かり、すぐに終わらせました。やることもなくなってしまい、暇潰しを兼ねて散歩をしていたんです」そしたら――ハルは、嬉しくて堪らないと言った風な笑顔を男へ向け「あなたに出会ったんです」と、運命の出会いを果たした少女のように、目を細め、頬を紅潮させて可憐に笑って見せた。
「どうやら僕は、相当に惚れやすい男だったようなんです」
そう言って、ハルは男の歯根管に釘を突き刺した。
「いえああああアアアアアっ――! あえっ、あえへ、ふへえええあああアアアアア――っ!」
穴と言う穴から体液を撒き散らし、男の苦痛に歪む断末魔の絶叫は、枯れ腐るまで轟き続けた。
首を刎ねるくらいで満足か? 神﨑らい @rye4444
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