第6話

 20 夢‐足りないもの


 薄明りの中を僕は歩いている。長い廊下は途切れることなく続き、片側に流れる扉はそれぞれ別の番号がついている。歩いても歩いても、あの部屋の扉に着かない。ちゃんと部屋の番号を確認しているはずなのに、気が付けばまた数え初めのものに変わっている。

 ユキ……。

 どうしてたどり着けないんだ。僕はユキに伝えたいことがあるのに。



 21 僕とユキ


 目が覚めてもやもやとしたものを感じながら、身体を起こして朝の支度をする。マサキを見送ってから店に向かった。

 寝起きだからだと思っていた胸の鬱屈は店についても消えなかった。それどころか少し増したような気がする。ロッカーからエプロンを取り出し腰に巻く。いつもならすぐに結び終わるのにふと手が止まったまま固まる。

 ユキはこうして何でもないように過ごしていたんだろうか。

 あの息苦しさを抱えたまま店でも笑っていたのかな。ここで思い出さないなんてできないだろうに。ただ目の前に彼がいないだけで、それ以外の息苦しさや胸の痛みは消えない。自分が間違っていたんじゃないかという考えはあの出来事を思い返すたびに起こる。

 はっとして僕はエプソンの紐を結んだ。時計を見て、急ぎ足で厨房へと向かう。

「おはようございます」

 店長を見つけて挨拶する。おはようと返した店長が続けて謝った。

「一昨日はごめんね。結局閉店まで残ってもらって」

「いえ、帰らなかったのは自分の方なので。それに結構忙しかったじゃないですか」

「そうだけどね。でも、助かったよ、ありがとう」

 店長が笑って言った。僕はそれに答えてから開店準備を始めた。

 開店後はいつも通り忙しく、昼食の時間帯が過ぎるまであっという間だった。ようやく店内のお客さんが少なくなり、店長と入れ替わりで洗い物を済ませる。料理の注文が減ってきたため店長が在庫の確認を始めていた。僕はそれを邪魔しないように作業をしながら接客をした。

「ありがとうございましたー」

 最後のお客さんを見送って店を閉める。入り口の看板を仕舞うと、はぁとため息が出た。カウンターにいた店長に声をかけられる。

「どうしたの? ため息ついちゃって」

「え、ああ、今日はなんだかミスが多かったなと思って。すみません」

「そう? そんなことなかったと思うけど。あ、でも、いつもよりは少しぼんやりしてたかもね」

 店長はこの数時間のことを思い出してからそう言った。僕は苦笑いを返した。

「何かあった?」

「え?」

 店長は軽く聞いていたけれど、じっとこちらを見る様子は僕を心配しているようにも見えた。少し驚いて瞬きをする。

「いえ、特には……。いや、ちょっと考えていることがあって」

 笑ってごまかそうとするのを止めて僕は店長に聞いた。

「あの、店長は何か忘れられないくらい嫌なことがあったら、どうしますか」

「うん? そうだなぁ。色んな人に話すかな。こんなことがあったって話して、共感してもらって、慰めてもらうよ。友達に一晩中話したりね。それでも、たぶん考えてしまうんだろうけど、一回全部吐き出したら、後は結構楽になったりもするからさ」

「店長らしいですね。もう一ついいですか」

「いいよ」

「その、店長には、大切なのか憎いのかわからないような人っていますか? その人に対して、どうしたらいいですかね」

 カウンターを挟んでソラと話していた光景が浮かぶ。店長は僕の質問を聞いて、少しの間考えていた。

「それは、難しいね。あんまりちゃんとできていないから、参考になるか分からないけど。その時々で向き合えたらいいなって思うかな。その人とっていうよりは自分とね。自分がどうしたいかを考えてないと、その人とか自分の感情に振り回されちゃうから。それで、その人のせいだって言ってもどうにもならないしね」

 誰かを思い浮かべているのだろうか、店長は困ったような表情で言った後、「ちゃんと答えられてるかな」と笑った。僕はそれに頷いて店長の言葉を繰り返した。

「自分がどうしたいか」

「うん」

「自分のことって案外分からないと思うんですけど」

「だったら周りの人に聞いたらいいんじゃないかな。前にそう言って聞いてきたでしょ。それと同じで、ユキちゃんがどう思っているのかを聞いてもらったら、少しずつ見えてくるんじゃないかな」

 店長はなにか見守るような視線を僕に向ける。その視線を直に受けて僕はぎこちなく笑い返した。

「ま、適度に他の人の力を借りてねってことかな。自分だけじゃ答えが出ないときもあるからさ」

 いつもの調子に戻ってそう言われ、僕も力を抜いた。その僕の様子を見た店長は数えていた在庫のメモを持って厨房へと歩いて行った。

 色んな人に話す、自分がどうしたいかを考える、か。

 そのどちらもユキはできなかったんだろうか。人の力を借りるって、ユキは一人じゃなかったはずなのに。サークルの人も、それ以外の友達もきっといたはずなのに。店長だって真剣に話ができる人だと、ユキだって分かっていたんじゃないのか。

 怒りのような疑問が浮かぶけれど、少ししてから泣いているユキの姿が思い出された。それらが出来なくなるほどユキは力を失っていたと僕は知っている。

「僕はユキを……」

 言いかけてから、きゅっと唇に力が入る。今の僕にそれはできない。

 僕は軽く頭を振って布巾を取りに向かった。

 閉店後の片付けを終わらせ店長に声をかける。呼び止められた僕はビニール袋を渡された。袋の中には即席麺がいくつか入っている。

「期限短いから。早めに食べてね」

「ありがとうございます」

 休憩室に戻って、もらった袋を一度ロッカーに入れる。今日の昼食はこれにしよう。エプロンを外してロッカーを閉めた。

 裏口の扉を閉めながら息を吐く。胸にあった蟠りは朝ほどではなくなっていたけれど、店での忙しさがなくなるとまた少し感じる。裏口から通りに出る。いつもの帰り道を見てから逆の方向へと足を向けた。

 気温も上がり太陽の下を歩いていると汗が出るくらいには暑い。僕は歩道の建物の陰になっているところを歩いた。

 僕は本当はどうしたいんだろう。

 ユキに何があったのかを知れば自分のためになると思っていた。もう振り回されることもなくなるだろうと。でもそれは過去を知るだけじゃだめだった。

 胸にまた別の鬱屈が生まれる。

 カバンからハンドタオルを取り出して汗を拭った。ふと疑問が浮かんだ。

 どうして僕はユキの振りをしたんだろう。ユキは自分じゃない誰かのことを空想していたのに。

 一昨日の夜から思い出したこと。ユキは自分が囚われているあの出来事から少しでも離れるために、その「誰か」のことを考えていた。それなのに、僕はユキのためにユキであろうとしていた。その理由については思い出せなかった。

 駅手前の角を曲がって、公園の前を歩いていると声が聞こえてきた。帽子をかぶった幼い子供が二人しゃがんで遊んでいる。奥にある東屋に母親らしき女性が見えた。僕は歩みを緩めて子供たちを眺めた。

 二人で何かしていたわけではないのか、一人が何か言いながら女性の方へと走っていった。遠くて分からないけれど見つけたものを見せているようだ。もう一人に目を向けると黙々と足元をいじっている。虫でも探しているんだろうか。

 さっきまで考え事をしていたためか、僕はしばらくの間、子供たちをぼんやりと見つめた。なんだか懐かしいような気持ちになって、自分にも同じようなことがあった気がした。そんなことあるわけないのに。

 あまり見ていては不審がられるかもしれない。僕は少し笑って前を向いた。


 玄関の扉を閉めてほっと息を吐く。通りを歩いてきたことに比べればまだ家の中は涼しかった。さっと手を洗う。片手鍋に水を入れてお湯を沸かした。

 店長からもらったラーメンをすする。時々食べる即席麺よりおいしかった。明日またお礼を言おう。食べ終わってお茶を飲みながらテレビを流し見た。

 夕食を作っているとマサキが帰ってきた。僕にただいまと言って寝室に入ってから風呂に向かう。その間に洗い物を済ませる。風呂から出たマサキを見て色のない映像が頭をかすめたけれど、僕はただ羨ましいと今日も思った。

 黙々と食べる夕食の時間が過ぎて、マサキの方から一日の出来事について話し始めるかと思っていると彼は僕に聞いた。そっと様子を窺うように言う。

「今日は忙しかった?」

「お店はいつも通りでしたよ。僕は、少しぼんやりしてしまったけど」

「そうなんだ、店長さんには怒られなかった?」

 苦笑いをして答えるとマサキはちょっとからかうように言った。僕が笑って首を振るとマサキも少し笑った。でもしばらくして、マサキがふっと初めの表情に戻った。

「ぼんやりしていたのは、一昨日のことが気になっていたから?」

 日中のことを思い出して僕は頷く。マサキが見ているものを考えてはっとした。

「大丈夫です」

 何かを言おうとしていたマサキが驚いて僕を見る。

「えっと、僕は悩んでいることがあるけど、それはあの事を考えているわけじゃないというか、ユキがどうしたかを考えても、それだけじゃないから」

 マサキが心配することはないと思って説明しようとするけれど、うまく言えない。やがてマサキの表情がいつもの穏やかなものになった。まだ言葉を探す僕に聞く。

「あの日のことばかりを考えているわけじゃないんだね?」

「はい」

 一昨日からの胸のもやもやはまだ残っているけれど、他のことも考えられていると思う。少なくともユキと同じようにはなっていない。

「こんな聞き方はあまり好きじゃないんだけど。無理、してない?」

 マサキが最後だというように聞く。

「してません」

 僕がはっきりと答えるとマサキはそうかと呟いた。それからふと気になったようにもう一つ聞いてもいいかと僕に確認をとる。話したくなければ構わないと前置きをしてマサキが言った。

「悩んでいることがあるって言っていたけど」

「えっと」

 僕は少し戸惑った。マサキになら話せる。でも、僕のこともユキのことも大切に思ってくれるからこそ、彼に話すのは悪いような気がした。

「その、はっきりとは言えないけど。二つの大事なものから、どちらか一つを選ぶにはどうすればいいのかって考えるんです」

「それは絶対に選ばないといけないの?」

「え、いや、選ばなくてもいいのかもしれない。でも、二つを抱えることは難しいから。僕は選べた方がいいと思う」

 マサキは少し考えている様子で何か言おうとしたけれど、途中で口を閉じてふっと笑った。僕の目を見て言う。

「納得する答えが出せるといいね」

「はい」

 僕はしっかりと頷いた。

 話題を変えるために店長からもらったラーメンの話をした。まだ残っているから、明日か明後日、夕食に食べようと話した。



 22 夢‐僕の過去


 カーペットがしかれたリビングにユキが座っている。ユキはお気に入りのぬいぐるみを持ってぼくにお話をしてくれた。外で友だちと遊んだこと、先生との話、帰りに見つけたもの、いろんなことを教えてくれる。話を聞いてぼくはユキの見てきたものを考える。楽しいもの、きれいなもの、むずかしいもの。ぼくの知らないことばかりで、いつも身を乗り出して聞く。お話が終わると、お母さんが帰ってくるまで一緒に遊ぶ。ユキから聞く友だちがうらやましい時もあるけど、ぼくとも遊んでくれるから大丈夫。「お母さん、今日はおそいのかな」窓を見てユキがさびしそうに言った。たぶん買い物してるんだよとぼくが言うとユキはうなずく。「でも、もう外が暗くなってきたのに」ユキのお父さんはお母さんよりも帰ってくるのが遅いから、ぼくといる時のユキはだいたいいつもお母さんを待つ。少しして家の外で車の音がした。「帰ってきたかも! 見てくるね」ユキが玄関へと向かう。ガチャリとドアが開く音がして、お母さんと話しているユキの声が聞こえた。出迎えた時の明るかった声が少しずつ小さくなった。ぼくは近づいて玄関の離れたところからユキの背中を見た。お母さんが何か言っているみたいだけど、何を言われたんだろう。あとで話してくれるかな。話が終わって戻ってきたユキは唇を噛んで涙をこらえていた。びっくりして、声をかける。どうしたの、どこか痛いの、怒られたの。ユキは首を振るだけで、ぼくの言葉には答えてくれない。ユキの涙でにじむように世界がぼやけた。

 真っ暗な世界に放り出されたのがいつだったのか、考えることはないまま天井にいる自分を見ながらその光景を眺めていた。

 すうっと浮かび上がり目を覚ますと、部屋でうずくまる彼女が見えた。まだ泣いている。手を伸ばすと思いが流れてきた。痛い。悲しい。苦しい。彼女の頬の涙は拭えず、自分の頬に流れるはずのない涙を感じた。



 23 僕の答え


 暗い部屋で目を覚ます。まだ朝にはならない時間の静けさ。見ていたものを理解する。

「ああ、そうか、僕は……」

 とめどなく涙が流れ、開けられない瞼の裏で夢が再生される。

「どうして、忘れていたんだ……」

 僕がどういう存在だったのか、なぜユキの振りをしていたのか。僕は自分が考えていたことのすべてを思い出した。そうして思い出す前の自分が感じていたことを振り返って、さらに涙があふれた。

 胸の内で色々なものが渦巻く。僕は身体を丸めて声を抑えて泣いた。

 どれくらい泣いていただろう。しばらくすると体の水分が足りなくなったのか、泣きたい気持ちは残ったまま涙が流れなくなった。瞼が熱く腫れて頭もぼんやりとする。

 僕はゆっくりと身体を起こした。壁に手を置いて、ふらつく身体を支えながら洗面台に向かう。冷たい水で顔を洗って少し思考がはっきりとするけれど、まだ喉と頭が痛い。コップ一杯分の水を飲んだ。少しだけ喉の渇きが癒えて、また涙が頬を伝った。僕はそれを拭ってもう一杯飲んだ。水分を得て身体が楽になったのを感じて布団に戻った。

 枕もとの時計を見る。ぼんやりとする頭を押さえ、考えるのを後回しにして再び横になった。


 カーテンの明るさに目を細めながら、もぞもぞと体を動かす。腕をのばし時計を確認する。いつもの時間。一度目が覚めて泣いていたことを思い出した。着替えてまた顔を洗い、朝食を作る。洗い物を済ませイスに座って炊飯器で米が炊けるのを待った。

 しばらくするとマサキが寝室から出てきた。

「おはよう」

「おはようございます」

 その背を見送る。洗面台で水の音がした。戻ってきたマサキが炊飯器を見た。まだ米が炊けるまで数分あった。マサキもイスに座り、同じように待つ。寝起きのぼんやりとした顔は少し間抜けに見えた。

「夜中に起きていたみたいだけど」

 マサキがあくびを噛み殺しながら言った。起こしてしまっていたのかもしれない。

「何があったの」

 泣いていたことも分かっているのか、そう聞かれる。僕はそれに微笑んで視線を落とした。

「思い出したんです。自分のことを」

 僕は夢を見て思い出したことをマサキに話した。

「僕は子供の頃のユキの友達だった。ユキにしか見えない友達。ユキが忘れようとして本当に忘れられてから、僕はいなくなるはずだった。でも、時間が経って僕はもう一度生まれた。ユキにとてもつらいことがあったから」

 マサキが何も言わず頷いた。

「僕は、何もできずただ泣いているユキを見て、力になりたいと思った。また笑ってほしいって。だから、そのためにできることを選んだ。でも」

 悔しさに顔がゆがむ。

「僕はそのことを忘れてしまった。忘れようとした。僕は僕を知ってから自分を生きることを優先して、ユキを助けたいって思っていたことも見ないようにした」

 それだけじゃない。ずっと言葉にできなかったこと。

「僕はユキが戻ってくることが、怖かった。ユキが戻ってきたら、僕は消えてしまうかもしれない。もともと全部ユキのものだから。自分のためにユキの過去を知ろうとしていたけど、それはユキのためにもなるから、ユキが戻ってくるかもしれない。それがずっと怖かった」

 マサキはゆっくりと頷く。

「そうだったんだ。……今はユキさんのこと、どう思っているの? 今のユウキくんはどうしたい?」

「ユキのことは大切で、やっぱり放っておけない。でも僕は、ユキのことを考えずに生きたい」

 僕はそう言葉にしてから気づいた。同じだと思っていた二つの思いの大きさは、ほんの少しだけ違った。ピーっと炊飯器の音が静かな部屋に響いた。

「でも……でも僕は、ユキに笑っていてほしい……」

 顔の見えないユキの姿と幼いユキの笑顔が交互に浮かんだ。マサキは僕の声が炊飯器の音の中でも聞こえたのか、また顔をこちらに向けた。驚いた表情から切なそうな、時々見る表情になった。

「じゃあ、そのためにできることはあるのかな」

 マサキの声が少し小さくなって僕に尋ねる。僕はマサキを見たまま何も言わなかった。



 24 夢‐ユキの笑顔


 いつかたどり着けなかった部屋の前に立つ。扉にそっと手を置いて考えた。僕はこの扉に手をかけたことはあっただろうか。重く開けられないと思っていたけれど、押してみたことはあっただろうか。もう一方の手を添えて力を入れた。扉は少し重かったけれど何事もなく開いた。鍵はかかっていなかった。

 部屋の中は現実と変わらなかった。ざっと全体を見て彼女を見つける。ベッドの上でユキは顔を伏せて座っていた。僕は一歩踏み出す。途端に僕の身体がユキそっくりな男の身体になった。数歩歩いてベッドに近づく。

「ユキ、やっと会えた」

 ユキが顔を上げた。頬は濡れてなかったけれど、涙の痕が残っていた。

「もう、泣いていないんだね」

 僕はほっとしながら言ってユキの隣に腰掛ける。ユキは小さく首を振って言った。

「涙が出ないだけ。まだ、痛くて苦しいのに」

 その言葉と共にユキの胸の痛みが僕に伝わる。あの時ほどではないけれど、ズキズキとひどい痛みが感じられた。手でぎゅっと胸元を押さえる。

「……痛いね」

 そう吐き出して手の力を緩めた。部屋の扉を見て僕は聞いた。

「ねえユキ。僕が前に向こうから話しかけていたことは、聞こえていたのかな」

「何か言っているのは聞こえた。でも何を話していたかは分からない。泣いていたから」

 ユキは顔をそむけて答えた。僕は苦笑した。

「そうか。じゃあもう一回、話をするよ。今度は聞いてほしい」

 僕は僕が見てきたことを話した。その時の僕が何を思っていたのかも含めて、ありのままを。聞いているか分からなかったけど、ユキは何も言わず静かだった。

「ここに来る前に僕はやっと思い出したんだ。僕がどういう存在だったか。思い出してから、少し後悔した。なんでもっと早く思い出さなかったんだろうって。それから、どうして思い出してしまったんだろうって。僕は自分を生きるってことを初めて知って、そうしたいって考えていた。だから、ユキが戻ってくることも怖かった。僕が消えるかもしれないと思ったから」

 今でもそう思っている。ユキを大切に思うのと同じくらい。でも振り返って気づいたことがあった。

「でも、ユキがいなくなればいいと思ったことは一度もなかったんだ。ユキのことがいやになっていた時も。思い出してから今はユキに戻ってきてほしいって思ってる。僕はね、ユキにまた笑ってほしいんだ。僕と遊んだり話したりしてくれた時みたいに。ここにはあの日の悲しみしかなくて、僕は、ユキにここにいてほしくない。この部屋の外はまた嫌なことがあるかもしれない。でもそれだけじゃないはずだから」

 身体の違和感を抱えながらごまかしていたこと、自分の心に反してユキの振りをしていたこと、ソラに笑顔を向けたこと。自分の力ではどうにもできないこともあった。でも、北島さんやマサキと出会ったことで見つけられたものを僕は知っている。

 僕がユキを見て伝えると、ユキは部屋の方を見て言った。

「私はここにいたいのに。もう何も信じたくない。きっと私は、何も信じることができない」

 諦めや悲しみが混じった声だった。

「僕はユキのことを信じるよ。ユキが自分のことを信じられなくても。きっとマサキさんだって」

「そう言ってくれたあの人は嫌になって離れていった」

 そうユキに遮られ、その言葉に顔がゆがんだ。僕は俯く。

「そうだね。僕が思うよりずっと難しいのかもしれない。でも今度は約束したいんだ。僕はずっとユキの傍にいる」

 もう忘れたりしない。

 ユキは僕の言葉をじっと聞いている。

「ユキがここにいたいって思うなら、それでもいい。僕はまたユキを待ちながら過ごすよ。でも、もしこの部屋から出ようと思ったら僕はいつでも応える。一緒に行くことはできないけど、きっと近くにいる。今度は僕がこの部屋にいよう。昔みたいにユキが話してくれるのを待つよ。また色々なことを教えてほしい。何かつらいことが起こって外がいやになったら、少しだけ僕が代わりに行くよ」

 話した通りになるかどうか自分でも分からないけれど、そうなればいいと思った。

「だから、この部屋を出てみない? 戻ってこない?」

 僕の声は自分で思うよりも弱弱しかった。長い時間が過ぎて、ユキが僕を見て言った。

「こわくないの?」

「え?」

「私が戻ってくるのが怖いって、自分が消えてしまうかもしれないって」

 僕は口を噤んだ。悲しいものを見るような目でユキは僕を見た。僕はもう一度、自分の気持ちを確かめてから答えた。

「こわいよ。僕自身を生きたい気持ちも本当で、ユキが戻ってどうなるかも、やっぱり分からないから。でも、もう裏切りたくないんだ。ユキのことが大切だって思っていた自分のことも、いま大切だと思うユキのことも、裏切りたくない」

 思い出す前のような見ないふりはきっとできない。僕を生きることを選べば、僕は最後にユキを見捨ててしまうかもしれない。そんなことはしたくなかった。

 まっすぐにユキを見る。ユキは苦しそうな表情だった。

「本当にそう思っているの? 自分のことを優先できないんじゃなくて?」

「思っているよ。確かにユキの言う通り、僕は本当は自分のことを優先できないのかもしれない。僕はユキから生まれたから。でも、納得もしているんだ。これでいいって」

 僕が言い終わってしばらくすると、ユキの目から涙があふれた。なんで、どうしてというユキの頬を涙が痕にそって流れていく。僕は泣いているユキを真正面から見つめた。

「マサキさんが僕に聞いてくれたんだ。僕はどう思っているのかって」

 ずっとユキならどうするかと考えていたけれど、マサキがそう言ってくれたから、僕は自分がどうしたいかも考えられるようになった。マサキがそうして静かに受け入れてくれたから、僕は自分のしたいことを少し言うことができた。

「だから僕も同じようにしたい。教えて? ユキがどう思っているのか」

 一瞬、ユキが何か思い出したように固まった。泣き顔とは違う悔しそうな表情に見えた。

「本当は、前に進みたい。このままは嫌だって思ってる。でも、怖いの。また同じことをするんじゃないかって、また大切な人の負担になるんじゃないかって」

「大丈夫だよ。ユキが進みたいって思っているなら前に進める。何かするのは怖いけど、僕もマサキさんも傍にいるからきっと大丈夫。それに、すぐに変わることはできないよ。変わりたいと思っていても、ゆっくりでいいんだ」

 僕はユキの手をそっと握った。ユキがその繋がれた手を見ているのを見て、僕はなんだか不思議な気持ちになった。ユキが僕の方を向いて、困ったような顔でわずかに笑った。弱く握り返すユキの手からも温かいものが感じられた。

 僕がベッドから立ち上がろうとするとユキも遅れて腰を上げた。ゆっくりと部屋の扉まで歩く。扉の前でユキと向き合った。

「起きたら知らない場所だと思うけど、大丈夫。マサキさんに話せばわかってくれると思うから。きっと心配している。マサキさんは優しいけど心配性なんだ」

「うん、知ってる。ちゃんと話すよ」

「目が覚めたらゆっくり動いてね、いきなり動くと転ぶかもしれないから」

「わかった。気を付けるね」

 僕は自分が初めてユキの部屋で起きた時のことを思い出して言った。身体をうまく使えなくて僕は大変な思いをしたけれど、ユキは起きた時にマサキがいるから大丈夫だろう。

 ユキと話していて、どれくらいの時間が過ぎたか分からない。目が覚めた時、マサキは部屋にいるだろうか。いてほしいと思うけれど仕事を放っていないだろうかと少し心配になる。マサキのことを考えて僕は申し訳ない気持ちになった。僕はマサキとちゃんと話ができていたんだろうか。

「私が話すよ。ユウキのことも。どこまで話せるか分からないけど」

 僕が驚いてユキを見るとユキが目をそらした。僕は瞬きをしてから笑った。僕の思いもずっとユキに伝わっていたみたいだ。

 ユキが扉に手をかけた。緊張した横顔に大丈夫だともう一度言ってから、ふと僕は思い出した。ユキの手に力が入る。

「ユキ、言い忘れていたことがあるんだ。少し変だけど」

 扉が開いて細い筋のような光が漏れる。僕はちぐはぐな状況に笑いながら言った。

「おかえり」

 ユキが振り返って口を動かした。聞こえなかった言葉に満足して、僕はユキの背が光の中に消えるのを見守った。



 25 帰還


 目を開けると知らない天井が見えた。強い光を遮っているようなカーテンの位置も自分の部屋とは違う。重く感じる身体をゆっくりと起こす。ぼんやりと初めて見る部屋を見渡して思い出した。ぼろぼろと涙が零れる。

 しばらくして様子を見に来たのか、部屋の入り口に男性が立っていた。起きたことに気づいた彼が声をかける。

「よかった。目が覚めたんだね。昨日はユウキくんの方が先に寝ていたはずなのに、朝になっても起きてこないから。いや、そうじゃなくても長い時間、眠ってるみたいだったから、心配になって……」

 彼は泣いていることにも気づいて言った。

「水を持ってくるね」

 彼の気遣いに応えられずに涙を流し続ける。声を出そうにもかすれて音にならない。それでも、何度も言った。

「…だ…ま、ただ…ま、ただいま」

 ようやく言えた言葉が彼に届いたかは分からなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

空白に願う 沙夜 @sayo-newbie

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る