第5話
19 七月八日
「ありがとうございましたー」
忙しい昼食の時間帯が過ぎて溜まっていた食器を洗う。ひとまず洗い終わり手を拭きながら戻る。ざっと店内を見渡すと、新しく来店したお客さんが二組ほどいた。案内を受けただけのようで、どちらもメニュー表を見ている。その中の一人に目が留まり、僕は店長に確認をとった。
「店長、向こうのお客さんってどんな人たちでしたか」
「あの三人組のこと? どんなって、三人とも二十代くらいで友達同士だと思うけど。どうしたの?」
三人いる。僕の幻覚じゃない。
「いえ、知り合いかと思って」
そう話していると、もう一組のお客さんに呼ばれた。僕は注文を受けながら、彼らの接客を店長に頼めないか考えていた。知り合いかもしれないと言ってしまったけれど、会いたくない人だと説明すれば、店長は代わってくれるかもしれない。
受けた注文を店長に伝える。厨房へと向かう店長を呼び止めた。
「店長、あの、」
視界の隅にあの三人が見えた。視線を感じた気がして顔を向けると、彼が僕を見ていた。後ろの二人はメニューを見ながら話している。彼は僕と目が合うと少し驚いて、それからニコリと笑った。
注文を頼むチャイムが鳴った。店長が僕の言葉を待っている。
「やっぱり何でもないです。注文とってきますね。また後で」
「そう? お願いね」
店長は不思議そうな顔をして厨房へと入っていった。
呆然と立ち尽くしていたい気持ちを押し込めて、テーブルへと向かう。彼がいるということはたぶん他の二人もユキの知り合いなんだろう。
「ご注文はお決まりでしょうか」
メニューを見ていた女性がぱっと僕を見た。愛想笑いが驚きに変わり、それから大きく声を上げた。
「ユキちゃん! 久しぶりだね! ここで働いてたんだ」
抱いた驚きをそれらしく振る舞いながら、僕はさらに口角を上げる。会えてうれしかったように。女性が斜め前に座る男性にたしなめられる。
「店の中だから少しは抑えろよ」
「だって、びっくりしたんだもん。トオルはユキちゃんと仲良くないから、そんなに驚かないかもしれないけど」
女性が嫌味っぽく答える。
「でも、本当に久しぶり。まだ半年くらいだけど、すごく懐かしい感じがするよ」
「ほんとね。どう、元気にしてる?」
「お久しぶりです。元気にしていますよ」
彼の言葉に二人が頷き、僕はユキの笑顔で答えた。心臓が胸の中で暴れる。
「今日はバイト? 私たちはアカペラのコンサートを見に来たんだけど、ユキちゃんは参加してないの?」
「えっと、その、今ちょっと、大学をお休みしてて」
ええっと驚く女性に苦笑を返す。いつから、どうしてと聞く彼女にどう答えるべきか迷って曖昧に笑っていると、彼が言った。
「ミク、話したいこともあると思うけど、さきに注文しよう。俺はけっこうお腹空いてるんだけど」
「俺も」
「ああ、ごめん。えーっと、じゃあ私はこれと……」
注文のメモを取る。僕は少しほっとしたけれど手がかすかに震えていた。テーブルを離れる前に彼女に、後で話そうねと言われて、僕は頬の疲れを感じながら頷いた。
三人の注文を店長に伝えるために厨房へと向かう。途中、長く息を吐いて息苦しさを和らげようと試みたけれど、あまり効果はなかった。ぱっと表情を戻して店長に話しかける。
「店長、これもお願いします」
「はーい」
店長は僕の方を少し見ていたけれど、すぐに手元に視線を戻した。僕は先に飲み物を作ろうとカウンターへと戻った。
グラスに液体を注ぐ。カランと心地よい音を立てる氷と違って、僕の頭の中は重く鈍いものがいくつも転がる。早く整理をつけないと。
あの三人のうち、二人の名前はトオルとミク。今日はアカペラサークルのコンサートを見に行くらしい。スーパーで聞いた話と部屋で見たプリントがよみがえる。サークルで仲の良かった三人、コンサートを見に来るという先輩。
何日か前まで時々見ていた〈彼〉の姿が思い出された。明るい短髪に広い背中。ユキに向けられていた優しい表情。今、テーブル席に視線を向けると同じ姿が見える。
二個のグラスをトレーに載せ、お客さんのもとに向かう。それぞれ確認をとってテーブルへと置いた。軽く頭を下げてカウンターに戻る。
三人はユキより二つ上の先輩だったはずだ。それでもミクの様子を見るに彼らとユキは親しかったようだ。ソラとの関係を考えればありえなくはない話だろう。
彼がソラだということが、まだはっきりとは頭に入らない。いやそれよりも現実の彼が目の前に現れたことの方が嘘みたいだ。ユキのことを知るうえで避けられない人物であるだろうことは明白なのに、実際に会うことは考えてもみなかった。
さきほどと同じように三人分の飲み物を作り、トレーに載せる。少し落ち着いてきていた動悸が一歩踏み出すごとにまた激しくなった。
「お待たせしました」
僕がそう言うと、彼らはそれぞれ「ありがとう」と言って飲み物を受け取った。そのまま頭を下げて戻りたい僕にミクが話しかけてきた。
「今日はずっとバイトなの? アカペラを聞きに行ったりはできないのかな」
「そうですね、今日はずっと」
「そっか、残念。またサークルに戻ってきたら顔出しに行くね」
ミクの眉は少しだけ下がったが、また彼女はにこっと笑った。きっとユキとは仲が良かったんだろうな。僕も微笑んで応えるとトオルが言った。
「別に、ここで働いてるなら、また来れば会えるんじゃないの」
「あ、そっか! じゃあまたご飯食べに来るね」
僕がそうだと答える前にミクが笑顔になる。
「そうですね。ぜひ、来てください」
何問かミクの質問に答えたあと、僕はやっとカウンターに戻った。ミクの質問はまだ当たり障りのないもので安心した。彼ら自身も会うのは久しぶりらしく、テーブル席に目を向けると、ようやく自分たちで話を始めているようだ。僕はほっと息を吐いた。
それから何度か彼らのもとに料理を運んでも長く引き留められることはなかった。それでも僕には不自然な笑顔が顔に張り付いたままで、胸の苦しさもなくなることはなかった。
「ありがとうございましたー」
ソラたちと同じくらいに来店したお客さんが帰るのを見送って、使っていた席に向かう。さっとテーブルを拭いた。重ねた皿と布巾をもって振り返る。振り向いた瞬間にくらりとめまいがして、僕は踏み出していた足にうまく体重が乗らずよろめいた。
「大丈夫?」
たまたま席を立っていたのか、よろめいた僕にソラが手をのばす。支えようとしている手はまだ僕の身体に触れていない。全身に緊張が走る。僕は自力でバランスをとった。
「大丈夫です」
自分の声が遠くで聞こえた。
「ありがとうございます」
少しだけ俯いた視線の先に下ろされた手が見えた。きっと優しかった大きな手がとても怖い。
「いえいえ、気を付けてね」
「はい」
そっと顔を上げるとソラは僕を見た。そのまま席には帰らずに僕に話しかける。
「さっきも話していたけど、なんだか久しぶりだね」
「そうですね」
答えるべき言葉を探しながら相槌を打つ。うまく笑えているだろうか。
「今は昼間にここで働いてるの?」
「だいたいはいつも」
「じゃあミクも言っていたけど、ここに来ればユキちゃんに会えるわけだ」
冗談めいた言い方でソラが言う。本心では来る気がなさそうだと思ったけれど、少し考えてから僕は言った。
「そうですね。それに、今日は夜もいるので、よかったら帰りにも寄ってください」
僕は努めてにこりと笑う。ソラは僕の返事が予想外だったのか、一瞬呆けたような顔になったが、すぐに元の表情に戻った。
「そうなんだ、そうしようかな」
「ぜひ」
社交辞令だろう返答に惜しく思いながら、僕は歩き出した。ソラも軽く手を振ってミクとトオルがいるテーブル席に戻った。皿を置いて流しの端に手をつく。浅い呼吸を自覚して深く息を吸い込み、はぁーっと吐き出した。冷たい指先はかすかに震えている気がする。
僕の言動に彼はどう思っただろう。ちゃんとユキとして映っただろうか。
ぎゅっと手に力を入れる。ソラにユキが変わったと思われてはいけないような気がして、ミクやトオルと話している時よりも緊張した。それに……。
疲労感に襲われて、僕はもう一度長く息を吐いた。しばらくしてから水道の蛇口をひねり、運んできた食器を洗った。
二時半が過ぎ、閉店に向けて補充をしているとソラたちが席を立った。話しながらカウンター横のレジへと歩いてくる。
「ごちそうさま」
そう言ってソラが伝票を差し出した。それぞれ支払いを終わらせる。
「久しぶりに話せてよかったよ。また食べに来るね」
「じゃあな、ごちそうさま」
「またね」
ミクが手を振り、ソラとトオルも手を上げていた。
「ありがとうございました。コンサート楽しんできてくださいね」
僕が言うと三人は笑って店を出た。
19-2
夜もいると言ってしまったけれど彼は来るだろうか。話した時の様子を考えれば来ないかもしれない。それに彼を目の前にして僕はうまく話せるだろうか。でも、ユキのことを聞けるのはソラしかいないから。
開店から三時間が過ぎていた。店内は少し落ち着いている。店長が店の奥から出てきて言った。
「遅くなっちゃってごめんね。入ってくれて助かったよ。あがって大丈夫だよ」
「はい。じゃあ、少し片付けたら上がりますね」
表の様子を店長に任せて洗い場に溜まっていた食器を洗う。結局、この時間までにソラは来なかった。もう話を聞くことはないかもしれない。濡れた皿が並ぶ。
「店長、洗い物終わったので……」
帰りますと伝えようとしたけれど、それよりも先に見つけてしまった。店長が振り向いてお疲れさまと言う。僕はそれに答えずに言った。
「すみません、もう少し働いてもいいですか。知り合いが来ているようで」
「ユキちゃんが構わないならいいけど。着替えてきてもいいんだよ?」
「いえ、働きながらで大丈夫です」
「そう? じゃあもう少しお願いするね」
はいと答えて店長と交代する。意味もなく店長を見送ってから、カウンター席に座る彼を見た。昼間の緊張が思い出された。近づき笑って言う。
「本当に来てくれるとは思ってませんでした」
「そうなの? 今日は夜もいるなんて、てっきり何か話したいことがあるのかと思ったんだけど。気のせいだったかな」
ソラの前には、お冷のほかに黄金色に光るグラスと長方形の平皿が置かれていた。食事は済ませてきたんだろうか。
「コンサート、どうでしたか?」
「よかったよ。久しぶりに後輩たちとも話せて楽しかったし」
そう言ってソラはサークルであったことを話し始めた。彼の話は身構えていても不思議と聞き入ってしまうものだったけれど、僕の頭は彼にどう聞こうかということで占められていた。
一通り話し終わった後、ソラが僕を見て言った。
「ユキちゃん、なんか雰囲気が変わった気がするね。前はもっと話しやすい感じがしていたけど」
それとも何か気になることでもあるのとソラが言う。僕はドキリとして首を振った。
「そんなことないですよ」
「俺の気のせいかな。ああでも、ユキちゃんは肝心なところを話さないから、そうでもないか。それに半年もあれば変わったりもするよね」
ソラは一人納得する。僕はユキの振りを意識しながら、たどたどしく聞いた。
「もし、その肝心なところも話せていたら、何か違っていたと思いますか?」
「何かって、俺らが?」
僕は頷いた。まずは二人の関係について何かないか。
「別に、少し付き合う時間が延びるくらいで、結果は同じじゃないかと思うよ」
「どうしてですか」
「今はどうか知らないけど、俺が話をしても、ユキちゃんは聞かなかったでしょ」
じっと何かを咎めるように僕を見る。僕はその目を見つめ返した。
ユキが話を聞かなかった?
「それは……」
どういう意味かと言いかけて口を閉じる。ソラには言い訳をやめたように見えたのか、少しトゲのある言い方で言った。
「自分のことを大切に思えないのは仕方がないかもしれないけど、周りの言葉には耳を傾けたほうがいいと思うよ。そうじゃないと、いつの間にか誰もいなくなるから」
俺みたいにと彼はつぶやく。
ユキが自分を大切にしていなかったから、ソラは離れていったのだろうか。
(もっとちゃんと自分を信じられたなら……)
ユキは自分がさらに嫌になってしまったのかもしれない。そう考えているとユキとしてではない言葉がするりと口から出た。
「でも、すぐには変われないものですよ」
「確かにね。……タイミングがちがったんだよ。だから結果は同じ」
「そうですか」
目を伏せて答える。違う。ユキが泣いている理由はこれじゃない。
注文のチャイムが鳴って顔を上げた。テーブル席からの注文は酒の追加で、僕は空になったグラスを受け取った。頼まれた種類の酒を注ぎながらふと思う。ソラがもう少し酔えば話を聞きやすいだろうか。
カランカランとドアベルが鳴り、新たに数人のお客さんが来店する。店内がまたにぎやかになった。注文が続けて入り、僕は飲み物を作ったり料理を運んだりとソラと話すことができなかった。
しばらくして、料理の注文がひと段落着いてから店長が顔を出した。一部の常連さんと話しながら作業を手伝ってくれる。そのおかげで早めにカウンターに戻ることができた。
「忙しそうだね」
ソラが気を遣ったように言う。その頬は少し赤く見えた。
「土曜日ですから」
「なんだか懐かしいな。こうして話しているのは」
ソラの目がすっと細められた。カウンター越しで彼との目線の高さが近い。
「前もこうしてたな。忙しい日はあまり話せなかったけど」
いつの間にかソラの手にあるグラスの色が変わっていた。
「サークルの帰りに、よく……。俺とはパートが違うからそっちのアドバイスはあまりできなかったけど、イベントのこととか、ここで話して。そうだ、それこそ去年の七夕は同じ班だったよね。ミクが羨んでいたっけ」
ソラが僕を見つめる。
「ユキちゃんは真面目で、分からないこと、気になることがあると俺に確認したりして。俺はけっこう適当だから、ユキちゃんのそういうところ、すごいなって思ってた。少し頑張りすぎちゃうところもあったけど」
ソラが当時を思い出して話す。僕はその様子を想像しながら聞いた。何か気になることがあれば顔に出そうなものだけれど。ソラは少し頬を緩めるだけで、何かを思い出していやそうな表情になることはなかった。
「部屋でその話をすることもありましたね」
できるだけ相槌と同じように言った。ドキドキと胸が鳴る。
「ん? そうだね。ユキちゃんの部屋で相談が続くこともあったかな。でも、あそこでは何でもない話ばかりしていた気がするな。大学の講義が面倒だとか、そういうね」
ソラが笑って答える。どうしても深いところまで聞くことができない。
「そうでしたっけ」
「まあ、それ以外にもあったけどね」
ソラはすっと真顔になったけれど、すぐにふわりと笑ってまた話し始めた。この話も何でもない話として思い出されることはないんだろう。話題が尽きないソラの話を聞きながら僕は心の中で顔をしかめた。
19-3
お客さんの数も少なくなり最後の料理の注文が終わった。作業をしながらソラの話を聞いていると時間があっという間に過ぎた。閉店時間が近い。
「ユキちゃんって一人暮らしだよね?」
酔って少し間延びした声でソラが確認するように聞いた。
「そうですよ」
「今って、付き合っている人はいるの?」
ソラの質問に疑問を感じながら僕は首を振る。マサキのことは話せない。
「そうなんだ。……もう、寂しいって言わないの」
とろんとした瞳でソラが僕を見る。子供が欲しいものをねだる時のような声と視線を向けられるが、僕には彼が言わんとすることが分からなかった。しばらくして言い訳のようにソラが言った。
「あーごめんね、実はさ、帰りの電車を逃しちゃって。久しぶりに話していると楽しくて」
「えっ大丈夫なんですか?」
「まあ、明日は休みだから平気なんだけどね」
「えっと、近くで頼れそうな人はいないんですか?」
「聞いているんだけど、今のところ、無理みたいなんだよね」
そう言うソラはあまり困っているようには見えない。家は遠いんだろうか。サークルの人で誰か頼れないのか? それこそ、昼間の二人は?
「トオルさんやミクさんも無理なんですか?」
「うん、二人とも帰り着いたらしいし、断られちゃった」
ソラは遊びの誘いが断られたように残念そうに笑う。どうして笑っていられるんだろう。どうしようと口では困ったように言うソラに、いくつか解決案を出してみたけれど、どれもはっきりとした答えが返ってこなかった。
進まないやり取りを繰り返しているうちに、ようやく僕は気がついた。彼は僕のところに泊まれないかと考えている。それから、たぶん僕が断らないとも。
部屋の鍵は持ち歩いてる。部屋には何もないけど一晩くらい平気だろう。マサキには一言連絡を入れればいい。ソラの思うように彼を部屋に泊めることはできる。
そこまで考えて僕は顔をしかめた。何か気持ちが悪い。同じ流れをなぞっているような、ソラだけじゃない誰かからも受け入れる選択を求められているような、気持ちの悪さ。
ソラは氷だけになったグラスを鳴らしながら、時々スマートフォンの画面を確認している。黙り込む僕に何も言わない。
「誰かから連絡、来ましたか?」
「いや、きてないな」
引き延ばすほど自分が不利になるような気がする。ソラがようやく言った。
「うーん、ユキちゃんにお願いできないかな?」
それはお願いというよりも形式上必要なものに聞こえた。
彼にじっとのぞき込まれる。一度そらしても再びその目を見てしまう。頬が引きつる。周りの照明がきらきらと眩しい。困ったように笑う彼の白い肌が今は照れたように赤い。耳も。照れとは違うのに。『だめ、かな?』望まれる姿のままでいたい。心臓がきゅっと縮こまって息が苦しい。ちゃんと笑えているかな。
「ごめんね、終わるまで待ってるからさ」
少しだけ申し訳ないような顔をしてソラが言った。
閉店時間になるとソラは会計を済ませて外に出た。店長と話していた常連さんたちもいつもよりは早めに帰っていった。片づけをしていると店長に止められ、帰るように催促される。早上がりの予定だったのにと店長は少し気にしていたみたいだった。
店長に挨拶をして休憩室へと向かう。電気をつけず薄暗い廊下を歩いた。
静かな夜道に彼の話し声がよく聞こえる。店で話していた時よりも心臓が痛い。変わらないノリの話に適当に相槌を打ちながら、あの時とは違う手汗を握る。彼は今、何を考えているんだろう。
休憩室の扉を開けて、電気をつけた。一瞬、眩しさに目を細める。外したエプロンを簡単にたたんでロッカーにしまう。軽いバッグからスマートフォンを出して時間を見る。マサキから連絡が来ていた。もう寝ているかもしれないと思いながらメールの新規作成を開いた。
ガチャリと開けたのは自宅の扉だというのに、帰ってきた安心感はなかった。『ごめんね、ありがとう』彼が部屋の中に入っていく。しばらくしてシャワーを借りてもいいかと聞かれ、ドキリとしながら答える。気にしているのはきっと自分だけ。
マサキへ送るメールはすぐにできた。遅くなった理由と帰らない説明が表示された画面を見つめる。送信の文字に指を重ねたまま時間が過ぎた。すっと画面を切り替えてコール音を聞いた。
背中合わせで感じる体温が熱い。ただ酒を飲んでいるからだと頭では分かっているからこそ、胸が痛い。狭いベッドではこの熱から逃れることはできなかった。身体の向きを変えてしまえば届くのに。身体を小さくして自分の手を握った。
コール音はすぐに切れて、マサキの声が聞こえた。
『もしもし、ユウキくん?』
マサキが僕の名前を呼んだ。
「マサキ、さん」
『ごめんね、連絡入れちゃって。今日は早上がりだって聞いていたのに遅いから気になって。忙しかっただけだよね』
「いえ、僕こそ、すみません、連絡、気づかなくて」
『気にしないで。実を言うと、もう少しで店に着くんだけど、もう上がれるの?』
マサキが店に来る。また心配してくれたんだろうか。
「はい、その」
口がうまく動かない。
「店で、知り合いに、会って」
「帰れなくなった、らしくて」
「だから、部屋に……」
泊めようと思うとは言えなかった。
彼の胸に顔をうずめる。背中にゆるく腕が回され身動きができない。その温かさと触れられて生まれた身体の熱が、刃物で刺されたような胸の痛みを深くする。くせのように彼の手が頭を撫でる。優しい手つき。この人は好きなようにしているだけなのに。なにもできない。きっと、もう、どうにもならない。
『大丈夫?』
マサキの心配そうな声が聞こえた。しばらくの間、沈黙が流れた。
19-4
裏口の扉を閉めて、店の前に回る。むわりとした暑さが気持ち悪い。歩いてきた僕に気づいたソラが軽く手を上げる。いつか見た仕草。
「お疲れさま。無理言ってごめんね」
「いえ、あの」
ソラの言葉の一つ一つが身体の緊張を生む。僕はなんとか口を動かしてソラを引き留めようとするけれど、彼は歩きながら聞くというように首を傾けてユキの部屋の方向へと歩き出した。
「……ユキさん?」
後ろから声がして、僕とソラは振り返った。僕はマサキの姿を見て少しだけほっとした。
「遅くまでお疲れさま」
「あ……はい……」
「ユキちゃん、この人は?」
「えっと」
ソラに聞かれ、言葉に詰まっているとマサキがソラに向けて挨拶した。
「初めまして、マサキといいます。ユキさんの知り合いで、今は同居人でもあります」
「どうも。ユキちゃんとはサークルの先輩後輩で、今日は久しぶりに会ったので、つい長話を」
「そうだったんですね」
マサキの説明に驚きながら二人の会話を聞く。初対面の人だからか、ソラの声は少し硬いような気がした。
「ユキちゃん、一人暮らしって聞いてたんですけど」
ソラがこちらをチラリと見る。僕は顔を合わせずに何も言わなかった。僕の代わりにマサキが話す。
「ああ、説明が面倒なので、お互いにたいていの場合そうしているんですよ。実際に一人暮らしとそう変わりませんので」
ソラは妙に納得したようにふーんとこぼした。マサキが一度僕を見てソラに言った。
「ところで、二人はこれからどこへ?」
「あー、帰り道が同じだったので、途中まで話そうかと。でも、迎えが来たのなら大丈夫ですよ。俺の方が近いので」
「え?」
ソラはマサキに向けて笑うと、一歩僕に近づいて言った。
「無理言ってたんだね。ごめんね。ほかにも当てはあるから気にしないで」
ソラが戸惑う僕にも笑いかける。僕は彼の細められた目に睨まれたような気がした。じゃあねと手を振ったソラの背中が遠ざかる。
彼の姿が夜の景色に紛れるころ、マサキがそっと僕に聞いた。
「大丈夫だった?」
「え? ああ、はい、ありがとう、ございます」
僕はそれだけ言って、まだ遠く街灯に照らされる姿を見た。僕のほかにも当てはあった。ソラが困ったように見えなかったのは、ユキを押し切れると思っていただけじゃなかった。
角を曲がったのか彼の姿が見えなくなった。僕は少し息を吐いた。
「また心配かけてごめんなさい。マサキさんが来てくれて、助かりました。本当にありがとう」
「ううん。もう待つのはやめようと思って、僕が勝手に来ただけだから。でも力になれてよかったよ。じゃあ、帰ろうか」
マサキに促されて歩き出した。ソラがいなくなったことで緊張は和らいだが、それでもまだ息が苦しい。現実に何かされたわけではないのに。
「何があったか聞いてもいいかな。彼のことも」
マサキが前を向いたまま尋ねた。
「僕は、なにも。話をしただけ、だけど」
見たものは今、目を閉じても再生される。ユキの感情にのまれるほどに鮮明だった。
「彼は、ソラは、ユキの大切な人だった。会ったのは初めてだけど、ずっと優しい表情をしていた。でも、彼はユキにひどいことをした人でもある」
マサキは黙って聞いている。話してもいいんだろうか。
「ユキは話してほしくないかもしれないけど」
なかったことにしたいと望んでいたから。
「僕はマサキさんにも知ってほしいと思うから」
僕はユキに何があったのか見たことをマサキに話した。
今日と同じように店で話した後、部屋に泊まれないかと彼に頼まれた。ユキはまだ彼を思っていたから断り切れなくて家に上げた。他の後輩と同じように接する彼に対して、ユキは自分だけが悩んでいると思った。何もないと自分に言い聞かせていたのに、彼は簡単に触れてきた。一線だけは越えずに。ユキは拒否するどころか受け入れてしまった自分が許せなくて、それでいて一線を犯すことも楽しむこともできない自分が嫌になった。
「ユキはずっと、なんで、どうしてって思っていた。彼が自分を見ていないことは知っていたから。それに、ソラは眠たげで、その、そういう欲もなかった。ユキは自分がモノのように扱われているって分かって、なにもできなくなった」
話しながら、胸がズキズキと痛む。
「その夜、ユキは泣いていなかったけど、胸の痛みは酷かった。何度も何度も刺されるみたいに、心臓だけが別のものみたいに苦しくて、全部なかったことにできたらいいのにって思っていた」
僕はまた長く息を吐く。
「苦しかったら、ゆっくりでいいんだよ。それは……君の痛みじゃないよ」
僕の様子を見たマサキが言った。その言葉に頷いて何度か深呼吸をする。
「ユキは怒りたかったんだと思う。ソラに蔑ろにされたことに、ただ利用されたことに。怒りたかった。でも、できなかった。だからユキは余計に自分を責めた。それはユキのせいじゃないのに」
「そうだね」
「僕も同じようにされかけた。僕はユキのように彼が悪くないなんて思えない」
「うん。だけどユキさんは彼のことを大切な人だと言っていたから、そう思い切れない何かがあったんだろうね。そういう、捨てきれないものがあることも僕は理解できるよ」
その言葉にマサキの方を見てから僕は俯いた。僕も、本当はその気持ちがわかる。
しばらくの間、僕は黙って歩いた。少ししてマサキが何かを思い出しながら言った。
「僕が話を聞いた時、ユキさんは人には話せないって言っていたけど、きっと、本当に誰にも言ってなかったんだろうね。ずっと、一人で闘って」
俯く僕の視界の端にマサキの手があった。その手にぎゅっと力が入ったのが暗がりでも見えた。
「もし、あの時……なんて、考えても仕方のないことだけど、つい思ってしまうよ。僕ができることは今も話をすることだけなのにね。いつか力を取り戻せるって、勇気づけることができればいいんだけど」
僕は小さく頷く。たぶんマサキは困ったように笑っているんだろう。
マサキならきっと、と思ったけれど僕はそれを言葉にできなかった。
「ユウキくん、ユキさんのこと、僕にも教えてくれてありがとう。僕は話してもらってばかりだね」
そう言ったマサキを見上げると、彼と目が合った。優しく見つめられる。
「僕は、別に」
「うん」
どう返したらいいかわからないまま答えたけれど、マサキは微笑んだ。
玄関の扉を開けてほっと息を吐く。帰ってこられた。マサキは僕に大丈夫かと聞いてから心配そうにしながらも先に休んだ。僕も簡単に寝支度をして布団に入る。身体の力を抜くとすぐに眠気がやってきた。
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